前編
昭和から平成へ、と時代が変わった年、私は小さな『自分史』に翻弄されていた。
大学受験を控えた十代の終わりの頃だった。携帯電話もまだ珍しく、インターネットなど知りもしない。個人情報という概念も甚だ曖昧で、万事につけて今より緩やかな時代だった。
いま思い出しても、あの子との出会いは運命的で奇跡的だったと思えてならない。
大学を卒業して就職したのち、私は妻となる女性とめぐり会った。互いの性格や価値観を尊重し合える感性も、めぐり会った道筋も、人生の大事な地点にあの子がいてくれなかったら、ただのすれ違いになっていたと思う。
あの子の存在なしに私の人格はありえない。決して後ろめたい過去ではないが、妻には結婚前に隠さず話し、この日記も読ませた。妻はその上で私を受け入れ、かえって私を理解してくれた。
無論、少年期の過ぎた思い出と受け取るゆとりはあっただろう。だが、確実にあの子に育まれた部分を持つ私の人格を妻はそのまま受け入れてくれた。私があの子に出会えたことさえ大事に思ってくれている。
私のような狭量な男が妻を大切に思える心さえ、あの子に育ててもらった気がする。あの子を宿した自分の心を大切に思うとき、そのままの私を受け入れてくれる妻の代えがたさに気づかされる。
いま、あの子と同じ年頃になった娘たちの成長に思い悩むたび、平凡で健やかなることのありがたみを思う。
あの子と過ごした短い日々は、私の人生を備えてくれた。あの日々を与えられたことに感謝しつつ、あの子の残してくれたものを家族の幸せに生かしていきたい。
四半世紀に余る、それこそ一時代を経た色褪せた記録。そこに刻まれた色褪せない記憶。
表紙を返せばオルゴールのように、あの歌の旋律が聞こえてくる。心の底に流れ続ける、瀬音のようなあの歌が。
「指輪の歌」
昭和63年11月1日(火)
向かいの新館病棟とその上に広がる空の断片。病室の窓枠をくぐり抜けてくる、そんなおきまりの景色の中で、ゆっくりと移動する雲だけが時の存在を感じさせた。
今日の空は、絵筆についた白絵の具を溶いたような薄く濁った色をしている。そんな元気のない空がここまで下りてきたかのように、午後の病棟はしんと静まり返っていた。
いや実際には薬品の瓶やら器具などをのせたワゴンがカチャカチャと音を立てて廊下を通るし、看護婦さんたちの足音、ときには笑い声もよく耳に届く。でもそういった現実の音に鼓膜が関心を示さないとでも言うか、良くも悪くも胸が騒がない。時間が止まっている、と言うよりなくなってしまったかのように。そんな時にふと窓の外を流れる雲を見ると時間というものの存在を思い出す。そんなことが何度かあった。
時間とは一体何なのだろう。時計の針が刻むものとはまったく違った何か、という気がする。ここに入院してからのわずか3日間で、そんな考えが何度か自然に浮かんでは答えを得ないまま、また意識の底に沈んでいった。ちょうど、いつも同じところで途切れてしまう夢のように。
昭和63年11月3日(木)
日記なんて何年ぶりだろう。小学校の夏休みの宿題以来かも知れない。いや中学に入って、ふと思い立って書き始めたものの3日坊主に終わってしまった記憶がそれに続く。とにかく『自分史』として、あとから振り返ることのできるような一冊を綴り得たことはない。
そもそも文章を書くということに関心を持ったことがなかった。だから書いたものと言えば課題の読書感想文か模試の小論文といった、至って自発性に欠けるものばかり。本もあまり読む方とは言えまい。
それが原因なのか結果なのか、僕はこれまでひとつのことを真剣に考えてみたり、自由に思いを巡らせてみたり、逆に自分をじっくりと見つめ直してみたりしたことがなかったように思える。
日記という馴染みの薄いものにふとペンを走らせる気になったのは、予想もしなかった今のこの入院生活が暇とともにもたらした、そのような心境によるものだろう。
今から4日前のことになる。桐生の町を流れる渡良瀬川に一人でツーリングに出かけたことが事の始まりだ。僕は以前にもこの渓流を訪れたことがある。それは僕がまだ5才か6才の頃だから、もう11、12年も前のことだ。一人っ子の僕はあの頃よく両親に連れられて、いろんなところを見てまわったものだ。川沿いを走る鉄道に乗って眼下を流れる清流に心を踊らせたのも、つい昨日のことのように思い出される。桜の季節だったのだろう。川を挟む切り立った崖の上に、吹きつけたような薄桃色の花が咲き誇っていた。このとき聞いた耳を漱がれるような水の音。その記憶が僕を十数年ぶりにこの場所へと誘った。
あの日、桐生の市内に入った僕は駅前の喫茶店で軽く昼食をとってから、駅舎に立ち寄ってみた。町並みも駅の構内もさすがに記憶にはなかった。あったしても今の光景とは随分と違っていただろう。渓流鉄道はこのJR桐生駅を始点にいくつかの村を跨いで足尾の山奥へと続く。その先はもう日光に近い。
僕は入場券を買って渓流鉄道の専用ホームへ昇ってみた。ちょうど出発時刻を待つ車両が一台そこに止まっていた。小さな二両立てのそれは、決して観光客に媚びた様子のない、悪く言えば古くさい引退列車の風情だった。かつて両親とともに揺られた列車は、このようなものであったか、なかったか。が、開発の目から幸いにも見落とされた渡良瀬の渓流には、畦道を走る自転車のような、この素朴な一箱の列車がやはり良く似合う気がした。
再びバイクにまたがり、駅前の県道から国道122号に抜けると、どこにでもある町並みの景色は、ここにしかない思い出を抱き起こす静かな山間の眺めへと変わっていった。子供の頃に来たときと違うのは山々を包む紅葉の色合いだけだ。僕は何度もヘルメットを外し、周りに広がる光景に目を浸した。遠くに吹く風が山の面をゆっくりと逆撫でた。このような見晴らしに立つことができただけでも来たかいがあったと思った。
が、道がやがて渓流鉄道の線路と並び、山間を刻む清流の姿が目に飛び込んできたときの感激はひとしおだった。
小さかった僕の胸を弾ませた、あの川が今ここにある!あの時と同じように澄んだ水を谷間に流し続けて。
僕はその場にバイクを止め、急いてヘルメットを抜きとった。ヘッドフォン端子を抜いた瞬間のように、渡良瀬の清洌な水音が耳に響いた。冷たく澄んだ水の合唱。我を忘れた心地で耳を傾けていると、子供の頃の記憶に積もった埃がみるみる洗い流されて、もとの姿を現してくるようだった。生まれ変わった記憶が気泡のように次から次へと浮かび上がる。それらに促されて僕は再び上流へと道を進めた。
流れは谷に沿って右に左に奔放な曲線を描く。岩肌あらわな崖に窮屈に挟まれたところもあれば、大小無数の石の敷きつめられた川原が両翼を伸ばしているところもある。そのような変化に合わせて水もその音色を繊細に変えていく。水辺に枝を差し延べる裸の桜が川底の石とともに、その姿を水面に揺らしている。どこからか運ばれてきた楓の葉が透明な流れに一点の色彩を落としている。自然の絵巻はどこまでも広げられていった。
上流に向かって遡りながら、僕は自分の右下を流れ下りていく光景に絶えず目をやっていた。バックミラーに追走車の姿を認めたとき、左カーブの山陰から対向車が現れたとき、ひやりとする瞬間がなかったわけではないが、よそ見運転は概して運に守られていた。
が、運だけに依存した無事はそう長く続くものではない。僕は油断が十分に熟していたことに気づかなかった。砂利に前輪が取られたとき、しまったと思う暇もあったろうか。次の瞬間には僕の右足は130kgのバイクの下で軋みを上げていた。
激痛が患部から脳天を貫き、吐き気が喉を突き上げた。このとき前後に車がなかったことは幸運なことだった。僕は車線の真ん中に横転したまま、苦痛に染め抜かれた体をよじりによじった。前方の鉄橋を渓流鉄道が硬い響きをあげて渡っていった。目も眩む痛みの中で、なぜかそのことが記憶に残っている。10月30日、午後2時過ぎだったと思う。
生まれて初めての救急車に乗せられて地元の病院に運ばれ、翌日、家に近いこの病院に転院した。診断は右腓骨亀裂骨折。すぐにこれも初めての手術を受けた。一応交通事故なので、頭部や腹部のレントゲンを含め一通りの検査も受けた。ただ、きれいに折れているので、かえって治りも早いだろうとのことで、なるほど松葉杖をついてなら、もう歩くこともできる。感染予防の点滴も昨日で外れ、退院まであと一週間を待てばいい。
「若いんだねえ。回復が全然ちがうよ」
相部屋のおじさんたちが口を揃えて、そう言った。その何気ないひとことが意外にも僕を戸惑わせた。「そうか、僕は若いんだ」と何か新鮮なことのように感じた。
入院当初は大学受験中の貴重な時間を無駄にしてしまったと随分悔やまれる思いだった。ちょっとした気分転換のつもりの遠出が大変なロスになってしまったと腹立たしくさえ思えた。それを取り返そうと躍起になって、手術の日にまで参考書をめくった。
もちろん勉強は今も続けている。だが真に貴重な時間とは何だったのだろう。器具で固定された右足を見ると、そう思う。そして意識から背を向けられながらも、ちゃんと働いてくれていた『若いということ』が愛しいものに感じられてくる。
昭和63年11月5日(土)
今日は朝早くから眩しいほどの陽が射し込む暖かい一日だった。院内の空調は数日前から暖房に切り換えてあるらしいが、それも今日は必要ない。それどころか、じっとベッドに横になっていると背中に汗が滲んできて、冷房がほしくなるような日和だった。春と間違えたのか、小さな虫も姿を見せ、開け放してある窓から何匹も入っては、また出ていった。
そんな中で一匹の蜂が僕の注意を引いた。蜂なんかがこの季節に生き残っていたこと自体軽い驚きだったが、僕の印象に残ったのはそんなことではない。そいつは神経質な羽音をたてて飛び込んで来たかと思うと、他には何も見えない様子で窓から二つ目の僕のベッドに向かって、まっしぐらに近づいて来た。床頭台に母が飾ってくれた、さざんかの花をめがけて。そのとき蜂と花と僕の顔とがほぼ一直線上にあったので、蜂が羽音を増しながら僕の視線を滑って来たときには、ちょっとした戦慄を覚えた。しかし蜂は花の10㎝ほど上でバランスよくブレーキをかけ、その中の一輪に身を休めるべく下降を始めた。
まさにその瞬間だった。僕も思わず「あっ」と口に出したほどだった。蜂が足を降ろす刹那、真っ白なさざんかの花は壊れかけの風ぐるまのように首をぐるりと半回転させ、卓に落とした自らの影に吸い寄せられるように、そのまま真っ直ぐ落下した。この音もなく営まれた一瞬の光景を僕の目は理科実験のVTRを見るようにつぶさに捉えていた。凝縮された時間と空間。そんな印象だった。
一心に目指してきた目標を瞬間的に失った蜂は、虫なりに困惑した様子で不安定に身を空に保っていたが、なぜか他の花には目もくれず、落ちた一輪に未練を見せながらも、やがて窓外に飛び去った。些細な出来事ではあったが、このことは妙に僕の記憶に焼きついた。
もっとも、ここが内科か外科の病棟だとしたら、あるいは同じ整形外科でも腫瘍か何かの患者だとしたら、花がポトリと落ちる瞬間を見て、あまり良い気持ちはしなかったろう。そもそも椿やさざんかは見舞いに携える花ではないらしい。看護婦さんにそう教えられた。初めは、そんなものかなと思って聞いていた僕も、あのいかにも生命の終焉を感じさせる落ち方を見ては納得しない訳にもいかない。ただ綺麗だから、と飾ってくれた母も、花の落ちたタイミングの良さに感心している僕も気楽なものだ。
でもあの蜂はあのあとどうしただろう。気に入った花を見つけて翅を休めただろうか。暖かい日だとは言え、もう11月だ。まもなく冬の冷たい風が訪れる。
「落ちてしまった一輪の花しか目に入らないなんて、そんな融通の利かないことでは生きていけないよ」
そんなことを思った。
床頭台に目を戻すと、あの一輪のさざんかは落ちたままの状態でうつ伏せになっている。左手を伸ばし、それを軽く掴んで鼻に寄せてみた。涼しい香りが鼻孔の奥にまで沁み渡り、花びらの冷たく繊細な肌触りが唇にそっと伝わった。ごみ袋に捨ててしまうのも何となく忍びない。どうしようかと思案したあげく、窓から中庭の植え込みに投げ入れて、木々の懐に帰してやることにした。
僕は松葉杖を脇に挟んで難儀に足を下ろし、手のひらに花をのせたまま窓辺に体を運んだ。そして外の陽を受けて自らの花びらで鮮やかに彫り込んだ影と、うっすらと濡れたように放つ光沢との綾を描いた白いさざんかを、中庭の常緑の植木に向かって手渡すようにそっと投じた。さざんかは花びらを散らして、くるくると回りながら(それは何の抵抗の力も持たずに、といった感じで)高く梢を伸ばした広葉樹の葉陰に消えていった。僕は花の軌跡を追ったまま中庭に視線を落としていた。左手には花のつややかな感触がまだ残っていた。
どこかの病室から女性の歌声が聞こえてきた。ピアノの伴奏と支え合うその声は、僕のような素人の耳にも素直に馴染んだ。カセットテープかFMでも聴いているのだろう。院内では音楽の類はイヤフォンをかけて聴く規則になっている。が、このときは特に不快にも思わず、日射しの中を舞ってくる気持ちのいいメロディーに静かに耳を傾けていた。
昭和63年11月7日(月)
昨日受け取った10月分の入院費の請求書を眺めながら、こんなことを思った。
72,550円という請求金額が高いのか安いのかは分からない。が、家計にとって予期しない出費であったことは間違いない。バイクには対人保険しかかけていなかったので、自身の医療費に対する補償はない。このあと退院時にも、その後の通院にもお金をかけさせると思うと、申し訳ない気持ちとともに初めて親のありがたみを知った気がした。これは入院生活を通して初めて自分の内部から掬い上げた貴重な実感だった。
感謝、ということば。このことばを知ることと感じることとは何と隔たりがあることだろう。同時にこのような特殊な機会でもないと、この実感を得ることもなかっただろうと思うと、これまでの自分の思いの到らなさを知らされた気がした。
昨晩、母から預かったお金の入った銀行の封筒に請求書を折って入れ、会計窓口に出かけたのは午後3時過ぎのことだった。
僕のいる整形外科病棟のある本館5階から窓口のある新館へ行くには、いったん2階に降り、渡り廊下を通ることになる。左右両面と天井をガラス張りにした気持ちの良いところだ。ここから、おもちゃのような家並の向こうに秩父の山々を臨むことができる。目新しい景色ではないが入院中の身には新鮮に映る。通りには下校途中の中学生、高校生の姿が溢れている。黒の学生服、紺のブレザーやセーラー服が行き交っている。歳相応の普通の恰好に軽い羨望を覚えた。
ここを通ってエレベーターを降り、1階の入退院受付の窓口に着いたときには、先日実感した若さをもっても疲れを隠せなかった。おまけにその時間は面会時間とかちあっていたため、支払いの人と見舞いの人とで酔いそうなほどに、ごった返していた。外来のレジの前には数珠のように列を成しているし、ロビーの椅子も埋め尽くされている。このほかに薬局の前や各科の診察室、そして病棟も合わせるとその数は500人を超えるだろう。これだけの『病人』がひとつところに呼吸している。考えてみると非日常の空間だ。取りも直さず僕もその一要素だということが奇妙な新発見に思えた。
窓口で番号札を受け取ってから10分以上も待たされていたので、いつの間にかそんなことを考えていたが、突然マイクで自分の番号を呼ばれて本来の目的を思い出した。
