序章...毒操師
視界から群青の布が取り除かれると、長机の向こうに人影が現れていた。
勿論、物音一つしていない。忽然と湧いたかのようだ。
青年は化かされた気分で深い藍色の瞳を瞬かせる。
人影、とは言ってもその人相も性別も年齢もまるでわからない。
それはほとんど布の塊だった。
頭巾と一体化した簡素な形の外衣で覆われた姿からわかることは、男性にしては少し小柄で女性と言うには少々高い身長くらいだろう。
そもそもたっぷりした布で手も足も見えず、俯いているのか頭巾の影で顔もわからない。
もっさりとはみ出している前髪は艶の少ない黒髪だが、染めているのか生まれつきなのか金の筋が幾本も混じっている。
外衣は群青。
まるで先程視界を覆った布がそのまま人の形をとったようだ。
「あなたが、毒操師、蒼殿か?」
懐の長針を掴んではいないものの警戒は解かず、相手の出方を伺うように慎重に尋ねる。
生まれついての頭髪以外、全身黒ずくめな青年と群青の塊が対峙する。
訪問客と家の主である二人だが、どちらも室内の長閑かな雰囲気に全くそぐわない。
「やれやれ、本当に困ったお客さんですね」
群青の人物が呆れたようにまた溜め息をつく。
淡々とした口調は天井から降ってきたものと同じだ。だが、先程に比べ格段に響きがよい。
天井からの声は場所が特定できず、どこか曖昧だったが、今は明らかに目の前の人物から発せられているのがわかる。
声音は高低があまりはっきりしない。女性のように高くないが男性ほど低くもない。それでいて男性にも女性にも思える不思議な響きだ。
例えるなら、初期の変声期を終えた少年といった感じだろうか。
「こんな物騒な物を私の家に持ち込まないで頂きたいですね」
塊が不意に小さくなる。床に広がる布に屈んで手を伸ばしたのだ。
その拍子に布の塊から腕が覗く。
痩せて青白い肌からは血管が透けて見る。だが華奢と言うほどでもないそれは、無駄な肉が無く引き締まっている。
長い指が、布の固まりから先程青年が放った長針をつまみ出す。
「麻痺毒・・・・」
「!!」
つまんだ針をじっと見て呟く主。動揺する青年。
もっとも頭巾と前髪で全く表情が見えない為、そこに何が映っているのか知ることは出来ない。
つと、主が袖からもう一方の腕を出した。指先で手の平に修まるような茶色の小さな瓶を摘んでいる。
両手に長針と瓶を手にしたまま長机に向かう主。
干物の入ったすり鉢を脇へと退かし、傍らに置かれた透明な硝子製の深皿の中へ長針を立てかける。
「何を・・・・・」
無臭で無色透明の麻酔毒を見抜かれた青年の瞳が、動揺に激しく揺れる。
例え毒操師でも見ただけではわからないと言われていたのに・・・・・。
しかしそんな青年の内心などまるで気にする様子もなく、淡々黙々と作業を続ける主。
手にしていた小瓶は栓がされており、それを空いた手で摘むように抜くと深皿の中の長針に向かって静かに瓶を傾けた。
「!」
小瓶から流れたのは透明な液体。
しかし針に触れた瞬間、一瞬にして鮮やかな赤へと変貌を遂げた。
「………なるほど。緋、が作ったものですか」
「!!」
深皿の底、紅玉を溶かし込んだような鮮やかな液体を眺め、ぽつりと呟く。態度も声色も特に変化はない。
しかし、青年の方は目を見開き顔色を変えた。
「な、なぜ」
動揺を隠すため口を開きかけるが、深皿を眺めている主はやはり気にもとめない。
「私たち毒操師には商売を営むにあたって、いくつか決まり事があるのです」
淡々と説明をし始めた主は、話しながら深皿をそのままに、今度は壁の棚から瓶を一つ手に取る。
壁一面の瓶はどれも茶色い硝子製で表面に何も目印がない。青年には皆同じにしか見えず、勿論中身などわかろうはずもない。
「その一つが、いわゆる製造責任というやつです」
瓶を長机に置くと、今度は机の内側から蓋のない透明な広口瓶を取り出した。
どうやら内側が棚になっているらしい。
「扱う商品が商品だけに、製造者の特定が必要なのです」
先程の小瓶を置くと、深皿に目をやる。
深皿に入れられた針の先からは染み出すように赤い色が流れ、底の液体を色濃くしている。
「このように、一見無色なものも、我々毒操師だけが調合できる薬液で必ず染色されています」
主は棚から取り出した瓶の栓を抜く。それを左手に持ち、右手には先程置いた小瓶を取る。
「色は称号。そして毒操師の証です。色を持たない者は単なる毒屋でしかない」
ゆっくりと左手の瓶を傾ける。
透明な液体が糸のように細く流れ、広口瓶に注がれた。
「私は毒操師、蒼。青い毒薬を扱うものです」
右手の小瓶からも先程と同じく透明な液体が流れる。
二つの液体は流れを一つにした瞬間、劇的な変化を遂げた。
交わった二つの液体が、目も覚めるような青色に変化したのである。
まるで魔法のような鮮やかさ。広口瓶の中は透明感のある青色で充たされていく。
明るい室内の柔らかな日差しに反射する青い流れが、まるで本物の宝石のようにキラキラと輝いていた。