失恋記念日
見上げると、澄み切った青い空を吹き抜けるように連なる綺麗な鱗雲が見えた。秋も大分深まり今朝はかなり冷えていたし、昼間も長袖の上着がなければ肌寒く、冬の到来が近い事を感じる。ここ数週間雨も降らずに乾燥していたが、頭上の鱗雲を窓越しに力なく見ながら明日は雨が降るなとぼんやりと思った。今朝、通勤中の電車でも過ぎた乾燥に喉をやられたのか咳き込んでいる人々は皆マスクで顔を覆っていた。
家路に戻る電車の扉付近に凭れて窓に映る己の顔を見てため息が出る。清々しい秋晴れとは反して陰気な顔をした男の顔から目線をそらして再度大きくため息を吐いた。
——ごめんな。今は混乱して何も言えない
いつも悪戯を企んでいるような長年の友人のニヤニヤした表情はそこにはなく、ただただ困惑した男は目線を泳がせた。昼飯時でサラリーマンが混み合う店内の騒めきも、食後にいつも目の前の友人に秋波を送りながらお茶を持ってくる若い給仕の女性も気にとめることができず友人は黙りこんだ。そんな彼に言える言葉なんて多くはない。
——ただ言いたかっただけだから、気にしないでくれ。っても無理だよな。気持ち悪かったらもう連絡しなくていいから
相手を想いやっているようで答えを丸投げにした。自分の想いを伝えたが、希望は伝えていない。それを強く求めることで完全に関係が壊れるのが嫌だったし元々それ以上の何かなど本当に今の今まで望んでいなかったのだ。彼は、親友でもあった。
友人を続けるのも、自分たちの関係になんらかの変化をもたらすのもお前次第と結局は逃げた。それが今日の昼休憩の話。
細羽は会社の同僚の女性達に自然なのに整った眉と密かに賞賛されている男らしい眉を八の字に下げて情けなくも再三の溜息が漏れるのを止めることが出来ない。周囲の学校帰りの女子高生達がちらちらと視線を投げかけるのも気付かず上着のポケットに入っている携帯電話ばかりを無意識に弄る。
(連絡……やっぱないよな)
昼休憩に告白をしてからまだ半日も経っていないが、気ばかりが急いてしまう。こんな宙ぶらりんな気持ちになるのならあの時無理矢理にでも友人の気持ちを聞けば良かった。と、言っても「好きだ」以外の言葉を細羽が口にした訳でもなく友人が答えに窮するのは必須だった。「好きだ」「分かった有難う」と笑って流されなかっただけでも良いと思うべきだろう。
(何年あいつと友人して来たっけ?)
出会いは中学一年生の夏だ。三つの小学校の学区が一つの中学校に集まり同級生となったが、同じクラスではなかったので細羽は友人、菅野の存在を知っていても菅野は細羽の存在を知らなかった。
その頃の細羽は背もまだ低く、中学生男子としてはあまり目立った活躍もない美術部に所属していた。実際美術部は廃部寸前で部員は細羽を合わせて五人、内三人は幽霊部員だった。反して菅野は学年の誰しもが知る目立った存在だった。背丈も中学一年生としては平均、顔も平均より少しあどけなさが残るものの少年らしい至って普通の男子というところだったが、兎に角明るいのだ。学校の何処にいても一日に一回は彼の笑い声が何処かしらから聞こえてくる。運動も得意な様で陸上部で長距離走の選手として運動場のトラックを走っている姿はよく目にした。しかし生真面目な生徒という訳でもないのでよく他の部の練習に混じり、野球やサッカー、バスケ、バレーと遊んでいる姿もまた目にした。学年、生徒、教員関係なく愛されている少年、それが菅野だった。
美術部の窓からは運動場がよく見渡せる。細羽はそんな菅野を羨望にも似た気持ちを抱いて憧れていた。
そう、その頃は純粋な憧れだった。子供らしい、友達になりたいという気持ちだけだったのは確かだ。
そんな細羽と菅野が接点を持ったのは本当に偶然の為せる業だった。
地味な男子中学生ながらも細羽も友人と呼べる存在はいた。それは小学校からの幼馴染だったり中学校になってから同じクラスの友人だ。しかし皆運動部に所属している為に夏休みは毎日の様に部活動が忙しいらしく細羽は長い夏休みを一人で過ごすことが多かった。
その日はとても暑く、電気代を節約という大義名分の下冷房を使わせてくれない母親に負けて図書館に出かけた。徒歩四十分はあるその道程に途中コンビニに寄ってアイスを買おうと立ち寄り菅野に出会った。
——あ、菅野
地味で目立たない存在の細羽だが決して勉強熱心な性質ではない。図書館にだってエアコンの効いた部屋で少しだけうたた寝でもさせてもらおうと思っていた。だから滅多に図書館にも行かないし、立ち寄ったコンビニも図書館に用事がなければ普段は決して使わない場所だった。そこに見知った顔を見つけ、夏休みという開放感とうだるような暑さで緩んだ頭で一言も口をきいたこともない菅野の名を口にしたのだ。しまった、そう思ったが遅かった。
——お前、誰?
