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ミルナが案内した先は、クロノの屋敷とはいかないまでも、かなり大きな家だった。
極度に曲がった屋根は、ルカの家と同じだ。
雪が勝手に落ちるようになっているのだろう。
「ここよ。さあ、入って」
玄関のドアを開け、なかに入ると、やはり暖かかった。
暖炉がまだ見当たらないというのに。
「お嬢様、お帰りなさいませ。ああ、この方々が……」
出迎えたのは、年齢を重ねた老女だった。老女といっても、背筋はまっすぐに伸び、白髪をきつく後ろで結っている。眼鏡の奥の目は年老いているとは思えないほどの、理知的な目をしていた。
「ただいま。紹介するわ。彼女はアイラ。この家の手伝いをしてくれてるの。お手伝いのひとはほかにもいるけど、アイラが仕切ってる」
「よろしく。おれはルカ。こっちがイリス」
「世話になる」
「ええ、ええ。こんなお若いかたたちがお客様なんて、わたし、嬉しいわ」
「気を付けて。アイラ。特にイリスは野蛮だから」
「ああ?」
「じゃあ、あとはよろしくね、アイラ。私、これからまた警邏の見回り行かなくちゃ」
「かしこまりました。お嬢様。さあ、こちらへどうぞ。外、寒かったでしょう」
やさしく微笑むアイラは、黒い、くるぶしまでのワンピースを着て、白いエプロンをつけていた。
ルカは、ああ、ヤナのようだ、と、年齢はだいぶ違うが、雰囲気が似ているせいで思う。
――感傷にひたるのは、今じゃない、と。
そして、それは必要のないことなのだ、と。
分かっているのに、考えることがやめられない。
足は勝手に動く。
清潔そうな薄い水色のカーペットの上を歩いて、アイラが立ち止まるまで、ヤナの顔が頭にこびりついてはなれなかった。
「こちらが、お部屋になります。申し訳ございません。客間が一つしか空いておらず」
「問題ない」
イリスが答え、ドアノブをひねる。
なにかを確かめるような手の動きだった。
ルカの家の、座敷牢があったせいで、慎重になっているのだろう。
「では、お食事ができましたら、またお呼びいたしますね。それまでごゆっくり」
「ああ、すまない」
アイラは深く頭をさげてから、長い廊下を戻っていった。
「……至れり尽くせりだな」
「どうせあの領主から依頼されたんだろ。そうじゃなけりゃ、こんな待遇はありえない」
表情ひとつ変えず、ベッドサイドに剣をたてるイリスの言葉に、ふと違和感を感じる。
もしかすると。
もしかすると、この男は。
人を、信じていないのかもしれない。
人のこころを、世界を。
大げさかもしれないが、今の言葉でそう確信した。
「? どうかしたか。ルカ」
「いや、……別に」
イリスは力尽きたように、ベッドの上に座りこんだ。
頭と肩を下げ、なにかに懺悔しているような格好だった。
顔は見えないから分からないが、おそらく、瞳を閉じているのだろう。
「……イリス?」
あまりにも静かで、動かないイリスが心配になってそっと名前を呼んだ。
「――ああ」
「どうかしたのか?」
「少し、疲れた。寝る」
慣れない土地で、知らず知らずのうちに疲れが限界に来ていたのだろう。
ルカも疲れたのだ、イリスは相当疲れているはずだ。
イリスは靴を脱ぎ、そのままベッドの上に横になる。
それからすぐに、寝息が聞こえてきた。
亡者の夢を見る。
なぜ殺したのかと。
ただ、自分は、自分に正直に生きてきただけだというのに。
イリスは、それには答えない。
答えられない。
なぜなら、イリスは亡者ではないからだ。
死人に口なし。
亡者が本当にそんなことを思っているのかさえ、分からない。
興味も、ない。
けれど、おそらくこれはイリスが無意識に思っているものなのかもしれない。
黒ずんだ手が、イリスの心臓に、脳に、伸びる。
その手がふれたとき、イリスは死ぬ。
何故だろうか、ずっとそう思っていた。
初めて人を殺したのは、シグリに入って一年後の、16歳の時だった。
その時も、今と同じ。
恐ろしくなどなかったし、嫌悪さえもなかった。
ただ、むなしいと、そう思った。
人の命は、こんなにも簡単に手のひらから零れ落ちるのだ、と。
赤い血が、靴と剣ををぬらした。
返り血をあびたイリスを、部隊長は「まだまだだな」と言った。
返り血をあびるということは、まだ剣の太刀筋に迷いがあるからだ、とも。
迷いとは
何なのだろう。
分からなかった。
知ろうともしなかった。
ただ、むなしかった。
知らず知らず、剣は迷いさえ忘れ、ただ――その腕は磨かれていった。
返り血を浴びずに殺す方法も。
靴を血で濡らさずに殺す方法も。
すべて。
すべて。
むなしさが教えた。
けれど、もう。
すでに、そのむなしささえ、消えた。
女王の玩具だ。
人殺しの機械だ。
それでいい。
感情などいらない。
もし。
もしも、イリスに感情らしい感情があったなら。
感情に押しつぶされていただろう。
自死を選び、楽になっていたかもしれない。
あるいは、逃げていたかもしれない。
シグリから。
そして、反逆者として、殺されることに怯えながら逃げ続ける人生を送るかもしれない。
今は、もうどうでもいい。
どうでも。
何人殺そうが、構わない。
ただ、ひとつ。
今は、ただひとつの命を守れれば。
ルカという、少年とも青年ともつかない、男。
信用たる、男だ。
女王にエクロスに向かえと勅令がおりたのは、あるいは――幸運だったのかもしれない。
もし、ルカが死んだら。
守れずに、死んだら。
もしかすると――後悔、するかもしれない。




