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―3―

 暗い部屋の中で、ぎしぎしとベッドのきしむ音と、女の喘ぎ声がしている。

「ああ! 凄い!」と下になっている女が叫んで、身をよじりながら腰を痙攣させると、その女の股間から頭を起こし、ふうっと静かに息を吐いてから、もう一人の女はベッドの傍らにうな垂れるように腰掛けた。

 ベッドに腰掛けた女は沢田恵梨香さわだえりか。下で絶頂を迎えた女が橋本はしもとカンナ。二人とも同じ音楽大学へ通う、二十一歳の女子大生だった。

 カンナは長い髪を気だるそうにかきあげながら起き上がると、恵梨香に後ろから抱きつき、恵梨香の首筋にキスをした。

「よかったよ。恵梨香……。今度は私がしてあげる……」

「いいよ……」と言って、恵梨香は立ち上がり、バスルームへと向かった。

(いつまでこんなこと続けていくんだろう……)そう思いながらシャワーを顔面で受けていると、カンナもバスルームへ入ってきた。

 カンナは自分の身体を泡まみれにすると、

「恵梨香、洗ってあげるよ」と言って、恵梨香に後ろから抱きつき、自分の身体を擦り付け始めた。恵梨香はカンナのしたいようにと、ただ黙って立っていた。


 二人ともバスローブだけを身につけ、缶ビールを片手にリビングのローテーブルに向かい合って座った。

 恵梨香は缶ビールのプルトップを空けると、「とりあえず、一次審査は通ったね」と言って缶ビールに口をつけた。

「当然よ。地区予選なんて、眼中にないでしょ?」カンナはビールを一口飲むと言った。

 恵梨香とカンナは二人でジャズ系インストゥルメンタルの曲を演奏するユニットを組んでいる。恵梨香はギター。カンナはピアノを担当している。

 二人は、アマチュアミュージシャンの登竜門的なコンテストである、大手レコード会社主催の『ゾニーミュージックコンテスト』に応募していた。その一次審査合格の連絡を、今日受けたところだった。

 昨年そのコンテストに応募したときは、地区予選で、二人の人並み外れた演奏テクニックに、観客および審査員も皆舌を巻いていた。二人は本選の全国大会へと駒を進めたが、その本選前夜、泊まっていたホテルのベッドの中で恵梨香がカンナの肉体的要求を拒んでしまうと、カンナはへそを曲げ、その翌日の本選で怠慢な演奏を行い、二人は落選してしまった。

 恵梨香はカンナとの肉体関係を持ってしまったのは、ほんの弾みだったと思っている。丁度前の彼氏と別れたばかりで落ち込んでいたときに、カンナが優しくしてくれた。酒に酔っていたせいもあったかもしれないが、知らず知らずのうちにカンナと唇を合わせていた。カンナの舌が口の中を暴れまくり、初めての同性とのキスに、そのとき恵梨香は我を忘れるほど興奮してしまった。

 そういう趣味があるのかと、恵梨香は暫く悩んだが、今でははっきりと同性愛者ではないと自覚している。でも、カンナとの関係をやめることが出来ないでいた。カンナとの肉体関係をやめるということは、バンドを辞めるということだったからだ。カンナと別れて、別の人とバンドを組むことも、もしくはソロで活動することも考えたが、どうしてもカンナのピアノを捨てることが出来なかった。カンナほどのピアニストは自分の周りでは見当たらない。でも、彼女との肉体関係はもうやめたい。恵梨香は大きく溜息をつくと、残りのビールを一気に飲み干した。


 *


 五月の連休が過ぎ、今日の講義を終えた恵梨香は、大学のラウンジの窓から外の風景を眺めていた。下に広がる桜並木は青々と葉を茂らせている。

「恵梨香!」

 恵梨香が顔を正面へ戻すと、カンナが嬉しそうな顔をして恵梨香のテーブルの向かい側に腰掛けた。

「恵梨香、今晩ウチに来るでしょ?」

 恵梨香は顔を俯かせ、「ごめん、今日はちょっと……」と呟いた。そしてちらりと上目遣いでカンナの表情を伺うように見ると、カンナは口を尖らせて、窓の外を見ていた。

「あっ、あの……、ほんとごめん。今日だけはちょっと」恵梨香は手を合わせて言った。

「なんで?」カンナはむっとした表情で訊いた。

「あの……、高校の時の友達と会うことになっていて……」

「高校の?」カンナは怪訝そうな表情で、恵梨香のほうに顔を向けた。恵梨香はまた俯くと、こくりと小さく頷いた。

「じゃあ、仕方がないわね」と言ってカンナは立ち上がると、視線だけを下げて恵梨香を見て、「浮気したら、――分かってるわよね」と言ってプイッと体を横へ向けると、ラウンジを出て行った。

