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「だが……まあ、そうだな。それをあの女がこれをまっとうに使うのは想像できないし、開けたら開けたでくだらねぇことが起きるのは目に見えている」
「では、このままでいい、と?」
「今のままで、別に不都合も何もないだろ。領民も、知っていてなにも言ってこないなら」
アーテルはその箱を見つめ、箱を、閉じた。
安堵するように、あるいは、罪を閉じ込めるように。
「そう、ですね。そうするべきなのかもしれません」
「ですが、母上。また、シグリがきたら……」
「大丈夫よ。フェリ。あのひとも、このことを知っていた。だから」
「だがな、アーテル。あの女は平和のためなら何でもする奴だ。もし、シグリを使ってその箱を奪いに来たら、その時は渡せ」
イリスの目は、真剣だった。
本気で、そう言っているのだ。
「許されようと、許さなかろうと、それであの女に目をつけられたら、この領も危ない。……アーテル。あんたなら、こんな箱、必要ねぇだろう」
「ええ。そうですね」
「渡したあとは、俺たちの仕事だ」
「――え?」
ルカの、疑問を感じたような声。
だがイリスは念を押すように、こうも言った。
「必ず、渡せ。そうすれば、シオンにも狙われることもないだろうよ」
「心配してくださるのですね」
「今の俺に、関係のないシグリの仕事だからな」
ルカの胸に、細いとげが刺さったような、感覚を感じる。
喉に、なにかがつっかかってしまったような、そんな不快感。
「あなたがたは、まだこの領にいらっしゃる?」
「……すこし、調べたいことがある。あと、3日くらいはここにいるつもりだが」
「そうですか。よろしければ、この屋敷に滞在されたらいかが? よいおはなしを聞かせてくださったお礼です」
ルカの肩が、こわばっている。
いやだ、と思う。
ここは、たしかにあの宿よりもきれいで、住み心地はよいだろう。
けれど。
けれど――ちいさくとも、ふたりだけでいられる部屋がいい、と、まるで子どものようなことを、思う。
(おれは、なにを。)
(言わないって。思わない、って。そう、イリスが言っていたのに。)
「いや、結構だ。一応、この領を出る前に一度、顔を出す」
「分かりました。それでは、そのように。フェリ、お願い」
「はい、母上」
フェリが立ち上がり、机の端に置いてあった手燭台に火をともす。
それに倣って、ふたりも立ち上がった。
「イリス殿、ルカ殿、ありがとうございました」
「いや」
こうべを垂れるアーテルを再び顔をあげるまで見送り、部屋から出る。
とたん、闇が広がった。
フェリが持つ、燭台の灯りだけが頼りだ。
「おふたりとも、ありがとうございました。僕は、あの箱を見るのは初めてだったのですが……やはり、この領から出すべきなのではないのかもしれません」
「――ああ、そうだな」
あんな、おぞましいもの。
――俺が、言うのか。
こんな、ひとを殺すだけしかしてこなかった、俺が。
顔に出さず、失笑する。
外は明るく、そして雪は固まり、凍っていた。
門兵のいる場所までフェリは見送りをした。
「では、また」
うやうやしく礼をしたフェリを背に、宿に一度戻ることにする。
その道すがら、ルカは誰も通らないような小道で、ふいに立ち止まった。
「どうした」
「……イリス」
いまだうつむいたまま、ルカはか細い声で、名を呼ぶ。
先日から、ルカの様子がおかしかったのは分かっていた。
だが、あえて何も言わずにいた――けれど。
やはり、気にかけたほうがよかったのかもしれない。
「おれ、は、どう、すれ、ば」
つかえつかえの言葉。
うつむいたまま。
イリスの上着のすそを握りしめ、ふるえる声で「おれはどうすればいいのか」と、問う。
けれど、けれど――どうしたらいいのかなど、分かりはしない。
いま、ルカのためにイリスができることといえば。
――人間、というものは不思議な存在だ。
イリスは、部隊長のことばを思いだす。
ぶどう酒を飲みながら、彼は笑った。
――こう、
部隊長は、やさしい、やさしい笑みをうかべて、まだ幼かったイリスを抱きしめた。
――こうすると、安心するだろう。体温の違いはあるが、おなじ人間のぬくもりだ。
――心臓の音が、血が流れる音が、自分がここにいる理由なのだ、と、そう思えたなら。
――なあ、イリス。
――天の御使いのおもてをもつ、愛しい俺のちいさな暗殺者。
――そう思えたなら、とても、「よい」ことだ。
――俺たちは、所詮ひとごろしの道具だ。だが、なあ、イリス。たとえ地獄におちることが決まっていても、戦って死ぬことをさだめられていても、俺たちは、いま、生きているんだ。人形としてでも、玩具としてでも、道具としてでも、生きている。どうしようもなく、生きているんだ。
――生きているのなら、せめて――自分のために、そしてほかのもののために生きたって、ばちはあたらない。
――こんな、仕事をしていても。殺すことしかできなくてもいい。生きる意味を見失ってもしかたない。だが、これだけは覚えておけ、イリス。
「おまえは、生きているんだ。息をして、血が、流れている。その理由がわかるか? なあ、ルカ」
饒舌になったな、とおもう。
それはきっと、イリスが生きているからだ。息をして、体のなかで血が流れているからだ。
ルカは、そうっと、おそるおそる、目を、イリスへ向ける。
「死ぬのは一瞬だ。一瞬で、永遠だ」
「……イリス、おれ、」
「だが、生きるってのは――有限、なんだよ」
「イリス」
泣きそうな声でイリスの名を呼ぶルカは、いまだ迷い子のような目をしていた。
「泣くことも、わらうことも、生きているから、できることだ。……まあ、こんな――ひとごろししか能のない人間に言われても、分からねぇだろうし、理解もできなくて当然だがな」
せめて、部隊長のようにこの手で抱きしめられたら、いいのだが。
こんな血にまみれた手で、ふれられても、嫌な思いをするだけだろう、と。
そう、思って、いた。
「っ、」
呼吸が、一瞬とまる。
ルカの腕が、背中に回っていた。
なにかに、すがるように。
たすけを、もとめるように。
なにかを、かみしめるように。
あまりにも、不慣れな抱擁だった。
――おさな子が母親に抱きつくように、ためらいはなさそうだったが。
ただただ、不格好だ。
抱きしめ返せない、この腕も。
(おまえは、求めないだろう。)
(俺の、手など。俺の腕など。おまえの父親を殺す、この手でふれることなど、できはしない。)
「……イリス」
「ああ」
「あんたは、セハカを殺すだろう」
「ああ」
「おれが殺したいと、いったら、あんたは」
「だめだ」
それは。
それだけは、だめだ。
「おまえの手を、汚すわけにはいかない。親ごろしの罪をおわせるわけには、いかない」
「けど」
イリスの背中にまわされた手の爪が、服にしわをつくる。
「おれはあんたのこころ、に……少しでも、ちかづけたら、って。そう、おもって」
「そんなことのために、ひとごろしをする必要はないだろ」
「あんたは!」
どん、と。
イリスの胸をたたく。
心臓の音を、かきけすように。
「あんたは、知らないんだ! おれがどんな、どんな思いで、あんたと……」
「俺の手は汚れている」
「しってる。あんたは剣を抜いていない人間も、平等に、殺した」
「……そうだな」
「躊躇しない。動揺もしない。だから、あんたは生きてる。生きるために必要だった、ことなんだろう」




