10
ルカは、この世界のことなど、どうでもいいと思っていた。
壊されようと、どうでもよかった。
この声のぬしが、誰だろうとどうでもいい。
ただ自分は、この声のぬしに、心に埋め込んでいたなにかを掘り起こされたように、おもう。
「……っ」
イリスが咳き込んだ音を聞いて、深い深い海の底から引きずり出されるような感覚を、ルカを襲った。
すでに黒い霧はなく、声もなくなっている。
「イリス」
もう一度血を吐いたイリスは、ぼんやりと――エメラルドのような目を薄く開いて、視線をさまよわせた。
「ルカ、か……」
喉をごろごろと鳴らしながら、うつぶせに倒れたまま、呟く。
一回、またたきをすると、イリスが身動きをした。おそらく、立ち上がろうとしたのだろう。
「悪い、が。手を借りたい」
白すぎる手が、あたりをさ迷わせて、ルカの手を取ろうとした。
けれどルカは、イリスに手を伸ばしていなかった。
理由は単純だ。
彼の白くうつくしく、そして罪深い手を、ルカごときが触れていいのか、と。そう思った。
そう思ったのは一瞬で、すぐに手をのばし、イリスの身体を支える。
「……どうしたんだ」
「ああ……そういえば、言ってなかったか。まあ、言う必要も、ない、と思っていたが」
ようやく半身を起こし、くちびるについた血液を乱暴にぬぐう。
白すぎる手の甲に、血液がこびりついた。その赤と白に、めまいさえおきる。
「シグリに拾われた時から、すこしずつ、この体に毒を流し込んできた。死なない程度に、すこしずつ」
「毒……」
「だから、そこらへんにある毒なら、食事に混ざっていても、飲み物に混ざっていても、死にはしない。だが、毒を中和する薬も、また毒だ」
「薬? あんたは、薬をのんでいるのか」
「週に一回くらいだが」
背中をまるめて、苦しげに呼吸をする。
目を閉じ、もう一度開けた時には、立ち上がろうと、もうひざを曲げていた。
「大丈夫だ」
床の感覚を確かめるように、イリスが立ち上がる。ルカも倣って立ち上がった。
「毒を飲めば、体もガタがくる。そのガタが、この結果だ。だが、これくらいでは死なない。シグリたちは、こんなものよりも、もっと酷い地獄を味わってきた」
そういえば、と。
イリスは血色の悪い顔で、ルカを見下ろした。
「なにか、言っていたか」
「……わからない」
「そうか」
黒い霧。
あやふやな、声。
そして甘い甘い、言葉。
それがあたかも夢であったような。そんな気がするが、イリスの言葉でそれは夢でも何でもないということを、知った。
だから、うそをついた。
(おれは、たぶん――、イリスが。)
(いちばんなんて、そんなことを、そんな馬鹿なことを、おれは願った。)
(それは、本当だ。けど、イリスに、そんなことを言わせるつもりはない。)
(だから、あの声を否定したかった。)
(けど。本当は?)
――あんたの、いちばんになりたい。
「ルカ」
何ごともなかったかのように名を、よばれた。
反射的にあごをあげる。
そして、目を無意識に見開いた。
「ルカ、」
いまだ青白い顔色をした、イリスは。
その薄いくちびるを開いたが、すぐに閉じる。
その代わり頭ひとつぶん低いルカの頭を、片手でイリスの胸におしつけた。
「ルカ」
にじんだような、声。
今まで聞いたことのない、声。
不安定なゆれる声。
何度も、何度も、ルカの名を呼ぶ。
まるで、まるで――。愛しさを、胸のうちにしまい込むように。
(それは、なに。)
何も、言えなかった。
ルカも、イリスも。
あえて言わなかったのかもしれない。
「……すまない」
手が頭から放される。
すう、と。あたたかい体温が、抜けてゆく。
それがとても、かなしかった。
――さみし、かった。
「謝るな」
絞り出されたのは、自分でも思ってもみない――いや。いや、ちがう。
ほんとうは。
好きなのだ、と、あんたのいちばんになりたくて、いちばん、そばにいたくて、いちばん――だいじに、されたい、と。
そう、思ってしまった。
「あや、まるな」
イリスの胸に、今度はルカが頭をおしつけた。
ぎゅう、と、着物を握りしめて。
歯噛みをしながら、血を吐くように、呟く。
「おれは……おれは、あんた、を」
「ルカ」
握りしめて白くなったルカの手を、イリスの手がふれる。
彼のゆび先は、とても冷たかった。かなしいほどに。
「ルカ、聞こえていた」
「……え」
「おまえは、なにかの声を、聴いていたな」
あれは、夢幻だと思いたかったのに。
すべてすべて、イリスがそれをことごとく、壊してしまう。
「おまえは、なにも言わなかったから、ただ、苦しそうにしてたから」
「……ち、がう、おれは、そんなこと、思って」
「そうだな。おまえは、そんなことを思わない」
痛かった。
ただ、苦しくて、痛かった。
(本当のこころを、本当の想いを、吐き出すことが、こんなにも――恐ろしいものなのか。)
「思わないし、言わない。そうだろう。ルカ」
つめたい手が、ルカの手を握りしめる。
その手が、ひとを殺すための手が、やわらかい力でルカをつつんでいる。
そして、その力よりもやわらかく、やさしい声で、そんなことを言う。
「なあ、ルカ」
肩に、額をおしつける。
手を、包み込まれたまま。
ルカは、うなずくことも肯定することばを吐き出すこともできなかった。
思わない。
言わない。
そんなこと。約束なんて、できない。
けれど、イリスはどこまでも残酷で、やさしかった。
思うな、言うな。約束をしろ、などと、言わなかった。
目の奥が、喉の奥が、胸の奥が、痛い。
「イリ、ス」
イリス。イリス。イリス。
壊れた人形のように、名を呼ぶ。
この思いは、一体何なのだろうか。
イリスなら、教えてくれるのだろうか。
口に出せば、教えてくれるのだろうか。
すきだ、と。
あんたが、すきなんだ、と。
そう言うことは、そう思いつづけることは、いけないことなのだろうか。
ケントゥリアが言っていたことを思いだす。
――この王国……カレヴァ王国において、貴方がしてはいけないことなど、何一つないのですから。




