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―4―

 もう直ぐ五月も終わろうとしていた。

 東の窓から差し込む朝の光が、食卓の上を明るく照らし出している。

 食卓の上には焼きたてのトーストを乗せた皿とサラダを盛り付けた器。そしてハムエッグの皿の隣のカップからは、入れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。

 こんな朝の食卓の中に、アコースティックギターをかき鳴らす音が満ちている。

「つくし! 食事のときくらいギターを弾くのやめなさい!」

「お父さんだって、食べながら髭剃りするの、やめてくれる!?」

 どこにでもある、父と娘の会話――?

 とにかく、父親の名前は石田栗雄いしだくりお、自宅でカレー専門店を経営している。年齢は今年四十歳。娘の名前は石田つくし。現在高校二年生で、十七歳になったばかりだ。

「仕方がないだろ! 朝は忙しくて髭もそる暇ないんだから」

「私だって、もう直ぐ地区予選なんだから、もっと練習しなくちゃいけないの!」

「父親の言うことは、イテッ!」

 髭剃りで深剃りして痛がる父親。

「ほらいわんこっちゃな、あっ!」

 父親を呆れ顔で見ながら、弾いたギターの弦が切れて、がっかりする娘。

「それでは!」

親子口を揃えて言う。

「いただきます!」

 ようやく食事が始まる。

「でも、いよいよだな」父親がコーヒーをかき混ぜながら言った。

「はには?」トーストを頬張りながら、つくしは訊きかえす。

「地区予選だよ。なんか、お父さん緊張しちゃうなあ……」

「なんで、お父さんが緊張するのよ」

「だって、娘の晴れ舞台だぞ! 優勝したらお父さん泣いちゃうかも」

「やめてよねってゆうか、お父さんまさか見に来る気じゃないでしょうね?」

「行くに決まってんだろ」

「だめよ!」

「なんで!」

「来たら絶好だからね! 絶対、口利いてあげないから!」

「ええ! なんでだよ! お父さん、新しいスーツ買ったのに!」

「馬鹿じゃないの? お父さんがめかしこんでどうするのよ」

「だって、優勝したら、父親のインタビューとかあるだろ?」

「ないわよそんなの。あるわけないじゃん」

「…………」

 がっくりとうな垂れる父親。

 呆れ顔で見つめる娘。

 食卓の隣の台の上に置いてある写真たての中で、つくしの母親は微笑んで二人を見ていた――。


 *


 栗雄は店のカウンターの中で、競馬新聞の予想記事に目を走らせていた。すると、店の入り口のドアの鈴が来客を知らせた。

 栗雄が顔を上げて入り口を見ると、隣で豆腐屋を経営している、岩田豆造いわたまめぞうが片手を上げて挨拶した。

「今日はポークにするわ」豆造はカウンターに座ると言った。

「毎日カレーなんか食って、よく飽きねえな」栗雄は皿にライスを盛りながら言った。

「おいおい、カレー屋が言うセリフかよ」

 栗雄はフッと笑みを漏らして返した。

「おまち」と栗雄がポークカレーを出しながら言うと、豆造はスプーンを手にとって、

「むかしのバンドのメンツには声を掛けといたからよ」と言って、熱そうにカレーを口に入れた。

 すると栗雄は人差し指を口元で立てて、「しっ!」と言った。

「なに?」豆造は不思議そうな顔で訊いた。

 栗雄は身を乗り出して、豆造に顔を近づけると、「つくしには観にいかないことにしてるんだよ」と小声で言った。

「なんで?」豆造も小声で訊いた。

「観にいったら、口利かないって言うもんでよ」

「でも、行くんだろ?」

「当たり前だろ、すみっこで見てりゃわかんねえよ」

 豆造は栗雄の言葉にうんうんと何度も頷いた。そんな豆造の肩をぽんぽんと叩きながら、栗雄はにやりと口元を緩めると、つくしがコンテストに応募した曲を店のコンポで再生した。

