14
夢をみた、気がする。
白い手が、心臓に、脳に伸びて、体温もないその亡霊に、触れられた夢を。
死ぬのだ、と理解する。
触れられた瞬間に、自分は今まで殺戮してきた人間の魂に、無念の想いに、怨みに、殺されるのだと。
いつでも、殺される覚悟は持っていたつもりだ。
むこうがその気なら。こちらも、その気になる。
ただそれだけのはなしだ。
けれど、これは違う、気がする。
死人が、生き物を殺すことはできない。
夢ならば、余計。
さめてしまえば、それは夢でしかなく、うつつなどではない。
夢だと、分かっているからだろうか。
目を開ける。
ルカの目が、こちらをみつめていた。
赤い瞳。
死に神の、目。
すう、とかすかな呼吸音が聞こえるだけで、ルカは何も言わない。
ただ、イリスの顔をそのまま映している。
ガタガタと、窓をひどく叩く音がした。
吹雪いているのだ、と知る。
身体を起こそうとするが、ルカの手がいまだ服を掴んでいたために、再びベッドに沈み込んだ。
ぎしり。
ベッドの軋みが、耳もとで聞こえる。
「あぶねぇだろう」
「イリス」
なんともないように。
昨晩の、重たくて、苦しくて、つらいできごとを、まったく覚えていないかのように。
ただ、その名をよぶ。
無垢な声で。
「イリス」
「ああ、ここにいる」
ルカの手が、イリスの髪の毛にふれる。
「おれ、を、殺してくれるのか」
一字一句、決して間違わぬよう。
願うように、ルカは言う。
やはり、昨日のことを憶えていたのだ。
「どうだかな」
「だって、昨日」
「悪いゆめでも、見たんだろ」
「夢じゃない。おれの、ここ、を――傷つけたシグリがいた」
ルカは自分の首筋に手のひらを当てて、赤い目を一度伏せてから、イリスの目を見据える。
確固たる意志を、もって。
「……ゼノ、っていう男には、おれの命をくれてやる義理なんて、どこにもない」
「そう、だな」
「あんたが言ったんだ。こいつは、俺だけの獲物だ、って」
「そんなこと……言ったか」
まどろみにうずまるように、子ども同士、内緒話をするように、囁く。
真正面にある、顔を見つめあいながら。
「おれは、耳がいいって、言った」
「そうだったな」
「おぼえていた?」
「記憶力はいいほうだ」
そして、それから、ルカは、笑った。
ほんの僅か。
ほんの、一瞬。
イリスの記憶を掘り返すと、笑みらしい笑みは、初めてだったかもしれない。
少年らしい笑みだった。
心もとない、笑みだったのかもしれない。
「腹減っていないか」
「へってない」
この姿勢では、時計を見ることも、外を見ることもできないが。
おそらく、昼ごろだろう。
ルカが身動きをする。
まだ幼い子どものように背中を丸めて、頭をイリスの肩にうずめた。
甘えているのだろうか。
甘えられたことなど、これっぽっちもないイリスは、どうしたものかとしばらく考えるそぶりをする。
「昨日はすこし、つかれたな」
「………」
迷って、とりとめのないことを呟く。
が、ルカは応えることはなかった。
ただただ、甘えるように頭をすりよせてくる。
「今日は、このままが、いい」
聞き取りにくい声を出しながら、イリスの腕を引く。
考えるのもおっくうなのだろう。
イリスも、この感覚は嫌いではない。
なにも考えずに、ただただこうしていることは。
自分とはちがう誰かの体温を、こうして感じることも――ひさしぶりだ。
シグリであるイリスは、一日でも体を動かさなければ体がなまる。
怪我をしてベッドに拘束される以外、一日たりともこうして、ずっとベッドの上で眠るように身体を横たえることは、なかった。
「イリス」
かすれたような声。
赤い目を見せず、イリスの肩口に額をうめたまま、幾度目かの名を呼んだ。
「はなしがききたい」
「俺のか」
「うん」
まるで、いとけない子どものように、うなずく。
ネア領にいたときも、そんなことを聞かれた。
べつに、はなしができるような、そんなひとの生を生きてなどいないが。
ただ、ただ。
殺してきただけだった。名前さえ、性別さえ、年齢さえ忘れるほどに。
決して誇れることはないだろう。
ただの、ひとごろしには、誇りなどいらない。必要ない。
「……そうだな、何から話せばいいのか……」
誰かに、自分の身の上話など語ったこともなければ、語ろうとしたこともない。
部隊長が知っていることが、自分のすべてだ。
「俺は5歳でシグリに売られ、それから一週間後に剣を持った。ひとを殺すための、剣だ。それから――まるで、大事にされるように、家族のように、シグリのなかで生きてきた。シグリの大人たちは、子どもだった俺に、殺すことを強要しなかった。だが、仕事だといわれれば、子どもだった俺でも、ひとを殺した。子どもが子どもを。子どもが大人を、老人を。殺して殺して、殺しつくせば、褒めてくれるひとがいた、からな」
「うん」
「べつに、食うために殺してきたわけじゃあ、ない。シグリにいれば、少なからず食いぶちには困らなかったし、寝床もあった。ただ、地獄だった、ということは間違いじゃ、ねぇ」
乾燥しているのだろうか。イリスの喉がすこしだけ、唾液を飲み込むように動く。
「ひとをひとり殺すごとに、なにか、欠けていった。それが何なのか、もう分かりはしねぇが」
それほど、思いだすこともなく、思いだそうとすることもなく。
ただ、それはすり減っていった。殺してきた。
「それは死ぬことよりもつらいことだ、と、まだ女王にはなっていなかった女は、嗤っていた。嘲笑った。自分だけの人形を持った女は、生まれながらに傲慢を持っていた。この世全ての傲慢を、わがままを、独りよがりを、手にしたようにな」
ルカの手が、億劫そうにのびる。
そのゆびの先を、見ようともせずに。
そうっと、やわらかく――甘い甘いしぐさで、イリスの頭を撫でた。
ルカの、手。
それが、ゆっくりと動く。
緩慢な動きは、イリスの罪の意識を、罰の存在を、思いおこされた。
さまざまな人間の恐怖や、恐慌、そういったものが種火のようなものになって、胸のうちがわを、灯した。
それはやさしく照らすものなどではなく、イリスの罪や罰を、人前にさらけ出すようなものだった。




