2
中には長細い机が置かれていた。そして、背もたれが長めの椅子もある。
上座にクロノが座り、下にイリスとルカが座った。
「話とはなんだね? まあ――だいたい分かってはいるがな」
「クロノ領主、どこまで知ってるんです」
「ああ、おまえの父親のことと、おまえが探している、男のことだ」
「そこまで……」
クロノは重たげに頷くと、ゆっくりと話し始めた。
「あの男は名前がない。名のない男は、一人ではないのだ。いや、一人ではあるが、一人というわけではない。その意味というのが――ルカ。おまえの目でみた結果だ。もやがかかって見ることができなかっただろう」
「……はい」
「あの男は、この国を亡ぼす力を持っている」
「まさか、その力ってのは――魔術――」
深い、ため息をついたのはクロノだった。
しわのある目のあたりを指でさすり、痛ましいものを見るように、イリスに視線をむけた。
「その単語を使うことを許されるのは、王族に連なるものだけのはずだが?」
「シグリも許されている」
「そうか。まあ、いい――」
「まて、魔術って、なんだ?」
「世界を亡ぼすとも、救うともいわれる、人知の及ばぬ力だ。剣術とも、弓術とも違う。基が必要ない。だから恐れられ、封印されたんだよ、遠い昔、神話の時代にな」
そんなものが、とルカがつぶやく。
知らなかった。
知らない、世界だ。
神話の。
神話の世界、とは。
それさえ分からない。
「言っておくが、おとぎ話なんかじゃねえぞ。だが、信じる信じないかは自由だがな」
「信じないなんて言っていない。むしろ、納得がいく。あんな人間、見たことなかったから」
「いいか、ルカ。領主の名において命ずる。そのことばは言ってはいけない。このカレヴァ王国の国民に、その存在を知らされるわけにはいかぬのだ」
「――はい」
頷くルカを、クロノはその黒い目でしっかりと見届けた。
その真摯な姿に安堵したのか、彼はそっと笑んだ。
「おまえのような聡明で勇気ある少年には、無用の長物だ」
「おれは、そんな人間じゃ、ありません」
うつむくルカの肩を、クロノの大きな手で触れる。
見知らぬ、体温だった。
「おまえがどんな人間かは、おまえと、そして周りの人間が決めるものだ。おまえがたとえそう思っていても、私はそう思っている」
「………」
「領主。その男がどこにいるのか、知っているのか」
「いや……。言ったとおり、あの男は、底知れぬ力を持っている。だからこそ、隠れるのもうまいのだろう。私も、顔を見たわけではないからな。だが――そうだな、おまえたちなら信頼できる。少し待て」
クロノは椅子を引き、部屋から出ていった。
暖炉の。
暖炉の音だけが、ルカの耳をうがつ。
ぱち、ぱち、という、不安定な音。
イリスはなにも言わない。
ただ、ぼんやりと暖炉の火を見つめている。
「イリス、――……っていうのは、そんなに、危険なものなのか」
「ああ……まあな。俺は興味ないが。おとぎ話としてなら、国民も知っているが、それが本物なんて思う馬鹿なやつはいねぇだろうな。あまりにも、夢物語すぎる。血のにじむ努力も何も必要なく、ただそれを描き、謡うだけだ。たったそれだけで、国は崩壊する。亡びる。だから、王族にしか伝わっていないんだよ、その文字も、歌も」
律儀に「魔術」という言葉を使わないルカに、イリスは目を細めて、わずかに笑ってみせた。
彼の笑みらしい笑みは、初めて見たかもしれない、と思う。
「あんた、笑えるんだな」
思わず、口に出す。
口に出してから、しまった、と思うが、イリスは怒ることはなかった。
「仕事中はあまり笑わないようにしている。――まあ、不自然じゃない位に、だがな」
「そうか……。嫌じゃ、ないのか。感情まで仕事に支配されるのは」
「別に、そんなことを思ったことはない。部隊長に、そう教わってきただけだ」
彼は、長く細い指を机の上で組み、ふっと息をついた。
まるで、なにかを振り払うように。
「いや、そうじゃないな。そういうわけじゃ、ない」
「……?」
「今まで悪かったな」
「なにがだ」
「あまり、おまえと話さないようにしていた」
「わざとだったのか」
「ああ、そうだ。どこかで、おまえのことを信用していなかったのかもしれない」
見極めていたのだ、と。
イリスは言った。
勝手な言い分ですまない、とも。
イリスへの見方が百八十度、変わった気がする。
ほんとうは、ということ。
ほんとうは、やさしい男なのではないか、と。
「だが、おまえは違った。信用にたる男だ」
「……おれが」
「悪かった」
ルカの言葉を遮るように、イリスは続けた。
イリスは。
イリスは、真摯だった。
「謝るようなことは、ない」
「――そうか」
わずかな沈黙。
それを破ったのは、クロノの声だった。
扉を開けた彼は、手に、古い本を持っている。
「これを、持っていくといい。なにかの手がかりになるはずだ」
「これは?」
「本の複製品だ。これ自体には何の効力もない。文字も、言葉もでたらめだ。だが、だからこそ――これを持っていれば、あるいは男から接触があるかもしれん」
イリスに渡された本を手に取り、頁をめくる。
紙には埋め尽くされた無意味な文字の羅列と、時折読めない文字がいくつかあった。
おそらくだが、本当に意味などないのだろう。
ただ、真似をしようとしただけで。
「これは借りておく」
「ああ。だが、くれぐれも扱いには気を付けてくれ。他の人間には見せぬように」




