プロローグ
「お疲れー、ミサキ君、上がっていいよー」
店長のカズミヤさんが声を上げる。
「はい、お疲れ様でした」
俺はとっくに済ませていた帰り支度をさも今始めたかのような振りをしながら店長に答える。
「ミサキ君、いつも言っているでしょう、もっと元気良く、若いんだから」
店長は不満を漏らす、そうは言われても十七、八年間で培われた俺の性格は中々変わらなくて、俺も困っている。
「すいません、お疲れ様でした」
今日も小さな自己嫌悪と共に俺は帰路に着く。
「あ、ソウマ!」
「ああ、宮田さん、こんばんは」
俺は暗くなり始めた道でどうにか声の主を探り当て、店長に言われた事を思いだしながら、クラスメイトの、宮田―なんだっけ?まあ宮田なんとかさんに対して挨拶をする。
「今、帰りか?」
宮田、なんとかさんは俺が名前を呼ばない事など気にも留めないまま、二の句を継ぐ、俺は普段クラスでも苗字で他人を呼ぶし、それが俺の個性として定着しているから―勿論俺にとって好ましい事だ―特に気にする事でもないが。
「うん、そうだけど、宮田さんは部活帰り?」
特に気にもならないがテンプレート的な対応をする、こうしていれば極端に遠ざけられることも、馴れ馴れしく関わって来ることもないからだ。
「ああ、いやー、センパイが居ない部活ってのは、こう、伸び伸びと出来ていいな!」
高校三年生、内の―と言うほど馴染む事は出来なかったが―高校は卒業してから就職する者が大勢を占める、所謂工業高校なので、高三の夏、ぐらいまでは部活に打ち込むのが普通らしい。事実、宮田さんは就職の事等眼中にないようで、彼が言うように伸び伸びとやっている。
「野球部でピッチャーだっけ?俺は運動はあまり得意じゃないから、凄いと思うよ、まぁ、あまり無理しないようにね」
俺は小さな嘘をつく、得意な事なんて何も無い。
「ああ、ソウマもアルバイト頑張れよ!」
頑張れ、その言葉に俺は怯えて、しかしそんなことはおくびにも出さずに別れの挨拶をする。
「うん、じゃあまたね、宮田さん」
そうして小さな嘘や結局名前も思い出せないまま離れてしまった事にまた自己嫌悪しながら俺は自宅に帰る。
(ああしまった、線香切らしてた)
俺は家では一言も発しない、時々言葉を思い出すように歌を歌うくらいで。
何故なら家族が居ないから、父親はずっと昔に離婚して、母親も中三の夏、癌で居なくなった。
気楽なものだ、クラスの大半が騒ぎ立てる所謂―鬱陶しい親兄弟―が居ないから、親戚も居ないからそれなりの関係機関に、地方自治体や国に、援助されつつ、俺は生かされている。
そう、俺は生かされている、何も出来ない、何も無い俺は。
何も無いのは、やはり大人達の言葉に流されて、ずっと受け身のまま生きてきたせいだろうか。
(ああ、気分が悪くなってしまう、外に出よう、線香を買いに行くか)
俺は学校では見せていない―少なくともそう思っている―暗い表情と気持ちをうち消すために、近くのコンビニに向かう、ついでだから夕飯も買ってしまおう。独り暮らしは意外とコンビニ飯の方が安く済むことを経験上知っている。
「温めますか?」
「あ、えと、お願いします」
「ペットボトル袋お分けしましょうか?」
「あーいえ、手で持ってくんで大丈夫です」
最近のコンビニは線香なんて置いてなかった。
俺はコンビニ内を十数分ほど練り歩いてから、線香を買う事を諦めて弁当だけを買い、ついでに小さなペットボトルを買い、夜道を歩き、自宅を目指す。
ふと、前を見ると、まだ春と呼べるような気候の中、不自然に着こんだ男を見つける。
(マスクにサングラスなんて、どう考えてもただの不審者じゃねぇかよ)
俺の帰路と同じ道を歩くその男を、何となく、いや、かなり不審に思って数歩後ろを音もなく歩く。
「おお!?ソウマ、居たのかよ、もっと存在感出せよ!」
クラスメイトの声が聞こえてくる、勿論、気のせいだが。
(しかし、夜道でこんな恰好して、通報されるんじゃないか?)
そんな事を考えながら歩いていると、男の前から女性が歩いてきた、年齢は、ああダメだ、人の年齢が見て判るような人間というのは、人との関りが多少なりともあるような人種で、俺には無理だ、二十代だとは思うが。
すれ違う時に俺は目を伏せてしまう、年齢を当てるなんて俺のような人種には到底不可能な芸当だ、なんて、とりとめのない事を考えていると。
(ウッ!?)
男が突然振り返り、女性の後を猛然と追いかけていく、右手には鈍く輝く金属製のナニカ。
(って、ナイフじゃねぇか?!)
どう、どうすれば?!
「逃げてください!!!」
俺は震えて裏返った声を上げる。
「え?ひ、キャアアアア!」
けたたましい声を上げながら女性が逃げていく、不審者はそれを追いかける。
「ッッ!」
俺は無意識に左手に持ったペットボトルを男に向かって投げつける、吸い込まれるように頭に命中し、男は倒れる。
(いくら小さいとは言え、500グラムの物体だ、それなりの衝撃はあるはず!)
思えば俺は緊張と恐怖とアドレナリンのせいで咄嗟の判断を誤ったんだと思う。
(110番、いや、アイツを止めなくちゃ!)
俺は男を羽交い締めにすべく、後ろから男に飛び掛かる、愚かにも相手が刃物を持っていることを忘れて。
(ウッ?!グッ?!!)
「よくも邪魔しやがって、テメェぶっ殺してやる!!」
腹部にナニカが、いや、誤魔化してもしょうがない、刃物が突き刺さる―アドレナリンのせいなのか気が遠くなる程の痛みは感じない―そこでやっと俺は身の危険を感じる。
(刃物が、刺さって、え?死ぬ?)
死ぬ、のか?
「クソッ!死ね!死ね!」
二度、三度、四度、と、ナイフを突き立てられる。
「ぐあぁ!」
早く、逃げなきゃ、ころ、殺される!
(でも、どうやって?第一、コイツを野放しにして、良いのか?)
すでに幾分失血して、考えが纏まらない、俺は、コイツを、どうする?
頭に過ったのは、走馬灯と呼ばれるモノなのだろうか、声のような、映像のようなものが浮かんでは消える。
「ソウマはどうしたいの?」
「君のしたいことは何だ?」
「ミサキ君には目標がないのか?」
幾つも過るその声と映像は、しかし俺の助けにはならなそうだ。
俺には、どうしたいかなんて、俺には。
浮かんだのは、自分に対する静かな怒り、そして。
「死ねぇ!」
この男は、これからも殺すのだろうか、そこまで考えて。
「ッ!うああぁ!」
俺は全身の力の限りを尽くして男を羽交い締めにする。
「ウッ!ゴフ!し、死んでも逃がさねぇぞ、この野郎!」
何処かの臓器が傷ついたのか、吐血しながら喋る、俺はコイツを止める!絶対に!
「んだてめぇ!さっさとくたばれ!」
すでに数えるのも億劫な程に刃を突き立てられている俺は、視界も暗くなり、耳もどうやら遠くなってきて、もう助からないと思う。
それでもいい、俺は。
「死んでも離さない」
自分にすら聞こえない声で、そう呟き、俺は意識を放り投げた。