―7―
玄関のドアを開けると、チャッピーが飛び込んできた。
「チャッピー!」
嬉しそうにチャッピーを撫で回しているつくしに、カンナは訊いた。
「今、大丈夫かしら」
「カンナさんいらっしゃい。はい、大丈夫です」
「恵梨香のことなんだけど」カンナは出されたコーヒーを一口啜ると言った。
つくしはコーヒーを飲みかけて、カップをテーブルに戻した。
「あのこ、なんか勘違いしてるのよ」
「勘違い?」
「そう。本当はつくしちゃんの歌がただ好きなだけなのに、つくしちゃんに恋愛感情を持ったと勘違いしてるのよ」
「そう……、なんですか……。そうですよね? 多分……」
「そう、だから恵梨香のこと、許してあげて欲しいの」
「はい、あの……、私は全然……、ええ、平気ですから……」本当はショックであの日からろくに食事を取ることも、寝ることも出来ないでいた。
「バンド――、やめないでね?」
カンナの言葉につくしが黙って頷くと、カンナはにっこりと微笑んで立ち上がった。
「じゃあ、明日は練習に来てね? もう直ぐオーディションだから、小梅ねえさんがぴりぴりしてて困ってるのよ。お願いね?」
「はい……、あっ、そうだ! カンナさんに渡すものがあったんです」
つくしはカンナを玄関に待たせると、奥の部屋からスーパーの袋を持って戻ってきた。
「これ、チャッピーちゃんに」
カンナは袋の中を見ると、パッと明るい表情を見せた。
「ありがとう! つくしちゃん! 助かるわ!」カンナは袋の中からピーナッツバターを一つ取り出すと、笑顔でつくしに言った。そして、チャッピーを連れて帰っていった。
つくしは自分の部屋へ戻った。そして、ギターを手にすると、胡坐を組んで構えた。
一弦のチューニングを確認する。
前なら最後にGのコードを鳴らしてチューニングを確認するところだが、今は出来ない。
つくしは目を瞑り二本の指でゆっくりとメロディーを奏で始めた。まだ、歌詞の出来ていない新曲のメロディーだった。
弾きながら、初めて恵梨香の演奏を見たときのことを、つくしは思い出していた。
恵梨香の演奏は本当に感動的だった。恵梨香と一緒にやりたいと心の底から思った。本当に恵梨香を尊敬していた。もし、自分が男なら、恵梨香の要求に素直に応えただろう……。でも、自分は女だ。それは出来ない。
あの日の獣のような恵梨香を思い出し、つくしはギターを弾く手を止めた。そして、大きく溜息を吐いた。
本当に、勘違いだったのだろうか……。
季節は秋も終わりに近づいていた。
つくしは寒そうに背中を丸め、健司の家に向かっていた。恵梨香とのことがあってから、暫くヘレンの散歩をサボっていたが、急にヘレンに会いたくなって、夕食を食べ終わると直ぐに家を出てきた。
健司は留守だった。代わりに獣医でもある、健司の父親がつくしを迎えた。
「やあやあ、つくしちゃんか」
「すいません。ヘレンの散歩ずっとサボてて」つくしはそう言うと、丁寧にお辞儀をした。
「いやあ、そんなことはいいんだよ。それよりよく来てくれた。実はヘレンがおとといから具合が悪くて寝込んでいるんだよ」
「ええ! ヘレンが!?」
治療室の片隅のベッドの上に、ヘレンは寝かされていた。
つくしがそうっと覗き込むと、ヘレンはぐったりといった感じで眠っていた。
健司の父親はしんみりとした口調で言った。
「事故の後遺症が今になって出てきたみたいでね……」
つくしは振り向いて、健司の父親にすがりつくようにして言った。
「先生、ヘレンを助けてください。お願いします」
「うん。わかっとるよ。とりあえず出来ることは全部やった。後はヘレン次第なんじゃ」
つくしは真剣な目で頷いて、今晩は看病させてもらうことにした。