受付の女の人は「お会計は72,550円になります」と至って事務的に金額の確認をした。そして僕が差し出した一万円札8枚を丁寧に二度繰り返して数え、レジスターに打ち込んだ。
僕は物珍しさも手伝って彼女の様子をじっと観察していた。ほっぺたが赤く染まった顔を見ると、僕とそう歳も変わらなそうだ。鈴の音のような声がかわいく思えた。こんなとき、つい名札に目をやってしまうのは、相手の名前を知るだけでも、それが架空の甘い未来の入り口になるかのような勘違いの期待からだろうか。
ところが彼女の胸の名札はプレートが下に傾いていて、安全ピンが虚しくのぞいているだけだった。この滑稽な空振りに「胸の名札が下に傾くということは、それを押し上げる『土台』に乏しいということか」と一矢報いた気になり、体裁悪く俯いた。
こんな愚にもつかないモノローグに、ひんやりとした幕が引かれたのは、会計を終えて立ちかけたときだった。そのときまでは気づかなかったが、隣の席で40歳ぐらいの女の人がハンカチで目を抑えながら何かの手続きをしている姿が目に入った。「先生にも看護婦さんにも本当に良くしていただいて…」という声が聞きとれたとき、おおよその事情は察することができた。
亡くなったのは家族だろうか、老いた親だろうか。そこまでは分からなかったが、病気あるいは怪我に抗しきれずに消えていく人が確実にいることを感じた瞬間だった。
この同じ瞬間に思いもよらぬことが起こった。受付の奥の事務室から、どっと大きな笑い声が上がったのだ。それはまさに『爆』笑であり、笑い声は散った火の粉が燃え残るように、いつまでも余韻を引いていた。
初め呆気にとられた僕は、次第に不快な気分になっていった。もちろん仕事中だって人が集まれば楽しいこともあるだろうし、笑いは衝動的なものだから止めることはできないだろう。このときほど露骨ではないにせよ、ナースステーションで冗談を言い合う声が病室にまで届くことは少なくない。
だからといって患者の気持ちをなおざりにしているとまでは思わない。病棟や窓口、また検査室でも親切に接してくれていると思う。では自分たちの職場に対する自覚の不足か。そう断罪することは可能かも知れないがそれもしないでおこう。健康な人が病気の人の気持ちになって相手に接するということは、口で言うほど簡単なことではないからだ。それは僕自身を振り返ってみればよく分かる。いや患者同士だって互いに共有する心理なんて知れたものだろう。
人間なんて狭量なものだ。他人の気持ちにどれだけ近づくことができるだろう。そして近づこうと努めることも容易なことではない。ふとした緩みでふりだしに戻る。患者の姿が視界から消えると、そのまま意識からも消えてしまうのだろう。消えてしまった患者の気持ちにどうして思いを致せよう。そう考えると病棟でも窓口でも職員の人がおきまりに口にする「お大事に」というひとことも、どこか脈の通わない空言のように思えてくる。これは怪我人の僻みだろうか。かも知れないが一患者の率直な印象でもある。
僕は随分と理屈っぽい性格のようだ。日記なんかをつけ始めて思わぬ発見をした。自分自身さえも分からないのが人間ならば、他人を分かってやれないのも道理というものか。
こんな考えを巡らせながら部屋に戻ってきたとき、時刻はすでに4時近くになっていた。と言うことは病室と窓口との往復だけで1時間近くも費やしたことになる。待たされた時間も当然含めてのことだが、健康な足でなら10分で行って帰れるところを何倍もかけてしまった計算だ。
僕は改めて思った。健康も時間も代えの利かないものだ。いや健康や時間ばかりではない。身近にある大事なものを、備わっていて当然とばかり、知らず知らずのうちに疎略に扱ってしまう。かけがえのなさは知っているつもりでも傷つきやすいことに気がつかないのか。失ってからでは遅いというのに。
考えてみると身のまわりにあるもので、何一つとして自分で勝ち得たものなどはない。すべては与えられたものだ。それらに正当で積極的な評価をしなくてはならない。
これも感謝だ。健康に感謝、時間に感謝。親に感謝、命に感謝。感謝がなければ、それらに思いを近づけようもない。この発見を大事にしたい。
大切なものを見落としたままで生きる、そんなことだけはしたくないと思った。
昭和63年11月8日(火)【1】
十分な睡眠時間を与えられると分刻みの生活に慣れた体は、かえって困惑するものらしい。9時の消灯時間を大きく過ぎても、目は冴え冴えと明かりを懐かしみ、いつまで経っても睡魔の足音は聞こえてこない。
朝は朝で暗いうちに目が覚めて、陽が昇るまでの不安な時間を闇に抱かれて過ごさなくてはならない。そんなときにどうしても考えてしまう。このベッドの上でかつて息をひきとった人がいるかも知れない、その霊がこの部屋にさまよっているかも知れない、と。
この考えは追い出しても追い出しても、すぐにまた戻って来て、さまざまな空想を闇に映す。臆病な心がよほど居心地良いのだろう。だから同室の人たちの囁き声や、ごそごそと動く音、イヤフォンから漏れるラジオの音などが聞こえると、不快どころか心からほっとさせられる。そんなことだから陽が昇ったときの喜びと安心感は言い知れないものがある。
太陽の恵み。意味のはき違えを十分承知で、その恩恵に感謝してしまう。
今朝も起床前の日課のような不安に脅えながら、ふと慈しみ深い太陽の昇る姿をこの目におさめてみたいと思ったのは、我ながら悪くない発想だった。考えてみると僕は正月でさえ日の出に接したことがない。退院したのち、そのためにわざわざ早起きする気にはなりそうもない。そう思うと、今日がまたとない特別な日のように感じられた。思いつきはたちまち決意に変わった。
僕はベッドから起き、同室の人たちの睡眠を妨げないよう気をつけながらセーターやらガウンやら、とにかくあるものすべてを身に纏った。
決意、という幾分重いことばを持ち出した意味は実はここにもあった。真冬に向かう季節なだけに早朝の寒さは痛いと言っていいほど身に応える。まして僕は怪我人だ。寒気に晒されるのが患部に障るであろうことは本能的にも分かる。せっかく決めたことだから、と気持ちを奮い立たせて病室を出るまでには、やはり決意と言うだけの勇気を要した。
いったん病室を出たら、深夜帯で2人しか詰めていない看護婦さんたちの目をくぐって病棟を抜け出すのは造作もないことだった。僕は松葉杖を巧みに操り、抜き足差し足で屋上へと向かった。
入院患者は屋上へは立ち入り禁止になっている。間違いを起こさせないためだろう。特に夜間は入口に鍵を掛けてあるので行こうにも行けない。が、守衛さんが定時の見回りをする際、朝は早めに解錠してあるのだと同室の人から聞いたことがある。
ドアのノブは情報通りガチャリと音をたてて回った。その音が意外と高かったので一瞬緊張したが、辺りの様子に変化がないのを見て、僕はゆっくりとドアを押し開いた。
待ち構えていたように流れ込んで来た冷気に思わず腰が引けたが、意を決して敷居をまたぎ、足を外に踏み出した。途端に氷のような空気に包まれ、僕は操り人形の木偶のようにガクガクと全身を震わせた。歯もかち合わず、声も出ない。手術後の身では足踏みもかなわない。どんな洒落でも笑えないぞ、というぐらい硬直した顔をしていたと思う。帰ろうかな、とさすがに思った。
しかし、そうさせずにこの場に強く引き止めたものは一体何だったのだろう。今日の日の出に不義理をすると、今日得る恵みと行き違ってしまう。そんな土着信仰的な思い込みが確かにあった気がする。
遠くで電車の走る音が闇を抜けてこだまする。明々とした車窓の残影が目に浮かぶ。孤独感を慰めてくれる人の営みの気配だ。ニワトリも犬も寝ているというのに。つくづく人間は時間の動物だと思った。中枢神経を左手首に巻いて。
が、見当外れの東の方角が、ぼやけた明かりに包まれ始めると、とりとめのない考えはきれいに断ち切られた。自ずと気持ちが引き締まり、寒さも忘れ、僕は生まれて初めての日の出の光景に引き込まれていった。
視界のいちばん奥の空が見る見るうちに乳白色を広め、夜の色を食い尽くしていく。やがて胸の高鳴りを秒読みに一点の光源が稜線から顔を出すや、それは威厳を持って自らの玉座に昇って行った。
『屋上』桟敷から臨んだ一大戯曲。僕は満足に胸を浸し、辺りがすっかり朝の日差しに包まれているのも気づかず、いつまでもその場に立ち尽くしていた。痛みも寒さもどこかに置いてきたみたいだった。そうしながら僕は一つの思いを巡らせていた。
太陽が昇る。これは言うまでもなく地球の自転を意味する。また、その地球も規則正しく公転を繰り返している。つまり絶えず猛烈な勢いで回転を続けているわけだ。ところが、そんな激しい動きの中にあって僕たちは、それに気づかずにいる。このことを重力理論を持ち出して説明するのは容易かろうが、僕にはこれが妙に暗示的なことのように思えた。
僕たちは自分の周りで何が起こっているのかに常に鈍感だ。まして何が起ころうとしているのか知るよしもない。たとえ運命の巨大な渦に翻弄されていたとしても、それに気づく術もないのだ。
幸福だと信じて不幸の扉を開き、破滅かも知れない成功に夢を馳せ、山頂に届くと思い込み樹海に足を踏み入れる。裸足で砂浜を歩いているときのように、十分注意しているつもりでも足を傷つけることもあれば、ちょっと気をつけていれば、すぐに見つかる綺麗な貝を見過ごして通ることもある。それならば今こうして生きているのは一体どういう状態なのだろう。
ちょうど、このとき「いたいた!」という叫び声が上がった。その声でたちこめていた妄想を吹き飛ばされた僕は、あとに残った寝ぼけた知恵では状況を把握しかねて、一瞬その場に立ち竦んだ。夜勤に入っていた看護婦の宮崎さんが紺のカーディガンの裾を翻して近づいてくるにつれ、ようやく自分の置かれた状況を理解でき、行動の軽率さにも気がついた。このときの僕と同じことを他人がしたとすれば、おそらくは僕もその軽慮を責める側にまわっただろう。客観的な視点で自分を顧みることができないとは情けないことだ。僕は苦い思いで、来たるべき叱責に身構えた。
ところが宮崎さんは、刺激して早まったことをさせまいとでも気を回したのか努めて優しく、
「もう、心配しちゃったわよ。こんなところにいて肺炎にでもなったら、どうするの。内科でもう一月入院したい?」
そう言って僕の背中に手を回した。何重にも着込んだ上着より、その手はあったかく感じた。しょんぼりと連れ帰られる途中でも、
「受験中って、どうしても焦るものよね。でも一年ぐらい遅れたって、その分よけいに勉強して良い大学に入れたほうが得じゃない」
とか、
「私の友達でね、骨折して入院したとき知り合った彼氏と、もうすぐ結婚する子がいるんだけど、その子なんか、怪我の功名、怪我の功名って喜んでるだから」
とか、絶えず明るく話しかけてくれ、決して責める様子を見せなかった。いい人だと素直に感じた。心の隅で、そうじゃないんだけどなぁ、と小声で呟きながら。
病棟に戻って先生や看護婦さん、それに同室の人たちに謝って今回のことは許してもらった。それで、ほっとしたところへ、日勤帯になって出勤してきた婦長さんに今一度の注意を受けたのち、今これを書いている。
今回は僕がまだ子供と見做されたおかげで、訳を話したら半ば呆れられながらも、それで済ませてもらえた。宮崎さんは「なぁんだ」と大笑いしていた。だが何もなかったから良かったものの、ひとつ間違えば大きな問題になりかねないわけで、もっぱら反省に身の縮む思いがする。
看護婦さんの人員確保が、いま深刻な課題であることは新聞でも読んだことがあるし、それ以上に実際にこの目で見て良く分かっているつもりだ。何しろ昼間でも10人足らずの人数で数十人の入院患者の看護に終日走り回っている。夜間など2人か3人という厳しい体制で、急患でも出れば他の患者に目を配る余裕などあるはずがない。にもかかわらず何か事故でも起きれば、管理の手落ちと責任を問われることになる。それでも、みんな明るくよくやっているとつくづく感心する。
思いつきに任せた思慮の足りない行動だった。この程度の成り行きも予想できずに運命の芝目を読めるはずなどない。そう得心したところで、ひとまず今はペンを置く。
昭和63年11月8日(火)【2】
寒気が僕の体に撒いた種は立派な風邪となって実を結んだ。それ見たことかと言われそうで、何とか隠しおおそうと姑息な知恵をあれこれと絞ったが、同室の人にうつしでもしたら大変だし、何より募りゆく症状には勝てず、とうとう午後の内科受診となった。
順番だから来て下さいと連絡があり、真新しいカルテと診察券を手に内科の診察室に向かったのは外来患者も退けて来た午後3時過ぎのことだった。内科外来は新館の2階、昨日赴いた会計窓口のちょうど真上辺りの位置にある。だから新館と本館の2階どうしを繋ぐあの渡り廊下を今日も通ることになる。
鼻の奥に帯びた熱が全身にだるい脱力感を送り込んで来る。瞼がだらしなく下がって、目に映るものに焦点が合わない。絶えず鼻がたれてきて、表情がしかめがちになる。
が、すっと一本、糸を抜くように表情を緩めてくれる出来事がそこで僕を待っていた。
左右とも床から天井まで一面ガラス張りの渡り廊下には、今朝凍えた空気に炎を滲ませながら見る見る高く昇って行った太陽が、西の空から赤みがかった木漏れ日を斜めに投じていた。光と影がまだら模様に射し込んで、魚影のように泳ぎ回っている。その中をくぐるように、通路の向こう側から一台の車椅子が近づいて来るのが目に入った。
何気なくそちらに目を向けたとき、日射しが僅かに強さを増した。すると樹影も色を濃くし、その自然の照明の中に一瞬、車椅子の姿が見失われた。
軽い戸惑いを覚えた直後、その姿が間近で浮かび上がったとき、そこに無心でやや力無げにこちらを見上げる2つの目を見出して、僕ははっとさせられた。髪を襟足から左肩の前に回して束ねた中学生ぐらいの女の子だった。その顔に識別できないほどの微かな笑みが浮かんだかと思うと、彼女はすでに僕の背を通り過ぎていた。僕は思わず足を止め、あとを目で追った。が、その姿は車椅子を押す、おそらく母親であろう人の背中に隠れて見えなくなったあとだった。
近づくことと遠ざかることは一つの線上にあるんだな。漠然とそんなことを思った。
僕は不思議な気分の良さから、手摺りに寄りかかって、しばらくその場に立ちつくした。気がつくと僅かな時間の経過で外の景色も随分と変わっていた。中庭を歩く人や下校途中の学生もまばらになり、空も暮れ色を増していた。そこを刷いたような雲がゆっくりと動くのを見て、何か僕だけが佇んでいた分だけ遅れた時間の中にいるような気がした。
もっとも『遅れた時間』の中にいたのは僕だけではなかったようで、この間に「患者がまだ来ない」と内科外来から病棟に再三の苦情が寄せられていたらしい。ようやく現れた「社会を知らない学生」(看護婦談)に対して、内科外来の人たちはすこぶる冷たかった。
反省ばかりの一日だったが、それでも思いはあの車椅子の女の子へと向かってしまうのだから、なるほど社会常識も責任感も欠けているのだと思う。
あの子は、この病院の300人近い入院患者の一人なのだろう。誰なのかはもちろん分からない。が、あのあと内科の診察室に向かう間も病室に戻ってからも、再び婦長に叱られてからも、余りに印象的だったこのときの情景は頭から離れることがなかった。そしてなぜか、このままずっと残して置きたいという思いが満ちていった。
