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宿のなかは、あまりにも静かだった。
当たり前だろう、だれも泊まる人間などいないのだから。
イリスは、血糊さえ宿の主人に見つからせずに、部屋にこもった。
部屋には、ルカもいたが言葉を発することはなかった。
「……風呂に入ってくる」
「わかった」
独りごとのように呟いたイリスは、併設されている風呂場に入って行った。
窓を見る。
そこには、情けない自分の顔が浮かんでいた。
ふいと顔をそむけ、壁にたてかけてあったイリスの剣を見つめる。
血はすでにぬぐわれている白銀の柄と黒檀の鞘が、ルカの目に入った。
この剣で、幾人もの人間を殺してきたのだろう。
しばらくの間、じっとその剣を見ていたルカは立ち上がり、その剣の柄に手を触れた。
硬質的なそれは、重たかった。
そして、冷たい。
「………」
そっと、剣の鞘を抜く。
ほんのわずかだ。
ルカの顔がうつるほどによく磨かれている剣の刀身は、まるで汚れを知らない無垢な存在のように感じた。
「何をしている」
「っ!」
イリスの声に驚いたルカは、その剣で指を切った。
わずかな痛みが脳を刺す。
上半身に何も身に着けていないイリスは、髪の毛を乾かさないまま、水滴を絨毯に湿らせてこちらに歩いてきた。
かすかな怒りを覚えているようだった。
ルカの手のなかにあった剣を乱暴に取り上げ、ルカの指からしたたる血を見下ろす。
「ったく。手、出せ」
「……すまない」
ほつ、と、ルカの手にイリスの髪の毛から落ちる水滴が落ちた。
イリスは傷の具合を見ると、自身の革袋から白い、清潔そうな布を取り出す。
それをルカの指に、丁寧に巻いていく。
「謝るくらいなら、触るな。鞘から抜くということは、抜いた人間か、対峙した人間か、どちらかが死ぬ時だ」
「極端だ」
「そのくらいでちょうどいい。俺はそういうふうに育てられてきた」
「……あんたの、」
あんたのことが知りたい。
ルカは、そのことばをぐっと飲みこんだ。
おそらく、聞いたとて応えてはくれないだろうから。
近くで見るイリスの身体は、あちこちに傷があった。
どれだけの死線をくぐってきたのだろうか。
ふと、碧眼と目が合う。
「なんだ」
「い――いや、何でもない」
「俺は人間じゃない」
ふ、と。
イリスは呟いた。
白いまつ毛を伏せて、けれど哀愁などどこにもない表情で。
「そう、思わなければならない。シグリは。人殺しの機械だ、と」
「……あんたが?」
「女王の狗じゃない。女王の――玩具だ」
甘い甘い夢を見る、女王の。
イリスはそれだけ呟くと、服を着た。
この部屋は暖炉があるから、寒くはなかっただろうが。
「女王に、おれは救われた」
「そうか。そういう人間もいるかもしれない」
「けど、世界は何も変わらなかった」
「女王に、そんな力はない」
きっぱりと、イリスは言った。
ベッドに座り、ぎし、とスプリングが鳴く。
「寝ろ。明日は早い」
「………」
イリスはそのままベッドにもぐりこみ、寝息をたてた。
彼が。
イリスが、もしもルカのもとにこなかったなら、ルカはいずれ、殺されていたかもしれない。
実の父に。
否、と。
そう思う。
あれは悪魔だ。
幻想小説のなかに出てくる、悪魔にちかい。
罪もない人間を、何人も、何人も。
思わず、息を止める。
イリスは――。
剣も戦うためのすべも知らない人間を、もしかすると殺してきたのかもしれない。
だが、そこに罪はあった。
あったのだ。
女子供も容赦なく、その剣を振るったのだろう。
セハカとは違う。
違うのだ、と。
半ば強引に言い聞かせ、ベッドのなかに入った。
照明を消し、やがて暖炉の火も消えた。
月が出ていた。
雪に反射して、明るく輝いている。
眠るための明かりは、それだけで十分だった。
ただ、指先の痛みだけが眠りを妨げる。
けれど一日歩いた疲れが勝り、やがてルカも眠った。
悪魔の子ども。
それがルカであった。
それでも、人は見た目で判断する。
セハカは黒髪であったとしても、赤目をしていなかった。
ルカこそが、死に神であり――悪魔なのだと、そう恐れられ、そして指をさされた。
嘲笑。
嫌なものを見たように眉を寄せる表情。
どれだけのものを、ルカは見てきたのだろう。
だが、イリスは違った。
その天の御使いのその眼に。
嫌悪は見られなかった。
ただ、静かに、じっと見つめていた。
そして、「おまえがセヴェリ・ルカ・エクロスか」と尋ねた。
警戒していた訪問者に、ルカはわずかに驚いた。
自ら天の御使いの格好をしているにもかかわらず、死に神の格好をしたルカを嘲笑うことはなかった。
ただ、言われたから来た、と。
それだけなのだろう。
昨日、初めて会ったときも、そして、今も。
そう思うと、なぜか苦しかった。
雪も降らず、
ただ静かな、耳に残るほどの静寂には飽くことはなかった。
そこに、何かがあるかもしれない、と、そう恥ずかしげもなく信じている。
動物だとか、そういったものではなく、絶望だとか、曖昧なものだった。
動物は見える。
けれど、心は見えない。
その、違い。
たったそれだけのことととるか、否か。
ルカには分からなかった。
けど、死ねば見えないものになる。
肉体は焼かれ、骨もいずれは土に還る。
そして、誰かの記憶からも消える。
それでいいと思った。
死んでしまいたいと思ったことは少なからずあったけれど、見えないものになるのは嫌だと思った。




