6
ヤナはもう、食事を作って奥の部屋に閉じこもっているようだった。
かといって、食事が冷めてしまっているわけでもない。
できたてというわけでもないが。
「挨拶する人間はいないのか?」
「別に……いない」
「そうか。なら、いいが」
イリスの言い回しに、わずかな違和感を感じた。
顔をあげると、彼は何も気づいていないように、オートミールを咀嚼している。
「なんだ」
イリスは視線に気づいていたのか、オートミールを飲み込んでから、ルカと目を合わせた。
「なにも、無事に帰ることができるとは思っていないだろう。戦うのは俺だが、絶対無事ということはない。俺が死んで、おまえも死ぬかもしれない。それだけ覚悟しておけ」
「……分かっている」
「ならいい」
「むこう」とて、そう易々と殺されるわけではない。
あの禍々しい男は強い、弱い、そういったものは感じられなかった。
逆に、感じられないからこそ恐ろしかったのだ。
「……イリス?」
ふいにスプーンを置いたイリスは、眉をひそめて、腰に下げている剣の柄に手をあてる。
そして、がた、と音がした直後、イリスは椅子を蹴り、立ち上がった。
「ルカ。おまえ、昨日の夜言っていたな。セハカ殿がシオンの誰かと話していたと」
早口で言うそのことばに、ルカはただ頷くしかなかった。
「その誰かは誰だ? 女か。それとも男か」
「女だった」
「そうか」
短く言い切ると、イリスは椅子に座ったままのルカの前に立ち――その位置は、ちょうど扉の横だった――扉を、あろうことか蹴破った。
がたん、という大きな音がして、ルカは思わず椅子から立ち上がり、そこから足を引く。
それから――何かが、飛んできた。
小さな、肉眼では追いきれない何か。
イリスの剣がそれの軌道をそらさなかったなら、ルカの頭を貫いていただろう。
「……やっぱりあんたか」
イリスの切っ先は、ヤナに向けられていた。
そして、彼女の手には、見慣れぬ黒い鉄の塊のようなものが握られている。
「おかしいと思ってたんだよ。あんたの態度が」
ヤナの顔は真っ青になっており、頬がわずかに削げ落ちているようにも見えた。
「いつ……気づいたの」
「決定的だったのは、今だな」
「……私を、殺すの?」
「返答による。なぜ、ルカを狙った」
「シオンから通達があっただけよ。だいぶ前にね。シグリがやってくると聞いたのは、おとといだったからだいぶ焦ったわ。ここを出る前にそいつを殺さなくちゃいけなかった」
鉄の塊のようなものをこちらに向けたまま、ヤナは凶悪な笑みをうかべた。
「そうか。分かった」
「がッ!!」
ヤナの指が動く前にイリスは剣を翻させ、彼女の顎に思い切り柄で殴った。
短い悲鳴をあげたヤナは、床に倒れてそのまま動く気配はない。
「殺したのか?」
「顎を殴っただけで死ねるかよ。気絶してるだけだ」
「………」
「イリス殿、ルカ、何の音だ?」
セハカが部屋から出てくると、ひきつったような顔をした。
先刻のヤナのように、顔色が青白い。
「何のつもりだ、イリス殿。ヤナに何をした?」
「すこし気絶させただけだ。この武器……見たことがあるか? セハカ殿」
「……ない」
「そうか。ならいい。じき、シグリから通達がくる。夜のうちに伝書鳥を飛ばしたからな。まあ、間に合わないだろうが……」
「何のことだ?」
「俺もただでこの家を出るわけじゃないってことだ。昼には家を出る。あんたの息子を借りるぞ」
「ただで……まさか、あの部屋を」
「軟な座敷牢だったな。まあ、それはどうでもいいことだ。手紙には書いていない。だが――あんたに聞きたいことがあるようだな、シグリは」
それは暗に、「自分が」といっているふうだった。
セハカの表情が凍る。
その表情で、すべてを物語っていた。
「もう隠せない」と。だが、ここには、警邏が大勢いる。シグリがくるとしても、1人やそこらだろう。
シグリは先鋭部隊だ。そうそう、人は割けないはず。
セハカは僅かな希望にすがるしかなかった。
「……ルカ、お前、シグリを手懐けるとはな」
「……っ」
イリスには聞こえないとでも思ったのだろうか、小声でぼそりとルカの耳元でつぶやいたが、無論イリスにも聞こえていた。
「手懐けられたつもりはないが――セハカ殿。あんたのことをよく調べさせてもらうぜ。言っておくが、これはシグリの意思だ。ルカの意思じゃない」
「……好きにしたらいい」
セハカは気を失っているヤナをそのままに、自室に戻って行った。
関係あると勘ぐられるのがいやなのだろう。
「ヤナは……どうするんだ」
「もうじき目を覚ますだろ。その前にシグリがくるかどうかは分からねぇが。まあ、どっちにしろこの女はもう、行き場所なんてどこにもない」
冷めた目でヤナを見下ろすイリスは、もう彼女のことはどうでもいいようだった。
ヤナの、このあとのことなど、本当に気にもとめないのだろう。
「可哀想だとでも思っているのか。この女は、おまえを殺すためにここに雇われたんだぞ」
「……そんなこと分かっている」
「捨てるべきものは、捨てておけ」
イリスはルカから顔をそむけ、廊下の向こうへ歩いていく。
捨てるべきもの。気を失っているヤナを見下ろす。
もう、その手には鉄の塊はなかった。
イリスが拾ったのだろう。おそらく。
ルカが捨てるべきものとは何だったのだろうか。
反対に、イリスが捨ててきたものは、ルカには分からない。
途方もなく大きいものなのかもしれなかった。




