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助かる、とイリスは言った。
甘い言葉に惑わされる人間じゃないことを、この短期間でルカは知っていた。
だからこそ、驚いたことは、確かだ。
「しかし、どこから来るかも、いつ来るかもわからねぇ連中に、四六時中気をはってんのも、面倒だな」
ぼそりと呟いた言葉に、ルカも賛同する。
確かに、そのとおりだ。
ずっと気を張っているのは、気力も体力も消耗する。
「どうするか……」
イリスはベッドの上に寝転んで、天井を見上げた。
そこに、答えを見出すように。
それから数分たち、イリスは再び体を起こした。
手には、剣。
何かあったのか、という前に、部屋の扉が開いた。
ひどい剣幕のミルナが立っている。
「ノックくらいしたらどうだ」
「そんなことしてるヒマはないわ! こっちに来て! 大変なの!」
彼女はひどく焦って、緊張しているようだった。
手には、おおよそミルナの容貌からはふさわしくない、無骨な剣が握られている。
イリスはベッドから起き上がり、ルカも倣う。
「こっちよ。事情は走りながらするから」
長い廊下を走りながら、ミルナは顔をかすかにゆがめ、悔しそうにくちびるを噛んだ。
「何があった」
「警邏が、殺されたの。いまも、たくさんの警邏たちが戦ってる。それほど、大勢なのよ、相手は」
「それで俺たちに何をしろというんだ」
「現在進行形だからよ。とにかく、人手が足りないの」
イリスは胸中で、深いため息をついた。
その相手とは、十中八九、シオンだろう。
それ以外にこの国にそんな暴れ方をする「複数の」人間は、おそらくいない。
例外があるとすれば――ルカの言っていた、それか。
クロノが言っていた、一人であって、一人でない。それでいて、一人でもある。
そういったものだ。
この屋敷の玄関とはまた違う方角に突き進むミルナの背を追って、ただ走る。
やがて、人ひとり通るのがやっとのような、扉が現れた。
暗く、目をこらさねば見えない扉の取っ手を迷いなく引き、ミルナは外に飛び出した。
「ルカ、おまえはそこで待ってろ。この先は、殺すか殺されるかのどっちかだ」
「だったらおれは、あんたと一緒に行く!」
「駄目だ。おまえの弓は、ヒトを殺すための道具じゃないだろ」
「……それは」
急いで、と言う、ミルナの声が聞こえる。
イリスは黙ってしまったルカを一瞥し、扉の外に足を踏み出した。
うす暗い吹雪のなか警邏と、十数人の男が剣を交えている姿が見える。
中には、血を流し地に伏している警邏もいて、生きていればこの失血量では、時間の問題だろう。
「ミルナ様!」
「ごめん、遅くなった」
剣を鞘から抜き、そのまま鞘を放り投げたミルナは、駆け寄ってきた警邏の後ろにいた男を、その切っ先で牽制する。
「動けば切るわよ。あんたたち、どこの誰」
「………」
男は不気味に笑ったまま、手にしていた剣を振り上げる。
警邏の男と、ミルナを串刺しにする気のようだ。
「……!」
だが、それはなかった。
血しぶきをあげたのは、歪んだ笑みをした男で、そのまま崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなる。
「こいつら、シオンの輩じゃねぇな」
「……イリス! どうして、」
「何故殺したか、なんて言うんじゃねぇだろうな」
ぞっとするような、冷えた声。
ミルナの目が、かすかにふるえた。
「殺さなければ、殺される。情報が欲しいなら、頭だけ残しときゃ、いい。――だが、こいつらは、シオンじゃねぇ」
抜き身の剣をミルナは握りしめたまま、イリスの言葉を最後まで聞かずに戦場へと走りだした。
あの少女の話によれば、ミルナはひとを殺せないという。
だからこそ、強いのだろう。
殺すよりも、生かすほうが、難しいという。
だれかが、そう言っていた。
「イリス!」
名を呼んだのは、ここにはいてはいけないはずの、男。
「ルカ。なぜ来た。ここは」
「あいつだ! こいつら、シオンじゃない!」
「あいつ……? まさか、おまえの言っていた……」
ルカの言葉に、眉をひそめる。
ならば、納得がいく。
シオンでもなければ、この男たちは、「一人ではあるが、一人ではないもの」たちだ。
「けど、あいつじゃない。あいつは、もっと黒く濁っている。こいつらは、ただの――操り人形だ……」
「もとは、ただの人間だったってわけか」
「もう、こいつらは死んでいる。死人がよみがえって、ひとを襲ってるんだ」
だから、ひとごろしではない、と。
ルカはいう。
ルカは矢筒に収めていた矢を取り出し、弓にあてがう。
「死人が生き返るなんてこと、あっちゃいけない」
赤い目を細め、ルカはふるえる手で弓を引く。
相手は、見た目はただの人間だ。
それがおそろしいのかもしれない。
ころすことが。
ひとを。
ひゅん、と、矢が放たれた。
それはまっすぐに、愚直までにまっすぐに、生ける死人の額に矢が突き刺さる。
「――それだけわかれば、是非もねぇ」
獲物を前にしたけもののように、イリスは舌なめずりした。
吹雪のなか、地を蹴ったイリスは、矢のように飛ぶ。
血が。
血が、ほとばしる。
死した生きびとの。
腐った血が。
銀色の刀身をした刃で、清められるように。
イリスは、舞うように剣を振るった。
ルカの目には、たしかに。
たしかに、そう見えた。
血をまったく浴びない、白いままの肌。髪。そして、衣装。
これが、どこかの舞台劇だといわれても、納得するような。
ルカはその光景を弓を握りしめて、ただ、見ていた。