昭和63年11月9日(水)
住み慣れた静かな住宅街の自分の家の自分の部屋で、自分の机について今これを書いている。目の前には英和辞典や国語辞典、数学や世界史の参考書が以前と同じように並んでいる。10日余りの間、開かれることのなかったそれらの本や、箪笥やステレオも母が綺麗に埃を落としてくれている。久し振りにこの椅子に腰掛けたとき、自ずと深いため息が出た。訪れて当然のこの日が、ちゃんと来てくれたことにありがたみを覚える。今日、10月30日からの入院生活にようやく終止符を打ったのである。
今朝も僕は早すぎる目覚めから、冴え冴えとした視線を暗い天井に擦りつけて起床時間の訪れを待った。だが心境の違いとは驚いたもので、苦痛以外の何物でもなかったこの時間が旅行先での最後の夜のように、過ぎるのが惜しい時間に感じられた。
やがて外が明るみ、病棟に物音や話し声が通い出すと、隣のベッドのYさんは僕がまだベッド周りのカーテンを開けないうちから、
「おい、今日はとうとう釈放だな」
と声をかけてくれた。姐御肌といった感じの婦長さんも開口一番、「おめでとう、よかったわね」そう言ってくれた。
「もう、すっ転ぶんじゃないぞ」
「若いのがいなくなると寂しくなるな」
「大学受かったら、ちゃんと教えてね」
「たまには遊びにいらっしゃいよ。お姉さんたちがかわいがってあげるから」
と先生も看護婦さんも同室の人たちも口々に祝い、励ましてくれた。朝の検温も入院食も風邪で増えた薬の服用も、これが最後だと思うと感慨があった。
退院手続きは母が先に済ませて来たので、昼前にはもう帰るだけになっていた。母と一緒に同室の人たちに挨拶をし、ナースステーションで先生や看護婦さんたちにお礼を言っていると宮崎さんが昨日の出来事を指して、
「あの事件がなかったら模範患者さんだったのにね。なぁんて嘘よ。受験、頑張ってね」
と、からかい半分に言って目を細めた。『事件』のことを昨日のうちに知らされていた母は体裁悪そうに頭を下げ、僕は反省を新たにさせられた。
母と僕はエレベーターで2階まで降り、新館の正面玄関に向かった。途中あちらこちらに目をやりながらも、パジャマ姿の人と擦れ違うたびに何か申し訳ない気持ちがした。そして、あの渡り廊下から外の景色を眺めたとき、昨日の情景が自然と目に浮かんできた。また、あの女の子が通らないかな、と辺りを見回したが、どこにもその姿は見つからなかった。僕はわずかに後ろ髪を引かれる思いで、その場を去った。
相変わらずたくさんの外来患者でごった返すロビーを抜け、正面玄関からタクシーに乗り込む前に僕はもう一度病棟を大きく見上げ、さようなら、ありがとう、と声に出さずに別れを告げた。
この11日間は一見、大変な損失であったように見える。身体的、精神的な苦痛を受け、生活に不便を強い、家族を心配させ、また経済的な負担もかけさせた。あまつさえ受験中の勝負の秋を大きく失ったようなものだ。
だが今こうして自分の部屋に戻って来て、飽きるほど見慣れたものが新鮮に感じられる自分を顧みると、これまでの11日間が無益なものだったとは思えなくなる。僕は今回の入院を通して見たこと、聞いたこと、感じたことを、これから再び始まる『普通』の暮らしの中で決して曇らせてしまうまいと思う。そのためにも、この日記はできる限り続けていきたい。ずっとあとになって、ふと振り返ったとき、この11日間が自分の一生の礎だったと思う日が来るかも知れないから。
昭和63年11月10日(木)
昨夜は早く寝てしまうのがもったいなくて、結局ふとんに入ったのは12時を過ぎてからだった。もっとも以前なら、それも珍しいことではなかったが、11日の間、9時消灯に慣らされていたので、単なる夜更かしでも解放感を味わえただけのことだ。
でもさすがに疲れがあったのだろう。朝10時過ぎに目が覚めたときには父はとっくに出勤したあとで、洗濯機の傍らでシャツを広げていた母が振り向いて、「おはよ、良く寝てたわね」と声をかけてくれた。久し振りに交わす朝の挨拶にもおろしたての気持ち良さがある。
居間のテーブルは昨晩退院祝いをしてくれたあとをすっかり片づけてあり、朝刊の脇の飲みかけの紅茶に僕の近づいた振動が輪になって浮かんだ。幼児向けのテレビ番組が平日の午前中のたたずまいを演出している。僕はソファーに腰を沈め、変わらない我が家の落ち着きを生まれ変わった心地で全身に感じ、部屋の外から聞こえてくる洗濯機の音に意識まで一緒に洗われるような思いだった。「今、ご飯の支度をしますからね」という母の声も周囲の生活音の一つのように聞こえた。
午後になって、ふらりと外に出て近所の公園や商店街を歩いてみた。松葉杖を使っての三本足歩行もだいぶ堂に入ってきた。買い物のおばさんや商店の従業員たち、かき混ぜたような遊び声に溢れる幼稚園の庭、行き交う車や犬や猫。授業中でこの時間にはいない学生の姿を差し引いても町は動きでいっぱいだった。
立ち寄った本屋ではバイクやスキーの雑誌、写真週刊誌や漫画、文庫本から温泉ガイドまで選ばずページをめくってみたが、不思議と参考書、問題集のコーナーにはまったく足が向かなかった。こうなると受験もどうでもよくなってくる。牛丼屋とハンバーガー屋を梯子したり、趣味でもないCDを何枚も買ってみたり、考えてみるとほとんど初めて衝動に任せた一日を過ごした気がする。いわゆる青春期をよほど貧相に送って来たのだろうか。
駅前まで来たときには日も陰り始め、そろそろ帰らなくては退院してまで親に心配をかけてしまうと思ったが、「衝動の締めに」と改札をくぐり、発車間際の始発に乗り込んでしまった。
席に腰掛けたと同時に電車は走り始め、「動いた、動いた」と気持ちがはしゃいだ。ちょうど学校帰りの高校生で混み出した時間帯で、彼らの会話に耳を傾けたり、窓の景色を眺めたり、はたから見たら落ち着かない様子だったろう。
今日のように見るもの聞くもの何もかも新鮮に思えたのは理由を探るまでもなく、予期せず与えられた11日間で洗い直した感受性によるものだ。当たり前のものを当たり前に見ない視点。ぜんまいの緩んだ感性は、ときどき巻き直す必要がある。
日の短い季節だ。外はつるべ落としに暗くなった。線路沿いの家々や遠くに聳える団地群が明かりを空に映している。擦れ違う電車が数え切れない人達を轟音の中で引き合わせ、すぐさま引き離していった。
窓に映った自分が他人のような顔で車内を眺めている。そして、その瞳の見つめる先に昨日までいた病院の2棟が忽然と浮かび上がった。相並ぶ2棟は向きを少しずつずらしながら遠くをゆっくり流れていった。
思いがけない感傷が湧いた。多分に夜の暗さが醸す心細さにもよるのだろう。出ることを目的に入るのが病院ではある。だが、いろいろと意識の変化をもたらされた場所だけに僕にとって、いつの間にかそれは郷愁のような思い入れのある場所になっていた。
通り過ぎた駅の数から、時間にして15分ほど経ってからだろう。いつしかまどろんでいた僕は突然鈍い、しかし苛立たしい響きに目を覚まし、反射的に音の方向に視線を走らせた。ホームのごみ箱を大きく超えてコーラの赤い缶が転がっていくのが目に入るや、停車中の電車はシューッと音をたて、扉を閉めた。間髪入れず青いブレザーの制服を着た3人の学生が辺り憚らぬ笑い声を上げた。
音に驚いて顔を上げた僕にも、3人のうちの誰かが扉の閉まる直前にホームのごみ箱めがけて、飲んだコーラの空き缶を投げ入れようとした次第は見て取れた。的が逸れたのと同じぐらいに常識を逸した振る舞いだった。あまりのことに乗客たちは眠りも会話も物思いも絶たれた様子だった。
しかし十分に予想した通り、誰一人として注意のことばを発した者はいなかった。そして僕も。
内なる自分は窓の外から暴挙を眺め、現実のこの目はあらぬ方向へ向けられて事が過ぎるのを待っている。忘れていた。これが人の集まる所、あまねく採られる平和維持の法則なのだ。すっかり慣れ切っていたこの法則からほんのしばらく遠ざかっていたことで、垢を拭い落として、一人生まれ変わったつもりでいた僕の上機嫌な感受性とやらは、社会の岸壁の前に一挙に砕け散った思いだった。
電車はこんな歪んだ平和を均すかのように揺らし続けた。僕はふと思った。平和も健康も恵まれ過ぎると、過ぎた部分が膿みになる。あの空き缶の耳障りな響きは膿みの潰れた音だったのかも知れない。あの音を警鐘と聞くか、事勿れ主義の号令と聞くか。電車の警笛が皮肉のようにパァンと鳴った。
僕は乗り過ごした電車を次の駅で降りた。家に電話をかけると、よほど心配したのだろう、母が幾分怒りを孕んだ声で、「急がなくていいから、気をつけて帰ってらっしゃい」と努めて優しく言ってくれた。
今日は一度にたくさんの人を見過ぎたようだ。世の中へのリハビリは、もう少し慎重に行うべきだった。僕は下りのホームで知恵熱を冷ましながら帰りの電車を待った。
昭和63年11月14日(月)
実に2週間ぶりの登校は、初めて学生服で町を歩いたときのような気恥ずかしさでいっぱいだった。愛用のバイクは足が良くなるまでお預けなので、バスに揺られての社会復帰第一日だった。
校門をくぐってから教室へ行くまでが妙に照れくさい。装具によって解禁した両足歩行で危なっかしく歩いている間も、周りの視線を過剰に意識してしまう。教室の引き戸を開く音が、やけに高くてどぎまぎした。しばらく不在だった人間が入ってくると空気の変化を感じるのだろうか。みんなの目が一斉に集まって感嘆の声が上がったときには、顔の紅潮を隠せなくて困った。こんなときにおどけた冗談の一つでも言える性格だったら、どんなに気楽だったろう。
それでもみんなが、そばに寄ってきて口々に退院を喜んでくれた。足がかなり回復しているのを見ると、祝いのことばも冷やかしに変わっていく。怪我した足を蹴る真似をしたり、「かわいい看護婦さんいた?今度紹介しろよ」と途端に調子が変わった。
怪我をした当初、みんなが心配してくれたのはありがたいと思った。入院したばかりの数日は誰かが入れ代わりに面会に来てくれた。ただ僕の場合に限らず、学生が入院すると面会に来る友人が他の患者に気を配りきれず、まわりから苦情が出ることが多いらしい。そうなる前に婦長さんが母に見舞いの自粛を申し入れ、母が担任のS先生にその旨伝えたのちは、みんな遠慮して足が遠のいていた。
それでもクラスの女の子が何人かで来てくれたときなど、迷惑どころか同室の人達もやけに嬉しそうな顔をしていたし、看護婦さんたちも「なぁに、あんなに彼女がいるの?いいわねぇ」などと言いながら、いたずらっぽく覗きに来た。こんなことに関心を示すのを見て、ふだんは熱心に仕事をしている看護婦さんたちも、やっぱり普通の女の子なんだと新鮮に思えた。
それはそうと見舞いが減ったことは寂しくもあったが事情は十分承知していたし、それまでの日常と縁を隔てたことは却って飾らない自分を見つめ直す良い機会でもあった。
今日、いろいろと声をかけてもらった中で「3月は一緒に合格祝いやろうな」というひとことに他のことばとは違った重みを感じた。授業で先生が替わるたびにも「もうあと数ヶ月だけど、気を取り直して頑張れよ」と異口同音に力づけられた。
励みになる嬉しいひとことであり、また元のレールに戻って来たんだ、と思い起こさせられるひとことでもあった。
昭和63年11月15日(火)
心に抱いた印象というものは留めておくつもりでいても、目から耳から絶え間なく注ぎ込んでくる日常に気づかないうちに薄められている。屋上から朝日に臨み、満足のおつりに風邪をひいたあの日、鮮やかな印象を残してすれ違った車椅子の女の子の一瞬の姿も、時間に稀釈されて、すでに掴みどころもなくなりかけていた。また、そうなるままにしておいても別段後ろ髪ひかれる思いもなかった。
ところが今日、通り過ぎていったあの子の声に、消えかけていた記憶が振り返った。
午後、高校を早退して退院後診の予約外来に出かけたときのことだ。入院中の主治医とは違う中堅どころといった感じの外来医は、患部を診るよりカルテとレントゲン写真に長く目を通し、痛みはないか、腫れはないか、と通り一遍の質問を続けた。
「う~ん、やるねぇ」とかなんとか訳の分からない満足の声をもらし、「じゃ、帰りにまた写真撮ってきて下さい」と言ってX線伝票を書き、薬の処方をしただけの3分半だった。
その後、会計を終えバス停に向かう際、院内の中庭に宮崎さんの姿を見つけた。一週間ぶりの姿に懐かしさを覚えて歩み寄ると、宮崎さんも僕に気づいて明るく手を振ってくれた。
「ずいぶん良くなってきたようね」
「ええ、おかげさまで」
「これも優秀な看護スタッフのケアの成果よ。感謝しなさい」
「はい」
笑顔で押しつけられた恩に笑顔で礼を言いながら、僕は足元を濡らす露草を踏んで歩を進めた。今は柔らかな日差しが戻っているが、僕の受診中にひと雨あったようだ。中庭の植込みに、どこか彼岸的なひとすじの小さな虹が置き去られていた。
「わあ、きれいですね」
と言いながら宮崎さんの脇をすり抜けたとき、彼女の陰から一人の女の子のうつむいた横顔が現れ、はっとさせられた。
なんて綺麗な横顔だろう。前髪に透ける額から一本の線が描かれるさま。それは僅かに反った鼻を滑り、唇を伝い、喉元を抜けて襟の中に潜っていく。僕はその線を目でなぞりながら胸がいっぱいになった。どの一点もそのすべてであるほどの完璧な精度で描かれた一本の線。それは僕には奇蹟に思えた。
消えかかった光の橋の下から、この女の子が顔を上げた。あの横顔が角度を変えただけにしては、あどけない表情だった。二重まぶたの虹の下に映った僕の顔が「あっ」と口を開けた。埋もれかけた記憶が現実とすばやく共鳴した瞬間だった。
「あ、この前の…」
先に声を発したのは、この女の子の方だった。高く澄んだ涼しげな声。この声が心地よく感じられたのは僕の顔が上気していたせいか。
「なに?あんたたち顔見知りだったの?もっとも同じ病棟だから会っていても不思議はないけどね」
同じ病棟?まったく知らなかった。こんな偶然があるのだろうか。いや偶然も必然も解釈の仕様で背中合わせの二つか。でも、こういう場合、予定された必然をどこかで意識してしまうのが最近の僕の常だ。そもそも偶然なんてあるのだろうか。張り巡らされた因果の網を人が読み取れないだけなのではないか。
「やだ、なに見とれてんのよ」
宮崎さんに背中を叩かれ、僕は我にかえった。結構な痛みでむせ返りながら、
「ひどいなあ、これでも僕は患者なんですよ」
そう言い返すと女の子はおかしそうに目を細めた。
「友子ちゃん、このお兄ちゃんがね、有名な屋上初詣事件の小林少年なのよ」
宮崎さんが僕のことを最悪の表現で紹介すると、女の子は思い当たったような表情で「ああ」と言って、申し訳なさそうに笑った。
「さあ、友子。風邪ひくといけないから、そろそろ戻ろうか。小林くん、今度来たら友子ちゃんのところにも寄ってあげてね」
宮崎さんのこのことばに、はにかみながらも女の子は、ちゃんと僕の目を見て、
「もし、よかったら、本当に…」
遠慮がちにそう言った。森の中の空気のように澄んだ声で。
別れ際に宮崎さんは女の子の手を取って得意のふざけた調子で、
「じゃ、友子ちゃん。お兄ちゃんにバイバイは?はい、バ~イバイ」
