15
べつに。
べつに赦されなくてもよいのだ。
それだけの罪を犯してきた。
罪に足る罰を、受け入れているのかどうかは、もう、分からないが。
ふいに、思った。
「おまえは、怖くないのか」
ぴたり、と。
ルカの手が止まった。
首筋をくすぐる、黒い髪の毛がわずかに動いて、そして、死に神の目が、イリスを認める。
どこまでも億劫そうに。
その双眸を細めて、イリスを見た。
「こわい、って言ったら、あんたは傷つくだろう」
にじむその赤は、なにか、うつくしいものを見るような色をしている。
当たり前のことを言うように、ルカは呟いた。
自らにむけられる恐怖、そしてこれから必ず訪れる死への恐怖に、イリスは慣れていた。
それこそ――当たり前だと思っていた。
傷つくことも、傷つけることも当たり前だった。
「イリス。おれには、あんたが、人間に、見える」
途切れ途切れに。
「昨日の晩、部屋に入ってきた男より、あんたは――人間、だ」
そんな言葉を、望むことはなかった。
人間であることに、なんの未練もなければ後悔もない。
おのれ自らを人形だと、玩具だと、そう断言した男を。
あるいは悪魔の、あるいは死に神のおもてをした、少年とも青年ともとれない、年齢の男が。
巫が神勅をのたまうように。
ルカは再びねむったのか、それから言葉を交わすことはなく――心身ともに疲れていたのだろう。
夕方まで、目を覚ますことはなかった。
ルカが目をさますと、となりにあったはずの、ぬくもりはなかった。
決して、あたたかいとは言えなかったけれど、たしかにここにあったぬくもりが。
凝り固まった身体をほぐすように、ベッドの上で身動きをし、起き上がる。
部屋のなかを見渡す。
だれも、いなかった。
ただ、ただ。
すこし心もとない窓ガラスを叩く吹雪の音だけが、鳴り響く。
これでは、清い鐘も響くことはないだろう。
ルカを襲った男は、ゼノ、といった。
ゼノに襲われたとき。
恐怖はなかった。
ただ、イリスの顔が浮かんだ。
暗がりだったから、よくは見えなかったけれど。
おなじ白銀の髪。
おなじ色の剣と鞘。
殺されるのだとは、思わなかった。
その男がシグリだとも、思わなかった。
ただゼノという男は、楽しそうに笑っていた。
『きみの、その感情は、想いは、俺は、知っているよ』
『あのひとは、とっても、きれいだから。自分だけのものにしたいのは、とっても、とってもよく分かる』
『でもねぇ、あのひとのこころもからだも、ぜんぶ、あのひとのもの。俺が、どんなにどんなに想っても、あのひとには、敵わないから。だから、あのひとに傷のひとつ、つけて、あのひとの重荷ひとつ、もらったら。あのひとは、どんな顔をするんだろう。それを見たいから、きみに、傷をあげるね』
そう、口走るように宣言して、ゼノという男はルカの首筋に、ひとつ。傷を与えた。
それから――あまり、憶えていない。
ただ、ちいさな光が、見えた。
あれはおそらく、火花だったのだろう。
「あのひと、って、だれ」
ゼノの言い方は、あまりにも稚拙だったから。
かたほうは、イリスだと分かったけれど、もうひとりの「あのひと」の正体は、分からない。
――「あのひと」の「もの」だ、と。
イリスの、心と体はぜんぶ、「あのひと」のものだ、と。
高らかに宣言した男に、嘘はないのだろう、と。
ルカのこころに、ちいさな黒いものが浮かび上がった。
ひざを曲げ、ひざに顔をうずめて、ベッドに座ったまま冷たい壁に背中をおしつけて、赤い目を開いている。
「だれ……」
その黒いものが、ルカのこころを塗りつぶすのに、どれほどの時間がかかるか。
それは、誰にも分からない。
きい、と、ドアがきしんで開く音が聞こえる。
ルカが顔を上げ、その白銀に目を細めた。
(ああ、たしかに。きれいで、うつくしい。)
「さすがに腹、減ったからな。もらってきた」
右手にはサンドウィッチ、左手には、ぶどう酒。
ベッドの上に座ったままだったルカは、ようやく床におり、おぼつかない足取りでイリスが貰ってきたという、それに手をつけた。
野菜や鹿肉が挟まっているとはいえ、あいかわらずエクロス大陸のパンは硬かったし、ぶどう酒は渋さが残っていた。
「それから」
硬いパンを咀嚼し、呑み込んだあと、イリスは独り言のように呟く。
「ここの領主に、明日会うことになった」
「……どう、して」
「知りたいことがあるんだと。……おまえはどうする? 来ても来なくてもいい、とは言っていたが」
「行く」
イリスが行くならば当然行くものだと思っていたし、来ても来なくてもいい、ということは、ルカのおもてを知ってのことだろう。
死に神のおもてをしているからと言って、このまま閉じこもっているわけにもいかない。
国教徒が多くしめるオリアン領の領主ならば、領主も国教徒である可能性がある。
「そうか。……そういうと、思ったが」
「うん」
「おまえを、傷つけるかもしれない」
ルカの相槌が、すこし、いとけなくなった、と思った。
当の本人は別段、なんの意識もしていないようだが。
「そんなの、慣れている」
赤い目を伏せ、サンドウィッチをかじりながら吐き捨てた。
後ろ指をさされることも、陰口を言われることも。
イリスは何も言わなかった。
ただ、ぼんやりと暖炉を見つめている。
なにを考えているのか、ルカには分からないが、すこしだけ知りたいと、思った。
イリスが座っているベッドに、ルカもおなじように座る。
彼が、ルカになにか話しかけることはなかったが、それでもよかった。
すこしでも傍にいたかっただけ、だったから。
それから風呂に入って、別々に眠った。




