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おとうと

作者: 猫助

あの夏、私にはおとうとがいた。もちろん私には男の兄弟はいないから、血のつながった弟ではない。ほんとうは名前も知っていたのだけれど、おとうと、と呼んでいた。お兄ちゃん、とは呼んでも、弟、とは呼ばないから、現実から離れている感じが私たちの関係にはちょうど良かったのだと思う。

 ここでも、適度な距離の明示と、少しの愛情を持って、おとうと、と呼ぶことにする。

 電話が鳴ったのは、同じく夏の、暑い盛りのことだった。

 あの夏、私のおとうとだった彼が死んだ。母がしきりに可哀想な子だ、可哀想な子だと涙声でつぶやいているのを、ぼんやりと聞いていた。最初に思ったのは、お葬式の日は病院の予定なのにな、だった。ひとしきり話してから、電話を切った。

 無意識に台所でコーヒーのためのお湯をわかしていた。少し考えて、やめにした。ソファに腰掛けて、まぶたを閉じて、あの夏不安そうに母に連れられて来た男の子を描こうとした。

 脅えた子犬みたいだ。最初におとうとを見たとき、そう思った。

真っ白な肌に、自分たちとは違う、大人の服をそのまま小さくしたような格好をしていた。私たちといったら、みんな車で20分の大型スーパーで買ったようなキャラクターや大きなロゴのついたTシャツばっかり着ていた。子供ってそういうものだと思っていた。彼は東京から来たという。それだけで私は緊張した。

母が私に、お前のいとこのりょう君だよ。あんたの3つ下、一年生。弟だと思ってよくしてあげなさい、と言った。どうやら2年前に会ったことがあるらしいが、私の記憶にはなかった。おとうとはずっと下をむいていた。なんだよ、愛想悪い。嫉妬も手伝って私は心のなかで悪態をついた。この時期の子供は自分の居場所をつくるのに、そして一度つくればその存在を確認するのにとにかく必死だから、それを脅かすかもしれない自分よりも弱くてすてきな存在は脅威だった。親や群れに捨てられれば即、死が待っていた、古代の悲しく弱い存在だった記憶が、いつまでも残っているのだろうか。


後で聞いた話によると、父方の叔父が単身赴任で海外にいる間に彼の母が育児ノイローゼのようになり、いよいよ入院というところまでいってしまったらしい。叔父は慌てて帰国することになったものの、引き継ぎや引っ越しで1ヶ月はかかるということで、ちょうど夏休みということもあり、うちで預かることになった。まだ幼かった彼にはとても気の毒な話だが、彼の母の気持ちは分かる気がする。たった一人での子育ては逃げ場もなく、責任感の強い彼の母をじわじわと追いつめただろう。

 

ふと目が覚めた。いつの間にかソファで寝ていたらしい。左肩と胸の間あたりを右手で押さえる。大丈夫。目だけ動かして時計を見ると10時を指していた。ちゃんとベッドで寝ないとと思っても、身体が動かない。巨大な手で丁寧にソファに押し付けられているみたいだ。そのまま睡眠に引きずり戻される。

 

次に目覚めたのは翌朝だった。

 葬式の日は二日後だったが、思い切って会社を休むことにした。上司に休む旨を伝えると、気にしないで休みなさいと言われた。私がいない間、仕事が増えて右往左往するであろう上司に少し申し訳なく思ったが、忘れることにした。