とその手を振らせた。そのときのあの子の照れた表情、そして全然似てないけれど姉妹のような二人の後ろ姿は、これを書いている今も間断なく瞼に蘇ってくる。
『渡り廊下ですれ違った車椅子の女の子』は、中静友子という名を得て記憶から蘇った。なかしずゆうこ。同じ整形外科病棟にいた子だったとは。ますます縁を見出したようで無神経に喜んだとき、あの子供っぽさを残した顔をかすめる影に気がついた。
僕たちがほかのどこでもない、ここで出会ったということ。それは確実にある前提を要することだ。右足の骨折が僕をこの病院に導いたように、あの子にもこの場所へ結び付ける何かが潜んでいるはずなのだ。それが何であるかは分からない。意外と考え過ぎるほどのことでもないのかも知れない。今日のあの子は車椅子でなく自分の足で歩いていたではないか。
が、こうした場合、想像は悪い方への坂を転がりやすい。すると今思い浮かべるあの子の顔が明るければ明るいほど、そこに色濃い影を意識しないではいられなくなる。
昭和63年11月17日(木)
期待というものは軽やかな実行を生む原動力になるかと思いきや、ときとしてブレーキだったりバックギアだったりもするようだ。
「もし、よかったら、本当に」
このひとことが初めにもたらした期待は、やがてその額面からぽろぽろと別の意味がこぼれてくるにつれ、かえって二の足を踏む材料となっていった。
社交辞令であったか、別れ際の恰好の挨拶に過ぎなかったのか、言った本人も忘れているような特に意味を持たないひとことだったのか。
猜疑は一度芽生えると摘みとれないばかりか、足元をからめて前進を鈍らせる。僕の面会を本当に快く受け入れてくれるだろうかという心配が、うるさい小蠅のように飛びまわっていた。自信とは何とぐらつきやすいものだろう。
目的に向かってあと一歩踏み出す勇気が足りないために思い煩うことが多いのは、たぶん僕だけではないだろう。こんなとき誰かが手を携えてくれればとか、何かきっかけがあればとか、つい他力を頼みたくなるのが常だ。見えない手による導きがあったとしたら、それは大袈裟に言えば、運命がちらりと顔を覗かせたのかも知れない。そういった意味でも、渡り廊下で出会ったあの日、昨日の再会、そして今日の出来事は星座のような連関で結ばれている気がした。
期待を叶えるための洗礼とも言うべき緊張。期待を先送りにしてでも、この緊張から逃れたいと思うことがある。僕は中静さんの病室の前で、彼女の不在を気持ちのどこかで願っていた。
意を決して扉をノックした。返事はない。二度目を叩くつもりはなかった。今日できることを果たした満足で僕はこの独白劇に幕を引こうとしていた。そのとき舞台の袖にいつもの役者が姿を現した。
踵を返した途端、「小林くん」と呼びかけられて、弾け飛ぶほど驚いた。声の主、宮崎さんは猫のように目を細めて、
「やだ、おばけにでも会ったみたいな顔しないでよね」
と言ってケラケラと笑った。僕は緊張から解放されて、
「だっていきなり呼ぶんだもん。びっくりしますよ。そうやって患者をいじめて喜んでるんだから、まったく……」
そう言いかけたとき、宮崎さんの足元からピンクのスリッパが歩み出て、ひょいと現れた顔に僕は再度驚かされた。誰あろう中静さんだった。
「そんな、おばけに会ったみたいな顔しないで下さい」
中静さんは宮崎さんの言い回しを借りて、いたずらっぽく言った。おとなしく笑うその表情は子犬のように無心に見えた。恰幅のいい宮崎さんと並ぶと、犬を連れた西郷さんのイメージと重なり、吹き出しそうになってしまった。
「来てくれたんだ。友子、よかったね。友子ったらね、小林くんの話になると急に目が輝いて、それで?それで?って、すっごく嬉しそうにしてたのよ」
宮崎さんが手の甲で口許を隠しながらそう言うと、中静さんは宮崎さんの腕を叩いて話を制止させ、その大きな体の陰に真っ赤な顔をすっぽりと隠した。それは何ともかわいい仕草だった。
「さあ、友子ちゃん、おもてなし、おもてなし」
宮崎さんは僕を病室に招き入れるよう中静さんに促すと、僕と中静さんの2人だけを残して、さっさと持ち場に戻って行った。物足りないほど信用されているようだ。中静さんは窓際の簡素な応接セットまでスリッパをパタパタさせて駆けて行った。
いや正確には左半身がほんのわずかに傾くのをすばやく矯めて、巧みにバランスをとりながらのことだった。僕は迂闊にもこのときまでそれに気づかずにいた。
「さっきまで母が来てたので」
とテーブルの上を片づける様子はなかなか手慣れたものに見えた。訪問者の扱いには慣れているのかも知れない、とこのときは思った。ピンク色のパジャマに緑のカーディガンを羽織っただけの姿で歳も近い僕を迎えて、それでも抵抗を感じていない様子だった。いまさら恥ずかしがるでもないのかも知れないが、普通の女の子と同じ明るい表情を見せている分、何かかわいそうにも思えた。
「お母さんって、この間…、一緒にいた人?」
車椅子を押していた人、と言いそうになり、それが彼女の気持ちに障ってはいけないと、僕は急いで別のことばを探した。彼女はちょっと記憶を振り返る目をしてから、
「ああ、あの時。そうです、あれが母です。そうだ、あの時はちょっと咳がひどくって…」
と、そこまで言ってことばを止めた。咳というひとことが気にはなったが敢えてそこから離れるべく、
「ここからは見晴らしがいいんだね。僕がいた病室はナースステーションのあっち側だから、向かいの病棟と中庭ぐらいしか見るものがなくってね」
と、ありきたりのことを言った。
彼女は個室で入院生活を送っている。一人が良いのか悪いのか一概には言えないが、もし2床なり4床なりの部屋にいたとしたら、自由は制限されただろうが、そのぶん気も紛れて、女性部屋であることを抜きにしても僕の入り込む余地はなかったに違いない。
「でも毎日同じ景色ですから。お天気が良ければ、あっちの方に富士山が見えるんですけど。ああ、それに日の出も見えませんしね」
と言って彼女は、にこりと笑った。僕の『事件』が余程お気に召したようだ。
「じゃあ、退屈なときは、どうしてるの?僕は受験勉強があったから、ちょうど良かったんだけど。」
「何してるかなぁ。私、看護婦さんたちと仲良いから、みんなよく来てくれるんです。あと、小児外科の子供のところに行って遊んで『もらって』ますね。私、この病棟に移る前はあそこにいたんです。だから入院の長い子はみんな知ってるし。『お遊戯のお姉さん』なんですよ、私」
初めて会ったとき、水の底から見つめるような一種非現実的な眼差しを投げかけてきた彼女が、今こうして生き生きと僕を直視している。それが思いもかけず嬉しく、また得意な気持ちにさせた。
が、嬉しさの中に棘に触れたような疼きもあった。小児外科の病棟にいたと彼女は言った。それは小学生の頃から病の床に就いていたことを意味する。今いくつなのかを知りたかったが、入院年数を尋ねるようで聞きづらかった。おそらく13か14だろう。ということは1年以上も入院を続けていることになる。ただの骨折なら、そんなに長くかかるものではない。17の僕でも「若い人は治りが早い」と言われたぐらいだ。足取りこそ僅かに不自由そうだが、それを抜かせば普通の子と何も変わったところがない。それがどういう事実を包み隠しているのか、僕にもまったく想像がつかないわけではない。これ以上は知らない方が良いのかも知れない。知らずにいるためには接触を控えることか。そうする方が僕自身のためにも良い気がする。
では自分を守るために、あの笑顔に背を向けることができるだろうか。
帰り際にあの子は言った。
「今日は本当にありがとうございました。来るって言って下さったけど、宮崎さんに話を合わせただけかな、とも思ってたんです。だからあんまり期待するの、よそうって。あ、こんなこと言ってすみません。でも来るって言って来てくれなかった人、いっぱいいたものですから。だから、とっても嬉しかったです」
僕がここを訪ねる直前まで抱いていた憂いを、彼女はちょうど反対側から眺めていたのだ。しかも過去の苦い思いから慣らされた諦めを以て。それはどんなにか寂しいものだったろう。
あの得難いと言えるほど屈託のない表情は、大人になりかけの時期を世間から離れて過ごした代償かも知れない。あの顔を思い浮かべると接触を控えるどころか、すぐにまた会いたいという衝動さえ萌してくる。
現に目の前にいる人を推測越しに見て、これを避けるような真似はしたくない。まして自分を守るために、あの笑顔を傷つけるようなことだけは。
昭和63年11月22日(火)
「あっ、見つけちゃった。あれからよく来てるんだって?」
中静さんの病室、503号の手前で、別の患者さんの処置を終えた宮崎さんがニカッと笑いながら近寄ってきた。
「そんな夜這いに通うみたいな言い方しないで下さいよ。よくって言っても2回、いや3回目か。よく来てるかな、確かに」
「ひどいんじゃないの?私たちのところはしっかり避けて、かわいい子のところにばっかり行くんだから。ああ、そう、分かった。年増は趣味じゃないんだ」
「そんなことないですよ。ちゃんといつも挨拶してから来てますって。たまたま宮崎さんだけ夜勤でいなかっただけで」
「うそよ、うそうそ。冗談言ってるだけじゃない。まったくあなたは真面目なんだから。友子ちゃんにも、真面目過ぎる人って嫌いって言われちゃうわよ」
僕はこれを笑って受け流したつもりだったのだが、多少なりとも堅さがあったのか、
「また、そんな深刻な顔して。冗談に決まってるでしょ。友子ちゃんね、とっても喜んでるのよ。また来てくれるといいねって私が言ったら、小さく、うんって。かわいいよね、あの子」
そうか、喜んでくれているのか。
僕は胸の内が気持ち良く潤っていくのを感じた。ふと目を上げると、今までからかうようなことばかり言っていた宮崎さんが目許口許に柔らかい笑みを浮かべて僕の顔を眺めている。この人と一緒にいると信頼できるお姉さんのようで、とても安心させられる。それは僕が一人っ子だから自然と甘えられる兄弟を求めているせいかも知れないし、おそらく中静さんにとっても宮崎さんは同じような存在ではないだろうか。
ところが、そんなことを考えている間に宮崎さんはドアをノックし、すぐさまノブをひねって言った。
「友子ちゃん、小林のお兄ちゃんが来てくれたわよ」
このひとことに慌てたのは、それが向けられた中静さんより多分、僕の方だったろう。相変わらず行動に助走のない人だ。いくぶん気押され気味にドアの陰から顔を出すと、窓際の丸い腰掛けから、こちらに体を向けかけた中静さんの姿が見えた。
「お兄ちゃん、こんにちは」
彼女は宮崎さんの言い方を真似て、僕のことをこう呼んだ。ただ、そう呼ばれることで不要な堅苦しさを意識しないで済んだ。
「あの、本当に勉強の方は大丈夫なんですか。こんなに毎日のように来て下さって」
「うん、大丈夫だよ。ちゃんとやることはやってるから。受験は時間だけかければ良いってものじゃないんだよ」
「でも他の人たちだって、やることはやってるんじゃないんですか?私のために、もし行きたい大学に行けなかったりしたら悪くって」
このなかなか当を得た気遣いに対し、気の利いたことば、気の利いたことば、と僕が頭の中をひっくり返していると、横から宮崎さんが助け舟を出してくれた。
「いいのよ、友子ちゃん、気にしなくて。小林くん、こう見えても頭良いんだから。英語でも数学でもバババッと済ましちゃうんだって」
バババッのゼスチャーが面白くて、つい中静さんも僕も吹き出してしまった。
「それに小林くんも友子ちゃんの顔見た方が勉強に力が入るんだって。『いやぁ、最近絶好調ですよ~』って、さっきも言ってたのよ。どう、友子。嬉しい?嬉しいだろ?」
どうやら僕の物真似らしいセリフを交えたこのひとことで、中静さんはおかしそうに、また照れたようにうつむいた。そこにあの横顔の線がふっと浮かんだ。
宮崎さんは部屋を出ていくときに、ぱっと振り向いて、もう一度さきほどのゼスチャーを繰り返した。前後の空白の間を穿った絶妙のタイミングに、僕たちは腹を抱えるほど笑わされた。今日、僕たちが最後までうちとけて話を楽しめたのは、その置き土産のおかげだった。
「宮崎さんって、いい人だね」
「ええ、とってもいい人。私、大好きです、あの人」
「そうだね。僕も好きだよ」
好き、ということば。互いに宮崎さんに向けたものでありながら、このことばに微かな戸惑いを覚えたのは錯覚だったろうか。
今日、中静さんが僕の受験のことに気を配ってくれたことは思いがけず強い励ましになった。なんとしても春には吉報を持って彼女のもとを訪ねたいと思う。
いつの間にか関心からぶれていた大学受験というテーマ。これを再び意識の中心に据えてくれた彼女に感謝しつつ。
昭和63年11月23日(水)
中静さんという人は不思議な表情を見せる人だ。非常に幼い笑顔ばかりが印象に残るが、今日それと気づかれぬよう改めて眺めてみると、顔の造りそのものは、かなり大人の完成度を高めている。
すっと刷いた、やや下がりめの形の良い眉は書家の手によるもののよう。大きくも小さくもない二つの目を二重まぶたの稜線が細くしなやかに縁取っている。カーテンを押し開いたような前髪の下で、睫毛の影から真っ直ぐに見つめる、きょとんとした瞳が印象的だ。両目の間から鼻筋が緩やかに滑り始め、やがてなだらかな曲線を描いてはね上がる。小さめのくちびるは一文字にぴったりと閉じられている。お下げ髪の下からは厚みのない耳が覗いていて、その耳たぶはクリームぐらいに柔らかそうだ。これらがホクロひとつない色白な細面の顔にバランスよく配置されている。そして、あの横顔。
何もなければ、どちらかと言うと感情を波立たせることの少ない、凪いだ水面のような顔。それが澄ましたように映らないのは、整った顔立ちながらも、どこかデフォルメされた漫画のような愛嬌を感じさせるからだろう。だから『凪いだ水面のよう』でも鏡面のような微動だにしない冷たいものではなく、たとえばカルガモでもすいすい泳いでいそうな気持ちの和む水面なのだ。
この静かな水面にパッと親しみの感情が色成す様は、新鮮な驚きを喚起されるほど見ていて気持ちがいい。弓形に細めた目に睫毛の廂が下り、下まぶたにお碗型の浮き彫りができる。閉じたままのくちびるは、えくぼに引き寄せられるようにほどけていく。そして笑い声がこぼれて初めて白い歯を覗かせる。このような笑顔ほど彼女の魅力を代表するものもない。まるで心の底から運ばれてきて開花したかのように、彼女の胸の内を一瞬ガラス張りにして見せる。
中静さんはおとなしい子だけれど、相手を気詰まりにさせるようなところはまったくない。僕も話題に富んだ方ではないが、それでも彼女は途中で口を挟んだりすることなく、終始穏やかな笑みを浮かべて嬉しそうに僕の話に耳を傾けてくれる。
彼女から話題を投げかけるときは、あの良く澄んだ涼しげな声を心持ち熱くさせて、自分の関心事や身の周りの出来事を淀みなくさらさらと話す。人気ドラマやアイドル系歌手の話題が意外と多いことがいささか印象と食い違ったが、一方ふつうの女の子と変わらないことに安心もした。そんなときでも表情の変化はあくまで静かで小さいのだが、水面に生まれた波紋が速やかに広がる様に似て、目許口許のわずかな動きでも彼女の感興を気持ち良くこちらに伝えてくれる。