 ファンキーなアコースティックギターのリフが店の中に流れ出す。

「ほんと、思い出すよなあ……」つくしの歌声が流れ出すと、豆造は溜息混じりの声で呟くように言った。栗雄はフッと笑みを漏らした。

春香はるかちゃんの生まれ変わりだよな。ほんとに……」と豆造が言うと、少し寂しげな目をして栗雄は、店の片隅に置いてある亡き妻の写真に目を向けた。

 そんな栗雄の表情を見て豆造は、気まずそうな表情をしてコップの水を一気に飲み干した。そして、「この歌なら間違いないだろ」と言った。

「まあな」栗雄はコーヒーをカップへ注ぎながら答えると、微笑んでそのカップを豆造の前に置いた。

「ほんとにいい声だよなあ……」豆造は出されたコーヒーに砂糖を入れながら呟いた。

「でもあいつの場合、歌よりギターを誉めてやんなきゃ駄目なんだ」

「えっ?」豆造は不思議そうな顔を上げた。

「あいつに言わせると、この曲が一次審査を通ったのは、ギターのアレンジが絶妙だからだったらしい」

「曲と歌がよかったからだろ?」と豆造が目を丸くして訊き帰すと、栗雄はカウンターから身を乗り出して顔を豆造に近づけ、「いいか、曲と歌を誉めるのは構わないが、最後にこのギターカッコいいねって忘れずに言わないと、暫く口利いてくんなくなるぞ」と栗雄は真剣な表情で言った。

 豆造は引きつった笑顔で頷くと、コーヒーを一口啜った。

「あいつの言葉を借りると、自分はギターを弾くために生まれてきたんだそうだ」

「まあ――、ギターもそれなりに上手いと思うけど、歌が良過ぎてなあ……」と豆造が呟くと、「今の、禁句だぜ」と栗雄に言われて、豆造は顔を引きつらせた。

 そんな豆造の顔を見て栗雄は微笑むと、腕を組んで少し視線を上げ、「まあ、自分の歌がどれだけ凄いか分かってないのが、あいつの凄いところだ。それにしても心配だなあ……」と言った。

「んっ、なにが?」

 栗雄は目を瞑って暫く考え込むような表情を見せてから、「最優秀ギタリスト賞が取れなかった場合のこと……」と呟いた、そして「なんつって慰めればいいかなあ……、絶対無理だよなあ……」とぼやくように言った。

 栗雄と豆造が腕を組んで考え込んでいる様子を、店の片隅に置かれた写真たての中から、つくしの母親は微笑んで見ていた――。


 *


 五月最後の日曜日。朝方ぐずついていた天気は一変し、窓から見える空は真っ青だった。

 つくしは、目を今日のコンテストの出場者でごった返す控え室の中へ戻した。

 華やいだ衣装、奇抜な衣装、緑色に染め上げた髪の毛を、必死に真上に固めている人。

つくしの今日の衣装は、胸に大きくゴシック体で、『ROCK!』と書かれた白いTシャツにジーパン。彼女のおしゃれの決め手は、愛用のピックをぶら下げた首飾りだった。朝、出掛けに「もっと、他に着るものないのか!」と栗雄に言われて、むっとして喧嘩になって、思わず電車の時間に遅れそうになったのをつくしは思い出した。

 控え室をもう一度見渡してみると、女性の殆どは鏡に向かって化粧を気にしているようだった。つくしはなんとなく不安になって、バックから小さな手鏡を取り出した。

(女は顔じゃないわ。ギターの腕よ!)とつくしは心の中でぼやきつつ、リップクリームを塗りなおした。

 つくしがプルプルになった自分の唇に満足して顔を上げたときだった。目の前をすらりとして背の高い女性が通りすぎた。つくしはその女性に目が釘付けになり、彼女を目で追っていた。