 次に、病院に電話をする。受付の女性が出る。

「すみません、予約を変更したいのですが。親戚に不幸がありましてどうしてもこの日程に伺えそうにありません。」

ここで言い訳をする必要もないのだが、つい、弁解口調になってしまう。

「さようでございますか、では、」

事務的に、次の日程を決める。

「お身体のほうは問題ないでしょうか。」

「え?」

心臓の、トクンという音が聞こえた。

なぜ?と思うが、親戚の不幸ということで心配をしてくれているのだと気づく。

「あ、はい。親戚といっても、遠い親戚でして、長年会ってもいないものですので、そこまでショックを受けているというわけではありません。」

しゃべりながらもこの受付の女性はそこまで聞きたかったわけではないのに、申し訳ないと思う。

「はい。承知しました。では25日にお越し下さい。」

「はい。すみませんでした。」

 ほっと一息つく。昔から電話でものを頼むのは苦手だ。相手がどんな感情でいるのか、推し量りにくい。また、無意識に胸に手を当てている。

 おとうとが家に来てから数日、私はおもしろくなかった。おとうとはおとなしくて迷惑をかけるようなこともなかったのだけど。大人たちは理由を見つけてはかいがいしく世話を焼いた。今思えばその境遇を抜きにしてもおとうとの瞳には庇護欲をかきたてられる繊細さがあった。

 私もなんだかんだでほうっておくこともできず、母も祖母も忙しい日中は必然的におとうとの手をひいて遊びに連れていくようになった。

 家には流行りのゲームもなく、姉のリカちゃん人形の類があるだけで、特にこの二人ですることでもない。私たちはラムネを飲みながら浜辺をあてもなくぶらぶらしたり、安い水鉄砲で水をかけあったりして遊ぶことになった。中でも夢中になっていたのは、宝さがしだ。

浜辺にはいろいろなものが落ちている。ほとんどは枯れた海藻とかとかコンビニの袋とかのゴミで、まったく価値はない。そんな中にときどきある、チャンバラにぴったりのサイズの流木や角を丸められたきれいな色のガラスなんかを見つけて自慢しあう、というよりはおとうとに向かって一方的に自慢するのが習わしだった。おとうとはやはり無口で、話しかけられたら返事をする、くらいの状態だったので、宝を探すのに夢中になっているフリをすれば会話をつむぐ必要がないのも好都合だった。

 いつも一緒にいる私たちを見て、姉のさえは仲が良すぎると冷やかした。

「知ってる?いとこ同士って、結婚できるらしいよ!ひゅう」

 ませた表情でからかってくる。頬が熱くなるのがわかって、余計にあせる。

「違うから!」

男女として人からからかわれると恥ずかしいという感情はあったけれど、かといっておとうとを好きとか嫌いとか、そういうのはわからなかった。

おとうとは誰よりも母によくなついていた。子供は姉妹の二人だけだったので、男の子の面倒を見るのは新鮮だっただろう。その上、おとうとはしおらしく、このあたりにいる真っ黒に日に焼けて粗暴な男の子とは違った魅力があった。母がうきうきとおとうとの東京っぽい服を畳んでいるのを見て、苦々しく思う気持ちもないではなかった。おとうとのほうでも、どこまで甘えていいか測りかねている様子ではあったけれど、母に呼ばれるたびに一瞬無防備に笑顔になるのを私は見逃さなかった。

そんなこんなで、私のおとうとへの感情は一筋縄ではいかなかった。

肩と胸の境界あたりに、そっと手を置くのが癖になったのは、いつからだろう。心臓の音を、確認するために。

大丈夫。私は死んだりしない。きっと。

私はいつも自分に言い聞かせないといられない。

風邪をこじらせて肺炎になりかけたときも、そのまま血を吐いて、弱りながら声もあげられずに息をひきとる自分が浮かぶ。電車の先頭車両に乗っているときも、曲がり切れずに悲鳴の中で強い圧力につぶされていく様が浮かぶ。

常に死はひっそりとわたしに寄り添って、気を抜けば簡単に、私をさらっていってしまう。

その日、私たちは例によって宝さがしをしていたが、私はたいしたものを見つけられなくて、イライラしていた。半面おとうとは淡い水色のガラスの破片を見つけ、私に見せてきた。よく見ると、割れて間もないようで先がとがっている。

この時も、そのガラスで自分が傷つく様が浮かんだ。それでもなお、夏の強い日差しを取り込んで美しくかがやくガラスは魅力的だった。

「これは危ないからダメ。宝物には入れられないよ!」

嫉妬もあって声が大きくなってしまった。てっきり宝物を褒めてもらえると思っていたおとうとは、びっくりしてガラスを持つ両手を背中の裏に隠した。それでも、理不尽と感じたのか、