ベッドの上でぐったりとしているヘレンの頭を優しく撫でながら、つくしは呟くように語り掛けた。
「ヘレン……、ごめんなさい……。ずっと会いに来て上げられなくて……。これからは、ちゃんと毎日来るからね? だから……、元気になって? ねえ、ヘレン? 聞こえてる?」
左の頬をひたひたと何かがくすぐっている。つくしはそれに気がついて、ハッと目を開けた。
「ヘレン!」
ヘレンはくうんくうんとおねだりするような声を出した。
「待てて! 今、先生を呼んでくるから!」つくしは急いで病室を飛び出した。
ヘレンに聴診器を当てている健司の父親の後ろから、もどかしそうな表情をしてつくしは訊いた。
「どうですか!? 先生!」
「うーん、眠いのう……」
「先生! しっかりしてください!」
「分かった、分かった。ちょっと落ち着きんしゃい」
ヘレンの診察をしている健司の父親の後ろで、つくしはきがきではない様子で、診察を見ていた。
健司の父親は聴診器を外した。
「先生!?」
健司の父親は振り向くと、にっこりと笑って、「もう大丈夫じゃ」と言った。
「先生! ありがとうございます!」
つくしは礼を言うと、ヘレンを抱きかかえた。
「ヘレン! よかったね? 頑張ったね? 私も頑張るから! 私、ヘレンのために歌うから!」
ヘレンは嬉しそうに、つくしの顔を嘗め回した。
*
スタジオの横の小窓から覗くと、バンドのメンバーたちはもう揃っていた。
つくしは大きく息を吸い込み、スタジオのドアの取っ手に手を掛けた。
「皆さん! お待たせしました!」
スタジオへ入ると、恵梨香が傍へ来た。
「つくしちゃん……、あの……」
「はい! 恵梨香さん! これからも、バンド、頑張りましょう!」
つくしが恵梨香の手を握ってそう言うと、恵梨香はきょとんとした表情を見せた。その後ろでは、カンナがクスクスと笑っている。
「やっと来たわね、つくしんぼ」
小梅がスタジオの奥のパイプ椅子に座り、腕を組んで貧乏ゆすりをしていた。
「すいません……」つくしは殺気を感じて、寒気を押さえた。
「まあ、いいわ。ライブハウスのオーディションは来週だからね。気合入れてやるよ!」
小梅が言うと、皆きりっとした目になった。
つくしは楽器を準備しているメンバーを見渡して、声を張り上げた。
「みなさん!」
小梅が怪訝そうな表情で、つくしに顔を向けた。
「はあ? なによ」
「新曲の歌詞が出来たんです!」
「そう、じゃあ早速やりましょうか?」恵梨香が言うと、皆頷いた。
渡された新しい譜面を眺め、しおんは呟いた。
「ヘレン?」
「はい! 今朝書いたんです」
「ふーん」と言って、カンナは新しい譜面を見ながら、ピアノを弾き始めた。ゆったりとしたバラード風なピアノだった。
つくしは目を瞑り、マイクを口元へ持っていった――。
*
真っ暗な部屋の中、ベッドの上で横になっている人影があった。さらにもう一つ、その人影の股間辺りに蹲っている人影がある。
「もういいよ。エリ……」
健司の股間から恵梨香が顔を上げた。
「だめ?」
健司は恵梨香の腕を取って、横に寝かせると、抱きしめてキスをした。そして、唇を離すと寂しそうな顔をして謝った。
「ごめん……」
恵梨香は小さく首を振った。
健司は本当に不能だった。恵梨香が何をしても元気になる気配もない。
つくしへの思いも消え、今は健司のことを真剣に思っていた。やはり自分は普通だったと今は自覚していた。それだけに、今度は健司が不能なことを寂しく思っていた。
(健司さんは病気なんだ。私が理解してあげなくちゃ……)
恵梨香はそう思うと、健司にキスをした。
「今度、ライブハウスで演奏することになったの」
「そうなんだ、じゃあ見に行くよ」