 つくしが釘付けになっていた女性は、松本小梅だった。

 小梅を見てつくしは、まるでテレビか映画か、ファッション雑誌でしかお目にかかれないような美人だと思っていた。

 つくしが小梅を見ていると、彼女はパイプ椅子に腰掛けて、ベースを構えた。

(へえ……、ベースやるんだ……)

 小梅がベースを弾きだそうとしたのを見て、つくしがごくりと唾を飲んだときだった。

「小梅!」とどこからか男性の声が聞こえて、小梅はベースを弾くのをやめ、顔を上げてしまった。

 つくしががっかりしていると、小梅の傍へ茶髪を長く伸ばした、これまたイケメンの男性が急ぎ足で近づいて、「小梅大変だ」と彼女に言った。

「なに?」

「去年本選までいった二人組み、棄権したんだってよ」

「えっ!? それって、めちゃくちゃすっごいギターとピアノ弾く、あの二人組みでしょ?」

「そう!」

「うそ! まじ! あの二人が出ないんじゃ、ひょっとして私たちにもチャンスあるかもよ!」

(去年の本選出場者のめちゃくちゃすっごいギターを弾く人? えー、出ないんだ……、なんだ聴きたかったなあ……)と、つくしががっかりしている向こうで、小梅たちはガッツポーズをしていた。


 *


 コンテストは淡々と進んでいった。

 そのコンテストを栗雄は、二階席でむかし一緒にやっていたバンドのメンバーたちと見ていた。その中には豆造もいる。

「つくしちゃんは最後か」豆造がパンフレットを見ながら言うと、栗雄はステージをじっと見つめながら頷いた。

「今まで見た感じじゃ、つくしちゃんの相手になるようなのは出てないと思うけどな」と豆造が言うと、栗雄は視線を動かさずに黙って頷いた。

「緊張してんのか? 栗雄?」

「うるせえな、黙って見てろ!」

「お前は昔から緊張しいだからな」豆造はそう言って、ステージに目を向けた。


 *


「石田つくしさん、準備してくださーい」

 スタッフの声を聞いて、つくしはギターを磨いていた手を止めた。

(きた! いよいよ来たわ! 私の運命の時間)

 つくしは首飾りにしているピックをぐっと握って、祈るように目を瞑り、心の中で三度自分を励ますと、パッと目を開いてギターのネックを握った。

(よし! みんなに私のギターを聴いてもらおう)つくしはそう思いながら、真剣な表情で立ち上がった。

 高鳴る胸を押さえつつ、舞台の袖からステージを見ると、小梅たちが演奏の準備をしていた。つくしは、小梅の姿に注目した。

 つくしには大きすぎるであろうベースを、ピンと背筋を伸ばした姿勢で構えている姿に、つくしは思わず見とれていた。

(かっこいいなあ……、どんな演奏するんだろう……)

 スティックを叩いてカウントを取る音が聞こえると、つくしはごくりと唾を飲み込んだ。そして演奏が始まった途端、つくしは目を見開き、ギターを構えた。そして、小梅のファンキーなチョッパーベースを全身で感じ、自然とステップを踏んでいた。

(あのお姉さん、ちょーカッコいい! でも、ギターが駄目よ。私ならこうするわ、こうよ!)と、つくしは小梅の演奏に感動しながら、舞台の袖でギターを弾き始めた。

 つくしは自分の出番のことを忘れて、小梅のベースに合わせてギターを弾くことに夢中になっていた――。

 小梅たちの演奏が終わるのと同時に、つくしも『ジャン!』とコードを鳴らしながら、ポーズを決めた。客席から拍手が沸き起こる。つくしは額の汗を拭いながら、客の拍手を自分へのものと勘違いして、満足気な表情で額の汗を拭った。

「石田さん、スタンバイお願いしまーす!」

 つくしはハッとした。

(ブヒ! 私って、これからだった)

 つくしは慌てて、タオルでギターのネックについた汗を拭い、そのまま顔面の汗を拭いた。

(やーん、リップ取れちゃう。顔もテカテカかもー。喉もからからじゃん)

