9
イリスは、ためらわずに頷いた。
そのほうが、楽だった。
軽々しい否定のほうが、つらかったから。
「それが、命令なら。俺はためらわずにおまえを殺すだろう。おまえがいう……心を、殺して」
「え……」
何ともないように言う。
ルカの身体が、糸が切れた人形のようにベッドにすわりこんだ。
黒い髪が、ぱさり、と鳴った。
「心をもつことは、禁止されている、と。思っている。シグリは、そういう組織だ。いや……心をもつことを禁止する、という掟はない。ないが、ひとを殺していくうちに、心は死んでいく。そうしたほうが、楽だと、そう思うようになる。そして思うことすら、なくなる」
「あんたは、心がある」
「そうだな。おまえが言うのなら、そうなんだろうよ」
イリスの言葉は、どこまでも投げやりだった。
彼の顔を見る。
視線にきづいたのか、イリスもこちらを見た。
「おれは、あんたの、何だ」
思いもよらぬことばが、口から零れ落ちた。
べつに、そんなことを思っていたわけじゃない。
ただ。
ただ、前に――。
いちばんに、なりたい、と。
そう思ってしまったときが、ある。
それがどんな意味なのか、ルカ自身もわからない。
ただ、心のなかのなにかが、零れ落ちたような。
そう、今の言葉のように。
「――そうだな」
イリスは、赤い目から視線を決してそらさずに。
わずかに思考するそぶりを見せた。
「俺にとって、おまえは……なんだろうな。大事な、……いや。大切な――」
視線をそらさずに、言葉を、さぐるように。暗がりから何かを、みつけるように。
「おまえが死ねば、俺は、つらい」
「けど!」
ようやく見つけたその言葉を。
ちいさな子どもが、とっておきの宝物を、親に見せるように。
そんな、イリスの嘘いつわりのない言葉を、さえぎった。
「おれの、願いを……聞いて、ほしい」
「なんだ」
「おれを、殺すのは……あんたであってほしい」
たとえシグリの誰かが、ルカを殺すよう命じられても。
その役目を、イリスに。
「……ああ……」
そうだな、とは。
言わなかった。言ってくれなかった。
ただ、相槌でも何でもない、ため息のような声で。イリスは、ささやいた。
「約束を、してくれないのか」
「おまえは殺されるようなことをしたのか。それとも――ただ、死にたいだけか」
俺は自死を手伝えるほどの、やさしい人間じゃない、と。
イリスは言った。
「そういうのは、神に、祈れ」
「イリス」
「おまえが神を信じようと信じまいと、俺はどっちでもいいが。そういう時のために、願いたい時のために、神ってのはいるんだろ」
「神がいたら、この世界はどうなっていたんだ」
「おかしなことをいうな、おまえは」
ふ、と。
碧眼の目が細められた。
くちびるの端がわずかに上がり、そして、手にしたままだったクロノから借りた複製本の表紙に手を当てる。
「神がいるから、この世界はあるんだ」
「……本気で言っているのか」
「と、女王陛下なら言うだろうよ。だが実際は、長い長い年月をかけて、猿が人間になっただけだ。神がいたら、この世界はどうなってたか、なんて考えたことはない。神がいないから、こんな世界になったんだよ」
ルカは、すこし、安堵した。
神を信じるイリスは、イリスじゃない、などと。
そんな馬鹿げた、イリスに対する信仰心のようなものを押し隠して。
自分の、足を見下ろした。
「ハルユがいう平和な国って、何なんだろうな……」
イリスの、かすれたような声。
この国は、表向きは他の国と比べれば平和だろう。争いが少なく、人びとはおだやかだ。
だが、裏にはシグリがいる。シオンがいる。セハカのような、残虐な人間がいる。
もし。
シオンが壊滅して国民すべてが争わず、おだやかで、幸福を感じる人間しかいなくなったら。
シグリは、どうするのだろう。
「まあ、そんなこと考えても、答えなんてでねぇか」
イリスがベッドから立ち上がり、腰に佩いた剣をベッドの上に置いた。
きしり、と。わずかな音をたてる。
「おれは……ほんとうは、この国のことなんてどうでもいい、のかもしれない」
「まぁ、そうだろうと思っていたが」
「あんたは? あんたは、この国を、どうしたいとおもう?」
「べつに、どうも。なるようにしかならねぇだろ、こういうのは」
シグリに所属する人間は、みんな、こういう考えなのだろうか。
国をよくしたいから、とか。
そんなことを考える人間ばかりではないことは、イリスを見ていれば分かる。
「女王だけが悪いわけでも、民だけが悪いわけでもない。ただ……あの女は、良い悪いの区別が極端なんだ」
呆れたように肩をすくめ、ふっと息をつく。
それから――。
それからイリスはふいに、顔を片手でおおった。
「……イリス?」
体がゆれる。
不安定にゆれて、膝が、折れた。
「イリス!」
ルカの目に、それは焼きつけられた。
イリスが、倒れた姿を。
そして。そし、て。
彼の口もとに、不吉にへばりついた、血液を。
しばらく、その姿を凝視していた。
どうすればいいのか、分からなかった。
「イリス……イリス?」
ルカが床にひざをついて、その背中をゆするが目をつむったまま、微動だにしない。
ゆびさきも。
白いまつ毛も。
青ざめた、喉もとも。
「……イリス」
そっと、白銀の髪の毛に、手を差し入れる。さらり、と。指先から髪がすべりおちた。
今の、イリスは。
恐ろしいほどに清い、と思った。
この、玩具入れのような王国のなかの誰よりも。
いや――この世界の誰よりも、なによりも。
うつくしい、とおもう。
ずっと。
ずっと、見ていたい、と思った。
このまま、ずっと――。
ごとん、と音がした。
イリスを凝視していたルカは、のろのろとその音のほうへ顔を向ける。
彼がいつも持っていた、鍔のない剣がベッドから落ちたのだった。
「……おまえは」
おまえは、いいな。
そう、くちびるから零れる。
「イリスを守れる。イリスの盾にも剣にもなれる。イリスの……すべてだ」
「あなたは、その男をどうしたい?」
ふいに、重たいような、軽いような――そして、男のような、女のような声が降ってきた。
黒い霧のようなものが、じわじわと部屋を侵食してゆく。
ルカはそれを何故か、おそろしいとは思わなかった。
黙っているルカを気にすることもなく、声はふりそそぐ。
「あなたは、どうしたい? この男を、このままにしておきたい? このまま――きれいなままに、しておきたい? それとも、目を覚まさせて」
なぜ、これは、こんなことまで知っているのだろう。
甘い、花の蜜のように甘い声で、ルカの耳朶のそばにくちびるを寄せるようにして、なおも言葉はつづく。
「あなたのことを、好きだ、って。言わせたい?」
ルカの、赤い目の、瞳孔が、ふくらむ。
暗く、黒い場所を見つめる目だ。
イリス、は。だれも、だれも、だれも、好きにならない。
執着しない。
そういうふうに、できている、から。
だから。
すき、なんて、言わない。
「にんげんは、とてもばか」
呆れたようで、それでも何かをいとおしむような声。
「ばかで、おろかで、救いようがない。あなた。死に神の顔をした、あなた。一緒に、このせかいを――壊さない?」




