暗殺者①
室内には、芳ばしくも柔らかな香りが漂う。
蒼が現れる直前に鼻を掠めたものと同じだ。
青年は眉間に皺を寄せた神妙な顔のまま簡素な椅子に座り直し、向かい側でお茶の準備をしている毒操師を無言で見つめている。
蒼と名乗った日向の家の主は、身体に纏わり付いて煩わしそうにしか見えない群青色の布の隙間から手を伸ばし、簡素な急須で簡素な椀に茶を注ぐ。
芳ばしい香りの元はこのお茶だった。
しかしこれは本当に茶なのだろうか。青年は己の心に徐々に不安が募っていくのを感じていた。
...茶は、薄い空色をしていた。
「どうぞ、疲れがとれますよ」
コトンと椀を目の前に置かれ、恐る恐るといった呈で覗き込む。陶器で出来た生成の椀の中、薄曇りの空のように灰色がかった柔らかい青がゆっくりと回っている。
芳ばしい香りの中にも、香草の放つ独特の清涼さが感じられ、淡く立つ湯気が顔にあたっただけで爽やかな心地になる。
だが、色は空色。
飲み物に思えない。
「貴方のようなガチガチの軍人は、たまに休息を取らないと頭の中まで筋肉になりかねませんよ?」
向かい側に腰を下ろし、椀を両手で包みこむと湯気の立つ液体を口元に運ぶ蒼。
頭巾と髪に隠れ、やはり人相はわからない。伸びきった前髪は顔の上半分を完全に覆い、髪が椀に入らないか人ごとながら心配になる。
「.....なぜ、軍人だと?」
言い当てられたことへの内心の動揺を隠しつつ、青年は探るような眼差しを向ける。
青年の椀は手を付けられないまま、小卓の上で小さな水面を揺らしている。
同じ急須から注いだものに蒼が口をつけている以上、怪しいものではないのだろう。しかし大事な役目を担うこの身、不安要素は取り込みたくない。
「貴方は長針の扱いがそれほど巧くない。暗器は、それと悟られないからこそ有効です。熟練者は外套ではなく、袖の内側に仕込みます」
そんな青年の様子を気にも留めず、啜った椀を小卓に戻しながら蒼は話を続ける。
人相がほぼわからない蒼だが、前髪から僅かに覗く鼻先と自然に結ばれている口元は、細い顎と相まって整っていると言えなくもない。口元に皺も見られなかった。
「扱いに慣れていない割に針先がぶれていなかったのは、貴方が武器全般に通じているからでしょう。そして何より」
青年に向かって蒼が顔を上げた。厚く降りた前髪の向こうに瞳が見える気がする。
「緋はエナル皇国の近衛騎士団顧問毒操師でしたから」
時が緩やかに流れているかのような日向の家。香草と薫香、湯気の上るお茶の香り。
それらを吸い込みながら、青年は覚悟を決めたような静かな口調で名乗った。
「私は、エナル皇国近衛騎士団第二中隊長サイクレス=ヘーゲル。毒操師、蒼殿に是非とも作って欲しい毒薬がある」
決意のこもった眼差しは、普通の人間なら対峙するだけで重苦しい圧力を感じることだろう。
「簡単な話じゃなさそうですねぇ」
もう何度目かわからない溜め息混じりの口調は、心の底から嫌そうだった。