虚栄の館【短縮版】
またぞろ社長が妙な依頼を安請け合いしてきたという。あのひとの悪い癖だ。金になる、ならないでなく面白ければすぐに飛びつくのだ。なんでも今回は、廃園になったテーマパークで急遽ロケをすることになった、夏の心霊番組のヤラセ……いや、仕込み……もといロケ地の安全性の確保をする仕事らしい。
らしい、というのはその仕事をするのがオレではなくて目の前で酔い潰れている眼鏡先輩だからだ。もうすぐ30に届くというのに幼い、わりと整った顔立ち、ともすれば女々しい振る舞いと、騙されやすそうなオーラを全身から放出している男だ。ようするに、カモである。
押し売りの販売員に布団を買わされそうな、健康食品のセミナーへ連れて行かれて必要もないのにめいっぱい買ってそうな、そしてさっきからこっちをチラチラ見ている女にお手軽テイクアウトされてしまいそうな、そんなところがある。
性格はヘタレだが、学生時代はずっと陸上部だっただけあって、小柄ながらも身体は引き締まっている。無趣味が極まって筋トレ以外にすることがないらしい。タバコもやらないから臭くもないし、服装から何からノーブランドの草食系男子。意外と女が寄ってくるのはそういう「カネと手間のかからなさ」が透けて見えているせいかもしれない。
据え膳どころか逆に押し倒されて食べられてしまいそうではあるが。それもナマでいたされて既成事実を作られた後、ゴリ押しされて入籍、即優秀なATMにされそう。まさにカモネギ。
実際、学部も違う社長に誘われて断り切れずにサークルに入部したクチだ。今も怪しいベンチャー企業の副社長兼プログラマーで馬車馬のように働かされている。むしろ会社が家だ。
今も嫌な顔ひとつせず付き合ってくれ、しかもザキ先輩のように女のことで妬んだり絡んだりしてこないこのひとは、積極的に人付き合いをしないくせに人恋しくなってしまう困った性分のオレにとってなくてはならないひとだ。
カモネギ、カモネギ。
さてその廃園になった裏野ドリームランドという場所での仕事だが、いつもはこういったことに喜んで首を突っ込んでくる、ぼん先輩や、守銭奴で基本的に仕事は断らないと明言しているフリーターのザキ先輩、彼らの保護者であり「おかん」でもある萩のん先輩がことごとく予定が入っているため、社長と眼鏡先輩の二人だけで行くことになったという。
「うう、遊園地にはいい思い出、ないのになぁ……」
ぽそりとこぼされる声。なんと声をかけようかとグラスから口を離した時には、すでに先輩は机に突っ伏して涙交じりに叫んでいた。
「ぜったい僕ひとりになるんだぁ~! 嫌だ、行きたくないよぉ……」
七月の終わりの日曜日、午前零時から作業だなんて狂気の沙汰だ。あの、金と時間と人間関係にルーズな社長が来るはずがない。だがそうしたら、このひとは断れずにひとりきりで……。
(ダメだ、これ。帰ってこれないパターンだ)
裏野ドリームランドと言えば、子どもが行方不明になったとか、アクアツアーで変な生き物を見たとか、観覧車に乗っていると声がするとか、そんな眉唾な噂が一時期、特に閉鎖されてから囁かれていたっけ。
人気のない遊園地をバックに、にへらと笑う眼鏡先輩の姿を思い浮かべる。『清掃作業員一名が行方不明。深夜の作業、なぜ? 事故か、故意の失踪か!』なんて冊子の頁の半分以上を女の半裸が占めていそうな雑誌に「真夏の心霊特集」として載ってしまう。これじゃ本末転倒だ。
「……オレ、月曜日は休みですよ」
「本当!? なら……あ、だめだ、日曜日の夜じゃうっぴー君は仕事でしょう?」
「あー、ちょうどシフト代わってくれって言われてたんで、暇っス」
「そうなの?」
嘘だ。でも、早く上がる裏技はある。月曜日が仕事の客も多いから、日曜は早退けしてホテルで別料金の仕事をすることがあるので、今回もそのフリをしてもらえばいい。口裏を合わせてくれる女の子の心当たりはあった。