今日、10月に起こした事故の話をしたら、ほんの少し眉を持ち上げ、小さな相槌の声を洩らしながらそれを聞いてくれた。このときの表情も普段と比べて、映画のフィルムの一コマと次の一コマとを見比べるほど違いを見つけづらいのだが、その移り変わりをじかに捉えると、まるで若葉の季節と紅葉の季節ほどに情趣の変化を感じさせる。
気づかれないように見つめていたつもりだったが、僕の視線が集中しすぎていたせいか
「どうしました?私なにか変ですか?」
と、少し照れた顔を隠すように額に軽く手を添えた。僕は軽い動揺を取り繕って、
「いや、中静さんを見てたら何となくアラレちゃんを思い出しちゃって。ほら、メガネかけたら似てるんじゃない?」
と言って両手の指でメガネの形を作り、彼女の顔にあてがう真似をした。すると彼女は珍しく大きな笑顔に変わり、
「やだ、やめてください」
そう言って身をそらした。
このときの彼女の笑顔は帰途についてからも、ひっきりなしに目の前に浮かび、薄暗い町に立つ僕を心地よい気分に包んでくれた。
昭和63年11月25日(金)
高校の帰り、と言っても家とはまったく違う方角だが、最近は中静さんを訪ねることがほとんど日課のようになってきた。
すでに外は真っ暗で、あの渡り廊下から見た中庭の常緑樹も塗り潰したように黒く、怖いほどだった。まだ面会客で賑やかな時間ではあったが、日の暮れたあとの院内には、どこか不安な寂しさが漂っている。
どうして人は夜に死ぬことが多いのだろう。僕の入院中にも何度か死亡患者の報に接した。いずれも朝早くに人づてに聞いた。でも他病棟の患者で、もちろん知りもしない人だったから特にどうとも思わなかったし、ここは病院なのだから不思議とも感じなかった。
人の死という一大事を『特にどうとも思わない』。
あまりにも慣れきったこの感覚が、このときふいに自分のものでないように思われた。僕だって確実にそこに到るというのに。それを忘れてしまうのは、どんなに目を凝らしても先の時間を見通すことはできないからか。
では死からは僕が見えているのだろうか。そして、いつか枕もとでこう囁くのか。
「さあ、おいで。怖くないから。そう、眠ったまま来るといい。おまえは私のもとに生まれた赤子。私がおまえを寝かしつけてあげよう。朝になると私の子守歌が聞こえなくなる。また私を怖がるようになる」と。
病棟を訪ねると中静さんは超音波の検査に下りたところだそうで、ちょうど入れ違いになってしまった。暗い考えの巡ったあとだけに何となく胸が騒いだが、ステーション前の談話用スペースで長椅子に腰掛けて彼女の帰りを待った。
ところが黙っていると自然とまた深刻な想像が浮かんできて、気分が塞いでくる。こんなときは一気に明るくさせてくれる人と話すのが良い。
僕はステーションのドアから顔を覗かせ宮崎さんの姿を捜した。すぐ前の机について温度板の記入をしていた彼女を見つけると、僕は軽くドアをたたき、振り向いたところへ挨拶代わりのVサインを送った。宮崎さんもにこりと笑ってそれに応じ、準夜勤務者への申し送り前の忙しい時間を割いて出て来てくれた。
「こら、何がピースだ。こっちゃ忙しいんだよ、まったく」
「すいません。急に宮崎さんの顔が見たくなって」
「ま~た、いい加減なこと言って。分かってんだよ、友子ちゃん、検査に行っちゃって残念だったね。がっかりした?」
「した」
「あら、意外と正直に言ったわね。ふ~ん、あなたもかわいいとこあるわ。そうだ、それで思い出した。いい話、聞かせてあげようか。とってもかわいい話。ナースの間で大受けの」
「はあ、」
「おとといだったかな、あなたが友子ちゃんのところに来た帰り、あの子、そこの階段まで送りに来たでしょ。そのときにね、ちょうど上ってきた菊池と石原、知ってるでしょ、うちのナースの、あの二人と友子ちゃんと目が合っちゃったんだって。そしたら、あの子さっとあなたの前に立ってね、あなたのこと隠そうとしたんだって」
「……、隠す?」
「そう。あの子、あなたが訪ねてくることを私以外の人は知らないと思ってるみたいなのね。で、その顔があんまり一生懸命だったから、石原たちも気がつかないふりして通り過ぎたらしいんだけど、もう笑いこらえるのに必死だったって。そのあとステーションでみんな爆笑。かわいい~!って」
「そうなんですか」
「あなた気づいてなかったでしょ。石原たちも言ってたわよ。全然分かってない感じだったって。駄目よ、乙女心に無神経じゃ」
「……」
このあとすぐ宮崎さんは忙しい自分の持ち場に戻って行った。この人のおかげで、さっきまでの陰気な想像は期待以上に吹き飛んでしまった。入れ代わりに僕の胸を満たした気持ちをどう説明しよう。
隠そうとした。隠した。隠そうとした。
僕は再び長椅子に腰を沈め、静かな気持ちでこのひとことを思い返していた。そして僕の気づかなかった、その瞬間のことを思い描いてみた。そのとき僕には中静さんの二つに編んだ髪の分け目から白い首すじが見えていただろう。小さな頭、小さな肩、細い背中が見えていただろう。反射的に両腕を広げていたかも知れない。
僕は次第に彼女の帰りを待ちきれない思いになっていた。早く顔を見たくて仕方がなくなっていた。居ても立ってもいられない気持ちになって立ち上がりかけたとき、すっとスリッパの擦れる音が耳に届いた。四方を行き交う足音の中で、その音だけは音楽の出だしのように艶やかに鳴った。
振り返るとそこに、小さく微笑みながらお辞儀をしている中静さんの姿があった。僕は一瞬、胸の詰まる思いがした。その笑顔は見慣れたものながら、僕にはまさに輝いて見えた。きらきらと輝いて、こぼれんばかりに。
昭和63年11月26日(土)
「受験って大変なんでしょうね。いつも遅くまで勉強してるんですか」
中静さんは自分のところに僕が訪ねて来ることが僕の勉強の障りになるのでは、と相当気にかけているようだ。気にしなくていいと以前に言ったので、直接それに触れることは少なくなったが、それでも辛抱し切れず尋ねてくるときがある。
「そうでもないよ。結構早くから準備してたからね。おかげで今はそんなに焦らなくても見直し程度のペースで何とかなりそうだから」
「こんなこと聞いちゃってもいいですか。どこの大学受けるんですか?」
「ん、一応、T大を、」
「えぇ!すごぉい。じゃあ春にはT大生ですね」
彼女はパッと顔を輝かせ、パチパチと手をたたく仕草を見せた。「春には」と言われ、「来年の春とは限らないけど」と、つまらない軽口をたたきそうになったが、気にさせるといけないと思い、呑み込んだ。この頃は彼女の気を重くさせる可能性のあることは巧みにことばの外に弾くことができるようになった。
同様の理由で、彼女の病気のことに少しでも触れそうになると反射的にブレーキがかかる。だから未だに彼女が何歳なのかも知らずにいた。入院していた年数を尋ねるようで、どうも聞きづらかったのだ。ところが今日、その答を自然な会話の中から拾い当てることができた。
「大学で何の勉強するつもりなんですか?医学とか文学とか」
「僕はね、社会学。高校の授業でデュルケームとかマックス・ウェーバーなんていうのに、ちょっとだけ触れたんだけど、それが面白そうだったから。安直な理由だけど」
「へえ、社会学……、えへへ、知らない。でも、すごいですね。高校ってそういうのもやるんだ。ふぅん」
ここで彼女は、やや遠い憧れを見るような目をしたので、話がまずい方へ流れたかな、と注意を強めた。すると、
「ほんとなら私も高校受験なんですけどね、今年。そう思うと、やっぱり、ちょっと寂しいかなって……」
ああ、まずいまずい!
と会話の修正案を探りながらも、このとき僕の注意は完全に別の方向に吸い寄せられていた。
「えっ?それじゃ、本当なら、いま中3なの?て言うことは今年で15?」
13か、せいぜい14歳と踏んでいた僕は、この見当はずれに『本当なら』というトップクラスの禁句を口にしたことも気づかずに、そう叫んだ。
「ええ、4月生まれですから、もうとっくに。あっ、なんですか、その顔。そんなにびっくりすることないじゃないですか。そんなに子供っぽいですか、私?」
「ごめん、ごめん、そうじゃないんだ。あのね、僕に勝手な思い込みがあったから」
「それは失礼ってものですよ」
と言って彼女は両手のこぶしを腰にあてて、口を尖らせる真似をした。怒ったふりが何よりも寛容に見える、そんな穏やかな顔で。
このとき彼女は、すっと背を反り、肩を張っていた。羽織っただけの緑色のカーディガンが左右に開き、パジャマの上に浮き上がった、ふくらみ。
このとき僕は、それまで見ていた彼女が瞬く間に新しい彼女に変わるのを見た。それは夢のような奇蹟のような、二度と起こり得ない美しい瞬間。
驚きに満ちた目に気づかれただろうか。僕の前に現れた彼女、15歳の中静友子。
昭和63年11月28日(月)
今こうして机について、正面の辞書やら参考書やらに視線を向けていても、昼間見た、ほんの小さな1シーンが何度も何度も目の前に蘇ってくる。
中静さんの長い髪を襟足で結わえていた白いリボン。今日、彼女を一目見たときから真先に目に飛び込んできた。いつもはその癖のない真っ直ぐな髪をお下げにし、両肩から前に出している。今日のような束ね方は初めてだったので、とても新鮮で爽やかな印象を受けた。
が、彼女はちょっと自信なさそうに言った。
「どうですか、これ。時代遅れで変じゃありません?」
「ううん、そんなことない。よく似合ってるよ」
「本当に?よかった」
そう言うと彼女はうつむきかげんに嬉しそうに笑った。
実際それは彼女に良く似合っていた。襟足を飾るリボンは百合の花のように大きく毅然として、それでいて謙遜で清楚な存在感を湛え、彼女の黒い髪に白よりも白く映えていた。
それは妙なる調和だった。一片のレース地でしかない、その白いリボンが彼女の髪を纏い、彼女を、壁に囲まれた空間を、そして窓から見える景色までも着こなしているかのように。そこに現れた僕という異分子も、はねつけることなく融和の手を差し延べる。視界全体を包む、見えない包装紙の結び目のように感じられた。だからそれをほどいてしまったら、物理法則が崩れるように今ある姿が歪んでしまう、そんな気さえした。
その白い方程式が、あっと思う間に滑り落ちたのだ。それもちょうど彼女がこちらに背を向けていた僅かの間に。翅を広げた真っ白なアゲハ蝶が生命を終えた瞬間のように、リボンが結ばれた形のまま、すっと滑り始めるや、髪の先から抜け落ちたさまを僕はつぶさに見とどけた。
方程式が分解した。空間の秩序が破綻する。
僕はそんな切迫した真実味の欠けた緊張が空想に過ぎないことを知りながら、それでも本当に何かが起こるかも知れないという幼稚な期待を持って、その瞬間を見守った。そして見たのは、遅滞ない時間の継続という当然の帰結だった。
他愛もない想像の内からこぼれ落ちたそのリボンは、岸に打ち上げられた魚のように無力に横たわっているだけだった。髪を巻いていた部分が筒の形をそのまま残して口を開けていた。僕は一度抜け出した空想の世界に、そこからまた吸い込まれそうな気がした。そこから異次元が覗けるような、突如としてその口が目の前の均衡を飲み尽くすような。
その均衡に割って入ったのは、ほかでもない中静さんだった。彼女は幾分おどろいた表情で僕の顔を覗き込み、
「どうしたんですか。大丈夫ですか」
と声をかけた。大丈夫ですか、とは随分と大袈裟なことばだと思ったが、
「びっくりしました。だって怒ったみたいな顔で、じっとしてるんですもん」
と言われ、一体どんな顔をしていたのだろうと気恥ずかしくなった。
僕はいささか弁解気味に、この一秒にも満たない事の顛末を告げた。すると彼女は見ていても気づくか気づかないかほどの小さな驚きの色を目に映し、視線を下げた。そして照れくさそうな顔でそれを拾い上げた。
「今日2度目なんですよ。結び方が緩いのかな」
僕がそれに適当な答えを見つけかねていると、彼女は付け足すように、
「髪の毛が薄いんだったりして」
と言って、自分のひとことにくすぐられたように目を細めた。そしてリボンの両端を引っ張り、あっさりと一片のレース地に戻すと、扇状に解けた髪に再び結びつけた。
リボンが羽根の部分も筒の部分もするするとほどかれて、空想の入口が消えていくさまを僕はじっと見守っていた。そして脱け殻に再び命が宿された。
取るに足らない一幕ではあったが、酔い心地の空想に目を覆われがちだった今日の僕にとっては、流れ星でも見たように気持ちの良い得をした感じだった。
今頃、中静さんは眠りに就いているだろう。昼間、僕に見せてくれたような心地よい夢に恵まれていればいいと思う。
昭和63年11月29日(火)
美術の時間、丸く輪になった僕たちに囲まれて、一羽の孔雀鳩が落ち着かなそうに白い体をあちらこちらに向けている。ときどき羽根を広げ細木の足場から離れようと試みるが、狭いカゴの中ではそれも叶わないと悟り、すぐにまた両脇におさめてしまう。僕たちにはない空を飛ぶ力がありながら無理にもそれを図ろうとしないのは、置かれた立場を自分の空と信じているからか。それとも無心な胸に抱かれた小さな諦めからか。
この時期になっての選択授業。誰もが気もそぞろで意志なく筆を握っている。カンバスの油彩は籠の中の鳥よりも生命の羽ばたきを欠いている。そんな中、僕は鳩の向こうに別のものを見ながらひとつの思いに耽っていた。
この絵筆を介して、あの子の姿を写し取ることができたなら。
あの子の感情が編み上げる表情には、無限に細かく刻んだ各瞬間に記念碑的な輝きが溢れている。過去に流れ去るままにしておくのがたまらなく惜しいほどに。それを僕の筆先ですくい上げることができたなら。
到底かなわないと知りながら拭いきれない口惜しい望み、夢。
昭和63年11月30日(水)
退院の何日前だったか、とても天気の良い日、秋の木々が口ずさんでいるような優しいメロディーが空から舞い降りてきた。女の人の高く澄んだ声がピアノの伴奏だけに寄り添って奏でる、幸福感に満ちた歌だった。初めて聞く曲で、歌詞も日本語ではなかったため何という曲なのか分からず、ついそのままにしてしまったが、語りかけるような穏やかなその旋律は記憶の中でときおり目を覚ましては、口許にのぼってくることがあった。
最近は病院の渡り廊下で僕が初めて中静さんに出会ったときのことを思い出すと、そこをひとりでにこの歌が横切って行くようになった。実際には聞こえていなかったはずなのに、まるでモザイク画の最後の1片のように、この場面の復刻を完全たらしめる不可欠の要素となって記憶に滑り込んで来るのだ。この曲の持つしっとりとした優しさは、あのとき中静さんを包んだ窓越しの光と似て、場面全体に柔らかな色調を与えてくれる。だから事実と異なると知った上で、敢えてこのような記憶の着せ換えを許していたのだ。
そのような愛着を感じながら題名さえも調べてやらなかった、この歌の素性を、今日ふとした拍子で知ることになった。探し物が見つかるときとはそんなものかも知れない。しかもそれが他ならぬ中静さんを通してであったから、この曲を挿入しての記憶の脚色も何やら正当性を得た感がある。
感激の余韻は退け切らぬ波のように気持ちを潤している。それはつい一時間ほど前だから、もう十時に近かった。こうして机について英単語の暗誦をしていたとき、自分の口から漏れるアルファベットの無愛想な羅列の向こうに、鋭く鳴る電話のベルを聞くともなく聞いたのだった。階下から「中静さんって方から電話よ」と母に告げられたときは、その意外さの故にまず頭の整理を要したほどだった。
中静さんって、あの中静さん?