 つくしはとにかく、持ってきたペットボトルの水をごくごく飲むと、ステージに出て行った。

 二階席のほうから、ぱちぱちと拍手の音と「待ってました!」という聞き覚えのある男性の声が聞こえた。つくしが二階席を見上げて目を凝らすと、人影が二つ身を隠すように伏せた。

 つくしは不思議そうな顔をして、視線を一階の席に向けた。

(やばい……、みんな見てる……)

 つくしは客席に背を向け、気持ちを落ち着かせようと、一弦のチューニングをチェックした。これは、つくしがギターを弾き始めるときの癖だった。

「それではエントリーナンバー十八番。石田つくしさんの演奏です」

 司会者のアナウンスを聞くと、つくしは大きく息を吸い込んだ。そして、客席に向かい、目を閉じた――。



 ステージの上には今日の出場者が勢ぞろいしていた。つくしは下手側の一番端に立ち、隣に立っている小梅にさっきからずっと見とれていた。

「それでは、各賞の発表を行いたいと思います」

(ついに……、私の運命が……)

 つくしはごくりと唾を飲んだ――。


「次に最優秀ベーシスト賞です!」ドラム部門の受賞者の発表が終わり、司会者がそう言った。

「最優秀ベーシスト賞は――、松本小梅さんです」

「うおお!」と、つくしの隣で小梅がガッツポーズをとった。

「おめでとうございます!」と、つくしは思わず叫んでいた。

「おー! サンキュー!」と小梅は言って、ステージの前に出た。

 賞状と小さなトロフィーをもって戻ってくる小梅を、つくしは羨ましそうに見ていた。

「次に、最優秀ギタリスト賞です!」

(来たー! これよ! このために私は来たのよ!)つくしは俯き加減で目を瞑り、顔の前で手を握って、必死に祈った。

(ギターの神様お願いします! 私! 一生懸命、練習してきました。毎日毎日家にいるときはギターを手放すことはありませんでした。ギターが大好きです! お願いです! 私にこの賞をください!)

「最優秀ギタリスト賞は――」司会者の言葉に続いて、お決まりのドラムロールがホールに響いた。

(お願いします! 石田つくしを、よろしくお願いします)

「エントリーナンバー――、五番」

(えっ?)

「ケロルのギタリスト、ジャック大蔵さんです! おめでとうございます!」と司会者が言った途端、つくしの耳には何も聞こえなくなった。

『私はいったい何のために〜、生まれてきたのでしょう〜』

 つくしは今の心境を無意識のうちに曲にして、心の中で口ずさんでいた。


 つくしは肩をぽんぽんと叩かれてハッとした。

「あんた呼ばれてるよ」隣から小梅が言うと、「石田さん前へどうぞ」と司会者の声が聞こえて、つくしは不思議そうな表情でステージの中央へ向かった。

前へ出ると、「おめでとうございます」と賞状を手渡された。

(最優秀ボーカリスト賞?)つくしは賞状に書かれた賞の名前を心の中で呟いた。

(全然嬉しくない……)と、おそらく今日の出場者のボーカリストたちが聞いたら激怒しそうな言葉を、つくしは心の中で呟いていた。

 そして、最優秀ギタリスト賞の受賞者の持っている、ギターをかたどったトロフィーを羨ましそうに見つめながら、元の場所へとぼとぼと歩いていった。

(ケロル……、ジャック大倉……、ゆるさん……)

 その後つくしの曲は、最優秀楽曲賞を受賞した。これにはつくしは満足していた。

(やっぱ、ギターのアレンジがよかったからでしょ。むふふ……)

「それでは、最終選考会への出場者を発表いたします」と司会者が言うと、ステージ上の照明が落ち、ドラムロールが始まり、そしてスポットライトが、ステージ上の緊張した面持ちの出演者たちの表情を、順繰りに浮かび上がらせていく――。

