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朝をつげる鐘の音が鳴りひびく。
イリスの目が開いたのは、鐘が鳴るおおよそ30分前だった。
剣の手入れを終え、窓を見上げる。
朝日が差し込んで、思わず目を伏せた。
「……?」
わずかな、違和感を感じる。
剣を持ち、窓に顔を寄せた。
窓の外。
「……あいつ……」
女王ハルユの弟にして、騎士団団長のイェルド・イレ・カレヴァ。
盲目だが団長まで上り詰めたのは、別段女王の弟だから、というわけではない。
実力でここまでたどり着いたのだ。
それに反発しようとするものは、誰もいない。
実力もさることながら、上に立つものとしての気質もそなわっている。
ひがんでいるわけではないが、イリスは、イェルドが好きではなかった。
なぜか、は分からないが。
男は、だれかを待っているようだった。
その「だれか」に興味はないが、その視線めいたもの。
それがイリスに向かっていることを知ったのは、数秒後だった。
剣を持ち、ルカを起こさぬようにドアを閉じた。
廊下は静かだ。
まだ起きていない客もいるのだろう。
宿から出ると、何人かの騎士が見回りをしている姿が見受けられた。
「やはり、こちらにいましたか」
「……俺に何か用か」
「シオンが出没したと聞きましてね。近くを通ったので巡回しているのです」
「へえ。そりゃ、ご苦労なこった」
「そして、イリス。あなたに、伝言が」
わずかに躊躇っているしぐさをしたあと、「女王からの」と付け加えた。
眉間に思わずしわが寄る。
「……セハカ・ナル・エクロス。このエクロス大陸の、族長。彼の殺害を許可する、と女王が仰っていました。無論、部隊長の許可もとってあります」
「随分急だな。昨日の今日、ってことあんのかよ」
「そうですね。あなたのいうことももっともです。ただ、事はそう単純なものではないとも。女王、そして部隊長が、何かを隠している――。そうもとれますね」
あいまいな言い方は珍しい。
女王ハルユと、シグリ部隊長が何かを隠している、という言葉。
「あんた、そんなことを言っていいのか?」
「あなたを信頼していますので」
「よく言うぜ。……まあ、いい。セハカを殺害する許可が出たなら、それはそれでいい。……だが」
ルカの、実父。
殺してくれ、と、言ったルカが、この話を聞いたらどう思うだろうか、と。
ふいに思う。
虐待されていたのだ、憎しみはあるだろう。
殺したいほどに。
その憎しみが、怒りが、本物ならば。
この宣告は喜ばしい、と思うのだろうか。
それとも――。
「ルカは、どうなる」
「あなたと旅をしている、族長の子息ですか」
「ああ」
「そうですね……。彼がそのことを知っていて、あえて何もしていなかったのだとしたら、何らかの処罰があるのかもしれません」
「……そうか」
「珍しいですね。あなたがひとつのものに固執するなんて」
「さぁな。どうだか」
「まあ、いいでしょう。伝言は以上です。――それでは」
イェルドは軽く頭をさげ、イリスの前から去っていった。
ふ、と。
足元にちいさな白いかたまりが舞い落ちる。
「雪か……」
この降り方だと、おそらくそれほど積もりはしないだろう。
それから空をしばらく見上げたあと、イリスもこの場をはなれた。
「イリス。どこに行っていたんだ?」
「仕事熱心なやつに呼ばれてな」
部屋に戻ると、ルカは起きてベッドの上にすわっていた。
言うべきか。
それとも、
言わざるべきか。
言わずとも、いつかは知れる。
「ルカ」
「?」
「おまえの父親、セハカ・ナル・エクロスの殺害が許可された」
「え……」
「女王ハルユ、シグリ部隊長の名においてな」
赤い目が、ひどく見開かれる。
それから、くちびるを微かに噛んだ。
「そう、か……」
「だが、すぐにというわけではない。まだ、許可が下りたばかりだからな」
「父が……剣を、武器を、持っていなくても、か」
「ああ」
「敵意を向けていなくてもか」
「そうだな」
「……分かった」
なにか、とても苦いものを飲み込むようにルカはうなずく。
何を思っているのか分からない。
シグリが、ハルユが。
セハカ・ナル・エクロスを殺害すると認めたのなら。
男は、命はないだろう。
「狗からは逃げられない」
シグリは――イリスは、言う。
逃げられない、と。
地の果てへでも、地獄の底までも、追って、追って、追って、そして――殺してやる、と。
「……おまえは、本当にそれで、いいんだな」
「いい。死ぬだけでは生ぬるい。残酷な方法で、苦しんで苦しんで――それから死ぬべきだ」
ルカの目が、わずかに揺らぐ。
まるで、おのれの内側に飼いならせていない獣を無理矢理押し込むように。
自分の中にある、知性も理性も何もない、獣。
イリスとて、それを飼っている。
おそらく、人間だれしもが。
飼いならせていない人間は、感情を隠すことが苦手なのだろう、と。
イリスは思う。
「そうか。なら――いい」
それきり、セハカの話はしなかった。
早々に宿の朝食をすませ、イリスとルカは宿を出て、オリアン領内にある、ちいさな村々を見て回った。
みな敬虔な国教徒で貧しくはないが、決して驕ることのない、イリスから見れば嫌味なほどに、ただただ清廉な人間が多かった。
うすく積もった雪をふみしめる。
太陽は出ているが、雪は朝からちらついたままだ。
「なにも出てこない」
ルカが地面を見下ろして、ぼそり、と呟く。
それは無論、あの本の複製本のこと、そして魔術に関して、であろう。
「そんなに簡単に見つかったら苦労はしねぇよ」
対してイリスはこんなことは慣れている、とでもいうかのようだった。
腰に剣を佩いたままのイリスを、村人はどう接したらいいか分からないようだ。
国教徒は争いを好まない。
女王下直属の騎士団や、警邏たち以外の剣を佩いている人間を野蛮だと軽蔑している国教徒も少なくはない。
だが、イリスは俗にいう、「天の御使い」の姿をしている。
だからこそ、混乱しているのだろう。
けれど、他人の視線に動じる程、イリスの精神は軟弱ではなかった。
「………」
反対に、ルカは弓と矢筒は宿屋に置いてきてある。
だが――国教徒に疎まれる、死に神の姿をしていた。
黒髪に赤い目。
男であろうと女であろうと、国教徒に忌み嫌われている。
不吉な姿だ、と後ろ指をさされ、嫌な顔をされ、そして石を投げられることもあった。
もっとも、イリスと歩いていれば、そんなことはなかったが。
村で一番立派な礼拝堂の横に、ちいさく、そして素朴な雰囲気の食堂があった。
太陽はもう上に来ているし、歩き回って腹が減ったので、その食堂に入る。
ちょうど昼時だというのに、あまり客はいないようだ。
「あ……」
か細い、だが芯の強そうな声が、食堂の奥から聞こえてくる。
その声に、憶えがあったのはイリスだった。