眼鏡先輩は一瞬、疑いの目でオレを見たがすぐにそれを引っ込めた。
「なら良かった。ホッとしたよ、ありがとう」
「…………」
こういうとこがカモネギのカモネギたる由縁なんじゃないだろうか。ちなみに、眼鏡先輩はオレがタクシーで送ったので女豹の出番はなかった。やれやれ、最近の女は肉食系すぎて困る。
◆ ◇ ◆
日曜日。夕方に降った雨のせいで嫌な空気だった。なんとも驚いたことに、社長もちゃんと会社に来ている。相変わらず日に焼けて真っ黒、細身ながら筋肉質なのが服の上からでもわかる。初対面の人間でこのひとの職業を言い当てられた人間は見たことがない。どこか国外で傭兵をしていたことがあると聞いたこともあるし、謎の多い人物だ。
「ああ、社長がちゃんと仕事してる! すごい! 奇跡ですよ!」
「おいおい、そんな誉めるなよ~」
いやいや、おかしい。二人しかいない会社で、自分が取ってきた仕事を自分でやらないなんてのが間違ってる。こうやって眼鏡先輩が甘やかすのが良くない。
「さてと、んじゃ、行くか」
白いライトバンには機材がパンパンに詰め込まれていた。五人乗りのはずの後部座席は半分までが荷物に埋もれている。仕方がなくオレは助手席に乗り込んだ。運転は社長、小柄な眼鏡先輩は何の問題もなく後ろに収まった。
H市内から高速を使って約二時間半の道程だ。バイパスを下りて灯りの乏しい道を進んでいく。刈り込まれなくなって久しい木々の作る陰影が不気味だ。
「なぁ、裏野ドリームランドの噂って、知ってるか?」
「知りませんよ! 何で今その話をしようと思ったんです!?」
「はは、その反応はやっぱ知ってんじゃねえか」
眼鏡先輩が喉の奥で唸る。エアコンが耳障りな音を立てていた。
「裏野ドリームランドにある城な、ドリームキャッスルって言うんだが……実はあれ、地下に別の施設があるんだぜ? 昔は軍の持ち物だったからなぁ。今でも一部は機能したまま残されてて、時々迷い込んじまったヤツらが……」
「ひっ」
「……嘘でしょ、それ」
「本当だって~!」
社長が並べ立てる遊園地の怪談を聞きつつ、その件の遊園地に向かうわけだが……
「あれっ、七不思議って言いつつ六つまでしかなくないですか?」
「ん? あれ、っかしーな……?」
三人でもう一度確認してみる。「観覧車の声」「アクアリウムの謎の生物」「マジックキャッスルの地下拷問部屋」「無人で廻るメリーゴーラウンド」「ジェットコースターの事故の噂」「消えた子供」………………
「ひとつ、足りねぇな……」
「でしょう? うっぴー君は知らない?」
「あー、オレの知ってたのは全部言いましたよ」
「そっかぁ。なんか残念だなぁ」
「まぁまぁ、七不思議なんつーもんは全部知ったら知ったで、なんだこんなモンかぁってなるもんよ!」
眼鏡先輩は怖い怖いと言いながら、こういうことはキッチリさせておかないと気が済まないらしい。おかしなひとだ。社長がおもむろにタバコに火を点け、ふかし始めたのでこの話題は終わりになった。ゆるやかに車は進み、どんどん近づく観覧車が空に不気味な影を投げ掛けている。
敷地の外を大回りして肝心のミラーハウスに一番近い搬入口まで来た。車を下りて社長と二人、太い鎖を外していく。ちゃちな南京錠だとすぐに破られてしまうんだろう、ガッチリした鍵だった。
「はぐれるなよ? 二度と出られなくなっても知らんぜ」
「ひぇっ!?」
「はいはい。そうっスね」
「ちぇっ、つまらんヤツ……」
まったく明かりのないテーマパーク内は、まるで死んでいるように静かだった。この時期だというのに、虫の声ひとつしない。闇に溶け込んでいるかのような空間、その奥に一瞬、人間大のピンクの着ぐるみウサギが見えた気がした。
「あっ」
「どうした!?」
だが、目を凝らしてもう一度その辺りを窺ってみても、何もいない。
「……すみません、気のせいだったみたいです」
「なんだ、脅かすなよ」