彼女が僕に電話をかけてくるなんて、普通にあることだったっけ?
いきなり与えられた情報の塊は、細かく砕いてからでないと理解の型に入れることができなかった。僕は期待を疑問に包んで受話器を握った。が、良くない知らせでは、とは考えもしなかったのだから、いまにしてみると暢気なことだった。
「もしもし」
多少うわついた調子で、そう呼びかけてみると相手からも、
「もしもし」
と答えがあった。そこに紛れもない中静さんの声を聞き分けると、用心深く控えていた歓喜がいとも単純に疑心を突き破った。いまどき誰も疑問にも思わない現代人離れした印象だが、こうして何キロも離れた中静さんと居ながらにしてことばを交わせることが不思議な気がした。
「すみません、こんな時間に。もうおやすみでした?」
「いや、まだ起きてたよ」
「あ、そうですよね。病院と違いますものね」
僕がふっと笑いを洩らすと、折り返しに声をひそめた穏やかな笑い声がそっと耳許に届いた。一体どうしたの、と電話の理由を尋ねようとすると、同時に口を切った彼女の声とかち合い、お互いに譲り合うかたちになった。彼女の遠慮がちな気質を知っているので、ここは先を譲ってもらった。
「どうしたの、一体。いきなり電話だって言われてびっくりしたよ」
「すみません。私もどうしようか迷ったんですけど。迷惑だったらいけないと思って」
「ううん、迷惑なんて」
「そうですか。よかった。」
それは手でも握ってあげたくなるような本当に安心した様子だった。
「あの、今日来て下さったときに、バスの定期だと思うんですけど、ここに忘れていきませんでした?」
「え、忘れていった?ああ、そうか。コートを脱いだときに落としたのかな。うん、そうかも知れない」
「テーブルの下に落ちてたのを宮崎さんが見つけたんです。お知らせしないと困るんじゃないかと思って、それで」
「ああ、分かった。どうもありがとう。じゃ明日必ず取りに行くよ」
受話器から、ふっと微かな息の音が伝わった。満足げな笑みを浮かべた彼女の表情を垣間見ることができるようだった。すでにバイク通学に戻っていた僕にはバスの定期は雨の日しか必要でないが、そんなことと関係なく僕にとってもこの電話は嬉しかった。
僕自身も経験から十分に知っている就寝時刻後の病棟の静けさが、声を落とした彼女の電話からもよく伝わってきていた。だから、このあと受話器の奥から誰かが呼びかけたのもすぐに分かった。
「ちょっと待っていただけますか」
と言って彼女は電話を電子音のオルゴールに切り換えた。大方、先生か看護婦さんに電話中のところを見つかって問い糺されでもしたのだろう。僕は耳に押しあてていた受話器を少し離して姿勢を休めようとした。
そのとき、はじめは無味乾燥に聞こえたオルゴールのバラバラの音符が一つの旋律に結ばれた。僕は聴覚を太い腕に掴まれでもしたように再び受話器に耳を寄せた。
それは紛れもなくあのとき耳にしたメロディーだった。機械の奏でる平坦な音楽は、次第に奏者の息づかいまで聞こえてきそうな生きた演奏に変わっていった。が、食い入るように聴き入った矢先、それは突然、中静さんの声にちぎり取られた。
「どうもすみませんでした。いま宮崎さんが、…やだ!」
彼女の声の向こうから宮崎さんが何かふざけている様子が窺えた。
「こら~、いま何時だと思ってるんだ、こら~」
そんなことを言っていたようだ。だが僕は落とし穴にでも落ちたときのように現実の把握に手こずっていた。中静さんの声という目の前の現実に焦点を合わせられずにいた。だから、そんな状態から急に発した、
「今の曲、なんて言うの?」
という問いに彼女が「えっ」と当惑を示したのも無理のないことだった。
僕はまず自分の頭の中をきちんと整理して彼女にそれを説明した。するとこれも驚いたことに彼女は曲の題名も作曲者名までも苦もなく教えてくれた。なんのことはない。電話機にぶら下がっていた埃まみれの取扱説明書に書いてあったらしい。しかも原語で書かれたものをアルファベットの綴りで読み上げてくれただけのことだ。「何やってんの?」という宮崎さんの呆れた声が聞こえた。それもそうだろう。その少し前まで僕がやっていた英単語の暗記作業以上に生きた言語から程遠いものだったから。
Robert Schumann
Du Ring an meinem Finger
ロベルト・シューマン
「私の指に通した指輪よ」
ドイツ語だ。うちの高校が課す第二外国語などという余分な負担が思わぬところで役に立った。
「うん、どうもありがとう。これだけ分かれば、あとはすぐ調べられると思う」
声の弾み具合が自分でも分かった。中静さんも「どういたしまして」と、何だか分からないが喜んでもらえて嬉しいといった返事をくれた。
おやすみ、と挨拶を交わし(宮崎さんにも忘れずに)僕たちは受話器を置いた。部屋に戻ってから、病院であの歌を流して聴いていた人も同じオルゴールで知ったのかな、と考えてみた。そうかも知れないし違うかも知れない。そんなことより今はただ、あの曲を知ることができたこと、しかもそれが中静さんの予期せぬ電話がもたらした恵みであったことに快い満足を覚えている。
僕は長ったらしい原題をいつの間にか「指輪の歌」と歯切れよく縮めて記憶に記していた。
「指輪の歌」
それは取りも直さず中静さんのテーマ、彼女を飾る音の衣装なのである。
昭和63年12月1日(木)
心に残った音楽が映像に姿を変えることはないだろうか。花咲か爺さんの撒いた灰のように、無数の音符がイメージを咲かす種となって。
今日、「指輪の歌」を初めて耳にしたときのことを思い出してみた。あのとき僕は目の前でぽとりと落ちたさざんかの花を窓から中庭に投げ入れたのだった。手のひらを滑り、花びらを散らしながら落ちていくさざんかを記憶の中で追っていると、まるで見えない紙飛行機でも追うかのように僕は空想の世界へ誘い込まれていった。
しなやかな加速にのせて空間を滑り降りて行く。そのスピードに目が慣れて周りが見えるようになると、そこは木漏れ陽のすじが揺れる森の中。直進しているにもかかわらず巧みに幹を避けていく。風の波に泳ぐ無数の葉。こぼれる光に洗われていく。そして森を抜けると、あの渓流沿いの景色が目の前に開けた。「指輪の歌」は子供の頃に聞いた渡良瀬の水音と似ている。僕をこの場所へいざなった、あの水音と。
このような想像が歌の内容とまったく関連のないことは十分に分かっている。僕は今日、中静さんを訪ねた帰り、この歌の入ったCDを買い求めていた。それは昨日という日が今日に課した宿題だった。結婚を控えた女の人が婚約指輪に向かって幸福を語りかける、そのような歌詞の内容のどこに僕の空想との共通点が見出せよう。
それでも僕は矛盾なく感ずる。歌とこの空想と、そして中静さんと。互いに面識のないこの三者は、僕の胸の内で風ぐるまの羽根のように3つ一緒に涼やかに回っているのだと。
昭和63年12月2日(金)
川沿いに続く道、転倒したバイク、苦痛に霞む視界を横切る渓流鉄道。
記憶自体に神経が走っているかのように、即座に足の疼きを呼び覚ますこの光景。それが忌まわしいものから、額縁にでも入れておきたいほどの思い出の景色に変わってきたのだから、僕の気持ちも現金なものだ。当初、思い出すほどに無念に感じられたあの事故が中静さんを知る機会へ僕を導いたのだと思うと、怪我をして良かったとさえ感じられてくる。
物事の意味や価値は性急な評価を嫌うものだ。少々誇大な解釈かも知れないが。
昭和63年12月3日(土)
中静さんを病室に訪ねることも、カレンダーと記憶とを照らしてみないと何度目になるのか思い出せないほどの回数を数えるようになった。それにつれて向かい合うお互いの気分も何に隔てられることなく、すっと通い合うのが、ごく自然なことのように思えてきた。投げかけた話題が逸れたり届かなかったりすることもなく、相手の胸元にきまる音でも聞こえてきそうなほどに。
彼女の大きな美点の一つと僕は思うのだが、中静さんはことば遣いがきちんとしていて決して慣れ慣れしい態度を見せない。たまに誤ってこぼれ落ちた友達ことばにも駆け寄るようにして訂正を施す。
このことは決して僕たちの距離を遠ざけたりはしない。ものを見るのに近づけ過ぎても遠ざけ過ぎても焦点が合わないのと同様、人と人との間でもちょうど良い距離が相手を自然に美しく見せるものだと思う。もし差し出せば手に手を重ねられる、そのような距離を僕は大事にしたいと思う。
今日は天気が崩れそうだったので、いつもはバイクに引っかけてくるヘルメットを片手に持って中静さんの部屋に入った。ベッドに身を起こしていた彼女は目を輝かせ、「見せて下さい」と言って両手を伸ばした。
ヘルメットなんかそんなに珍しいのかなと思いながら手渡すと、彼女はそれを膝の上にのせ、面白そうにシールドを開けたり閉めたりした。何にでも嬉しそうな様子を見せる子だと思っていると、その顔をこちらに向け、
「いいですか」
と言ってかぶる真似をした。
「別に構わないけど、」
構わないけど今着けてきたばかりだから、とあとを続けるより早く、彼女の小さな頭はダークグリーンのヘルメットの中に埋まっていた。買ったばかりでまだ綺麗だし、口に当たる部分のないジェットタイプのものなので彼女も警戒がなかったのだろうが、僕の方が判断に困ってまごついてしまった。
僕にさえ若干ゆるめのヘルメットは彼女の頭をゆうに飲み込んでしまい、ずるりと前に傾くと鼻まで隠れ、見えているのは笑っている口許だけになった。それを見て僕も楽しい気分になった。
「中静さんには大き過ぎるね。頭がちっちゃいから」
「どうせ脳みそが足りませんから」
「脳みそは足りない、髪の毛は薄い、って?」
「あ、ひどい。そこまで言うことないじゃないですか。いまのことばは、ずっと忘れませんからね」
「自分で言ったくせに」
彼女は口を尖らせ、ヘルメットのシールドの下から僕を睨むふりをした。
僕がバイクに乗ることはとっくに話したはずだが、彼女はまるで今日初めて知ったかのようにシールド越しに僕を見て、意外、といった顔をしていた。挙げ句に、
「なにか似合いませんね」
と率直な感想を口にした。どこか頭の隅に、バイク・イコール・暴走族、といった固定観念があるのだろう。それなら確かに似合っては見えないだろうが、こういう人に安全運転に基づいたバイクの良さを説いても、あまり積極的な賛同を得られないことは経験上分かっているし、安全運転というひとことに説得力を与えるには、僕の足の怪我はまだ記憶に新し過ぎた。両者を矛盾なく折り合わせるには時間の経過が少々足りないようだ。
いつまでもいたずらっぽい目で僕を見ている彼女の頭をヘルメットの上からコツンと小突くと、再び顔深くまで覆ったヘルメットの下で、彼女にしては珍しい高いはしゃぎ声が上がった。
が、このとき二人とも気づかなかったが、両目を塞がれた彼女はベッドに起こした上半身のバランスを多少崩していたのだった。ようやく外したヘルメットの中から現れた彼女の顔は、そのまま残像の弧を描いて僕の方に傾いた。その笑顔がこわばる間もなかった。
僕は反射的に腰を浮かせて彼女を支えるべく両手を差し延べた。
間に合うか。転落したらただでは済まないだろう。骨折するかも知れない。顔から落ちたりしたら大変だ。頭でも打って取り返しのつかないことにでもなったら。僕も咎められるだろうか。もうここへは来られなくなるかも知れない。
あぶないっ、というひとことだけが詰まった胸の内で、これだけの考えが駆け巡った。
気づいたときには僕の手は彼女の上腕をしっかりと支えており、その僕の左腕に彼女の両手が固く掴まっていた。
中静さんにかすり傷一つ負わせることなく済んだことは本当に幸いだった。ただ、このとき僕は危険を回避できた安堵感より別の感覚、と言うより刺激に打たれていた。
