5
イリスが眠ったのは、一時間前のことだった。
ここはルカの家の座敷牢とは違い、窓があり、自由に行き来できるようだった。
窓の向こう。
まだ、吹雪いている。
やることといっても、何もない。
ただ、寝息をたてているイリスを観察するくらいしかない。
ベッドは横に並べられているが、イリスはこちらに背を向けているので、顔は見えない。
背中を丸めて眠っているイリスの姿は、後ろから見れば子どものようだった。
ルカから見れば、イリスは大人だった。
今の自分のような、子どもにも大人にも見えない、年齢からすれば、そう思わずにはいられなかった。
「――あ」
ちいさな、ほんの小さな声で、手袋を外した手を見下ろした。
傷。
蚯蚓腫れ。
それがあちらこちらに見られる、あまりきれいとは言えない、手。
わずかに、血がにじんでいた。
イリスの剣に触れたところだ。傷口が開いてしまったのだろうか。
イリスが、ベッドの上で身動きをした。
そのまま、ゆっくりと起き上がる。
「血のにおいがする」
そう、言って。
「……指の、傷、が」
「ああ……おまえのか」
だるそうに頭を掻くイリスは、あくびをしながらベッドに座った。
ぎしり、と、ベッドがきしむ。
「見せてみろ」
イリスの手が、ルカの指先に触れた。
白い布は手袋を外した時に、とれてしまっていた。
血がにじむ指先を見、イリスは腰に下げていた革袋から、小瓶を取り出す。
それを白い小さな布にしみこませ、指先に押し当てた。
ぴり、とした痛みを感じる。
「止血剤と消毒薬だ。結構、深かったみたいだな。まあ、そのうち止まる」
「ああ……」
彼は、手の傷や蚯蚓腫れのことは何も言わなかった。
分かっているのだから、当たり前なのだろうが。
眉を寄せることも。
どうしたのか、と聞くことも。
なにもしなかった。
無関心なのだ、と、分かっている。
「……イリス」
優しいひとだ、と。
そう言う勇気はない。
けれど、伝えたいことがあった。
「あんたのことが知りたい」
そう思ったことがある。
思えば、彼のことは何も知らない。
シグリだということ以外、なにも。
イリスは目を軽く見開いてから、ふと目を伏せた。
「俺のことを知ったって、何の得にもならねぇだろ」
「そういうのじゃ、ない。ひとを知ることに、損得なんて、ないだろ」
「おまえ、変わったことを言うな」
ベッドに再び座り、軽く上を向くイリスは、なにを考えているのだろう。
表情がない彼は、感情が全くないということは知っている。
一回だけ、笑ってくれたことも、ある。
「……そうだな。おまえは信用にたる男だ。話しても、いいかもしれない。ただ、面白くもなんともないぞ」
「それくらいは、分かる」
それから、イリスは深い深い、記憶の底から何かを探すように、ゆっくりと呼吸をした。
剣を握っていることが嘘のような、細い指が見える。
その手で、幾人もの人間を殺してきたのだ、と。
そう分かっていても、なぜか、恐ろしいとも、憎い、とも。
思わなかった。
なぜかは分からない。
イリスの、天の御使いの姿がそうしているわけではない。
「俺は、どこかの、片田舎で、生まれたように思う。はっきりとは覚えていない。自分の名前も、憶えていない」
「イリス、じゃないのか」
「違う。これは部隊長がつけた名だ。シグリに売られたのは俺が5歳の時で、口減らしのために売られた、と、部隊長は言っていたが、本当のことは分からない。今は、25。15年前、俺は初めて人を殺した」
イリスがまとう空気が、すこしだけ、冷気を発したように感じた。
気温とは違う、「空気」。
「どうでもいい、と、思った」
「……どう、でも」
「人を殺そうが、自分が殺されようが。人を殺すということは、自分も殺される立場にあるということだ。それだけは、忘れことはない。だが、違う人間もいる。どれほど罪を犯した人間がいたとしても、戦うすべを知らない人間もいた。子ども、女、老人。そんな人間も、俺は殺した。ためらいはなかったよ。なぜ殺す、と聞かれたこともあったが、仕事だからだ、としか答えられなかった」
ルカは、黙り込んで、イリスの独り言のような言葉にじっと耳を傾けていた。
「最後に殺したのは、キエロの花が咲く、丘にいた、女だった。まだ、十くらいの」
キエロの花。
白い、毒のある花。それは、ルカも知っていた。それほど、毒がある花として有名だった。
「そいつは俺の顔を見て、天使さま、と、言った。笑っていた。俺の剣を、見ても」
笑って、何も言わなかった。
「殺したあとも、そいつは笑ったままだった。――まあ、即死だったからな。痛みも感じなかったんだろう。死んだことがないから、しらねぇが」
それから、イリスは口を結んだ。
まだ、何か隠していることがあるのだろうけれど、ルカは問い詰めなかった。
問い詰めることなど、できないだろう。
ルカは、カーペットを見下ろして、かすかに息をした。
軽い、呼吸。
意識などしないくらいの。
「あんたは、やさしいひと、だな」
「あ?」
口をついて出たのは、ずっと、ずっと言わずにいようと思った言葉だった。
けれど、イリスはやさしいひとなのだ、と。
そう思わざるを得なかった。
なぜかは、分からないが。
ただ――そう思わせる何かが、ある気がした。
それは、仕事とはいえ、彼がセハカからルカを引き離してくれたから、かもしれない。
依頼を受けてくれたから、だけなのかもしれない。
それでも、
「ひとを殺して、後悔も、何の感情も抱かないのが、おまえの言う優しさか」
碧眼が、鋭くゆがむ。
怖い、とは思わなかった。
「違う。そういう意味じゃない」
「……俺には、ひとを殺す以外、何の特技もない。そんな男を、おまえはやさしいと言うんだな」
「だから、そういう意味じゃない。おれは……ただ、漠然として、あんたはやさしいひとだ、と思っただけだ。ひとを殺そうが、生かそうが、関係ない」
そう、関係ないのだ。
なにも。
ただ、ルカが思ったこと、信じたこと。それが、唯一だというだけで。