車を入れもう一度門扉を閉める。その重々しい音がやけに耳障りだった。のろのろと進む車。照らされる無人のアトラクション。まるで深海を照らす調査船だ。長く長く伸びる影が異形の生き物のように蠢く様は見ていて気分のいいものじゃない。ふと、タバコの箱を握りつぶしてしまっていたことに気がつく。何か手慰みに握れるような、硬いものはないかと周囲を探し、足元にあったものを拾い上げてみる。
そこには『もしもゾンビが出ても頭蓋骨を粉砕できます! 安心安全!』という歌い文句の強力なトーチがあったのだが、これがかなり重い。もう一度ウサギの着ぐるみを見かけたら、中身が例え社長の悪ふざけで召喚された先輩たちの誰かだろうと思いきり投げつけてやろう、と心に決めた。「ひどいよ、うっぴーぃ」と、ぼん先輩の間延びした声が脳内で再生される。そんな場違いで馬鹿げた想像にふっと笑いが漏れた。
車はすぐにミラーハウス、『虚栄の館』の前までやってきた。ぽっかりと口をあけた洋館風のアトラクション、トーチで照らすと鏡風に貼られたフィルムが光を歪めて返してくる。
「それにしても、不気味ですね……」
眼鏡先輩がぼそりと呟く。その声には怯えが混じっていたが、それを茶化す気にはなれなかった。ここに入って作業しなければならないのだ、そう覚悟したって足は重い。入口の前で社長がもう一度作業の内容と手順を繰り返す。ヤラセ番組とはいえ怖がらない出演者なんてシラケるだけだ、彼らは順路を頭に叩き込んできてはいるが具体的な仕掛けは知らされていない。パニックになって転んだり、妙な方向へ走り出したりしないように配置に頭をひねるのが大道具の仕事だ。オレたちはガラスを片づけたり、依頼された道具を取り付けたりする。
中に入ると通路の両側はどでかいガラスケースのようになっていた。内側にはこの遊園地を模したオブジェがあり、真ん中からテーマパークを見渡しているように感じさせたいらしい。
それぞれに作業を始めるが、社長がひとり見えない位置に仕掛けをしに行き、オレと眼鏡先輩が近くでの作業となった。鏡は割れにくい物だったしフィルムが張ってあったが、リノリウムの床はバキバキに割れてしまっている。それらを掃いていく先輩、床に細工された破片を新しく置いていくオレ。あえて固定はしない。少しの段差でも躓くことがあるからだ。
社長が何度か往復しているのを見かけた。どうやらサボらずとっとと終わらせる心づもりのようだ、終わればきっと朝まで飲みに連れ回されるだろう。肌寒いと思っていた室内も、風がないままに作業すれば汗ばむもので、終わった後のジンジャーエールがさっそく恋しくなってくる。単調な作業も残すところ見える範囲のみとなった。オレが立ち上がってぐーっと伸びをして気合を入れ、さっさと残りの仕事を片付けていると、おもむろにこちらを振り返った眼鏡先輩が硬い声で言った。
「……ねぇ、君、最後の怪談さ、本当に知らない?」
「え?」
いきなり何を言い出すのか。そもそもどうしてそんなに無表情なのか。平坦で硬い声に思わず、ぞわりと背中が粟立った。
「遊園地から帰ってきて、まるで別人みたいになっちゃったって噂……。あれ、ここだよ、多分」
「佑さん?」
「ミラーハウス……。覗いてみてよ、鏡。もしかしたら、本当に入れ替わっちゃうかも……」
「おい」
「なぁ~んて、ウソウソ! 冗談だよ。ほら、隣に立ってみてよ」
「もう、出ますよ。仕事も片付いたし、社長も終った頃でしょう。今ごろきっとヤニ吸ってますって」
「でも……」
こちらに伸ばされる腕を振り払い、オレは道具箱を引っ掴んで出口へ向かって歩き出した。後ろからモタモタと荷物をまとめてついてくる音がする。
「怒ったの? ごめんね? でも、意外に恐がりなんだね、知らなかったなぁ。あ、ねぇ、待ってよ。置いていかないで、僕……も連れていってよ!」
媚びるような声。まるで子供のような喋りかた。
それに今、なんて? 僕も? それとも、僕たちも、と言わなかったか?
