―8―
家の工場での仕事を終え、ふうっと息を吐きながら、小梅は窓の外に目を向けた。空は茜色に輝いている。
「小梅ちゃん、お先に失礼するだに」
「ゲンさん、お疲れ!」
若い職人を引き連れて帰っていく小泉源五郎を、小梅は工場の出口で見送った。
東京の医療機器メーカーからの仕事を引き受けてから、工場の経営は順調だった。新しい職人も雇い、新しい仕事も請け負えるようになっていた。もう、何も心配なことはなかった。
小梅は工場の戸締りをすると、自宅の縁側に腰掛けて、ぼんやりと庭の梅の木を眺めた。工場の方は落ち着いたが、今度はバンドのことで悩んでいた。
どうやってメジャーデビューするか――。
頼りにしていたゾニーミュージックコンテストは来年は中止になったと先日発表があった。とりあえずインディーズデビューして地道に活動しながら、メジャーレーベルなどが主催しているオーディションを受けるしかないと考えていたが、それにしても資金が必要だった。インディーズ版を出すのも、スタジオのレンタル代も馬鹿にならない。小梅意外は皆学生なので期待できないし、小梅が何とかするしか方法がなかった。
はあっと大きく溜息を吐いたときだった。
「ずいぶんとお疲れのようじゃないか。せっかくの美人が台無しだぜ。うっきっき――」
この世で一番聞きたくない男の声だった。
勝手に庭に入ってきた勝を、小梅は睨み付けた。
「何しに来たんだよ」
「おいおい、そんな顔で見るなよ。せっかくいい話を持ってきてやったのによ」
「てめえの話なんて聞きたくないね」
小梅が立ち上がって玄関へ向かうと、その背中に向かって勝は言った。
「メジャーデビューしたくねえのかよ」
勝の言葉を聞くと、小梅はぴたりと立ち止まった。
「今度、新しいインディーズレーベルを立ち上げることにしたんだよ。ウチが全面的にバックアップしてやってもいい。ウチのレーベルで人気が出たら、メジャーにいく面倒も見てやってもいい。どうだ、悪い話じゃねえだろ?」
「どうせ、なんか条件があんだろ?」小梅は肩越しに言った。
勝はにやりと笑みをこぼすと言った。
「一晩、付き合ってくれるだけでいいんだ」
「…………」
勝は何も答えない小梅の直ぐ後ろに立ち、彼女の尻を撫で回しながら言った。
「一回こっきりでいいんだよ。そしたら後は全部面倒みてやっからよ。悪い話じゃねえだろ? 返事は直ぐじゃなくていいからよ。まあ、じっくり考えてみてくれや」
「…………」
勝は「うっきっき」と気味の悪い声を漏らしながら帰っていった。
(チビザルが……)
小梅はぎりぎりと奥歯をかみ締めた――。
*
ライブを終え、つくしの家のカレー専門店にバンドのメンバーは集まっていた。
カツカレーを食べ終えた小梅の隣に、つくしは座った。
「ねえ、小梅さん? いつになったらCD出せるの?」
小梅はつくしが持ってきたコップの水を、ぐいぐいと飲んだ。
「まあ、もうちょっと待ってなよ」
「もうちょっとって、いつ?」
「もうちょっとって言ったら、もうちょっと!」
「えー、早くCD出したーい!」
「うるさいね!」
つくしは小梅の張り上げた声にびくりとして、しおんのほうに向いて、泣きべそをかいた。
「小梅さんが……」
しおんは呆れ顔でつくしの頭を撫でた。
小梅はちらりとつくしを見ると立ち上がった。
「ごちそうさま。私、帰る」
恵梨香が小梅を呼び止めたが、小梅は無視して店を出て行った。
小梅は家に帰りシャワーを浴びていた。
そして、シャワーを止め、鏡に映った自分の身体を見つめた。
(一回だけだ。一回我慢すれば……)
小梅は風呂から出ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、居間のちゃぶ台の前に座り、テレビをつけた。テレビ画面に現れた『猿の惑星』の映画放送を見て、小梅は直ぐにテレビを消し、ビールをぐいぐいと飲んだ。
(一回だけ! 一回だけだ!)
小梅はその晩、猿の惑星の猿に犯される夢を見て飛び起きた。そして、額の汗を拭いながら大きく息を吐いた。
(一回……、一回だけよ……)
結局小梅はその晩、満足に寝ることが出来なかった。
翌日の夕方、小梅は仕事を終え、部屋でバンドの演奏を録音したMDを聞いていた。
つくしの歌は素晴らしい。彼女とバンドをやっていて、メジャーを目指さないことなど考えられなかった。
(女は度胸。この身体を売って済むなら、そうするしかない!)
