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リュナの王国  作者: イヲ
第三章・流転する街
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 イリスが眠ったのは、一時間前のことだった。

 ここはルカの家の座敷牢とは違い、窓があり、自由に行き来できるようだった。

 窓の向こう。

 まだ、吹雪いている。

 

 やることといっても、何もない。

 ただ、寝息をたてているイリスを観察するくらいしかない。

 ベッドは横に並べられているが、イリスはこちらに背を向けているので、顔は見えない。

 背中を丸めて眠っているイリスの姿は、後ろから見れば子どものようだった。


 ルカから見れば、イリスは大人だった。

 今の自分のような、子どもにも大人にも見えない、年齢からすれば、そう思わずにはいられなかった。


「――あ」


 ちいさな、ほんの小さな声で、手袋を外した手を見下ろした。

 傷。

 蚯蚓腫れ。

 それがあちらこちらに見られる、あまりきれいとは言えない、手。

 わずかに、血がにじんでいた。

 イリスの剣に触れたところだ。傷口が開いてしまったのだろうか。

 

 イリスが、ベッドの上で身動きをした。

 そのまま、ゆっくりと起き上がる。


「血のにおいがする」


 そう、言って。


「……指の、傷、が」

「ああ……おまえのか」


 だるそうに頭を掻くイリスは、あくびをしながらベッドに座った。

 ぎしり、と、ベッドがきしむ。


「見せてみろ」


 イリスの手が、ルカの指先に触れた。

 白い布は手袋を外した時に、とれてしまっていた。

 血がにじむ指先を見、イリスは腰に下げていた革袋から、小瓶を取り出す。

 それを白い小さな布にしみこませ、指先に押し当てた。

 ぴり、とした痛みを感じる。


「止血剤と消毒薬だ。結構、深かったみたいだな。まあ、そのうち止まる」

「ああ……」


 彼は、手の傷や蚯蚓腫れのことは何も言わなかった。

 分かっているのだから、当たり前なのだろうが。

 眉を寄せることも。

 どうしたのか、と聞くことも。

 なにもしなかった。

 無関心なのだ、と、分かっている。


「……イリス」


 優しいひとだ、と。

 そう言う勇気はない。

 けれど、伝えたいことがあった。


「あんたのことが知りたい」


 そう思ったことがある。

 思えば、彼のことは何も知らない。

 シグリだということ以外、なにも。


 イリスは目を軽く見開いてから、ふと目を伏せた。


「俺のことを知ったって、何の得にもならねぇだろ」

「そういうのじゃ、ない。ひとを知ることに、損得なんて、ないだろ」

「おまえ、変わったことを言うな」


 ベッドに再び座り、軽く上を向くイリスは、なにを考えているのだろう。

 表情がない彼は、感情が全くないということは知っている。

 一回だけ、笑ってくれたことも、ある。


「……そうだな。おまえは信用にたる男だ。話しても、いいかもしれない。ただ、面白くもなんともないぞ」

「それくらいは、分かる」


 それから、イリスは深い深い、記憶の底から何かを探すように、ゆっくりと呼吸をした。

 剣を握っていることが嘘のような、細い指が見える。

 その手で、幾人もの人間を殺してきたのだ、と。

 そう分かっていても、なぜか、恐ろしいとも、憎い、とも。

 思わなかった。

 なぜかは分からない。

 イリスの、天の御使いの姿がそうしているわけではない。

 

「俺は、どこかの、片田舎で、生まれたように思う。はっきりとは覚えていない。自分の名前も、憶えていない」

「イリス、じゃないのか」

「違う。これは部隊長がつけた名だ。シグリに売られたのは俺が5歳の時で、口減らしのために売られた、と、部隊長は言っていたが、本当のことは分からない。今は、25。15年前、俺は初めて人を殺した」


 イリスがまとう空気が、すこしだけ、冷気を発したように感じた。

 気温とは違う、「空気」。


「どうでもいい、と、思った」

「……どう、でも」

「人を殺そうが、自分が殺されようが。人を殺すということは、自分も殺される立場にあるということだ。それだけは、忘れことはない。だが、違う人間もいる。どれほど罪を犯した人間がいたとしても、戦うすべを知らない人間もいた。子ども、女、老人。そんな人間も、俺は殺した。ためらいはなかったよ。なぜ殺す、と聞かれたこともあったが、仕事だからだ、としか答えられなかった」


 ルカは、黙り込んで、イリスの独り言のような言葉にじっと耳を傾けていた。


「最後に殺したのは、キエロの花が咲く、丘にいた、女だった。まだ、十くらいの」


 キエロの花。

 白い、毒のある花。それは、ルカも知っていた。それほど、毒がある花として有名だった。


「そいつは俺の顔を見て、天使さま、と、言った。笑っていた。俺の剣を、見ても」 


 笑って、何も言わなかった。


「殺したあとも、そいつは笑ったままだった。――まあ、即死だったからな。痛みも感じなかったんだろう。死んだことがないから、しらねぇが」


 それから、イリスは口を結んだ。

 まだ、何か隠していることがあるのだろうけれど、ルカは問い詰めなかった。

 問い詰めることなど、できないだろう。


 ルカは、カーペットを見下ろして、かすかに息をした。

 軽い、呼吸。

 意識などしないくらいの。


「あんたは、やさしいひと、だな」

「あ?」


 口をついて出たのは、ずっと、ずっと言わずにいようと思った言葉だった。

 けれど、イリスはやさしいひとなのだ、と。

 そう思わざるを得なかった。

 なぜかは、分からないが。

 ただ――そう思わせる何かが、ある気がした。

 それは、仕事とはいえ、彼がセハカからルカを引き離してくれたから、かもしれない。

 依頼を受けてくれたから、だけなのかもしれない。

 それでも、


「ひとを殺して、後悔も、何の感情も抱かないのが、おまえの言う優しさか」


 碧眼が、鋭くゆがむ。

 怖い、とは思わなかった。

 

「違う。そういう意味じゃない」

「……俺には、ひとを殺す以外、何の特技もない。そんな男を、おまえはやさしいと言うんだな」

「だから、そういう意味じゃない。おれは……ただ、漠然として、あんたはやさしいひとだ、と思っただけだ。ひとを殺そうが、生かそうが、関係ない」


 そう、関係ないのだ。

 なにも。

 ただ、ルカが思ったこと、信じたこと。それが、唯一だというだけで。

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