「エントリーナンバー十八番、石田つくしさんです!」

 ファンファーレとともに、つくしはスポットライトを浴びた――。



「おめでとう」控え室へ戻ってギターを片付けていると、後ろから女性の声が聞こえて、つくしは振り向いた。

(あっ、ベースのお姉さんだ)

「ありがとうございます」つくしは立ち上がって、深々と頭を下げた。

「あんたの歌、最高だったよ。ギターも上手いじゃん。結構練習したでしょ?」

「はい!」つくしは今日一番の笑顔を見せた。

「あたしたちは今日で解散しちゃうけどさ、本選観にいくから頑張ってよ。あたしたちの分まで」

 つくしは、真剣な目をして頷いた。

(きょうでバンドやめちゃうんだ……、もったいないなあ……、あんな凄いベース弾くのに……)

 小梅が差し出した手を見てつくしは、大きな手だなあ……と思いながら彼女と握手を交わした――。


 *


 家へ帰ると、食卓の上には物凄いご馳走が並んでいた。

「お帰り、つくし!」

「すっごいご馳走じゃん」

「早く座って、乾杯しよう!」栗雄はビールのジョッキを掲げて、つくしを手招きしながら言った。

「なんなのいったい……」つくしは怪訝そうな表情で食卓に着いた。

「じゃあ、本選出場を祝って」

「えっ?」

「乾杯!」

「ちょっと待ってよ!」

「なに?」栗雄はジョッキを口元へ運ぼうとしていた手を止めた。

「なんで知ってんの?」

「へっ!?」

「なんでよ」

「えっ?」

「まさか、お父さん?」

「えっと、うーんと、えー、なんでかなあ……」と栗雄が視線をそらして考え込んでいると、「まあ、いいわ」とつくしは言って箸を取ったので、栗雄は額の汗を拭い、ビールをぐいぐいと煽った。

「でも、取れなかった……、最優秀ギタリスト賞……」つくしはエビフライを食べ終わると、最優秀ボーカリスト賞のトロフィーを寂しげに見つめながら言った。

「あのな、つくし……」

 つくしが泣きそうな顔を上げると、栗雄はどぎまぎして、「あの、地区予選の賞なんて、おまけみたいなもんだから、なっ! とにかく、本選で賞をとらないと意味がないんだから、なっ! お前にはそのチャンスがあるんだから、なっ!」と、つくしに言い聞かせるように言った。

 つくしは俯いて暫く考え込むような表情をすると、「そっか……」と言って顔を上げ、笑顔を見せた。

 その顔を見て栗雄はほっとした表情をして頷いた。

「そうだね、地区予選なんて眼中ないわよ。あんなのケロルのやつにくれてあげるわ。私には本選があるんだから」

「そうだぞ! つくし! ほれ、食え食え」

「おー! 食うぞ!」

 美味しそうにエビフライを頬張るつくしを見て、栗雄はほっとしながら亡き妻の写真に目を向けた。写真の妻は、栗雄を微笑んで見ていた――。


 *


 七月も終わろうとしていた。蝉時雨が響き渡る駅までの道を、つくしはギターケースを右手に持って、旅行バックを左肩へ掛け歩いていた。

(まったくお父さんはいつまでも子離れしないんだから、ほんとにウザったい。もう、十七よ! 一人で東京くらい行けるわよ!)