小梅は携帯電話を手に取った。
電話に出た勝は、何だかおどおどしていた。
「もしもし……、池辺……ですが……」
「松本だけど」
「えっ? ああ……小梅か……」
「あの、この間の話なんだけど」
「えっ? ……ああ、わりい。あの話はなかったことにしてくれ」
「えっ?」
「わりい俺、今それどころじゃじゃなくて、ほんとわりい、そんじゃな」
「おい!」小梅は叫んだが、電話は切られた。
(なんだよクソザル! せっかく小梅様がやらせてやるって気になったのによ!)
小梅は携帯電話に向かって怒鳴りつけた。
「ふざけんな! お前なんかに、もうぜってー、抱かせてやんねえ!」
小梅は携帯電話を放り投げると、台所へ行き、冷蔵庫からビールを取り出して、ぐいぐいと一気飲みした。
台所の流し台の下で、小梅は一升瓶を抱えて眠り込んでいた。
そこへ小梅の父親が、慌てた様子でやってきた。
「おい! 小梅、起きろ!」
父親は小梅の頬をぴしゃぴしゃと叩いた。
「ふが! んだ、こらー!」
父親は小梅に蹴り飛ばされて、後ろの居間まで吹っ飛んだ。
父親は痛そうに腰を抑えて、また台所まで行くと、鍋に水を汲んで、その水を小梅に頭からぶっ掛けた。
「どわー!」小梅は飛び起きた。
「なにすんだよ! クソオヤジ!」
「寝ぼけてんじゃねえよ! 大変なんだよ!」
「何がよ!」
「池辺の会社が乗っ取られたんだ!」
「えっ!」
小梅は驚いて目を剥いた。父親は小梅の腕を引っつかんで居間へ連れて行くと、テレビの前に座らせた。
「そんでもって、息子の勝が会社の金を使い込んでいたのがばれて逮捕されたって」
「ええ!」
目の前のテレビでは、勝が警察の車に乗せられていく様子が映し出されていた。勝はがっくりとうな垂れて、情けない姿だった。
池辺の会社は、小梅の家の得意先である、東京の医療機器メーカーに株式を買い占められ、事実上乗っ取られる形となった。そして、社長の池辺ら経営陣は退陣することになり、息子の勝は新経営陣に横領を暴かれ、今日逮捕されたということだった。
小梅はざまあみろという気持ちと、ほっとしたのと、でもメジャーへの道が遠のいたような感じと、複雑な思いでテレビのニュース番組を見ていた。
*
ライブが終わると、つくしは一人でさっさと家に帰っていった。
小梅はこの間からつくしに避けられているような気がしていた。
小梅が溜息を吐いてベースを片付けていると、後ろでカンナが言った。
「つくしちゃん、最近あちこちのバンドから声を掛けられてるらしいわよ」
小梅がぎくりとして、手を止めると、しおんが不安そうに言ったのが聞こえた。
「うそー、つくしちゃんウチのバンド辞めちゃうの?」
すると恵梨香が言った。
「そんなことないわよ」
恵梨香の言葉に反論するようにカンナが言った。
「分からないわよ。つくしちゃん早くCD出したくて仕方がないみたいだからさ、他でもうインディーズ版出してるバンドとから声が掛かれば、ひょっとするかもよ?」
「やだあ! 私、つくしちゃんとやりたい!」
「大丈夫だって、つくしちゃんは辞めないわよ」
「彼女は歌が歌えればバックは誰でもいいんじゃない?」
小梅はたまりかねて叫んだ。
「黙んなよ!」
驚いて小梅を見ている三人のほうに、小梅はゆっくりと振り向いた。
「影でこそこそと仲間の噂話してんじゃないわよ。あのこがウチを辞めようがどうしようが、あのこの自由でしょ? 私はどんなメンツになっても、とにかく最高の音楽を目指すだけよ」
小梅はそう言うと、ライブハウスの控え室を出て行った。
とは言うものの、小梅は不安で仕方がなかった。つくしに辞めて欲しくない。でも、先の見通しが立たない。
小梅はぼうっとした表情で自宅へ帰ってきた。
居間へ入ると、父親がちゃぶ台に向かって晩酌をしていた。
「おう小梅、お前もやるか?」
小梅は頷いて父親の隣へ座った。
継がれたビールを小梅は少しだけ飲んでグラスをテーブルに置いた。
「なんだ、元気ねえな」
「…………」
父親は不思議そうな顔をして、小梅に封筒を差し出した。
「なにこれ?」
「ん? ああ、ボーナスだ」
小梅はみるみると表情を明るくさせていった。
(そうじゃん、忘れてたよ。これでレコーディングの費用は何とかなるかも)
小梅が封筒を取ろうとすると、父親はその手を逸らした。
「なによ。頂戴よ」
「いや、あんまり期待されても困るもんでな」
(どういうこと?)
