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リュナの王国  作者: イヲ
第四章・燎原の火
37/49

10

 ルカは、この世界のことなど、どうでもいいと思っていた。

 壊されようと、どうでもよかった。

 この声のぬしが、誰だろうとどうでもいい。


 ただ自分は、この声のぬしに、心に埋め込んでいたなにかを掘り起こされたように、おもう。


「……っ」


 イリスが咳き込んだ音を聞いて、深い深い海の底から引きずり出されるような感覚を、ルカを襲った。

 すでに黒い霧はなく、声もなくなっている。


「イリス」


 もう一度血を吐いたイリスは、ぼんやりと――エメラルドのような目を薄く開いて、視線をさまよわせた。


「ルカ、か……」


 喉をごろごろと鳴らしながら、うつぶせに倒れたまま、呟く。

 一回、またたきをすると、イリスが身動きをした。おそらく、立ち上がろうとしたのだろう。


「悪い、が。手を借りたい」


 白すぎる手が、あたりをさ迷わせて、ルカの手を取ろうとした。

 けれどルカは、イリスに手を伸ばしていなかった。

 理由は単純だ。

 彼の白くうつくしく、そして罪深い手を、ルカごときが触れていいのか、と。そう思った。

 そう思ったのは一瞬で、すぐに手をのばし、イリスの身体を支える。


「……どうしたんだ」

「ああ……そういえば、言ってなかったか。まあ、言う必要も、ない、と思っていたが」


 ようやく半身を起こし、くちびるについた血液を乱暴にぬぐう。

 白すぎる手の甲に、血液がこびりついた。その赤と白に、めまいさえおきる。


「シグリに拾われた時から、すこしずつ、この体に毒を流し込んできた。死なない程度に、すこしずつ」

「毒……」

「だから、そこらへんにある毒なら、食事に混ざっていても、飲み物に混ざっていても、死にはしない。だが、毒を中和する薬も、また毒だ」

「薬? あんたは、薬をのんでいるのか」

「週に一回くらいだが」


 背中をまるめて、苦しげに呼吸をする。

 目を閉じ、もう一度開けた時には、立ち上がろうと、もうひざを曲げていた。


「大丈夫だ」


 床の感覚を確かめるように、イリスが立ち上がる。ルカも倣って立ち上がった。


「毒を飲めば、体もガタがくる。そのガタが、この結果だ。だが、これくらいでは死なない。シグリたちは、こんなものよりも、もっと酷い地獄を味わってきた」


 そういえば、と。

 イリスは血色の悪い顔で、ルカを見下ろした。


「なにか、言っていたか」

「……わからない」

「そうか」


 黒い霧。

 あやふやな、声。

 そして甘い甘い、言葉。


 それがあたかも夢であったような。そんな気がするが、イリスの言葉でそれは夢でも何でもないということを、知った。

 だから、うそをついた。


(おれは、たぶん――、イリスが。)

(いちばんなんて、そんなことを、そんな馬鹿なことを、おれは願った。)

(それは、本当だ。けど、イリスに、そんなことを言わせるつもりはない。)

(だから、あの声を否定したかった。)

(けど。本当は?)


 ――あんたの、いちばんになりたい。


「ルカ」


 何ごともなかったかのように名を、よばれた。

 反射的にあごをあげる。

 そして、目を無意識に見開いた。


「ルカ、」


 いまだ青白い顔色をした、イリスは。

 その薄いくちびるを開いたが、すぐに閉じる。

 その代わり頭ひとつぶん低いルカの頭を、片手でイリスの胸におしつけた。


「ルカ」


 にじんだような、声。

 今まで聞いたことのない、声。

 不安定なゆれる声。

 何度も、何度も、ルカの名を呼ぶ。

 まるで、まるで――。(かな)しさを、胸のうちにしまい込むように。


(それは、なに。)


 何も、言えなかった。

 ルカも、イリスも。

 あえて言わなかったのかもしれない。


「……すまない」


 手が頭から放される。

 すう、と。あたたかい体温が、抜けてゆく。

 それがとても、かなしかった。

 ――さみし、かった。


「謝るな」


 絞り出されたのは、自分でも思ってもみない――いや。いや、ちがう。

 ほんとうは。

 好きなのだ、と、あんたのいちばんになりたくて、いちばん、そばにいたくて、いちばん――だいじに、されたい、と。

 そう、思ってしまった。


「あや、まるな」


 イリスの胸に、今度はルカが頭をおしつけた。

 ぎゅう、と、着物を握りしめて。

 歯噛みをしながら、血を吐くように、呟く。


「おれは……おれは、あんた、を」

「ルカ」


 握りしめて白くなったルカの手を、イリスの手がふれる。

 彼のゆび先は、とても冷たかった。かなしいほどに。


「ルカ、聞こえていた」

「……え」

「おまえは、なにかの声を、聴いていたな」


 あれは、夢幻だと思いたかったのに。

 すべてすべて、イリスがそれをことごとく、壊してしまう。


「おまえは、なにも言わなかったから、ただ、苦しそうにしてたから」

「……ち、がう、おれは、そんなこと、思って」

「そうだな。おまえは、そんなことを思わない」


 痛かった。

 ただ、苦しくて、痛かった。


(本当のこころを、本当の想いを、吐き出すことが、こんなにも――恐ろしいものなのか。)


「思わないし、言わない。そうだろう。ルカ」


 つめたい手が、ルカの手を握りしめる。

 その手が、ひとを殺すための手が、やわらかい力でルカをつつんでいる。

 そして、その力よりもやわらかく、やさしい声で、そんなことを言う。


「なあ、ルカ」


 肩に、額をおしつける。

 手を、包み込まれたまま。


 ルカは、うなずくことも肯定することばを吐き出すこともできなかった。

 思わない。

 言わない。

 そんなこと。約束なんて、できない。

 けれど、イリスはどこまでも残酷で、やさしかった。


 思うな、言うな。約束をしろ、などと、言わなかった。


 目の奥が、喉の奥が、胸の奥が、痛い。


「イリ、ス」


 イリス。イリス。イリス。

 壊れた人形のように、名を呼ぶ。


 この思いは、一体何なのだろうか。

 イリスなら、教えてくれるのだろうか。

 口に出せば、教えてくれるのだろうか。


 すきだ、と。

 あんたが、すきなんだ、と。


 そう言うことは、そう思いつづけることは、いけないことなのだろうか。


 ケントゥリアが言っていたことを思いだす。


――この王国……カレヴァ王国において、貴方がしてはいけないことなど、何一つないのですから。

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