 東京で行われるコンテストの最終選考会へ出場するため、つくしは駅に向かっていた。出掛けに栗雄が一緒にいくといって聞かないので、喧嘩してきたばかりだった。

 むっとしながら信号待ちしていると、足元にミニチュアダックスフンドが寄ってきたのに気がついた。

「きゃあ! 可愛い!」と言いながらその犬の頭を撫でてあげると、犬は気持ちよさそうに目を閉じた。

「ワンちゃん、ひとりなの? ご主人様は?」つくしが話しかけると、犬は切なそうな目をつくしに向けた。

「やーん! めちゃめちゃ可愛い!」と、つくしがその犬の目にいちころになりそうになっていると、その犬は車道の方へ目を向けた。

「えっ?」

 その犬が車道へ飛び出していく様子が、スローモーションのようにつくしの目に飛び込んでくる。

 そして、車の急ブレーキの音が、つくしには悲鳴に聞こえた――。



 蝉時雨の中に、父親の声が聞こえるような気がしていた。少しずつ目の前に光が差し込んでくる。

「つくし、気がついたか?」

 視界はぼんやりしている。目を少し右に傾け、何度か瞬いてみると、父親が自分を覗き込んでいるのが分かった。

「お父さん……」

「よかった。ほんとによかった……」栗雄はつくしの右手をしっかりと握って言った。

「私……」つくしは視線を動かして、病院のベッドに寝かされていることに、ようやく気がついた。

「なんで……」つくしは記憶をたどり始めた――。

(そうだ、ワンちゃんが寄ってきて……)

 つくしはハッと目を見開いた。そして、左手を握ろうとしてみた。

 心臓の音がバクンバクンと大きく鳴り始めた。

(やだ……、うそ……、うそだ……)

 つくしは怖くて左手を見ることが出来なかった。

「つくし……、あのな……」

 つくしは父親に顔を向けた。栗雄はつくしに顔を向けられると、すっと視線を逸らしてしまった。

「お父さん……、私の手……」

 栗雄は横を向いてグッと奥歯をかみ締めているようだった。目を閉じて小さく震えている。

 つくしは意を決して、恐る恐る左手を上げた――。


 外の廊下を向こうから、豆造がつくしの病室へ向かってこようとしていた。

 そして、豆造がつくしの病室の中を覗こうとした途端、つくしの悲鳴がとどろいた――。


 *


 店に置いてあるテレビ画面に、昨日の台風十号の被害の様子が映し出されていた。

 栗雄はそのニュース番組を店のカウンターの中からぼんやりと見ていた。

 そんな栗雄の姿を伺うように、窓の外から人影が覗いている。

 人影はドアの方に進み、カランカランカランと、ドアのベルを鳴らした。

「今日はビーフにしようかな」と豆造はカウンターに座ると言った。

 反応のない栗尾を見て豆造は溜息をつくと、彼の顔の前に手をかざした。

「ん? なんだ、まめっち来てたのか……」

「その様子じゃ、歌姫は相変わらずって感じかな?」

「あれ以来、外に出ようともしねえ……。夏休みだったのが、せめてもの救いってとこかな……」

「でも、もうじき休みも終わりだろ?」

「そうなんだけどよ……」

 栗雄は大きく溜息をついた。

「もう……、抜け殻みたいでよ……。俺の声なんか耳に入らない感じなんだよ……」

「でも、なくなったのは小指と薬指だろ? 親指と人差し指があればピックは持てるんだから、左利きでやらせてみたらどうなんだよ」

「そんなの言われなくても試したみたいでよ、ギターの弦……、逆に張り替えてあったから」

「だめなのか?」

「今更ゼロからやり直す気に、ならなかったんじゃねえのかな? よくわかんねえけど、とにかく部屋にこもって、ぼうっとしたっきりなんだ……」

 豆造は福神漬けのらっきょをぽりぽりかじりながら、「もったいねえなあ……、歌だけでも十分なのになあ……」と呟いた。

 それを聞いた栗雄は(春香がいてくれたら……)と心の中で呟いた。



「つくし! 朝だぞ、起きろ!」

 栗雄に身体を揺すられて、つくしは布団からむっくりと身体を起こした。

 ――食卓に着いたつくしの前にコーヒーを入れながら、頬がこけて目の下に熊を作っているつくしの顔を見ると、栗雄は思わず目を逸らした。

 そして、ふと思い出したように「あっ! そうだ! つくし? 今日って何の日だ?」と言って、つくしの顔を覗きこんだが、直ぐに目を逸らしてしまった。

 そして、咳払いを一つつくと、「今日はお父さんの誕生日!」と必死に笑顔を作って言ったが、無表情のつくしの顔を見ると、どぎまぎしながら「お……、お母さんの誕生日も今日って……、知ってるよなそんなの……」とぼそりと呟いた。