「尖ったところ持たなければ、危なくないもん。」

珍しく口答えするおとうとに、さらに腹がたつ。

「危ないものは危ないの!うちのお母さんに怒られるよ!いけない子だって」

それを聞くと、おとうとの顔は真っ赤になる。

「でも、僕見つけたんだもん。宝物だもん!」

「おとうと!これは持って帰ったらだめ!」

強く言うと、おとうとは真っ赤な顔でガラスを持って歩いていき、浜と道路を隔てる壁の隙間に突っ込んだ。持って帰らなければいいだろう、とばかりにこちらに戻ってくる。

「危ないんだからね。気を付けてよ。」

おとうとのほうは見ずに、お気に入りのビーチサンダルについている花の飾りを見つめてつぶやく。嫉妬していたのを気づかれないよう、精一杯お姉さん風を吹かせる。

あまりしゃべらず何を考えているかわからないおとうとには、醜い部分を見透かされているようで落ち着かなかった。

 私には、自分の身に起こっていることなのに、常にどこか遠くから俯瞰しようとするようなところがあった。期待しなければ傷つかない。そういう部分が、どうしても伝わってしまうのかもしれない。面と向かって、いわれることもあった。冷めている、と。そしてそのような傾向は、歳を経ることに強くなっていった。

 彼にも、そういうところを悟ってしまう、過敏な繊細さがあったのかもしれない。 

静かな人だった。その静かさが好きだった。決して人のこころにずかずかと入ってきたりしない。わたしの好きな、安定した、平穏な毎日を与えてくれた。

それがある日、一変した。

どういう流れだったか忘れたけれど、同棲だったか仕事だったか、将来の話をしたときだ。何かに意見を求められ、ただ、「いつだって歩の好きにしたらいいよ」、というようなことを答えた気がする。

その途端、彼の声の調子が変わった。

「琴美が何を考えているのか、本当にわからない時がある。とても不安で疲れる。」

「ごめん、ただ本当に、歩の人生だから、歩の好きなようにするのが、」

「今回のことだけじゃないんだ。いつも、琴美の領域に、俺がちゃんと入れているのか、わからない。虚しさすら感じてくる。」

「歩、どうしたの。」

 私はびっくりしてしまって、おそらくは適切でない行動をとってしまった。彼が冷静になるのを、もとどおりになるのを期待して、出ていく彼をひきとめようともしなかった。

 恋愛には、いや、人生には、冷静さが、論理が、邪魔をする瞬間というのがある。

 そして彼は去って行った。自分でも陳腐だと思う。でも、世界は陳腐でないことであふれているわけではない。

 喪服を探しだす。数年ぶりだ。サイズが気になったが、幸い入るようだ。念のためすべて着てみて鏡の前に立った。真黒な衣装に身を包んだ、薄幸そうな女が映る。いつも快活な母や姉には似なかった。

私の父は、おとうとが来る2年ほど前に亡くなった。心臓の病気で、長い長い、闘病生活だった。姉なんかはまだ元気で厳しかったころの怖い父の印象があるようだけど、私の父との記憶のほとんどは病室の中だった。父を思い浮かべると、一緒にあの消毒液の匂いまでが思い出される。父はいつも穏やかで、静かに笑っていた。学校であったことを優しく聞いてくれる父、母に内緒でお見舞いのお菓子をくれる父。病状について母が私たち姉妹に何かを伝えたことはなかったけれど、いつも父がふと消えてしまいそうで怖くて、「お父さんを遠くに連れていかないでほしい」と何か得体が知れないけれど神聖そうなものにはいつも願っていた。たとえば、道端の顔がうすくなってしまったお地蔵さまとか、執拗にお札が貼られた坂道の途中の小さな神社とか。

夜の海も、その中のひとつだった。

海の近くに住んでいたにも関わらず、私は夜の海が怖かった。空よりも暗く黒々としてひたすら続くそれは、ねっとりとした怪しいエネルギーを溜め続ける不気味な生き物のようだった。だからこそ、神聖だった。夜は怖くて家からは出られないので、窓から海のほうへそっと祈った。

