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「あんたは……残酷だけど、やさしい。……けど、ひどい、人間だ」
やさしさ、という重み、は。ひとごろし、ひとでなし、と弄られる以上に重たく――こころが凍えるようだった。
ルカが今、感じている痛みも、苦しみも分かる、などとは言えない。
所詮、他人の感情は、他人である自分には分からないのだから。
「そうだな。俺は、そういう人間だ」
だから、おまえが思うような、玩具になれたらいい。
おまえが言うような、人形になれたらいい。
ひどいモノに、残酷なモノに。――やさしい、モノに。
泣いているのだ、と分かっている。
けれどイリスの手は、慰めるための手ではない。
ひとを殺すための、手だ。
ひとを傷つけるための手だ。
なぐさめるなどと、救えるなどと――なんて、おこがましい。
ルカの頭が、そっと離れてゆく。
床に、透明なしずくが落ちた。
涙をふくすべすら知らないルカは、やはり一人きりだったのだろう。
孤独だったのだろう。
そして憎んだのだろう。
この世界を。父を、そしてあるいは――母を。
「……ねる」
イリスが包んでいた手をすり抜けて、顔をみせず、ベッドの上に体を投げた。
ただ、うなずくことしかできない。
「俺は、すこし外を回ってくる。もうじき夕飯だ。食えるなら、食っとけ」
これが、たったこれだけが、イリスがかけられる精一杯の言葉だった。
部屋から出る。
ドアに背中をあずけて、大きく息をした。
喉に血がたまっているようで、無意識に片手でふれる。
そして、たわむれに。
ぐっと力をこめた。
「………」
すこしだけ。くるしい、と思った。
片手でひとは殺せる。
だが。こんなことで、イリスは死なないし、死ねない。
自死は、ゆるされない。そう、部隊長から躾けられた。
どんな拷問でも、どんないたぶりでも、どんなに罵詈雑言を、刃のように投げつけられても、自死は許されない。
任務につき、結果と情報という花の蜜を女王蜂へ与えるためだけの、働き蜂にならなければいけないのだ。
シグリが許されるただ一つの自由は、戦死。
ただ、それだけだ。
は、と息をつく。
自分の片手は、首に痣ができるほど強く、握っていたようだ。
けれど、死なない。
床に落ちていた剣を、無意識に腰へ佩いていた。そう、無意識に。
無意識にひとを殺す、ことが。できるこころと、からだになってしまったのだ。
そっと床から片足をあげる。
宿からでると、もう暗かった。
ぽつぽつとした灯り。
ランタンをもつ信徒たちが歩いている。
こんなふうに、何かを、誰かを、信じられたら、幸せなのだろうか。
分からない。
分かろうとすると、途端に黒い霧によって、あるいは真っ黒な重たい緞帳によって目の前を遮られてしまう。
それがシグリの。
去勢、という名の――躾、だ。
まるで、洗脳のように。
本名もしらぬ、部隊長から直々に躾けられたのは、イリスとあともうひとりだけだった。
ほかのシグリの人間は、部隊長の部下がやっていた。
そのひとりの顔もなまえも、憶えていないけれど。
ただ、その人間を思いだそうとすると、やはり目を遮られるように、記憶から抹消しようとするように、するりと抜けてしまう。
どうでもいいことだと。
そう思い続けることが、部隊長の期待に応えることだと、そう思い込んでいる。
部隊長の期待どおりに、部隊長の思うとおりに、部隊長の願いどおりに。
部隊長の――愛、を。慈しみを。
一身に受けるのは。
天の御使いのすがたをした、イリスだけ、だと、そう思っている。
知っている。
部隊長の目が、視線が、手が、からだが。
その体温が。
イリスを、天の御使いのからだを、愛した部隊長。
そこに心などなかった。
愛するけれど、そこには――こころなど、必要なかったのかも、しれない。
ほとり、と。
粉雪が、イリスの青ざめたままのほおに、落ちる。
夜空を見上げた。
『部隊長。どうして。』
『部隊長、俺を、』
彼はわらっていた。
やさしい、笑みだった。
そして、何度も。何度も。何度も。
なぶることはしなかった。
いたぶることも。
「敵」のように、殺そうとすることもなかった。
ただ。
やさしかった。
『あのね。部隊長。俺は部隊長の、ものだから。』
『そうなったら、うれしい?』
彼は、笑って頭をなでてくれた。
あれは――最初は、いくつのときだっただろう。
忘れたが、それでも、あの手のいとおしさを、やさしさを、おぼえている。
――イリス。シグリは、すべて女王のものなんだ。
と。
まるで父親のように、やさしい声色で、イリスを否定した。
その言葉を聞いて、たしか、すこしだけ泣いた覚えがある。
――我らシグリは、死を制限されている。
――その意味は、分かるな。賢い、おまえならば。
とじた瞼に雪が落ちたあと、目を開いた。
夜空が星を飲み込むように、黒々とイリスの目に映る。
星も、月も。
どうせ届かない。
どうせ、飲み込まれる。光は、闇に。
すっと、イリスを横切ったのは、黒いフードをかぶった人間だった。
そのにおいは、あまりにも、あまりにも――嗅ぎなれたもので。
フードから見えたのは、白く、整った鼻筋。
頭からかぶったその布は、腰のあたりが大きくめくれている。
すぐに、剣だと分かった。
この村に剣や武器を佩く人間など、片手で数えるほどしかいないだろう。
イリスの視線にきづいたのか、男か女かもわからないその人間は、足をたわむれのように止めた。
「イリス」
うしろ姿を見せたまま、平坦な声でつぶやく。
確信めいた声色だった。
銅像のように動かないそれは、声を聞いても男か女か分からない。
「誰だ」
「つれないな、イリス。俺のことを忘れたの」
ようやく、その「男」はイリスに体を向けた。
フードを慣れたように手で払い、そのすがたをイリスに見せつけた。
「……おまえ……、は」
「イリスと同じだよ」
それは、暗に自分はシグリなのだと言っているようなものだ。
どこかで見たことがある、気がした。
ただ目を覆われて、視界を遮られた、その先。
その男は、誰だったか。
髪色は、イリスと同じ白銀。
けれど目は、薄い紫色をしていた。
「ゼノ。ゼノ・ウィールス。おぼえているだろう? 俺の、愛しい愛しい――兄弟子」
くら、と。
めまいをおぼえた。