当然の質問を口にした菅野の表情は別段不機嫌でもなく面白いものを見つけたと言わんばかりににんまりと笑った。
これといって劇的でも印象的でもなんでもない出会い。しかし、菅野は暇だからと言って支払いを終えた細羽の腕をとって近くの神社に向かった。あまりの急な展開についていけず、運動部の地獄のトレーニングと呼ばれる練習によく使われる長い階段を息を切らして駆け上がった。
鬱蒼と茂った木々の木陰に包まれた神社は常駐の神主もいない程小さく、先ほどまでの暑さが嘘のように涼しい風が吹き抜け前髪を揺らした。細羽同様買ったばかりのアイスを取り出して豪快にかじりついた菅野は「ここ、俺のお気に入りなの」といつも遠目で見ていた友人達に向けている笑顔を細羽に向けた。
陸上部に所属する菅野は夏休みと言えども毎日部活動がある。しかしその前日、足首を痛めた菅野は大事をとって数日練習を休んでいた。菅野の友人達もいずれかの運動部に所属しており、皆忙しい。暇を持て余し近所のコンビニに出かけた所、自分の名を口にする少年と出会い、不審に思うどころからこれで暇を潰せる相手が出来たと喜んだのは単純な菅野らしい。
菅野が部活を休んだたったの数日間、二人は毎日神社で落ち合った。そして卒業まで同じクラスになることはなかったが、二人の交流は続き、高校は同じ学校に進学した。
その間に細羽は自分が普通とは違う、同性愛者であると自覚している。
中学生にもなると周囲は恋愛ごとにうるさくなる。特に女子は小学校の頃から誰彼が好きだと盛んだったが中学生になると男子も特に好きという気持ちよりも先に性的に異性を意識するらしく友人同士猥談をするなんて常ではないが、普通にされるようになっていた。
友人達がクラスの誰が胸が大きいとか、裏ビデオを見ているとか会話に上がっても細羽は全く興味が湧かない。それよりもいつも放課後に汗を流して運動をする友人の菅野の方が余程輝いて見えるし、かっこいい。だが、同じ様に全力で部活に取り組む女子を見ても可愛い、素敵だとは思えなかった。
微妙な違和感が決定的になったのは中学三年の秋だ。
——俺、彼女出来たんだよね
照れ臭そうに、だが得意げに口にした菅野の言葉に傷つき、その夜は涙した。後にも先にも細羽が恋愛で泣いたのはこの時だけだ。
友人への淡い憧れとも言える恋心は自覚する前に終わった。
高校卒業後、同じ性癖の人間が集まる場所に足を踏み入れ始めた細羽も多くはないが恋人が出来た。だが、好意を持つ相手が恋人になるまでの期間が短かったり身体の関係から入ったりと相手をよく知らず付き合い、後で「やっぱり違う」とどちらかが切り出すことが多かった。
ゲイバーで出会った年上の友人に細羽は自分が理想が高いのだろうかと相談した時一笑に付された。
——そりゃ、お前の理想はノンケ君だわ。うん。理想が高すぎるな
出会う為の場所に行って出会うのではなく、日常の中で出会いお互いを理解していく中で相手に好意を持てたらいい。そんな理想を語った細羽を豪快に笑い飛ばしているがその瞳の中に寂しさを垣間見せる年上の友人もやはりそんな恋をしたことがあるのかもしれないと思った。
中学高校と美術部に所属し、デザイン系の専門学校に進学をした細羽の就職先は個人経営のデザイン事務所だ。大きくはないが新人の頃から雑用として面白い仕事に携わらせてもらい就業時間は長くても充実した毎日だ。
高校生の頃からぐっと伸びた身長と親譲りの体格の良さの為女性によく好意を持たれたが、会社の同僚に告白された時にゲイであることを公にした。同僚は「そりゃ全く勝ち目ないわ」と残念そうな顔をしたものの偏見のある態度を露わにすることがなかった。業界が業界なだけに、他と違うことに理解を示してくれる人間が多いのも細羽にとって有難い環境だった。
菅野は高校を卒業と共に陸上競技も辞め、大学進学後はテニスサークルという名の飲み会サークルに参加して大学生活を謳歌していた。そして卒業も控えた今、就職先も既に決まった菅野は時々細羽の職場近くに訪ねに来てくれた。
