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別小櫛

 斎宮群行という行事は史実ですが、詳しい次第がわかりませんでした。

 ですので、ここに描かれる光景がかなりの部分、作者の想像の産物である事をあらかじめおことわりいたします。

 間違いに気づかれる方もおありかと思いますが、なにとぞご容赦ください。

 都を出発した車は静かに道を進んでゆく。

 綾子は決して振り返るまいと、きりりと奥歯を噛み締めていた。牛車はゆっくりと確実に進んでゆく。

 綾子の未練を、執着を、躊躇ためらいを、すべて置き去りにして。

 早く、早く、早く。

 一刻も早くあの場所から離れてしまいたい。そう思う一方で、魂が身体から引き離されるように未練が綾子の後ろ髪をひく。

 帰りたい、帰りたい、帰りたい。

 野宮へ

 六条の邸へ

 …後宮へ

 引き裂かれるような痛みが綾子を苛む。

 あの人を乞うている。

 あの方をお慕いしている。

 この気持ちのどちらをも同じ名前で呼ぶなんて、なんて理不尽なのだろう。

 綾子が恋したのは二人だけ。

 亡き背の君である前東宮と、若い恋人であった光る君だけだった。


 綾子が光る君に初めて出会ったのは、入内の準備として弘徽殿に行儀見習いに上がっていた時だった。

 綾子は十三歳。光る君はまだ六歳だったはずだ。光る君は人形のように愛らしかった。いや、むしろ光る君ほど愛らしい人形は見たこともないぐらいだった。

 透き通る様な白い肌は内側から淡い桃色の灯りで照らし出したよう。みずらの髪は艷やかに黒く、大きな瞳はそれより黒い。くちびるは紅の残った指先で捺したようだ。

 その容貌よりも際立っていたのが、光る君の周囲の明るさだった。帝の血筋の者には生来、見鬼やあやかし、精霊の類を惹きつけ、しかも魔を退ける力がある。それでも宮中のようなところは淀みやすく、皇子皇女は細心の注意を払って育てられるものだが、光る君の周囲は見事に明るかった。何一つ穢れたものがいない。

 いや、実際には暗いものも慕い寄ってきてはいるようなのだが、それらは光る君の明るさに焼かれて寄り付くことが出来ないらしい。

 光る君自身は人懐っこくて、初めて出会った綾子にも物怖じせず、すぐに馴染んで懐いてきた。

 子供らしい弾むような動きで跳ね回り、女房や兄皇子、姉皇女にじゃれつく。童水干の向蝶紋が光を弾いて、まるで光る君に戯れるように見えた。

 あまりに弘徽殿に馴染んでいたので、てっきり弘徽殿の女御所生の皇子かと思ったら、実はすでに亡くなった更衣の産んだ第二皇子だという。帝がお手許で憧愛されて、後宮のどこの御殿にもお連れになるので弘徽殿にも馴染んでいるらしい。

 綾子が弘徽殿にいる間も度々現れて、遊んだりお菓子をねだったり、ときには女御に叱られたりしていた。

 綾子が入内することになったのは、身代わりとしてだ。

 東宮に入内するはずだった弘徽殿の女御の妹御が急に出家して、代わりに綾子にも白羽の矢が立った。故人である父は弘徽殿の女御の父君である右大臣にとっては母方の従兄弟で血が近い。母は貧しいとは言っても王家の出。母方の祖父は学識豊かな王で、その薫陶を受けた綾子は十三歳にして才色兼備の誉れも高い。

 要はちょうど良かったのだ。

 血の繋がった、しっかりした後ろ盾を持たない、しかも評判の姫君というのは。

 でも、綾子はちっとも構わなかった。

 学識は高くとも世渡りは下手な祖父。

 おっとりと浮世離れて美しい母。

 二人を守り支えることが出来るのは、母の一人娘の綾子だけなのだ。

 むしろ渡りに舟の心持ちで、綾子は右大臣の誘いに乗った。


綾子を乗せた車は先を行く葱華輦そうかれんに従ってしずしずと進んでゆく。

 あの葱華輦の内には綾子の産んだ内親王が、前を向いて毅然と座しているはずだ。

 別小櫛わかれのおぐしを髪に挿し、きっと緊張した面持ちで。振り返ってはならないと言われれば、決して振り返らない娘だ。京に後ろ髪引かれるような事もなく、ただ神に仕えるこれからの日々の事だけを胸に座っているだろう。

 娘が斎宮に卜定された時、綾子は少しも意外には思わなかった。そういう清らかな厳しい役目の似合う娘であったから。

 そんなところも亡き父に、良く似た娘だった。


 綾子が妃に配された東宮は、時の帝と母を同じくする弟宮だった。生来蒲柳の質で、季節の変わり目には必ず寝込むような生活をしていたが、どうにか成人するに至ったので添伏に綾子がたてられたのだ。

 東宮は穏やかで我慢強い人だった。

 病がちであることと、重い役割を与えられたことがその性格を形作ったのかもしれない。

 冬の暖かな日は御簾を透かして入ってきた明かりの中に、精霊が戯れるのを見て微笑んでいるような、病の枕辺につく綾子をむしろ気づかうような、濃やかに優しい人でもあった。

 綾子が身籠り、皇女を産み落とした時の手放しの喜びようは、今もはっきりと思い出せる。里邸にしていた右大臣邸にわざわざ行啓し、皇女を抱いて言祝いだ。

 幸せ、という言葉を思う時、綾子の胸に浮かぶのはあの東宮の横顔だ。

 東宮と、綾子と、皇女と

 それは宮中という場所においては、あまりにささやかで暖かなまどいだった。

 あのまま穏やかに暮らしてゆくことができたなら、どんなに良かった事だろう。

 東宮が世にあって下さったなら、光る君を乞うことになど、決してならなかったのに。

 光る君にこれ程に焦がれ、執着しても、綾子は背の君と慕うのは今も故東宮その人だけだ。

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