足を早めて通路を進む。なんだ、この違和感は。まとわりつくような気持ち悪い空気を置き去りにするように足を動かす。出口はすぐそこだ。
「待って……」
腕に触れてきた手を逆に掴んで外に引っ張り出す。眼鏡をかけていない素顔の目が見開かれると、明るい色の瞳がよく見える。なぜ、笑っているんだ?
彼は本当に佑さんなのか。
……。
…………。
馬鹿なことを。この暑さで頭がどうかしている。本当に中身が入れ替わるわけがない。まさか、からかわれているのだろうか? 真面目でいつも周りに振り回されて損をしている彼に?
頭を振って、そんな考えを追い出そうとしていたところに古い携帯電話の着信音が夜の静寂を引き裂いた。
「っ!!」
心臓が止まるかと思った。慌ててジーンズの尻に手をやるが、そもそもオレのスマホの音じゃない。冷静な声で電話に出る眼鏡先輩の手元にオレも耳を寄せた。
『お、もしもし? 俺だけど。悪ぃ、中で足挫いちゃってさ、動けねぇから戻ってきてくれや』
「………………」
『頼むぜ!』
言うだけ言って、電話は切れた。オレたちは顔を見合わせた。
「行こうか、困ってる……みたいだし……」
「そうっスね……」
なんだか妙な空気だった。眼鏡先輩がオレの腕を取り先導する。ひんやりとした手が、まるで作り物みたいだった。
◆ ◇ ◆
通路を行く間、眼鏡先輩は平素からは考えられないほど軽やかに歩き、笑みすらこぼしているほどだった。もちろん、普段の彼も穏やかで柔和だ、だがそれ以上に、そう、自由に見える。
「鏡の迷宮、面白いね。君もそう思わない? 鏡が庶民の文化に取り入れられてからもう何百年経つだろうか、そんなに身近になってさえ、ここまでの大きさの物をこれだけ集めたこの館に、人々は魅了されるんだ。鏡は異界への入り口……ワンダーランドを覗いてみたくならないかい」
「……鏡の国のアリスは、作り話でしょう」
「ああ、そうだね。でも、高名な魔術師、アレイスター・クロウリーはあの作品群を“読むべき”ものだと評したよ。水場もそうだけど、光を歪めるような場所には特別な何かがあるんだ……すごく、興味深いね?」
「………………」
酒が入ってすらこんなに饒舌になることはないというのに。やはりおかしい。何かがおかしい。頭の中で警鐘が鳴るが、喚き立てたところで仕方がない。オレはこの茶番に少しだけ付き合うことにした。
「異界ってつまり、別の世界ってことっスか?」
「まあ、そうとも言うね。ただ、位相の違う重なり合った空間と思ってくれてもいいよ」
「そういう話、好きでしたっけ?」
「あはは。今まで内緒にしてたけど、僕はこういう話、好きなんだ」
「ミラーハウスも?」
「うん。遊園地って楽しいだろう?」
ああ、勘違いじゃない。この人は、違う。
オレの知っている先輩じゃない。
「このミラーハウスに入った奴が、まるで別人に入れ替わったみたいになってるって噂を知ってて、楽しいって?」
「………………」
「入れ替わったとして、中身はどこへ行くんスかね」
「……それ、知りたいの? 本当に?」
だが、それに答える前に、目当ての人物のいる場所へ辿り着いてしまった。明かりがオレたちの目を刺す。眼鏡先輩が「ここにいたんですね!」とにこやかに笑いかけると、だらしなく座り込んでいた社長は一瞬、こちらを見て少し驚いた顔になった。
「悪ぃな!」
「いや、そんな殊勝なこと思ってもないっスよね、アンタ」
肩を貸しつつ社長に眼鏡先輩のことを伝えようとした。が、それも途中で遮られた。
「さあ、もう帰りましょう! 僕が荷物を持ちますから」
「おうおう、まあ、一服やれや」
「ああ、いいですね。いただきます」
何のつもりか社長が差し出したタバコ、それを慣れた動作で受け取った眼鏡先輩は火をつけてもらって旨そうに吸った。アイコンタクトを正確に理解したオレは、社長と二人がかりで細い体を押さえ込む。取り落とされたタバコはすぐに踏み消した。さしたる抵抗もなく、もしくは社長がさせなかっただけかもしれないが、腕を後ろに回して眼鏡先輩に膝をつかせた。
「ちょ、なに……いててっ」
「で、お前誰? なんのドッキリ?」
やはり気づいていたのか。
まぁ、目の前でタバコを吸ったのは決定打だったな。社長の冷たい声に眼鏡先輩は媚びた声を出した。