小梅はむっとした表情をすると、手を差し出した。
「えー、こんだけ?」
「いやあ、申し訳ない。借金もなくなって景気もよくなったんだけど、人を増やしたり、新しい機械も入れたりで、工場のほうに金が必要だったもんでな。あと、雅司を音大にやるのにも金が必要だったもんで……。次からはちゃんと出せるようにするから、今回だけは勘弁……」父親は最後に小梅に向かって拝むように手を合わせた。
(もう! なんでいつも私ばっかり我慢しなくちゃいけないのよ!)
小梅はグラスのビールを一気飲みすると、父親が自分のグラスに注ごうとしていたビール瓶を取り上げて、自分のグラスに注いだ。そして、また一気に飲んだ。
(あーん、もうどうしよう……。このままじゃ、つくしんぼに辞められちゃうよ……)
工場で仕上げた部品を東京のメーカーへ納品して帰ってくると、母親が玄関で出迎えた。
「おかえり、小梅。お客さんが着てるよ」
客間を覗くとスーツ姿の男性が雅司と話をしていた。
「ねーちゃんお帰り」
小梅は頷いて、男性の正面へ正座した。
「あの、済みません。お待たせしたようで」
「いえ、こちらこそアポイントメントも取らずに押しかけまして」男性は丁寧に頭を下げた。
「わたくし、こういうものです」と言って、男性は名刺を差し出した。
男は坪田浩二という、インディーズレーベルの代表だった。
小梅が顔を上げると、坪田は話し出した。
「わたくしたちはこのたび、この近辺で活動をしているアーティストの音楽を広めていくことを目的としまして、新しいレーベルを立ち上げました。本来は参加したいアーティストのほうからデモテープをいただいて、審査した後、レーベルへ登録という手順を踏むことを基本としているんですが、先日松本さんたちのバンドのライブを拝見いたしまして、是非にウチのレーベルへ登録していただきたいと思いまして、本日は突然お邪魔した次第でございます」
「はあ……」小梅は生返事を返した。
「登録の費用などは一切ございません。レコーディングに関しても、専用のスタジオとスタッフがおりますので、それらを無料でお貸しいたします。出来たCDはこちらで製品化いたしまして、販売の代行とインターネットでの配信なども、わたくしどもが全て行います。CDの売上から少し手数料をいただきますが、売れなかったとしても、別に手数料をいただくということはありません」
小梅は嬉しさのあまり声を失っていた。
坪田は不安そうな表情で言った。
「ウチのスポンサーとなっている方が、松本さんたちのバンドを大変気に入っていまして、何とかならないかと相談されていまして……、どうでしょう? ウチに登録していただくわけにはいかないでしょうか?」
小梅はバンドのメンバーと相談してから返事をすると答えた。しかし内心は直ぐにでも了解したかった。
(やったー! めちゃめちゃラッキー! なんか最近、ピンチになるとラッキーなことが起こるのよね)
小梅は何だか誰かに見守られているような気分を感じていた。
*
つくしの家のカレー専門店に、小梅意外のバンドのメンバーが集まっていた。
つくしはそわそわした様子で、窓の外を覗いていた。
「小梅さん遅いなあ……」
そんなつくしに恵梨香が声を掛けた。
「もう直ぐ来るわよ。それよりつくしちゃん、スライドギターはどう?」
つくしはパッと振り向いて、嬉しそうな顔を見せた。
「はい! バッチリです! 次の新曲はスライドギターでやりますから!」
恵梨香は優しく微笑んで言った。
「そう、楽しみね」
カランカランと店のドアのベルが鳴る音がした。皆が目を向けると、小梅が段ボール箱を抱えて入ってきた。
「お待たせー!」
つくしは直ぐに小梅の傍へ行くと叫んだ。
「小梅さん! 早く!」
小梅はにやりと口元を緩めると、「ジャーン!」と言って、取り出したCDを高々と掲げた。
つくしがそれに飛びついた。
「きゃあ! 見せて見せて!」
つくしはCDを手に取ると、涙目になり、それをしっかりと抱きしめた。
「やっと念願のCDデビュー……」
小梅は優しい表情でつくしを見ながら、落ち着いた口調で言った。
「まだ、インディーズよ。そんなんで喜んでちゃ駄目よ。目標はメジャーなんだから」
つくしは小梅に潤んだ瞳を向けると、口をぎゅっと閉じて頷いた。
そして、もう一度CDを見つめた。
ジャケットの写真には、つくしの愛犬のヘレンが、切なげな表情で写っていた。