 つくしは相変わらず無表情だった。

「なあ、つくし? 今日の晩めし、外に食べに行こうか? 何でも好きなもの食べさせてやるぞ! そうだ! そんでもって、カラオケでも行こうか? お父さん、つくしの歌聴きたいなあ……。お父さん、YUIでも歌っちゃおうかな? こ〜い〜しちゃったんだ、多分〜、なんてね……」

「ごちそうさま……」つくしはそう言うと、ゆっくりと立ち上がって、自分の部屋のある二階へと階段を上っていった。

 栗雄は自分の椅子に座ると、がっくりと肩を落とした――。

 食卓の上には、手付かずの朝食が二つ、残ったままだった――。


 *


 交通事故に遭って以来、数週間ぶりにつくしは家の外へ出た。まだ、真夏の暑さが続いている。どこかへ行こうと思って家の外へ出たわけではなかった上にこの暑さだ。つくしは、家の近くの中央公園まで行くと、木陰を求めて、その公園内にある野外音楽堂を囲む林の中へ入って行った。空いているベンチがひとつだけあった。つくしは、気だるそうにそこへ進み、腰掛けた。

 自分でもいつまでも落ち込んでいる訳にはいかないとつくしは思い続けているが、ふと沸き起こってくるフレーズを弾きたくなる衝動をどうすることも出来ず、それを弾くことが出来ない自分が悔しくて悔しくて、その悔しさをどう発散してよいのか分からずに、落ち込んで悩んで苦しむ日々をつくしは送っていた。

 今、また曲のイメージが浮かびかけて、つくしは目を閉じて頭を抱えた。

(もう! どうにかして!)

 ちりんちりんと、つくしは鈴の音を聞き、目を開けてどきりとした。

 つくしの足元から、ミニチュアダックスフンドがつくしの顔を心配そうな目で見上げていた。

(えっ? このワンちゃんて……)

 あのときの犬だとつくしは思った。そして、後ろ足の方を車輪のついた台車に乗せているのを見て、不思議に思った。

 なんだろうと思いながら、後ろ足の方をよく見て、つくしはぎくりとした。

 その犬は、後ろ足と尻尾が切断されてなかった。

 つくしは思わず、親指意外が一つになっている、赤い毛糸の手袋をはめた左手を握り締めた。

(このワンちゃんも、こんな風に……)

 つくしが足元の犬と見つめ合っていると、「ヘレン!」と声が聞こえて、つくしと犬は同時に視線を声の聞こえた方向へ向けた。

(せ……、先生!?)

「おっ!? 石田じゃないか」

 声の主は、つくしが中学二年と三年のときの担任の教師だった、田沢健司だった。

 中学時代、つくしは健司に憧れていた。そして、つくしがギターを始めるきっかけになったのは、健司が中学には珍しい、軽音楽部の顧問をやっていたからだった。つくしは中学時代、軽音楽部に入り、健司に誉められたくて、必死にギターを練習した。そして、いつしかギターという楽器が本当に好きになり、プロを目指すようになっていた。

「久しぶりだなあ……」健司がそう言いながらつくしの横に腰掛け、懐かしそうにしげしげと見つめてくると、つくしは思わず顔を背けて俯いた。

「ん? どうした? なんか、具合悪そうだな」

 つくしは健司の方を見ることが出来なかった。

「そうだ! 石田、コンテストの最終選考会、どうした?」

 つくしはハッとして、健司の方を見た。

 健司はつくしが顔を向けると、にっこりと微笑んで、「先生な、地区予選見たんだよ。本当は先生の知り合いの人が出るはずだったんだけど、その人は突然出れなくなったみたいで、でもパンフレットに石田の名前が出てて、先生びっくりしたぞ」