今日もいつもの通り他愛のない話をしていたはずだ。菅野に淡い恋心を抱いていた中学時代もあったが、それは具体的に恋人になりたいとか性的に触れ合いたいというものではなかった。こいつ、いいなぁとは思うものの叶うわけがないと分かりきっているので現実的に恋になることもなく終わった。そう、今日までは思っていた。
——就職先が決まってから彼女とギクシャクしてさー。今日やっと理由話したと思ったら、俺の就職先が彼女の親が納得いかないって言ってたらしくて、親に俺と付き合うの止めろって言われ揉めてたらしい。結局、家族が揉めるの嫌だから別れてくれってさ。彼女のこと好きだったけど、別に結婚まで考えてた訳じゃないし。大体、親にごちゃごちゃ言われて別れるってことは彼女も俺の価値をそこで決めてたってことだろ? なんか一気に気持ち萎えたわ。人の価値って付属するもんで決めるってどうなの? ま、そんな変な親と家族になりたくもないから彼女と今別れられて俺も良かったよ。これが後数年たったら直ぐに結婚とか、お金とか言われんだぜ。勘弁してくれよな
大学二年生の時から三年間付き合った女との別れを知って胸がどんっと大きく跳ね上がったのを感じた。
——なんか、そう考えると大学でつるんだ連中、皆じゃないけど、そういう感じの考え持ってそうな奴多かったなーって思ってさ。遊ぶの楽しかったけど、なんだかんださっさと社会に出たお前と話すのが一番落ち着くわ
——俺もお前といるのが一番いい。俺は……お前が好きだ
自然に口から滑り出た言葉に細羽自身驚いた。菅野のことは好きだ。好きだけれども恋愛絡みの好きだとは思っていなかった。だが、今の言葉に細羽が無視できないほどの感情が溢れ出た。
それでも、菅野を誤魔化しきれると思い目の前の友人を見て細羽は落胆した。
顔を真っ赤に染めて固まってしまった菅野の目はキョロキョロと泳いでいる。細羽は菅野に自分の性癖を明かしてはいなかった。いつかは言おうと思っていたがなかなか言い出せないでいた。だが、菅野は知っていた。知っていなければきっと好きだと言った細羽の言葉に照れながらも「俺も好きだぜ」なんて笑って返していたはずだ。
もう友人に戻るのも難しいかもしれない。
諦めと同時に開き直る気持ちにもなった細羽は言葉を続けた。
——俺がゲイだって知ってた? 俺は……お前のこと友人だとも思ってるけど……そういう意味でも好きだ
なるようになれと半ば投げやりだったのは否めない。
まだ日も暮れていない夕刻時、改札を行き交う楽しそうな若い学生達の間を一人鬱々とした表情の細羽は歩く。終電で帰宅するのが常となっていたが、いつもは開いていない駅とアパートの間にある商店街の激安スーパーに寄って思いついた食材を次々とカゴにいれた後、ビールも買った。商店街を抜けると後は住宅街だけだ。近所の奥さん方や小学生と思われる子供達が車通りの少ない場所で遊んでいるのをそこかしこと見かける。
(のどかだ。でも俺の心は荒んでる)
無自覚の恋心にとうとう終止符を打つ時が来たのだ。酒でも飲んで今までの思いの丈を一人ぶちまけてやるといつもは柔和な笑顔しか浮かべない細羽はやさぐれた表情を浮かべた。
駅から徒歩十五分、地区三十年のぼろアパートでもあり住み慣れた我が家の錆び付いた階段を重い足取りで上がりながら今日何度目かになる溜息を吐いた。
「細羽」
部屋の扉の前に誰かがいるなとは思ったが直ぐにそれが誰か頭で理解出来なかった。間抜け面で立ち尽くしている男に菅野はいつもと変わらぬ笑みを浮かべてよっと片手を上げた。
「じっとしてたら寒みぃよ。さっさと部屋にいれてくれ」
我に返ってまじまじと菅野を見ると昼間と同じトレーナー一枚の薄着だ。夜になるとぐっと冷え込むこの地域の夕刻時には不釣り合いな格好で、腕を忙しなく大げさにさすって寒さを強調している。出席の必要な授業は殆どないが卒業論文はまだ提出していないと言っていたのを思い出し、風邪でもひかれたらたまらないと急いで部屋の鍵を開けた。
「珈琲いれるけど、お前も飲む?」
勝手知ったる他人の部屋、まだ実家暮らしの菅野と違い一人暮らしの細羽のアパートに最低でも月に一度は泊まりに来る友人は返事も待たずに玄関から直ぐの台所で湯を沸かしている。昼間につい細羽が口を滑らせてしまわなければいつもの光景とも言えるが、あの時言葉を詰まらせた菅野の表情を思い出して苦々しい気持ちになる。