電車からホームへ出ると、冷房で冷えた腕に熱気がまとわりつく。暖かいものに包まれて血が流れ始める心地よさを全身に感じる。

母が車で迎えにきてくれた。

「あんたなんか顔色悪いんじゃない?覇気がないわよ。覇気が。」

「お葬式に来たのに元気すぎてもおかしいでしょ。夏バテだよ。夏バテ。」

母は、いつも明るい。このあたりの”おばさん”と呼ばれる年代の典型に漏れない。せわしなく早口で、たくさんおかずを作り、ちゃきちゃきと働く。父が早くに死んだことと無関係ではないだろうけれど、それでも母の逞しさに安心することが多かった。

「さえ、もう来てるからね。美月はあっちのお母さんに預けて来たって。まだ、ちょっと葬式には早いもんね。」

私は、少し安心した。美月のエネルギーは、すごい。母である私の姉に似て、黙っているということがないし、会うたびにそれはパワーアップしていく。相手をするのは楽しいが、しかし消耗が激しい。今は避けたい。

車の助手席から、外を見る。海が見えるところでは、吸い込まれるようにずっとそちらを見てしまう。真っ青な空を映して、海は真っ青に輝く。今日は当たりの日だ。空が厚く雲に覆われていれば、海はそれを映して灰色になる。2つはまったく別のものでできているようで、まったく別でいることはできないものだった。

その夏は、毎日晴れ続きで、青空と青い海原が接するところまで、どこまでも続いていた。

おとうとと私は、尖りガラスと名付けたその美しい宝ものを毎日見に行った。しばらく通ううちに、私は何か得体が知れないけれど神聖な感じのする祈りの対象に、このガラスを加えた。いろいろな、本当にいろいろな種類の不幸せや悲しみから、おとうとを守ってくれますように。石の壁のくぼみで、ガラスの中に小さな世界が映る。

その頃になると、おとうとの口数は最初の頃よりも格段に増えていた。尖りガラスで初めてけんかをしたのがきっかけだったかもしれない。私も少しずつおとうとへの接し方を学んでいた。辛抱強く待っていれば、おとうとはたどたどしくも自分の意見を言うことができた。内容は好きな食べ物は何かとか他愛もないことがほとんどだったけれど、何を考えているかわからずふにゃふにゃした印象だった彼に、少しずつ、輪郭や濃淡が生まれてきたようだった。特におとうとは、母親の話をするときに饒舌になった。お菓子をつくるのが得意だとか、新幹線に2人で乗ったこととか。ひとしきり話すと、黙ってしまう。「さびしい?」と聞こうとして、言葉を飲み込む。そして2人で黙って、海のすぐ上で刺さるような夕日を見る。一緒にいて、それぞれ違うことを考える。

 そんな毎日だった。

「ほら、あんたたち、明日早いから、はやくお風呂入って寝なさいよ。」

母の地魚をふんだんに使った手料理を食べてぐうたらしているうち、居間で眠っていたらしい。隣を見ると、さえも同じように口を開けていびきをかいている。腹には貫禄が出てきて、ますます母に似てきたようだ。

