8
家を出て、おおよそ一日がたった。
ネア領につくのは、おそらく明日の昼過ぎになるだろう。
暗くなるのが早いエクロス大陸は、早々に宿をとらなければならない。
あたりは暗く、遠くにぽつぽつと灯りがついているだけで、周りには何があるのか分からない。
だが、夜目の利くイリスが先頭に立って歩いているため、危険はない。
闇にまぎれてシオンが襲ってくる場合もあるとして、ルカを先頭にすることを、イリスが渋ったためだ。
「あと30分ほどでつくはずだ。このまま、何事もなければな」
「……何事もなければ?」
「言っただろう。シオンの連中はまだあきらめていない。あいつらは、しつこいからな。地の果てまでも追ってくる」
イリスはおもむろに立ち止まり、剣を鞘から抜いた。
抜刀、したのだ。
「どけ」
イリスの手がルカの腕を引く。
それは、一瞬のことだった。
暗闇にまぎれていた人間がいたことなど、気づかなかった。
気配すら、しなかった。
「イリス!」
イリスはルカに背中を向けたまま、剣を相手に向けている。
ようやく、夜目が効くようになったルカは、その相手を見据えた。
見知らぬ顔。
誰かもわからない相手に、狙われている。
それが、どうしようもなく悔しい。
「黙っていろ」
「お前か。汽車の中にいたシオンを殺したのは」
「ああ、そうだが」
「そうか。ならば、相当な手練れとみる」
見知らぬ顔をした男2人は、剣の切っ先をイリスに向けたまま、にい、と笑った。
かたき討ち、とは違うようだった。
そもそもが、戦うことを目的としているような。
「お前たちは何が目的だ?」
「つまらないことを言う。シオンと名乗っている以上、人間を殺す以外、あるまい」
「言い返すようだが、それもまた、つまらない答えだな。シオンども。俺は何故、ルカを狙うのかと聞いている」
「ただのしりぬぐいだ、あの女の」
「シオンの面汚しだよ、あいつは。さっさとそいつを殺せばいいものを。ずるずる引きづりやがって。情でもわいていたわけでもねぇのに、金が欲しかったんだろうよ、そいつの親父殿からな」
ちら、とイリスはルカの顔を見下ろした。
いつものイリスの行動を知るものであれば、それは驚きを隠せなかっただろう。
ルカはその赤い瞳をきつく細めて、嫌悪感をあらわにしていた。
「おれは……殺されるために生きているんじゃない……」
「誰だってそうだ。だが、それは本人の意思とは関係ない。人の命を値踏み、比べ、そしてそれは下る」
ぼそり、と呟いたのはイリスだった。
女王の意思のことを言っているのだろう、とルカはぼんやりと思った。
「無駄口はここまでにしようじゃねぇか、ああ? 女王の狗がよお!」
二人の男は、イリスを囲むように素早く動き、剣を今まさに貫かんとした。
だが、それは成らなかった。
片手に鍔のない剣、そしてもう一方の手には短刀が握られている。
ぎち、ぎち、と、耳をふさぎたくなるような、鉄と鉄がこすれる音が聞こえた。
イリスは二刀流というわけではない。
ただ、必要に迫られたのみであった。
ルカは動けずにいた。
ただ、この命のやりとりを見ていることしかできなかった。
男二人の表情は歪んでいる。ルカの呪いの瞳にそれは入ってきた。
この二人がどれほどの命を奪ってきたのか、それは「悪」と瞳は判断した。
悪ものだと、簡単に口に出せるほどの。
だが、イリスは。
イリスの白い髪に、碧眼の姿。
天の御使いと呼ばれる、それ。
後ろからでもわかる。
イリスは、笑っていた。
いや、嘲笑っている、といったほうが正しいのかもしれない。
命を。
生命を。
おおくの人びとが、それは「大切なもの」だと言い放つ、そのものを。
それを、その思いを、処断する。
それがイリスたち、シグリなのだ、と。
イリスは祝福された瞳の色を濁らせるように細め、力ずくで二人の剣を薙ぎ払った。
だが、剣はその手から離れない。
二人はイリスに向き直り、剣を向き直した。
そして息をつく暇もなく、今度はイリスの首を狙い、剣を振るった。
ルカは、一瞬息が止まったことに気づく。
イリスが強い力で突き飛ばしたのだ。
邪魔だと判断したのだろう。
手には皮のグローブがつけられてはいたが、深い雪の冷たさはあった。
ちかりちかりと、鉄のこすれあいによる火花が散る。
二人と一人。
はたから見れば、勝敗はあきらかだった。
だが、――押されている。シオンの二人が。
イリスの剣は不確かなふうに動く。
一定のリズムをつけない、まるで独学で学んだような剣術。
奇妙なそれは、相対する人間を圧倒する。
「知らない」のだ。
そんな剣の振り方も、凪ぎ方も。
だから、対処のしようがない。
「ぐ……っ」
ルカがいる場所に、血しぶきが飛ぶ。
暗闇のなかでもわかる、命のほころび。
「ひ――ッ!!」
喉がひきつる音が聞こえる。
それはルカでもイリスでもなく、一人の、男の声。
相対していた、一人の声だった。
崩れ落ちた。
血しぶきをまき散らせながら。
イリスは、もう一人の獲物を仕留めるために、剣の柄を強く握りしめた。
死んだ一人の男を見て動揺したのか、男は一歩、足を後ろに下げた。
それは、死への歩みだった。
足元には、腐った木の塊があった。
後ろに倒れこんだ男へ、イリスの剣は心の臓を正確に貫いた。
それだけ、だった。
「……はぁ……はぁ……」
耳が痛むほどの静寂のなか、イリスが大きく呼吸をしている。
肩が上下し、やがてそれも静まった。
「イリ……ス」
「……行くぞ。夜が深くなる」
剣を鞘におさめ、イリスはルカに背中をむけて呟いた。