「うん。自分で言うのもなんだけど、結構いけてると思ってる。ボーカルのこが凄いのよ。マジでメジャーを目指そうと私は思ってるの」
「へえ、そうなんだ。エリが認めるこだったら凄いんだろうね、ボーカルのこ」
「まだ、高校生なんだけどね」
*
ライブハウスでの初ライブの客の入りは、まずまずだった。メンバーの知り合いも多かったが、つくしと恵梨香のストリート時代のファンもかなり来ていたようだった。
大盛況でエンディングを終えると、アンコールを二曲やり、メンバーは満足気な表情で、ステージを後にした。
控え室へ戻ると、小梅は汗を拭きながら叫んだ。
「うおお! すっきりしたー!」
その横で、つくしが泣きべそをかいていた。
「なんか、感動しちゃいました……」
そんなつくしにしおんが抱きついて、「私もー!」と叫んだ。
抱き合って感動の涙を流している二人を見て恵梨香は微笑むと言った。
「まあ、合格ね」
恵梨香の言葉にカンナが相槌を打った。二人はいたって冷静といった感じだった。
翌日の晩、つくしの家のカレー専門店で、打ち上げをやることになっていた。
栗雄はカレーの鍋をかき混ぜながらしみじみとした口調で言った。
「それにしてもいいバンドだな。お父さん感動したぞ」
「ええ! お父さん来たの!?」
「えっ? 行ったけど?」
「なんでよ! かってに来ないでよ!」
「ええ! なんで、いいじゃんかよ」
「だめよ! それに、お店はどうしたのよ」
「店なんかやってる場合じゃないだろ?」
「何言ってんのよ! 今度勝手に来たら、口利かないからね!」
「ええ……、なんでだよ……」
うな垂れて鍋をかき混ぜている栗雄の隣で、つくしは口を尖らせてサラダを作っていた。
夕方、しおんとカンナがやってきてから、暫くして小梅が現れた。
小梅は店の中を見渡してつくしに訊いた。
「エリちゃんは?」
「ちょっと遅れるって電話ありました」
「ふーん、そう、ほんじゃとりあえずはじめましょうか」
小梅が乾杯の音頭を取り、打ち上げが始まった。
小梅はジョッキのビールをぐいぐいと半分ほど飲み干すと、プハーっとオヤジのように息を吐いて、口の周りについた泡を手で拭ってから言った。
「最初にしてはまずまずだったわね」
するとしおんが立ち上がって小梅に向かって言った。
「私! プロになりたいんです!」
「プロねえ……」
小梅はつくしとカンナを交互に見て、「あんたたちはどうなの?」と訊いた。
「私は……」
つくしが口ごもっていると、「こいつは当然プロでやらせます」と栗雄が答えた。
「なんでお父さんが決めるのよ!」
「いいの! もう決まってるの!」
「なんでよ! 勝手に決めないでよ!」
小梅はなだめるようにつくしと栗雄の会話に口を挟んだ。
「はいはい、分かったから」
その後、カンナは落ち着いた口調で言った。
「私はつくしちゃんとだったらやってもいいわ」
「そうね、つくしんぼがいなくちゃウチのバンドは成り立たないからね」
しおんは必死な表情になって、つくしの手を握り締めた。
「つくしちゃん! お願い! 一緒にプロになって!」
つくしはどうしようといった表情で頷いていたが、勿論つくしもプロ志望だった。初のライブは感動的だったし、歌うことに喜びも自信も沸いてきていた。
カランカランとドアのベルがけたたましく鳴った。つくしが目を向けると、恵梨香が入ってきた。つくしは声を出そうとして、息を呑んだ。
恵梨香の後に続いて、男性が一人入ってきた。
「先生!」つくしは目を丸くして言った。
「よう、石田。久しぶり」
恵梨香と一緒に来たのは健司だった。
「なっ、なんで恵梨香さんと?」
恵梨香ははにかんで健司を見ただけで、答えなかった。