 健司はそう嬉しそうに言うと腕を組み、少し視線を上に向けて、思い出すように話し出した。

「ほんと凄かった。久々に石田の歌聴いて、なんか感激した。ギターもあの頃よりずいぶん上手くなったな」

 健司はつくしに視線を戻した。そして、目を丸くした。

「ど、どうしたんだ? 石田……」

 つくしは堪えきれずに、声を上げて泣き出した――。



「そうだったのか……」

 健司がそう呟くと、つくしは外した手袋をまた左手にはめた。

 健司は視線をヘレンに向けた。

「石田がヘレンを助けたのか……」

 健司はそう呟いて、足元で大人しくしていた、ミニチュアダックスフンドのヘレンを抱き上げた。

「石田?」

 健司に呼ばれると、つくしは真っ赤になった目を健司に向けた。

「ヘレンを恨んでるか?」

 つくしが黙って首を振ると、健司はほっとしたような表情を見せた。

「ヘレンはな……」

 つくしは健司に顔を向けた。

「本当は先生のウチの犬じゃなかったんだ」

「えっ?」つくしは不思議そうな表情を見せた。

「事故に遭って先生のウチの動物病院に運ばれてきて、先生のお父さんが手術して助けたんだけど、元の飼い主が後ろ足を切断したヘレンを見たら、安楽死させてやってくれって言って……」

「そんな……」つくしは寂しそうな目をヘレンに向けた。

「でも、ウチの父はそんなこと出来ないから、ヘレンをウチで引き取ることにしたんだ」

「そうなんだ……」つくしはヘレンを見つめながら、ほっとした表情をした。

「本当は死んでもおかしくなかったのに、必死に頑張って、こんなに元気になった」

 健司はつくしに真剣な目を向けた。

「後ろ足がなくなっても、頑張って生きようとしている。だから、三重苦でも必死に生きたヘレンケラーの名前を貰って、ヘレンに名前を変えたんだ」

 つくしは頷いた。

「先生はな……」健司はそう呟くと、左手でつくしの肩をしっかりと掴んだ。

 つくしは真剣な目を健司に向けた。

「ギターが弾けなくなったのは残念だと思う。でも、石田にはまだ歌があると思う」

「歌?」と、つくしが不思議そうな表情で呟くと、健司は真剣な目のまま頷いた。そして、「大好きなんだ」とその目のまま言った。

(ええ! だ、だ、だ、だ、大好き!?)

 つくしには健司がその後に『石田の歌が』と言ったのが耳に入らなかった。ずっと、健司が言った『大好き』が頭の中でこだましていた。

「石田?」と健司に肩を揺すられてつくしはハッとした。

「なあ石田? 元気出せ、お前にはまだあんなに凄い歌があるんだから、なっ? 先生、石田が復活するの、待ってるぞ!」

 つくしの表情はみるみると明るくなっていった、そして健司の腕からヘレンを取り上げると、しっかりと抱きしめて、

「ヘレン! 私、頑張る! 今度は歌で勝負よ!」と叫んだ。


「こ〜い〜しちゃったんだ、多分〜」と、つくしはウキウキした表情で口ずさみ、スキップしながら店の前まで来ると、勢いよく店のドアを開けた。

「ヤッホー! お父様〜!? あら〜、まめっちおじさんこんにちわー」

「へっ?」とカウンターの中の栗雄と、その前に座っていた豆造は、目を丸くしてつくしを見た。

「お父さん!」

「へっ? なに?」

「食事に行くわよ!」

「えっ?」

「パーティーよ!」

「へっ?」

「そんでもって、カラオケよ!」

「えっ!?」

「歌うわよ!」

「は?」

「ガンガンに、歌って歌って、歌いまくるわよ!」

 栗雄と豆造はどうなっているんだといった表情をして顔を見合わせた。

「早く、いくわよ! お父さん、レッツゴー!」

 栗雄と豆造が唖然としながら、つくしをみていると、また「こ〜い〜のはじま〜り、胸が〜きゅんとせま〜くなる〜」とYUIの歌を口ずさみながら、つくしは店を出て行った。


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