「なんのこと? やだなぁ、僕は僕ですってば……」
「引っかけたんだわ、わりぃな。祐はタバコやんねーの」
「…………くそっ!」
身をよじって暴れようとするニセモノをガッチリと押さえつけて社長と相談する。
「どうします?」
「どーすっかなぁ。むしろどーなってんのか教えてよ」
「放せっ、この……! くそったれ!」
「うるせーな、ベロチューして黙らせたろか、あん?」
「…………」
「そうそう、いい子にしてな。タバコ押しつけたりとか、そういう手段は最後にしてえんだ」
「ヤクザか」
なまじ先輩が小金持ちなせいで、まるで誘拐現場のような有り様だ。押さえつけているオレたちはと言えば片やホスト、片や潰れかけベンチャー企業の社長。……ダメだ、これはキッパリ身代金目的の誘拐にしか見えない。
そんな馬鹿なことを考えている間にも、社長はどこかへ電話をかけていた。「どこか」と言うか、ぼん先輩のところだろう。本物の坊さんだもんな。
『もしもーし! ごめん、こっちも取り込んでてさぁ、悪いけど電話してらんない! ってか、オンシーズンにンなとこ行くなよなぁ。ご先祖様が、そっちは放っといても大丈夫って言ってるから切るね~』
「あっ、おい! ぼん!」
『健闘を祈る! あっでゅー!』
「ぼん! おいこら、ぼーーん!!」
ブツリという音と共にハンズフリーの会話は終了した。肝心なところで当てにならないのが、いかにもぼん先輩らしい。
「どうしろってんだよ!」
「鏡を見たせいで入れ替わっちまったんだったら、もう一度鏡を見せればいいと思うんスけどね」
「どういう意味だ?」
オレは眼鏡先輩のニセモノが自分から教えてくれた、裏野ドリームパーク最後の七不思議について語った。
「なるほどな。引きずってこうぜ」
「誰が戻るもんか! 連れていっても絶対に鏡は覗かないぞ!」
ニセモノが吠える。
「なぁ、無理やり鏡に押しつけたとして、どうなると思う?」
「オレたちが逆に入れ替わっちまったら、たぶん眼鏡先輩じゃ抑えられないと思います」
「だよなぁ。いったん離れるか……」
社長が眼鏡先輩を引っ張って立たせると、入り口の方へと足を向ける。ニセモノも抵抗しながらもそちらへ歩く。その、うつむいた横顔が薄ら笑いを浮かべていて、オレは思わず社長の腕を掴んでいた。
「おい?」
「……ダメだ、ホラー映画とかの定番だと、朝が来たら眼鏡先輩このままの状態で固定される気がする。出たらマズイかもしれない」
「やべぇな。夜明けまであとどれくらいだ?」
オレはスマホを操作した。
「……あと、三十分ない」
「やばいじゃねぇか」
「ふふっ……くふふふふ、あっはっはっはっはっはぁ!」
「やろう、何がおかしい!」
「哀れだなぁと思ってさ。この体の持ち主は、もうこの僕だ! ようやく交代できたんだ、追い出されてたまるもんか! これからはこいつとして面白おかしく生きてやるんだ!」
そう言ったニセモノの顔は、確かに眼鏡先輩のものだったのに、まったくの別人にしか見えなかった。鳥肌が立つ。
「入れ替わり、ねえ……。おたくの言うことが本当なら、あいつはまだ一番奥の鏡の中にいるわけだな。だったら、俺とあいつが入れ替わるってのはどうだ」
「はぁ!?」
いきなり何を言っているんだろうか、このひとは。社長の言葉にニセモノすら驚いている。
「社長と祐さんが入れ替わったって、それでどうしようって言うんです?」
「ばっかお前、俺とあいつが入れ替われば、ここに味方は二人残るだろ。後はこいつと、俺の体に入った祐が鏡の前に立ちゃ、俺が先導してみんな元の体に戻してやるって寸法よぉ!」
呆れた。
そんな簡単に行くわけがないだろう。試したこともないくせに……。無謀にも程がある。ニセモノもオレと同じ考えのようだった。
「ば、馬鹿じゃないのか? そんなの、成功するハズない!」
「うるせぇ。やってみねぇとわかんねぇだろ。時間がねぇんだ、黙って見てろ」
「社長……」
眼鏡先輩を引っ掴んで奥へと引き返す社長。オレは止めるべきか迷いながらもついていった。社長が鏡の前に仁王立ちになる。……静寂。やがて、社長がゆっくりと振り返った。
「社長?」
「…………」
オレは咄嗟に身構えた。
もし、もしこのひとも、例の鏡のせいで別の誰かと入れ替わっていたら……!