小梅が怪訝そうな表情で「誰よ、その男」と恵梨香に訊くと、「恵梨香の彼氏よ」と、カンナがふて腐れた顔で代わりに答えた。
「ええ!」つくしとしおんが目を丸くして叫んだ。
「まさか石田がボーカルだったとは思わなかったぞ」
つくしは驚いた顔のまま、健司を見て絶句していた。
ショックで口が利けなくなっているつくしをよそに、しおんが恵梨香に話しかけた。
「ねえねえ、恵梨香さん?」
「さっき、みんなとプロを目指そうって話してたんだけど、恵梨香さんはどう?」
「もちろん、考えてるわ。つくしちゃんの歌なら十分可能性あると思うわ」
「じゃあ、決まりね」と小梅は言って、ビールのジョッキを手に取った。
「ほんじゃ、本格的にプロを目指すってことで、乾杯すんべ」
小梅が言うと、皆グラスを手に取った。
「カンパーイ!」と言ってグラスを合わせあう中に、つくしのグラスはなかった。
恵梨香は不思議そうな顔をしてつくしを見た。
「どうしたの? つくしちゃん」
「私……」
健司も不思議そうな顔で訊いた。
「どうしたんだ? 石田」
つくしは顔を伏せた。
「私……」
「何よ」と小梅が言うと、つくしは顔を上げた。
「私、別に歌なんて歌いたくないです!」
皆が唖然としてつくしに注目すると、つくしは店から飛び出して行った。
*
中央公園の噴水広場のベンチにつくしはいた。恵梨香はほっと表情を和らげて、つくしの傍へ近づいていった。
直ぐ傍まで行くと、つくしはハッと顔を上げて恵梨香を見ると、直ぐに俯いて口をきつく閉じた。
恵梨香はつくしの隣に座ってつくしの顔を覗きこんだ。
「どうしたの?」
「…………」
恵梨香はふっと微笑むと、口を開いた。
「小梅さんがね、インディーズからCDだそうって、つくしちゃんも出したいでしょ? 自分のCD」
「…………」
「みんな、心配してるよ」
つくしは横を向いたままだった。
「つくしちゃん?」
「恵梨香さんは……」
「なに?」
「恵梨香さんは、私のことが好きだったんじゃないですか?」
「……ごめん、……あれは……」
「恵梨香さん……、彼氏がいるのにひどいじゃないですか……」
「あの……、あのことは謝るわ……。本当にごめんなさい……。でも、つくしちゃんは大好きよ。恋人になってほしいとかそういうんじゃなくて、本当につくしちゃんと一緒にバンドをやれて良かったと思ってる。つくしちゃんの歌が大好なの」
「本当に私とバンドをやりたいんですか?」
「ええ、もちろんよ」
つくしは恵梨香に真剣な目を向けた。
「じゃあ、先生と別れてください」
「えっ?」
「私は、大好きなギターも弾くことが出来なくなって、そしたら今度は大好きな人も奪われて……」
「つくしちゃん……、まさか……」
「なんで私ばっかり不幸で、恵梨香さんばっかり幸せなんですか!? ずるいじゃないですか! 一つくらい私に分けてくれたっていいじゃないですか! 私の先生を奪わないでください! 先生と別れてください!」
恵梨香は顔を伏せた。
「それは……」
「もう……、バンドなんて興味ないです!」
つくしの言葉に恵梨香は驚いて顔を上げたが、つくしはもう、走り去った後だった。
*
夕食を終え、つくしはぼんやりとテレビを眺めていた。ドックフードのCMに出ている犬を見て、ヘレンのことを思い出した。恵梨香と健司が付き合っていることを知ってから、またヘレンの散歩をサボっていた。健司に会ってしまうのが嫌だったからだ。
(ヘレン……、元気かなあ……)
玄関のチャイムが鳴ったので、立ち上がろうとしたが、栗雄が玄関へ向かったのを見て、またテレビに目を向けた。すると、玄関のほうから犬の鳴き声がするのに気がつき、つくしは慌てて立ち上がった。
玄関へ行くと、健司がヘレンを抱っこして立っていた。
