13
「明日には、雪が止むようよ。よかったわね」
食事が終わったころ、ミルナはすこしだけ、笑んだ。
「明日は朝、早めに発つつもりだ。朝飯はいらない」
「……パンくらいは、用意するわ。アイラに言っておく」
「そうか。助かる」
イリスはそれだけ言い、席を立った。
「寝るの」
「ああ。朝早いからな。――世話になった」
「また、どこかで会えるかもしれないわね」
「……そうだな」
それは別れの言葉でもあり、否定の言葉でもあったかもしれない。
もう、会うことはないだろう、という。
「ルカも、元気で」
「ああ。ミルナも」
薄い赤い髪の彼女は、すこしだけほほえんだ。
「一度は、剣を交えてみたいと思ったが」
部屋にもどったとたん、イリスはそう言った。
ぎょっとするルカの表情を見て、「冗談だ」とあいまいに笑った。
「生きるか死ぬかの、戦いにあいつを巻き込むことはしねぇよ」
「冗談なんか言えるのか」
「おまえな、俺を何だと思ってんだ。一応人間だぞ、これでも」
以前、女王の玩具だと自称していたイリスが、自分のことを「人間」だと言ったのを、初めて聞いたような気がする。
「あいつは、強いよ。人間の死というか、尊厳、みたいなものを、理解している。いい教師か、いい両親がいるんだろうな」
「……ミルナに、言ってやればよかったのに」
「俺なんかに言われても嬉しかねぇだろ。あいつの場合」
「嬉しいんじゃないのか。誰からでも、そんなことを言われたら」
「まあ、ふつうの人間ならな」
イリスは自分の剣を持ち上げ、膝に置いた。
また、手入れをするのだろう。
「手入れか」
「ああ。こいつはデリケートなんだ。血払いしても、すぐに錆びつく。だが、手をかければかけた分、俺の期待には応えてくれる」
相棒みたいなもんだ、と。
イリスは笑った。
「信頼しているんだな。剣にも」
「当たり前だ。そうじゃなきゃ、人殺しなんてやってられねぇ。いつ折れるか、いつ刃が零れ落ちるか不安で戦っていれば、命がいくつあっても足りやしない」
ルカは、そうか、とだけしか答えられなかった。
胸に、何か――わけのわからない、すこし重たいものがつかえたような思いになる。
イリスが手入れをしている間、ルカは磨かれてゆく剣をじっと見つめた。
「気になるか。こいつの」
うつくしさが。
視線にとっくに気づいていたイリスは、剣をかかげ、不敵に笑ってみせた。
今まで剣を、うつくしい、と思ったことはない。
けれど。
イリスの扱うその剣は、たしかにうつくしいと思った。
「剣は自らを映す鏡だ、と教わってきた。殺意を研ぎ澄ませれば、剣もおのずと研ぎ澄まされる。手入れを怠るなってことだ」
「だから、あんなに斬れるんだな」
「おまえの指、持ってかれなくてよかったな」
「あ、あれは……」
勝手にイリスの剣を抜いた時のことだ。
あれは単に運がよかっただけなのだと、イリスは言いたいのだろう。
「別に責めちゃいねぇよ。俺はもう寝る。明日は早い。おまえも、早めに寝ろよ」
「わかった」
剣を置き、ベッドにもぐりこんだイリスを見送る。
イリスの「色」は、黒い。
あの男のような、いろんな色を塗りたくった、汚れた黒ではない。
芯から透き通る、不純物のない黒。
一見、色とさえ分からないようなものだった。
あまりにも。
きれい、で。美しくて。イリスが持つ、剣のような。
鋭くて、冷たい。
色に触れることができたら、きっとそれは触れるものすべてを切り裂くような、冷たさだろう。
死んだように眠るイリスの顔を、見下ろす。
本当に眠っているかどうかわからないが、もしかすると気づいているのかもしれない。
けれど、彼はただ目を閉じていた。
きれいだと思った。
お前が普通の子どもだったら、良かった。
お前が妾の子どもだから。
死に神の面をして生まれてきたんだろう。
全く、気味の悪い。
私をその眼で見るな。
母は、気づいたらいなかった。
セハカが殺したらしい。
愛していなかったのだろう。
母も。
ルカ自身も。
ただ。
もしも、母にもう一度会えるのだとしたら。
生んだことを咎めたいという強い思い。
すこし、潮が引いた、気がする。
母に会えたなら、今はこういうと思う。
あんたは、辛かったのか、と。
俺は、辛かった。
鞭で打たれることも、言葉の暴力も。
それでも、殺されずに済んだ。
イリスと、出会えたから。
あんたには、救ってくれる人さえ、いなかったんだな。
哀れだ。
憎んだだろう。
セハカを。
それは、俺も同じだ。
セハカはきっと、あんたと同じ道をたどる。
けれど。
もしも、神さまがいるのなら。
あんたは、天国というところにいっていればいい。
セハカはきっと、地獄にいくだろうから。
目を開ける。
ベッドから起き上がり、窓を見上げた。
空は晴れている。
これ以上ないくらいに。
雲はない。
だから、きっと寒いだろう。
夢を、見ていた気がする。
独白のような、夢を。
「イリス」
「ああ、起きたか」
イリスは既に起きていて、身支度をしていた。
ベッドから抜け出して、自分も着替えることにした。
「晴れたな」
イリスが、独り言のように呟いた。
「オリアン領は、隣なんだったな」
「ああ。だが、一日はかかるはずだ。吹雪が去った後だし、新雪は足元が固まっていないから」
「一日くらいどうということはないか。だが、問題は足元が悪いことだな。シオンの連中に出くわしたら面倒くさい」
「それは向こうも同じだ」
何気なく応えた言葉に、イリスはすこし驚いたようだった。
「まあ、そうだな」
「……行こう」
「ああ」
ルカも身支度を終え、背に矢筒を下げ、弓を持つ。
玄関に向かう途中、黒髪の少女がこちらに気づいたようで、小走りでこちらに向かってきた。
「もう、発たれるのですか」
「ああ。先を急いでいるからな」
「イリス様、ルカ様」
少女の後ろから歩いてきたのは、アイラだった。
手に、ふたつの革袋を持っている。
「こちらをお持ちください。パンと、干し肉です。あと、お嬢様の命を救っていただいた、お礼の品も入っております。クロノ様からです。どうぞ、お持ちくださいね」
「――ああ、もらっておく」
「どうぞ、お気をつけて」
「世話になった」
玄関のドアを開くと、まぶしい程の光が目に入った。