葬式のあるおとうとの両親、つまり私の叔父叔母が住む家は、うちよりももっと南にあり、車で数十分かかる。申し訳ないが後片付けもパスして、自分の部屋で眠りについた。

 いつの時代も人はうわさ話が好きだ。悪気がある訳ではないし、まして本人を傷つけるつもりなどないのも分かっている。特に、みんな知り合いの町なんかでは貴重な娯楽なだけなのだ。ただ、あの日は最悪なタイミングだったとしか言えない。 私たちはその日も磯で遊んでいた。最初はおっかなびっくりだったおとうとも、今では水遊びに夢中だった。そのときに躍起になっていたのは小さなカニを捕まえることで、私たちは家にもどって網を持ってくることにした。納屋から網をとってくると、もとの場所におとうとがいなかった。家の周りを探すうち、玄関から人の声が聞こえた。「あの子、懐かないし済ましてるし、さすが東京は子供もお高くとまってるね。」 近所の清子おばさんだ。悪い人ではないのだが、ここらでは有名なスピーカー人間で、立ち話の中でも情報を引き出そうという魂胆が丸見えだった。母も、表情がひきつっている。ここで、すぐに立ち去るべきだった。「まあ、あの子も苦労してるから。」「あの子、狂った母親に捨てられたんでしょ?引き取るの?体良く押し付けられてるってみんなの噂だよ?」 おとうとに聞かれたらまずい。探しに戻ろうと振り返るとそこにおとうとはいた。固まった表情から聞こえてしまったのだと一瞬で悟る。「とってきたよ。戻ろ?」早口でささやき、手を引くが動かない。「それになんか怖いわ。母親がそんなんで子供も歪んでしまってるじゃない?」「ほら、カニさん捕まえよ」気ばかり焦るが、おとうとの顔を直視することができない。

「最近そういう子の犯罪、増えてるでしょう?なんだかね。ここは平和が取り柄の町だし」「清子さん、」

いつもせわしない母からは聞いたことのない、静かな声だった。「清子さん、そんなことはないよ。いい子だよ。あの子は。心配いらないよ。」

その時、ダッとおとうとが駆け出した。「待って!」

おとうとは速かった。こんなに速く走れるなんて知らなかった。息を切らして追いかけた。海へ向かっているのがわかった。途中で見失ったけれど、いつもの浜辺でうずくまっているのを見つけた。

おとうとは泣いていた。そして泣きじゃくりながら、自分の手の甲を、尖りガラスで切り付けていた。

「やめて!それこっちよこして!」

 すでに甲にはうっすら血がにじんでいる。私はすごく怖かった。よくあるドラマで手首を切って自殺するシーンが頭に浮かんだ。ガラスを取り返そうとしたが、おとうとは言うことをきかない。もみあっているうちに手の甲に物が当たる感触がきてあ、と思う一瞬で皮膚が切られる痛みが頭を貫いた。

「痛いっ!!」

私の甲の人差し指と親指の間から、血が出てくる。おとうとのそれよりも多い。一瞬、青い顔で死んでいく自分が浮かんだ。

「おねえちゃん!」

おとうとが叫ぶ。頭はかっと興奮していたけれど、それでも初めて、おねえちゃんと呼ばれたことに驚く。

「ごめんなさい、僕、いい子にできなかったから、だから、自分でお仕置きって、いつも僕が悪いって、お母さん、言うから。ご、ごめんなさい。」

おとうとは泣きじゃくっていた。普段しゃべらない弟が、肩を揺らして何度も何度も謝っている。思わずぎゅっと抱きしめる。おとうとの東京風シャツに、私の血がにじんでいく。

「おとうと、大丈夫。悪くない、おとうとは悪くない。」

私は、ぼんやりと、おとうとが、怒られているときには手を背中に隠していたのを思い出した。今更気づいた。

「ぼく、もう、捨てられたの?悪いこと、したから?」

「わかんない。でも、あんたは大丈夫、私は、味方だから。いつでも、どこでも。」

私はケガをしていないほうの手でおとうとの頭をくしゃくしゃになで続けた。おとうとの涙が、私の肩で熱い。私の血が出ている場所も熱い。その二つの感触だけがいつまでも消えなかった。

結局二人とも、たいした怪我ではなかった。血みどろになっていると思った左手も、家に着くころには半分乾いていたくらいで案外たいしたことはなかった。おとうとの傷も浅かった。深く切る勇気はなかったみたいだ。祖母も子供はけがしてなんぼ、という風に、特に何も言わなかった。

ただ、二人でばつが悪く微笑みあったのを覚えている。

それから数日して、彼は両親と暮らすために越していった。

そして私は今、その子のために作られた、棺桶の前に立っている。

そこには日焼けした、でも明らかに生きた人のそれとは違う色をした青年がいた。もちろんだけど、いつもびくびくして不安そうなあのときのおとうとはそこにはいなくて、人の成長というものをただただ不思議に思った。自分の心臓を確認する。