「石田、少し話があるんだけどいいかな?」
つくしは頷いて健司を自分の部屋へ案内した。
つくしが床に腰を下ろすと、健司も座ってヘレンを床に下ろした。ヘレンは不自由な足で必死につくしの傍へ這っていった。
つくしは膝元へ這ってきたヘレンを抱きかかえ愛おしそうに撫でてあげた。
「ヘレン……、ごめんね……、お散歩サボって……」
「石田が来ないと、ヘレンが元気なくてね……。あんまり餌も食べないんだよ」
「済みません……」
「いや……、石田が来なかった原因は分かるから……」
つくしは俯いてヘレンを抱きしめた。
「恵梨香が分かれたいって言ってきて……」
「えっ?」
「石田?」健司はつくしをじっと見つめてきた。つくしはごくりと唾を飲んだ。
「先生が恵梨香と別れても、先生と石田は付き合えないよ」
つくしは黙って頷いた。
「分かってます。先生……、恵梨香さんと別れないでください……。恵梨香さんを大事にしてあげてください……」
「ああ……、ありがとう……、石田……」
つくしは笑顔を作って健司を見たが、涙が頬を流れたのに驚いて、慌てて顔を逸らした。そんなつくしの頬を、ヘレンはちろちろと小さな舌で舐めた。
「でも私! 先生が好きです! 大好きです!」
健司は立ち上がってつくしの肩にそっと手を乗せた。
「先生も、石田の歌が大好きだ。石田がプロになることを応援してる。頑張れ、石田! お前ならやれる。だから、バンドを辞めるなんて言うな。みんなお前の歌を待ってるんだからな!」
つくしは鳴き声を必死に堪えて、ただ頷いて返した――。
翌朝、久しぶりにヘレンの散歩に出た。
もう季節はすっかり冬だった。凍てつく空気が身も心も凍えさせるようだった。
つくしは大きく白い息を吐くと、横を進むヘレンを見つめた。
「これからは、毎日ちゃんとお散歩に行くからね」
後ろ足を車椅子に乗せ、必死に前足をちょこちょこと動かして、つくしの横を進んでいくヘレンを見つめ、早く立ち直らなければいけないとつくしは思っていた。
中央公園の野外音楽堂の裏へ出た。
「つくしちゃん!」
しおんが手を振って駆け寄ってきた。
二人は近くのベンチに腰を下ろした。
「つくしちゃん、どう? 元気でた?」
「えっ?」
「なんか分からないけど、カンナさんがつくしちゃんと恵梨香さんが落ち込んでて、暫くバンドは出来ないだろうって」
「そうなんだ……」
「大丈夫?」
「ええ、ごめんなさい……」
「そう、よかった。でも、なんかあったら相談してね」
「…………」
「つくしちゃん?」
「しおんさんは……」
「なに?」
「しおんさんは、失恋したことありますか?」
「えっ?」
つくしは俯いて足元のヘレンを見つめた。
そんなつくしを見てしおんは微笑んだ。
「あると言えばあるし、ないと言えばないわ」
つくしは不思議そうな顔をしおんに向けた。
「彼氏……、死んじゃったのよ」
「えっ?」つくしは目を丸くしてしおんを見た。
「交通事故でね……、誕生日だったのよ。私と彼は誕生日が同じ日で、二人でデートする約束してたの。でも、彼は来なかった……。待ち合わせの場所へ来る途中で交通事故にあったの。私へのプレゼントを握り締めたまま……」
つくしはごくりと唾を飲んだ。
「だから、もう彼に会うことが出来ないけれど、でも……、さよならを言っても、言われてもないわ。だから、まだ私と彼は恋人どうしよ」
「しおんさん……」
「どうしたの? つくしちゃん、ひょっとして失恋した?」
つくしは首を振った。
「私のなんて、失恋なんて言わないです。もともと上手くいくはずないって分かってたし」
しおんは黙ってつくしを見つめていた。
「でも、しおんさんは強いですね」
「そんなことないわよ」
