13
地面に直接座りこんで、ぼんやりと空を見上げる。
夜は深く、月も白んでいた。
呼吸をするだけで、何もしなかった。
そういうことは、慣れている。
何も考えず、何もしないでただ存在することは。
血のにおいも、ゼノの気配もない。
だが、シグリはにおいを消すすべも知っている。
まだこの村にいるだろう、と、イリスの勘が告げている。
雪が、膝に積もっていた。それを思い出したかのように払って、そうっと、立ち上がった。
頃合いだ、と。
座りこむのにはすこし邪魔だった剣を拾い上げ、腰に佩く。
いまだ溶けず、流されず、ただ存在する、清く正しい新雪は、イリスの足にまとわりつくようだった。
それを足蹴にし、穢しながら歩く。
そろそろ、宿に戻ろうとした。
今にして思うと、なぜあんな――人間らしいシグリに狼狽えなければならなかったのだろうか。
見知らぬシグリなど、数え切れぬほどいるというのに。
けれど。
おそらく、だが、においが、あったからだろう。
あのひとの――においが。
宿に入り、部屋にもどろうとした、その時だった。
がた、がた、と。
木がこすれる、不吉な音が聞こえてくる。
それほど、聞きなれた音だ。
ドアは空いている。
当たり前だ。
ドアから、ふつうに入ってきたのだろうから。
木のドアノブを素早くひねって押し、暗い部屋のなかにいる、その「男」めがけて、刃を横に薙ぎ払った。
その間、一秒、にも満たない。
びっ、と、布が引きちぎられる音が聞こえる。
黒いローブの切れ端が、床に触れるまえに。
次の一手を、男に向けた。いや――向けた、というよりも完全に殺すための、一手を完全に、完璧に、人間の急所へ差し出していた。
火花が散る。
それだけ、だった。
この部屋にあるのは、荒い呼吸音。
まだ、少年のような。
けど、青年のような。
「ゼノ。なんのつもりだ」
刃を喉もとにあてながら、問う。
こくり、と、男が唾液を飲み込む動きをすると、わずかに刃が喉にめりこんだ。
血がなめらかに――、剣が白粉をするように、すうっと撫でる。
「なんの、って」
ふふ、とほほえむ。
薄い紫の目をらんらんと輝かせて、恋びとに囁けるがごとく、甘い音色でこう、言った。
「愛しいあなたが執着する人間って、どんな悲鳴をあげるのかなって、おもった」
「だいじょうぶか」
剣をおろし、ゼノの横を過ぎ、ベッドからシーツごと床に崩れ落ちているルカに手をさしのべる。
ルカの目は、わずかににじむように濡れていた。
泣いていたのかもしれない、と。
そうおもった。
ゼノに襲われて、おそろしくて泣いていたわけではないだろう。
ただ、哀しかったのだろう。もしかすると、さみしかったのかもしれないし、痛かったのかもしれない。
「……イリス」
からからに乾ききった声が、イリスの耳朶にふれる。
ルカの手がさ迷うように揺れた。
「そんな声、してたんだ」
無邪気な声が、容赦なくふりそそぐ。
イリスの剣技で弾かれた剣を、引きずるように、再び手に取った。
「俺が夜襲をかけても、傷をつけても、何の声も出さなかったから。口がきけないのだと思った」
イリスはの手は既に、ルカの首筋に布をあてていた。
決して、そう。決して、殺すためではない、ただただいたぶるためのだけの、傷だった。
「出ていけ。ゼノ・ウィールス。こいつは、俺の――俺だけの、獲物だ」
ゼノの目を見ず、姿をすでに認めず、ただ、言い放つ。
知らず知らず、ルカの首にあてていた手に、力が入った。
「……手を出せば、おまえであろうと何であろうと、その首、刎ねてやるよ。シグリなら、分かるだろ。これは、優しさだ」
首を刎ねれば、どうなるか。
いきるものならば、分からないだろう、が。
聞いた話によると刎ねられた頭は、わずかばかりの間、意識があるという。
首のないおのれの身体を、その眼で焼き付け、そして死ぬのだ。
――絶望か、それとも何も思わず、ただ茫然としたまま死にゆくのか、分からないが。
これはやさしさだろう?
その死は、たったひとり。自分だけの、おわりだから。
「シグリは拷問などしない。ただ、正確に、そして確実に殺すだけだ。その意味が分かるだろう。――あのひとの、弟子なら」
ルカはなかば自失していて、そのことばを聞いているのか、または耳朶にさえふれていないのか、分からない。
「また、あいにくるね。俺のイリス」
ふふ、と。再びほほえんで、剣の切っ先を引きずりながら部屋を出ていった。
律儀にもドアを閉めて、足音を消し、気配を消し、そして宿の外へ消えた。
「ルカ」
彼はこたえない。
ただ、目を伏せて――眠る直前のような呼吸をしている。
そして。
ルカのまだ幼さがのこる、その肱を広げて、イリスを、抱きこんだ。
「……そう、だな」
ねむろう。
夢を、みないまでに。
ルカの身体を抱き上げ、ベッドに横たえる。
彼は何も言わないし、聞こうとはしていないようだった。
横たえた体に毛布をかけ、自分のベッドに足を向けようと、した。
ぐい、と。
か弱いような、ひどく強いような、その不可思議な力で、イリスを引き止める。
ルカの顔を見下ろすが、まぶたは閉じている。
眠っていることは確かだ。
ふ、とあきらめにも似たため息をつく。
ああ、そうだな、と。
それも、いいのかもしれない。
もうじき、朝が来るけれど。
ルカを壁際に押し、ベッドに体を横たえた。
イリスの着物の端をしっかりと握りしめたまま。
じき、朝が来て、それから――この夜のことを、忘れているかもしれない。
いや、
そうであってほしい、と、思った。