彼はもう、この世にいないのだ。

葬祭場の一角にいる、同じように日焼けして、慣れない喪服に健康な身体を詰め込んだ仲間たちも、もう彼と笑いあうことはできない。

目に焼き付けておこうと、全身を見回していて、息を飲んだ。

彼の日に焼けた手の甲には、まだ、うっすらと一段色が薄い、傷が残っていた。

あの頃のおとうとの顔がフラッシュバックする。

この傷、おそろいだね、と言ったときのうれしそうなおとうとの顔。

無言でお互いの手の甲を見せ合って別れたときの、涙をこらえたしかめっ面。

思い出した。

いつまでだったか忘れたけれども、傷を見てはあえなくてもずっと味方だと、心の中はつながっていると、思い支えあっていたのだ。

きっとそれは、おとうとも同じだったはずだ。

暖かい、涙がこぼれた。棺桶の前を離れても、涙は出続けた。

 私は、大丈夫だ。

「琴美さん、琴美さん」

ふりかえるとおとうとのお母さんがいた。

「あの子、小さいときは、よくあなたのこと話してたんです。」

「え?」

「でも私、あの子があなたのことを話すたびに、きっと暗い表情になってたんです。自分があの子にひどいことをしたことを思い出すから。それを、あの子も覚えていて、私のことをこころの底では信用できていないんじゃないかって、不安になるから。」

「・・・そうだったんですか。」

「本当にごめんなさい。よくしてもらったのに。あの子、本当はあなたに会いたかったんだと思うの。でも、しばらくしたらあの夏のことは、話さなくなっていった」

「りょう君は、私の前でもよくお母さんの話をしました。ほんとにお母さんのこと、自慢に思ってるのが伝わってきました。りょう君は本当に賢い子だったから、お母さんのつらさ、分かっていたんだと思います」

「・・・ありがとう。でも、もう・・」

そういってお母さんはまた泣き始めた。細い肩が嗚咽のたびに揺れて、壊れてしまいそうで怖かった。

「ねえ、知ってる?想いが強いと、傷って治らないでずっと残ることがあるんだって。」

おとうとが去ってから、私は目に見えて元気がなくなっていたらしい。手の甲の傷を見てはため息をついていたようだ。そんな姿を見てかはわからないけれど、ある時姉のさえに言われた。

「思い?どういうこと?」

「だから、すごく大切に想ってるとか、逆に強い恨みがあるとか。」

「へえ。」

「あんたの傷、消えないかもね。」

パッキンアイスのビニールを噛みながら、いたずらっぽく、さえが笑う。2つ上の彼女は、ここ最近でぐっと大人になっていた。

「ま、漫画に書いてあっただけだけどね!」

「えー!」

手のひらを太陽にかざして、指から漏れる強い光のその陰で、まだ白く濃く残る傷を、眺めた。

おとうとに伝えたい、そう思った。けれど結局、彼に伝えることはできなかった。

「ほんとに、やりきれないわ。あんなに若くて、まだこれからだったのに」

 母は娘を送る車の中でも嘆いてばかりだった。おとうとのお母さんに気を使い、近況を聞くこともままならなかったのは、つらかっただろう。そして、短い間とはいえ自分の子供のように世話を焼き、もしかしたら一度は本当に家に迎える覚悟をしていたかもしれない彼を失った喪失感は、私のそれとはまた違って、私は胸が痛くなった。

「琴美、しっかりね。まあ、あんたは末っ子なのに、いつもしっかりしてるけど。もっと頼ってくれていいんだからね。」

やはり、お母さんはすごいと思う。私の不安も伝わっている。

「ありがとう。お母さん。また、連絡するね。」

 電車が動きだすのを確認してから、手の甲を見た。よく見ないとわからないほどの小さな白い傷に、そっと右手を重ねてみる。

 帰ったら、病院に電話をかけよう。そして、予約を診察にきりかえてもらおう。

私の中の小さな命は、生きている。こちら側で、外の世界に出ることを待ちわびている。

おとうと -終わり-

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