「単に遊びに来たって訳じゃないよな?」
昼休憩から戻った細羽の気の抜けようは上司の目に余る程で、「使えない奴はさっさと帰れ」と怒鳴られ日も暮れない内にすごすごと帰ってきた。いつもの帰宅時間ではないのに部屋の前で立っていたということは菅野も気が動転してたか、何かどうしても伝えたいことがあったのだろう。
「電話かメールしたらお前逃げそうだから、直接待ち伏せた。お前嫌なことがあると腑抜けになるから絶対早退すると思ったら案の定だから笑っちまったよ」
高校生の頃の細羽は真面目とは言い難く、何かにつけて授業をさぼっていたが、社会人になってから早退なんてことはしてことはない。無遅刻無欠勤、何事にも全力で取り組む細羽を社長も可愛がっていたからこそ口ではきついことは言っていたが逆を言えば「今日は家でゆっくり休め」と言ってくれたのだ。けたけたと笑う菅野が恨めしくて睨みつけると不意に真剣な眼差しを向けられ戸惑った。
「時間が経ったら気まずくなるだろ? 迷惑……じゃないよな?」
窓から西日が差し込むこの部屋は外の空気よりも暖かい。室温だけではない熱に顔が熱くなるのを感じて俯いた。期待はするな。頭の中で見知らぬ誰かが叫び続ける。
黙って珈琲を淹れた菅野は二つのカップを持って狭い六畳一間、ベッドの前の卓上テーブルの前で黙って座り込んでいる細羽の向かいに座った。湯気の立つカップを両手で己の緊張を包みこもうとするかのように持っている。その様子を見て自分だけが動揺しているのではないと細羽は僅かな安堵を覚えた。
「お前は気持ち伝えただけって言ってたけど、俺も俺の考えを伝えようと思う」
生唾が自然に音を立てて喉を通る。喉が異常に乾き猫舌にも関わらず用意された珈琲に口を付けて僅かに唇に火傷を負った。
ノンケに告白した結末は分かりきっている。散々同士達の経験談を嫌でも聞かされてきたのだ。例え一時的にうまくいっても数年後に現実に戻る。男女の仲でさえも結婚してさえも永遠なんて言葉はないに等しいのだから不確かな恋愛感情から始まるそれは水たまりにはった冬の朝の薄い氷の如く壊れやすい。
「俺はお前のこと友達としかみれない」
だから菅野の返事は分かりきっていたのだ。それなのに、その言葉を聞いてぶるりと大きく震えた。僅かながらも、アパートの扉の前で待っていた菅野の姿を見た時に期待してしまった自分を殴り飛ばしたい。
「それに、これからも友達を続けたい。お前の気持ち知っときながら言うのは残酷だと思うけど、家族と同じ位大切な存在はお前しかいない。ん? でも家族よりぶっちゃけられるから矢っ張りお前が俺にとってはこの世界で一番大事だ」
揺らぎのない、嘘一つない言葉を正面からぶつけられ細羽は知らぬうちに涙を流していた。これ以上の言葉をもらえたのだから本望じゃないか、きっと彼以上に大切な存在は例え将来恋人ができても現れないだろう。性的な接触がなくても菅野の側にいれること、好きでいることは否定されない。
「あー……もう泣くなよ。俺だって泣きたいよ。俺がお前の一番なんだろ? 嬉しいよ。でも性的にどうこうって考えると違うよなって……俺もゲイだったら俺ら最高のカップルだったのにな」
いつの間にか横に来て涙をこぼす細羽の肩を抱き寄せて菅野も鼻をすすっていた。僅かに震える声がおかしくて嗚咽の合間に笑いをこぼすと菅野も顔を歪めせて笑った。
「菅野ぉ、俺、お前のこと好きだけど、彼氏絶対作って目の前でいちゃついてやるからな」
「そうしろ、そうしろ。俺だってあんな変な女忘れて彼女つくって自慢してやる」
ノンケとの恋なんてそうそううまくいく訳ないのだ。
「お互い同じ日に失恋したんだ今夜は飲み明かすぞ」
赤い鼻のままにかっといつもの笑顔を見せた菅野に細羽はこんな彼だから好きだし友達なんだと誇らしい気持ちになる。心の奥底で燻っていた初恋に無理矢理バケツの水をひっかけられた気分だが、やっとこれで前進できる気がした。
さあ、今夜は呑み明かそう。失恋記念日だ。
ふった相手とふられた相手が向かい合って缶ビールを打ち合わせた。