 恵梨香は顔を窓の方へ向け、大きく溜息をついた。


 今年の冬にスキー場で知り合った田沢健司たざわけんじから、一緒に誕生日会をやろうとメールをもらったのは先週のことだった。今日はそれでカンナの家に行くことが出来ないのであった。カンナに健司のことは話していなかった。もう会うことはないと思っていたので、話す必要もないと思っていたからだ。でも今は、絶対に知られるわけにはいかないと恵梨香は思っていた。

 健司と知り合ったのは今年の冬にスキーサークルの友人に誘われて、スキーへ行ったときのことであった。スキー場で恵梨香が右の板の裏に雪がこびりついて困っていると、健司が声を掛けてきて、板の裏にワックスを塗ってくれた。ワックスを塗り終えた健司に恵梨香が礼を言おうとすると、健司は「よし、これで大丈夫」と一言言って、そのまま滑っていってしまった。その日はそれっきりだったが、その翌朝、ロッジの食堂の券売機の前で健司と居合わせた。

「あの……、昨日はありがとうございました」と恵梨香が礼を言うと、健司は爽やかな笑顔を見せ首を振り、「たいしたことじゃないよ」と言った。その笑顔に好感を持った恵梨香は、健司を誘い一緒に朝食を取ることにした。名前や年齢を知ったのもそのときだった。健司は六歳年上だったが、恵梨香には二つか、三つくらい上にしか思えなかった。健司は、恵梨香が住む町にある中学で教師をやっていて、恵梨香と誕生日が同じだと知ったのも、そのときだった。

 恵梨香はそのとき、なんとなく恋の予感を感じたが、結局その後健司と会うことはなく、彼のことは忘れかけていた。そこへ突然彼からメールが来たのだ。恵梨香は舞い上がり、何度もカンナの前で口を滑らしそうになっていた。


 恵梨香が住む町の、東山といわれる小さな山の頂上にあるホテルの最上階のレストランで、恵梨香と健司は窓際の席に案内され、向かい合って腰を下ろした。

「じゃあ、乾杯」ワイングラスを持つと、健司は言った。

「お誕生日おめでとうございます」

「恵梨香さんも」

 カチャリとワイングラスを重ね合わせ、恵梨香は健司と一瞬見つめあった後、はにかんで俯いた。

 フルコースのディナーを堪能し終え、二人の前にコーヒーの入ったカップが置かれた。

「これ、誕生日プレゼント」

「わあ! ありがとうございます!」

 健司がくれたのは、シルバークロスのネックレスだった。

 健司が恵梨香の後ろに回りネックレスをつけてあげると、恵梨香は嬉しそうに銀の小さな十字架を指で撫でながら、何度も礼を言った。

「これ、健司さんに」

 恵梨香が上げたのは、ネクタイだった。

「ありがとう」健司は嬉しそうにネクタイを眺めた。

「恵梨香さん、バンドやってるって聞いたけど」

「バンドって言うか、ギターとピアノだけなんですけど」

「ふーん、聴きたいなあ……」

「今度、ゾニーのコンテストの地区予選に出るんです」

「ほんと! 凄いね。あのコンテストに出るんだ。地区予選ていつ?」

「今月の最後の日曜日です」

「日曜日か、休みだ。観にいってもいい?」

「はい! ぜひ来てください!」

 健司が嬉しそうに頷くと、恵梨香はテーブルの下で小さくガッツポーズをした。そして、カンナとの肉体関係を何とか終わらせなければいけないと考えた。

(でも、どうやって……)