「祐はいなかった」
「えっ」
「あの中に、祐はいなかった。……どういうこった?」
社長の視線とオレの視線が、ニセモノに集まる。
「し、知らない! そんなの知らない!」
「知らねぇってこたねーだろ、あぁ? さっさとゲロっちまえや」
「ひいぃっ!」
尻餅をついて後ずさりするニセモノ。その顔から眼鏡がずり落ちて顔に引っ掛かっている。オレは何故だかそれが気になって、手を伸ばして取り上げた。
「眼鏡、か」
「お、どうした?」
「いや、眼鏡も暗いところなら……」
「像を結ぶってか。なるほどな」
「まぁ、あり得ないでしょうけど」
じっとレンズを見つめても、その中に眼鏡先輩はいない。もう時間がない……。
「とりあえず、こいつに眼鏡押しつけてみようぜ」
「押しつける?」
「おう。目玉に直接押しつけて、嫌でも交代させてやる」
「うわぁっ! や、やめろ! やめてくれ……!」
言うが早いか、社長はオレの手から眼鏡を奪い取り、ニセモノの顔に押しつけた。むしろめり込む勢いだった。
「嫌だぁっ! 戻りたくない! 戻りたくないぃ!!」
「うるせぇ! 祐、帰ってこい、このやろう!」
オレは抵抗するニセモノの背後から、腕を掴んで押さえた。頭を左右に振って頑なに抵抗するニセモノ。だが、それもやがて収まった。
「祐さん……?」
「内田、時間は」
「あっ、……日の出時刻、ピッタリ」
「そうかよ」
何となく、二人とも黙ってしまった。もしかすると間に合わなかったのじゃないか、それは社長も当然思いか浮かべているだろう疑問だ。オレたちの心配をよそに、眼鏡先輩が小さく呻いて起き上がろうとする。
「うぅん……なに? どんな状況、これ。よく見えない……」
「祐さん、本当に祐さんスか?」
「は? なに、どうしたの、うっぴー君」
オレの名前……。
良かった、戻ったんだ……!
「はあぁぁぁぁぁ」
「えっ、えっ、なに?」
「ったく、手間かけさせやがって!」
「いっったい! 社長、なにすんですか!」
オレは深くため息を吐き、社長は眼鏡先輩の額にデコピンをした。
◆ ◇ ◆
仕事はほとんど片付いていたので、あとは社長の運び込んでいた分の道具を分担して運んで帰るだけだった。社長は足をひねったとかで、運転はオレがすることになった。眼鏡先輩の眼鏡も、最後に力任せに押しつけたせいで歪んでて使い物にならなくなってたし、オレ以外に運転手はいないってことだ。
「それにしても、鏡で入れ替わりとか、なんかすごいね。途中から記憶がないから、うまく言えないんだけどさ」
「……楽しそうスね、祐さん」
「別に、そんな。楽しいわけじゃないけど……七つ、揃ったじゃない?」
「あー。そっスね」
裏野ドリームパークの七不思議、確かにこれで全部揃ったことになる。知りたくもなかったが、知ってしまった。ガタタンとバンが揺れる。社長のイビキが詰まったように大きく鳴った。明け方の白さが目に眩しい。
眼鏡先輩が鼻歌を歌っている。珍しいこともあるもんだ、無趣味で流行りの曲も知らないだろうに。ラジオで覚えたのだろうか。むしろ、これは本当に眼鏡先輩なのか……。ミラー越しに後部座席を覗くと、キラリと眼鏡が光った気がした。
了
2017年夏ホラーに間に合わなかった作品の供養です。本当はもっとライト文芸っぽく、本筋に関係ないエピソードをだらだら書きたかったのですが、今回は短いバージョンでお送りしました。