中静さんはベッドから落ちそうになりながらも両手を空に泳がし、自らを支え得るものに縋ろうとした。それを僕の左腕に見つけたのだ。彼女を受け止めたショックを吸収したあと、僕は自分の腕に噛みついている10本の指の圧力を個々に感じ取った。情緒のツボを圧するようなそれらの刺激。彼女の手の思いもかけない熱さ。そして前髪の簾越しに覗く、驚きから醒めやらぬ朱の射した表情。それらを僕は息が届くほど間近に見、感じた。
すべてが一挙に押し寄せて感覚を飲み込みそうになったとき、心臓を貫くほどの鋭い音に目を覚まされた。中静さんの手から離れていたヘルメットがベッドの縁から重心を滑らせ床に落ちたのだ。動揺がお互いの指先からびくりと伝わった。
僕は彼女をゆっくりと元の位置に押し戻した。彼女も余程驚いたのだろう。半分茫然とし、子供のようにおとなしく僕のするままにされていた。いつもはピンと伸ばした背筋を力なく落とし、しばらくじっとしていたが、やがて別人の意志によるかのように、ほつれた髪を整え始めた。僕の腕に食い込んでいたその指を櫛代わりに、ゆっくりと少しずつ。それを僕はヘルメットを拾いながら見上げた。
ヘルメットについた細かい汚れや埃は静電気に吸いつけられて、手ではたいただけでは取り切れなかった。指先で一つ一つ摘むようにして払っていると、お互い無言で似たような作業をしていることが可笑しくなり、どちらからともなく笑いが漏れた。静止画面に動きが戻ったような瞬間だった。
緊張から解放されて、僕たちはまた元通りの僕たちに返ることができた。中静さんの控えめで涼しい声に不透明な気まずさは一点もなかった。これも彼女の美点の一つだ。なぜなら僕の方には、こだわりに似たある意識が焦げついていたからだ。
僕の左腕には彼女の10本の指の感触が粘土についた跡のようにはっきりと残っていた。それは彼女を受け止めた際の肉体的な刺激が目覚めさせた、僕の内なる新たな感情が脈打つ感覚のように思われた。
昭和63年12月5日(月)
職員室の外側の壁に、緑色のマットを張った掲示板が二つ並べられている。補習授業の連絡や学内外の模擬試験、文化祭、講演等のチラシを画鋲でうちつけてある。僕は数日に一度、不定期にここに足を運ぶ習慣になっていた。何週間もそのままの掲示物も多いが、それらの隙間に目新しい情報が掲げられていて、たまには関心を惹かれることもある。
今日も前来たときとほとんど変わらない内容だったが、流して見ていると、ある一点でぴたりと視線が止まった。
日独文化交流協会 特別演奏会
アンナ・マリア・シュヴァルツ ソプラノリサイタル
曲目 シューマン 「女の愛と生涯」
「ミルテの花」より
「リーダークライス 作品39」
12月5日 19時開演 ハイフェッツホール(御茶の水駅から徒歩5分)
「女の愛と生涯」。
どちらかと言うと洗練を欠いた、邦訳そのままの耳慣れないタイトル。この8曲からなる歌曲集の第4曲が「指輪の歌」なのである。12月5日といえば今日ではないか。チケット代4千円なら手持ちで間に合う。突然で迷いはしたが、行こうと決めるのに時間はかからなかった。
営団御茶の水駅から御茶の水橋を渡り、人混みを縫って狭い歩道を歩く。行き交う人の平均年齢が非常に若い街。学生街は人また人で溢れていた。大学に無事受かれば、来年からはここら一帯も根城となろう。僕は近い将来の自分の姿をこの町並みに置き、希望的な想像のタイムスリップを楽しみながら通行人の顔や立ち並ぶ喫茶店、居酒屋、大小のビルや商店を順々に眺めた。そうするうちに探すよりも早くホールの奥まった入口を歩道の左手に見つけることができた。窓口で当日券を求め、僕は意気揚々と正面玄関をくぐった。
白とベージュで統一された清潔で品の良いロビー。広くはないがさっぱりと落ち着いている。軽食をとれるラウンジがあり、ジュースやアルコール類のカウンターもある。2階のバルコニー席へ続く階段が二つ架かっており、その下に一つずつ1階席の入口が開いて、中の客席を覗かせている。その右側をくぐり、僕は指定された1階P列20番に腰をかけた。ステージから見て左のほとんど隅の席だ。演奏者からは遠いがホールの中をすっぽり視界に収めることができる。
映画館や地元の公会堂ぐらいしか入ったことのない僕は、その立派な造りに感激するほど驚いた。几帳面な室内装飾は過飾に陥ることなく、適度な豪華さを纏うのに成功している。直接・間接の照明で明るく柔らかい光が内部に溢れている。螺旋状のシャンデリアが真下のステージを照らしている。澄明な雰囲気の中、真っ黒なピアノが一台、演奏者の訪れを静かに待っている。
客席を見渡せば、これから始まる演奏への関心が顔に現れてか、みんなが楽しそうな様子でプログラムをめくったり、隣の人と話をしたりしている。一つの目的に集まった匿名の他人たち。
ただ年配の人が圧倒的に多いのには、どうも参った。昭和30年代に来日したというイタリアオペラ団とやらの思い出話に喉を弾ませている人もいた。若い人もいるにはいるがほとんどが女の人で、連れ同士で話している様子などを見ると、いかにも『音大の学生』といった雰囲気だ。僕のように制服のまま一人でやって来た男子高校生など門外漢そのもので、何か身の置き場に困る心地だった。そんな中、ようやく開演のチャイムが鳴らされた。
拍手に迎えられ、歌手と伴奏者の二人がステージの右端から姿を現した。シュヴァルツという人は、なかなか綺麗な背の高い女の人で、ピアノの前に立つと金髪と赤いドレスがピアノの黒によく映えていた。略歴を読むとドイツで注目されている若手の成長株の一人らしい。年齢は伏せてあったが、満面に笑みを湛えた顔を見るとまだ30前だろうと思う。拍手が止み、二人は演奏の姿勢に入った。
ピアノの序奏にまず驚かされた。弱いタッチであるにもかかわらず、わっと膨らんで空間に吸い上げられたかと思うと、しなやかに舞い降りて耳に届く。一つの音が音符に割り当てられた時間の殻を破り、躍動する空気の塊となったような時空的な音の広がり。残響の尾は次の時空と溶け合い襞を成す。演奏時間という枠をはみ出さないように。録音の音と音色は同じでも響きがまったく違う。生の音の迫力をまざまざと感じた。
この短い前奏に導かれた歌の出だしにもまた驚いた。聞いたこともない綺麗な歌声が、これもまた弱音であるのに会場の隅々にまで隈なく届けられる。抜けるように滑らかでつまづきのない声は、十分な声量を余裕を持ってコントロールしたものだと素人にもよく分かった。このような二人の演奏に聞き惚れて「指輪の歌」を待ち遠しく思っていると、予想もしない第三の音に気分を覚まされた。
それはホールの音の広がりのため、初めどこから聞こえてくるのか分かりづらかった。咳払いにも聞こえるし、唸り声のようでもある。文字にしづらい声が「ん~、ん~、」と規則的に鳴って10秒経っても20秒経っても、いや何分もおさまる気配がない。
優れた音響設計は歌とピアノと謎の声とをまったく公平に拾い上げた。気にしないで演奏に耳を傾けようとすると却ってその声が意識される。周りの人たちも集中を削がれた様子で、中にはきょろきょろと辺りを見回し、身を伸ばして声の出所を探る人もいた。その仕草がまた僕の落ち着きを妨げる。ついには軽いざわめきさえも起こった。
そんな中にあってステージ上の歌手だけが集中を保ち続けたのは見事だった。伴奏のピアニストさえ、声のする方向にあらわに顔を向けた。おそらくステージからはその出所がはっきりと捉えられるのだろう。その目線を追って、ようやく僕にも事情が飲み込めた。うすうす勘づいていた通りのことだった。
声の主は客席の一角に設けられた身障者用のスペースで首を斜め上に不自然に傾け、終始からだを上下に揺らし、前後の憚りない視線に囲まれてなお、件の唸りを上げ続けていた。それに気を取られているといつの間にか「指輪の歌」は数小節を過ぎ、聞き漏らした部分を取り戻すべく無理に気を凝らしても集中力は空回りするだけだった。
こうして主役を奪われた形でコンサートはプログラムの前半を終えた。どう気を取り直しても落胆は否めなかった。一点の不快が宿ったことも白状しなくてはならない。だがそれ以上に不快に、また寂しく思ったのはこのあとだった。
休憩後、席に戻り後半が始まる頃には、それまでの気落ちは大分癒え、これからの曲目をしっかり聞いてやろうという気分に切り替わっていた。ここは後半の料金分だけでも取り返さなければ、という故意の貪欲さもあった。照明が落とされ再びステージに迎えられた二人は、拍手が収まるとすぐに演奏を始めた。
悲しげに揺らめく前奏にのって歌声が通い出すと僕は、おや、と思った。前半と何かが違う。そう意識したと同時にそれがあの唸り声がなくなったためだと気づいた。即座に事情が頭に閃き、僕は身をせり出して彼のいた席を覗き込んだ。半分慌てていたようだ。そんなことがあってはいけない。そう思った。が、やはり彼の姿はそこから消えていた。
会場の職員に促されてのことだろうか。考えてみればこのような結果は当然予測できることだった。それを予測できずに後半もあの唸り声に耐えるつもりでいた殊勝な客は、世間知らずの僕だけだったのかも知れない。僕は背もたれにぐたっと寄りかかった。歌もピアノも耳を素通りしていく。僕は少なからずショックを受けた。
これは取りも直さず社会の法則だ。自らの利益を守るために、平均を逸脱した者(それが弱者であっても)をあまねく標的とする世の中の不文律、暗黙に認めあう正論と権利。それが社会の構図そのままに、容赦なくこの小空間でも採られたのだ。
金を払ってわざわざ来たのだ。不愉快な雑音は鑑賞の妨げだ。そう彼らは言うだろう。
それなら僕も聞いてみたい。荷物をガサガサ、プログラムをぱらぱらとめくるのは許容範囲のことなのですか。貧乏揺すりはどうですか。隣の席まで肘や足を伸ばすのは迷惑だと思いませんか。曲間の私語はもう少し遠慮してできませんか。
次元の外れた反論であることは分かっている。だが身障者による気分的な圧迫と、マナーの不足による他者への配慮不足とでは、本当に罪深いのはどちらか。
昔は、不具は先祖の因果だとか、前世の報いだとか言ったと聞いたことがある。感謝を知る人間ならば決して言えないことばだろう。健康な人間ほど心の不健康を見落としてしまう。言い古されたことばだが、このことばに耳を貸せる人が僕を含め果たしてどれだけいるだろう。
帰り際、あの人が車椅子にのったままロビーにいるのを見た。入口の脇に据え付けられたモニターで最後まで聴いていたようだ。悶えにも似たあの声は、帰途に就く聴衆のざわめきに掻き消され、僕の耳にも、もちろん彼らの耳にも届かなかった。自分一人を排除した会場に湧き上がった上機嫌な拍手を彼はどう聞いただろう。察するに余る気がした。
さっきは気づかなかったが、傍らに若い女の人がいて熱心に彼の世話をしている。家族ではなさそうだ。施設の人かボランティアだろう。大学を出たてぐらいの小柄なかわいい人だ。黄色いワンピースのスカートがよく似合っていた。この人の胸の内にあるのは憤りだろうか、自分の無力へのもどかしさだろうか、それとも割りきった諦めだろうか。
次の瞬間、彼女のふとした微笑みが中静さんの笑顔を脳裏に引き出すや、僕は急に堰切った胸騒ぐ思いから、何かに取り縋りたいほどになった。
僕はやはり健康人だったのだ。どれだけ中静さんを思いやることができていただろう。
彼女は僕と会うことを喜んでくれている。だがそれ以上に喜んでいたのは誰でもない、この僕だった。彼女を慰め、力づけているつもりで密かな満足を覚えていた僕は、所詮は自分の充足感を求めていただけだったのだ。蒙を啓かれた心地だった。
このあと、どのようにして家に着いたのか、まったく覚えていない。異常に早足だったことだけが腿の張りに記されている。
中静さんに会いたい、会いたい、会いたい!