「どうしたの?」と健司に言われて、思わず恵梨香はハッとして顔を上げると、愛想笑いを浮かべて首を振った。


 *


 健司と会った数日後の夜だった。

 恵梨香はカンナに呼ばれ、彼女のアパートへ来ていた。

「ねえ……、恵梨香……、しよ……」

 カンナはローテーブルに向かっている恵梨香の後ろから抱きつき、首筋に何度もキスをして恵梨香の胸を揉みあげながら言った。

「あの……、カンナ……、話しがあるんだけど……」恵梨香は自分の胸を揉んでいる、カンナの手をどかしながら言った。

「やだ、したい……」カンナはまた恵梨香の胸を揉み始める。

「ちょっと、お願いだから話を聞いて」

「だめ、してから……」

「お願い!」恵梨香は身体の向きを変え、カンナを両手で押さえて言った。

「なんなの?」カンナは睨むような目つきで言った。

「あの……」恵梨香はカンナの目を逸らすように俯いて呟いた。

「なに?」

「あの……、もう……」

「…………」

「もう、やめたいの」と恵梨香が顔を上げ、必死の表情をして言うと、カンナはフッと笑みを漏らし、「なにを? バンドを?」と言った。

「あの、バンドじゃなくて、その……」

「じゃあ、なによ」

 恵梨香は俯いた。そして、

「あの……、もう……、エッチするのはちょっと……」と呟いた。

「それって、バンドを辞めたいってことでしょ?」

「違うよ! 私はカンナのピアノが大好きなの!」

「でも、私は嫌いなんだ」カンナは、怒っているような、寂しそうな微妙な表情をして、微かに震えていた。

「嫌いじゃないよ! カンナは大好きよ!」

「嘘よ! じゃあなんで私とエッチするのが嫌なのよ!」

「だってそれは……」恵梨香は困ったように俯いた。

「だってなによ」

「あの……」

「出てって!」

「えっ!」カンナの叫び声に驚いて、恵梨香は顔を上げた。

「私がいやなら出てって!」

「そうじゃなくて」

「もう、おしまいよ! コンテストなんかでない!」

「ちょっと待って、ちゃんと話を聞いて!」

「話なんかすることないわ。エッチするかしないかよ!」とカンナは言って、恵梨香に背を向けた。

 小さく震えているカンナの肩を見て、恵梨香は小さく息を吐くと、ゆっくりと立ち上がり、部屋の明かりを消して、カンナの後ろに跪き、服を脱いだ――。


 *


 コンテストの地区予選を一週間後に控えた日曜日。恵梨香は健司とのデートのため、待ち合わせ場所の中央公園に向かっていた。首には健司から貰ったシルバークロスが輝いている。

 恵梨香は健司と映画を見た後、映画館の近くにある『ハーモニー』という恵梨香のお気に入りの喫茶店に来ていた。

 中学生くらいにしか見えない女の店員が、注文したコーヒーを出して立ち去ると、「ここって前はおじいさんが一人でやっていて、ジャズ演奏とかしてたんだよね」と健司はコーヒーカップを手にとって言った。

「そうなんですか!?」と恵梨香が驚いたように目を丸くして言うと、健司は微笑んで頷いた。そして、「学生時代はよくこの店に来てたから」と懐かしそうに店の中を見回して言った。

「ジャズとか好きですか?」恵梨香は期待を込めたような目をして訊いた。

「うん。どちらかというと――、よく聴くほうかな……」と健司が答えると、恵梨香は嬉しそうな顔をした。

「もう直ぐ地区予選だね。調子はどう?」

「ええ、全然問題ないです。最初から目標は本選で最優秀賞だから」と恵梨香が自信たっぷりに言うと、彼女の携帯電話の着信音が鳴った。

「もしもし?」慌てて電話に出ると、「恵梨香?」とカンナの声がして、恵梨香の心臓はバクンと大きく動いた。

 恵梨香が声を失っていると、「今から会える?」とカンナは言った。

「あ……、あの……」

『今、会いたいの』

「えっと、ちょっと、今は……、あの……」

『直ぐに着て!』

「いや……、えっと……」

『どうしたの?』

「今はちょっと……」

『なんで?』

「えっと、明日……、明日いくから……」

『そう……』

「えっと、カンナ?」

『…………』

「もしもし? カンナどうしたの?」

『私より……』

「えっ?」

『私より、その男のほうがいいのね?』

 恵梨香は絶句した――。そして、自分の背後にただならぬ気配を感じた。

 強張った顔で恐る恐る振り返ってみると、二つほど後ろの席にカンナが座っていた。

 恵梨香は目を疑った。そして、全身の毛穴から汗が噴出してくるのを感じた。

 ゆっくりと立ち上がって振り向いたカンナの目を見て、恵梨香は暫く息をすることが出来なくなってしまった。

「恵梨香さん?」恵梨香は健司の声を聞いてようやく息を取り戻した。そして慌てて立ち上がると、健司に謝り店を飛び出していった――。

 暫く辺りを探したが、カンナを見つけることが恵梨香は出来なかった。その足でカンナのアパートへ行っても、彼女はいなかった。仕方なく、恵梨香はアパートの前でカンナの帰りを待つことにした。

 三時間ほどが過ぎ、夜の九時近くになって、ようやくカンナが帰ってきた。カンナは酔っ払っているようで、千鳥足でアパートの脇の階段を上ってきた。

「か……、カンナ?」

「あん? 誰? あんた……」

「あの……、カンナ、あの……」

「なによ! 触んないでよ!」

「お願い! 話を聞いて!?」

「いやよ、あんたなんか知らないわ。もう二度と顔も見たくない」

「どうして!」

「あんたが私を裏切ったんでしょ! とにかくもう終わりよ! じゃあね!」

(どうして……)

 恵梨香は暫くカンナの部屋の前で蹲り、肩を震わせていた――。


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