「でも……」
「彼が死んで暫くは落ち込んだわ。激痩せして、お母さんが心配して入院させようとしたくらいよ」
「でも、どうやって立ち直ったんですか?」
「夢があったの」
「夢?」
「そう、彼の夢」
「どんな?」
「彼はバンドでドラムをやってたの。彼はプロを目指してたわ。私は彼がプロになれるように必死に応援してた。だから、私は彼の意思を継いでプロになることを決心したの。ドラムを叩いていると、彼と一緒にいる気分になれるの。だから、今はちっとも寂しくないわ」
「しおんさん……」
つくしは俯いて涙を堪えた。
「やだあ、つくしちゃん」
つくしはすくっと立ち上がった。
「私! 感動しました! 私も頑張ります! 頑張って歌を歌います!」
学校から帰って二階へ上がろうとすると、居間の方から栗雄に呼ばれた。
「なに? お父さん」
「さっき恵梨香ちゃんが来て、お前にこれを渡してくれって頼まれた」
栗雄は五センチメートルもない短いスチールのパイプをつくしに見せた。
つくしはそれを不思議そうな顔で手に取った。
「なに? これ」
栗雄は呆れたような表情をして言った。
「お前、ギター好きを豪語してて、スライドバーも知らないの?」
つくしはぷくっと頬を膨らませた後言った。
「なによ、スライドバーって、いいから教えなさいよ」
栗雄は得意げに腕を組んだ。
「ボトルネックとも言うな。最初は酒のビンの口んとこを切り取って使ってたらしい」
「だから、なんなのよ。これって」
「スライドギターって知らないの?」
つくしは首を傾げて言った。
「スライドギター?」
栗雄はつくしの手からスライドバーを取り上げると、つくしを自分の部屋へ連れて行った。
つくしは栗雄の部屋を覗くと、目を見開いた。
「えっ!? なにそれ!? どうしたの? お父さん!」
栗雄は部屋の隅に置いてあった、金色のエレキギターを抱えた。
答えない栗雄につくしはイライラした様子で訊いた。
「ねえ、お父さん! それどうしたの? いつ買ったの?」
「ええ? お前が生まれるずっと前から持ってたよ」
「うそー! なんで教えないのよ!」
「お父さんが教えようとしたって、お前の方がうるさがって、話を聞こうとしなかったろうが」
栗雄は呆れた顔をして、アンプの電源を入れた。そして、チューニングを確認する。
つくしはそんな栗雄の様子を、固唾を呑んで見ていた。
ガーンと歪んだコードを鳴らすと、ブルージーな短いフレーズを栗雄は弾いた。
すると今度はペグを回しチューニングを変え始めた。
「なにやってんの? お父さん」
つくしが訊いても、栗雄は答えず、弦を押さえずに、バララーンと弦を弾いた。
「えっ?」つくしは目を丸くした。
「なにそれ?」
栗雄は微笑んで言った。
「オープンDチューニング」
「オープンD?」つくしは不思議そうな顔で呟いた。
「お前が知ってるチューニング方法は、レギュラーチューニングって言って、一般的なチューニング方法だ」
「レギュラーチューニング……」
「いいか、つくし。ギターのチューニング方法ってのはいっぱいあって、こうじゃなきゃいけないなんてことはないんだぞ。このオープンDチューニングってのは弦を押さえずにDのコードが弾けるチューニング方法だ」
栗雄はそこまで言うと、左手の小指にスライドバーをはめた――。
目から鱗が落ちると言うのはこういうことを言うんだと、つくしは思った。
スライドバーで弦を擦りながら弾いている父親の演奏はとても鮮烈で、これなら二本しか指がない自分の左手でも演奏出来るのではないかとつくしは思った。また大好きなギターが弾ける。その可能性に期待を膨らませながら、つくしは父親の演奏を食い入るように見つめていた。