会って彼女の本当の心を、不安や悲しみに揺れているに違いないその心を包んであげたい。ありったけの優しさで支えてあげたい。たとえ何を犠牲にしてでも。
こうしてペンを走らせていながらも、指が震えるほどその思いに急き、憑かれている。
昭和63年12月6日(火)
今日は本当に昨日に継ぐ日なのだろうか。知らない間に何年も過ぎてしまったのではないだろうか。
中静さんへの思いを真の優しさに変えて伝えたい。そう思って、この日記に書き綴ったのは本当に昨日のことだったのか。
たった1枚ページを返せば、そこには確かに昨日の感情の鼓動が聞こえる。バランスを乱した字は、あの興奮が夢でなかったことを教えてくれる。筆圧は今日のページにまで深く達しているというのに。この1枚の厚さは僕にはとても測りきれない。
いったい何があったのだろう。あのような中静さんの表情を見たことがない。いつだって僕の顔を見て、にこやかに微笑んでいたのに。今日に限っては、ことばが途絶えるたびに伏目がちに顔を曇らす。いや話の途中でも、ついと僕の目を避け、在らぬ空間に視線を泳がし、ときおり、ぴりりと痙攣したように眉を尖らせる。
そして普段と変わらぬようでも声の抑揚やリズムが乱れ、そのはためきで陰影が生じる。そんなときは彼女の発した数文字のことばでも何度も頭の中で反芻して、音に潜む正確なニュアンスを探らずにはいられない。ことばの断片をも網の目のように裁断して、その一つ一つを細かく検証せずにはいられない。
具合でも悪かったのだろうか。それを遠慮して言い出せなかったのか。しかし浮かない顔で人を迎えるのと、事情をちゃんと言って理解を乞うのと、どちらが相手の感情を害さずに済むか、なかなか頭の良いあの子に分からぬはずがない。
では僕が気に障ることでも言ったのだろうか。気遣いの足りないことばとは言った本人には分からないものかも知れないが、どう記憶を浚っても思い当たるふしがない。
何かそわそわと落ち着かない様子でもある。こちらが何も言わないと次第に黙ったままになる。心ここに在らずで、何を聞いても話しても「ええ」、「そうですね」、「分かりません」と弾まぬ返事が、ぼつぼつと返るだけ。
こんな日もあるだろうとようやく僕も諦め、処置なく席を立ったとき、今日はじめて彼女の方から口を開いた。
「あの…、足の方は、もう大丈夫なんですか?」
「ああ、普通にしてる分にはぜんぜん問題ないよ。春休みに抜釘すれば、もう完璧だね」
取って付けたような問いに少々気抜けしたが、意識して明るくそう答えた。
「そうですか。…よかったですね」
そう言って彼女はまた自分の膝に視線を落とした。にこりと浮かべた笑みがそのまま前髪に隠れた。僕は帰るタイミングを掬われて立ち竦んだ。そして下を向いたままの彼女を見ているうちに初めて彼女に対する気持ちが、…僅かではあるが…、不快に揺れた。
「ねえ、今日はどうかしたの。いつもと全然ちがうよ」
言わないつもりでいたひとことが、つい喉から押し出された。すると彼女は、はっと顔を上げ、訴えるような目を僕に向けた。唇をぎゅっと閉じ、膝に置いた両手をこわばらせていた。かつて見ない感情の灯った表情だった。
「あの…、宮崎さんから何か聞きました?」
「宮崎さんから?いや別に。何か言われたの」
「いえ、ならいいんです。すみませんでした、今日は、本当に」
謝られると、それ以上問い詰められなくなる。消化不良の気分だったが、どこか思い詰めたような彼女の表情を見ると、責めるようなことを言ったことが悔やまれた。
「ううん。悪かったね、こっちこそ」
それだけ言い残して僕は病室をあとにした。宮崎さんが何か言ったのだろうかと思い、帰りにステーションを覗いてみたが、準夜勤との申し送り中で声をかけるのも憚られた。
何かの原因があるのは間違いないと思うが、それが何なのか想像もつかない。どこからどんな光を当てれば今日の彼女のような影ができるのか。今どんなに考えたところで答が出るはずもないと知りつつ、思いはそこへ到らずにいられない。
昭和63年12月11日(日)
ケーブルカーが山腹の停車場に向けて急な勾配を登る間も、僕は先日の中静さんのことばや態度を何度も繰り返し考えていた。しかし、どんなに考えてみても、煮詰め過ぎて原型の崩れたそれらからは答はおろか、もとの印象すら取り出すことが難しくなっていた。ただ、もやもやとした不透明な苦痛だけが濃密に胸を満たしていた。
いぬぶな、やまざくら、と札を掲げた無数の木々が輪郭もおぼろに目の前を斜めに通り過ぎていく。気晴らしにと訪れた高尾の山も期待ほどの霊験を示すことなく僕を迎え入れた。「小さな煩いなど、お前の足音ほどにも、わしを振り向かせるに足らん」とでも言っているかのように。
ケーブルカーの終点は山頂への中継点に過ぎなかった。そこから山頂まで歩いて約40分との標示が立てられている。行きがけに母がこぼしていたのを思い出した。
「退院したばっかりなのに懲りないわね。治ったと思って頑張り過ぎたら却って良くないって先生もおっしゃってたでしょ。こんど怪我したら私も知りませんからね」
その通りだと苦笑を浮かべながら、僕はゆっくりと山道を歩き始めた。山道と言ってもなだらかな坂も同然で足に負担のかかるほどでもない。現にかなり年配のパーティーにも出会った。「ご苦労さん」なんて声をかけられ、面食らって返答に窮していたら笑われてしまった。40分のところを80分かけてもいい、ぐらいの気で歩いていた僕を追い抜いて、彼らはぐんぐん先へ進んで行った。
国定公園に指定された自然林だけあって、一帯の斜面は木々に埋め尽くされている。その種類も極めて豊富で、気候条件が許す限りの針葉樹、広葉樹、低木、巨木がひしめき合って、それでいてしっかりと共生している。楢やブナが簡単な説明の立て札で親しげに自己紹介しているかと思うと、槍のような杉の木立はどこか神聖で拒絶的なたたずまいを見せている。見下ろすと山間に引かれた国道に車が行き交っている。目の前の木々と斜めに交差するその眺めが、子供のころ学習雑誌で見た『目の錯覚』の絵のようで面白かった。
登山コースの中頃に薬王院という古いお寺があった。仏教の歴史にも建築の文化にも疎い僕にはその価値を測りかねたが、お堂の脇に目を向けると願をかけた絵馬が立て板にずらりと並べられている。思い立って学業成就と厄除けの2枚の絵馬を買ってみた。前者には言うまでもなく大学合格を、後者には
「中静さんに健康と幸福をお与え下さい」
と書き、やや躊躇してから、
「僕たちの間に横たわる正体不明の悪意を取り除いて下さい」
と書き添えた。
そう書いてから急に子供じみたような馬鹿馬鹿しいような醒めた気分になり、このまま持って帰ろうかとも思ったが、「えい、信ずる者は救われるんだ」とチグハグな宗教感覚でためらいを断ち切って、立て板の絵馬の群れにそれらを加えた。
久し振りの運動にやはり無理があったのか、だんだんと疲れを意識し始め、気づいてみると前傾姿勢で、林に囲まれた目の前の細い道ばかりを見つめて歩くようになっていた。ようやくの思いで山頂まで辿り着いたときには満足よりもまず息が切れて、怪我のあと、体力の残が底を打っていたことを思い知らされた。頂きに切り開かれた公園のような空間で一番だらしなかったのが僕だろう。木肌あらわなベンチに腰を落とし、右足のふくらはぎを叩いたり揉んだりして、暫くのあいだ呼吸が整うのを待っていた。その横では家族連れが弁当を広げて歓談し、少し先には若い頃から山で慣らした風情のおじいさん仲間が、まだまだこれからと元気に体操をしている。
遠くに近くに野鳥のさえずりが聞こえる。ひよどりか何かがすいと頭上を過ぎていく。それにつられたわけではないが、頭をもたげ目を上に向けると、青く大きな空が広がっていた。引き込まれそうなその青さ、降ってきそうなその大きさに驚いて、僕は隅から隅までぐるりと見回した。そしてその深さに手を取られるように立ち上がった。数百メートル登っただけで空が随分と近づいたように思った。病院の窓枠には収まりきらなかった大きな雲も、分をわきまえて空の支配に従っているようだ。大地より海より遙かに大きなただ一つのもの、この世で唯一、無限なものがここにある。空間ばかりでなく永遠の時間さえ湛えているようだ。
どのぐらい見上げていただろう。目を下ろすと有限の下界がこまごまと裾を広げている。あれは多摩の町並みだろうか。天の光が雲の隙間から映し出した映像のように見えた。
映像、すなわち影。影は自分で動くことはできない。
天の意志、ということばがふいに頭に浮かんだ。この世は天の意志に従って動いているだけなのだろうか。「人の世は舞台に過ぎない」。たしかマクベスの台詞だったと思う。人間にできるのは天の築いた筋書き通りに良い演技をすることだけなのか。勝手な振る舞いで台本に背いた役者はその役を降ろされてしまうのか。
だが人間は誰も自分の意志で考え、行動していると思っている。それともそれは、好きに振る舞っていると思い込ませてくれている、天の寛容のなせる業なのか。
「思い煩わず、すべてを素直に受け入れなさい」。そう慰撫されている気がした。
帰る頃にはもう日が暮れていた。空からの光が途絶えると家々の窓に明かりが灯り始めた。それが「俺たちは影なんかじゃないんだ」という小賢しい強がりのようにも思えた。
僕はヘッドライトに浮き上がった目前の狭い路上に何本もの轍を認めながら、往きと同じ道のりを家に急いだ。
昭和63年12月17日(土)
高尾で撮った数枚の写真を持って11日ぶりに中静さんを訪ねた。病室は留守で誰も居なかった。また検査にでも行っているのかと思い、廊下をうろうろしたりソファーにもたれたりしているうちに、またこの前の彼女の様子が目に浮かんできた。
なぜあんな態度を見せたのだろう。そう考え出すときりがない。高尾で耳にした『天の声』も効き目が薄くなってきた。大事なことを遠くで聞いて、考えても仕方のない瑣末な悩みに何度も何度も立ち返る。人間の気持ちとは不自由なものだ。
背にした窓から射す光が、さーっと強まり廊下に舞う塵を照らしたと思うと、またすぐに引いていった。後頭部を温めた熱だけが、しばらく髪にまとわりついていた。
思い切ってやって来たつもりだったが、時間が経つごとに意気が挫けていく。ここで引き返すと次はもっと来づらくなる。そう気持ちを励ましつつも、つい弱気に傾いてしまう。
そういえば初めて中静さんを病室に訪ねたときも似たようなことを考えていた。でもあのときは、ためらう理由がはっきりしていた。今回のように原因も分からず、こんなことになるなんて納得できないし、また何としても寂しい。
小一時間も待っただろうか。空も陰りオレンジ色に染まり始めていた。もう今日は諦めようか。さすがにそう思い始めたとき、ピンクのスリッパが視界に滑り込んで、きゅっと立ち止まった。頭を持ち上げるのが重かった。でもすぐに見上げて目を合わせた。
挨拶も交わさず、お互いの目を見つめ合ったのはおそらく1、2秒のことだろう。中静さんの表情に驚きと緊張がうっすらと張りついた。ぴたりと閉じた唇が、わずかに剥がれて開いていた。周りには普段と変わらず患者や看護婦が往来していた。だが僕たち二人が堰き止めた時間の外の動きなど何の意味も持たなかった。
誰かが僕に声をかけた。それが膠着した時間をようやく決壊させた。見ると中静さんの陰から宮崎さんがいくぶん真面目な表情で前に出てきた。中静さんの二倍はありそうな彼女が中静さんの背に隠れていたのだから今思えば不思議でもある。宮崎さんはすぐにいつも通り人なつっこく表情を緩め、
「久し振り。よく来てくれたわね。ね、友子ちゃん」
と中静さんに声をかけた。中静さんは、ここでやっとにこりと笑い、その顔を僕の方に向けた。このあいだ彼女は「宮崎さんから何か聞きませんでしたか」と僕に尋ねた。どうやら事情を知るらしい宮崎さんが、よく来てくれた、と言ってくれたことに僕は大きな安心を覚えた。中静さんは、この間の堅さが嘘のように明るい顔で、ぺこりと頭を下げ、
「どうも失礼しました。急に石になっちゃって」
と言った。子供っぽい表現が宝石のように思えた。
「すみませんでした。レントゲン室でずいぶん待たされちゃったから。寒くありませんでした?風邪ひいちゃったら私のせいですね」
「どうしようか、友子ちゃん。私もいた方がいい?」
宮崎さんがひとこと挿んだ。
「ううん、いい。あとでまた来てね」
僕は中静さんに促されて病室に入った。先を譲ってあとから入った中静さんは、すすっと脇を抜けて僕のために椅子の背を引いてくれた。向かいに座った彼女は静かな笑顔に、ふっきれたような清々しさを湛え、件のわだかまりをはぐらかすことなく、自分の気持ちをストレートに投げかけてきた。
「この前は本当にすみませんでした。このところ来て下さらなかったから、ああ、やっぱり怒ってるんだろうなぁって思ってたんです」
「いや、怒ってたわけじゃないけど。びっくりしたからね、どうしたんだろうって」
「そうですよね。せっかく来て下さったのに、あんな言い方ばっかりして。あのあとすごく考えちゃったんです」
「………、」
「私、自分のことばっかり考えてて。だから、どうしても暗い顔になっちゃって。失礼ですよね。怒られても当然だって思いました。もしこのまま来てくれなかったらどうしようって、ずっと考えてたんです。だから今日は本当に、…嬉しいです」
細い足場を辿るように話す彼女の声が一瞬裏返りそうになった。それが僕の胸の内で琴線を爪弾いた。どんな訳があったとしても許してあげよう。そう思った。
「怒ってなんかいないんだよ、全然」
「ほんとに?よかった。優しいんですね」
そう彼女は言ってくれた。そのときの彼女の和らいだ表情こそは、僕の何百倍も優しいものだった。
「どうしたの。何があったのか言ってくれる?」
「ええ。何があったとかいうことじゃないんですけど。気を悪くしないで下さいね」
「うん」
「私、小林さんが私の所へ来てくれるようになったときからずっと考えてたんです。どんなに嬉しかったか知れないんですけど、このまま小林さんの気持ちに甘えてていいんだろうかって」
「もしかして受験のこと?それなら心配することないって言ったよね」
「ええ、それはそうなんですけど。小林さんの通ってるK高って毎年T大にたくさん受かってるんだそうですね。たぶん小林さんなら本当に大丈夫だろうって、私もついそんな気になって、また来て下さい、また来て下さいって勝手なことばかり言うようになって」
「待ってよ。勝手と言うなら、それこそ僕の方が勝手に来てるんだから、何も中静さんが気に病むことはないんだよ。それに僕も中静さんとこうして会えることが、…嬉しいし」
「ありがとうございます。そう言って下さって、本当に。でも失礼だったら、すみません。いくら自信があっても絶対ってことはないですよね。それに私、受験したことないから分からないけど、大学を受けるって受かればそれで良いってものなんでしょうか。与えられた機会にできる限りのことをするって、すごく大事だと思うんです。一生懸命になる機会を余裕で通り過ぎないでほしいんです。私、自分も一生懸命に生きたいから、小林さんが一生懸命になる大事な機会を邪魔したくないんです」
僕はひとことも返すことばがなかった。
与えられた機会。一生懸命になる機会。
小学校を卒業する直前から間もなく3年という大切な期間を入院生活に費やした彼女にして初めて言えることばなのかも知れない。年下だと思っていた彼女が急に僕なんかが背伸びをしても及ばない大人のように感じられた。
「すべてを素直に受け入れよ、か」
「え?」
「うん、何でもない。まいったな。そうだね、その通りだと思う」
「すみません。生意気なこと言って」
「そんなことない。そんなことを言ってくれる人なんていなかったからね」
心の底からそう思った。しばらくの間、僕たちは俯いたまま口を開かなかった。そのしじまを切った僕の問いは心ないものだったかも知れない。
「中静さん。こんなこと聞いてもいいかな」
「なんですか」
「中静さんはさ、辛いと思ったことない?そんなに明るくしてるけど、やっぱり普通に学校に行って、高校を受験して……、ああ、ごめん。何て馬鹿なことを聞くんだろう」
「ううん、全然。気にしないで下さい。そうですか、私、明るく見えますか。これでも、しょっちゅう泣いてるんですよ。そうすると宮崎さんが慰めてくれるの。優しくしてもらうためにわざとやってるのかも知れない」
黙って聞いている僕を前に彼女はことばを続けた。
「でもね、私ほんとは楽観主義なんです。だって病気しなかったら宮崎さんにも、もちろん小林さんにも会えなかったわけだし。うん、この方がいいやって。ないものを見るより、あるものを見た方が、大事なものが見えてくるって言うか、失くしたものが自分の中に生きてくるって言うか。うまく言えませんけど、失くしたものを失くしたままにしないで嘘でもいいから、これが正しいんだって考えてみると、それを失くす前にはなかった本当に良いものを手に入れてたんだって気がつくときがあるんです。
なぁんて、子供が偉そうに。『青年の主張』しちゃいましたね、今日は」
もはや僕にことばはなかった。打ちすえられた気さえした。この上は彼女の望み通り、受験という目標をしっかり見つめ、彼女に恥ずかしくないよう努力する以外にないと思った。
「分かった。もっともっと頑張ってみる。隙を埋め尽くすぐらいに頑張ってみるよ。中静さんに負けないように」
「ありがとうございます。でも私なんかライバルにしたって、どうにもなりませんからね」
僕たちは、ここで久し振りに笑い合った。こんなにもしっとりとした笑顔を交わしたのは初めてだったろう。
「春になったら、それならいいよね。合格の報せを持ってくるから」
「……、そうですね、待ってます。そのときはまた、お話聞かせて下さい」
冬の懐に抱かれ、三月もすれば春は孵る。彼女は何かを遠く慈しむようにそう言った。
このとき見えないカナリアが僕たちの会話の隙間を見計らって、遠慮がちな訪問客のように小さく窓をたたいた。
「あ」と思わず口に出した僕の思いが通じたのだろう。中静さんは窓に手を伸ばし、それを中に招き入れた。カーテンを翻す冷たい風と一緒にそれは流れ込み、芳香のように室内を満たした。
「あの歌だ。指輪の歌」
傷つきやすい心を慰めてくれるような優しい歌。いつまでも聞いていたかったが彼女の体に障ってはいけないと思い、僕は窓を閉めに立った。彼女は窓の外を見ているのか、そこに映った僕たちの姿を見ているのか、しばらくそちらに目を向けたままだった。やがて振り子のように首を傾け、僕の方に向き直って言った。
「本当に頑張って下さいね。小林さん、私なんかよりずっと大変だと思います。外のいろんなものにぶつかって行かなきゃならないんですから。周りを囲まれて生きるって辛いこともありますものね」
水面がふらっと揺らめくように、黒目がちな両目が一瞬かすかに震え、また静かに止まった。何という綺麗な子だろうと、このときあらためて思った。それはほとんど信じがたいほどだった。
病院のフェンスに沿った駐輪場から僕は今一度彼女の病室を見上げた。窓は薄墨の混ざった朱に染まっていた。そこに影のように暗くなった雲がじっと動かないまま留まっていた。僕はしばらくそれを見つめ、名残を断ち切るようにアクセルをひねった。
今、大学受験という眼前のテーマをあらためて意識に刻み、残された数十日を全力疾走する心づもりでいる。そのために中静さんと約束した結果が出るまで、せっかく始めた日記ではあるが、しばらくの間ペンを置くことにする。