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―2―

 春は欲情の季節。盛りのついた雄と雌は、ただひたすらに相手を求め、一つになろうとする。

 人間だって例外ではない。路地裏で猫が交尾をしている光景をちらりと見て、佐山さやましおんはそんなことを考えながら、彼氏の腕をしっかりと抱きしめて歩いていた。

 彼氏の名前は渡辺悟わたなべさとる。学校は違うが、二人とも高校三年生だ。

 日曜日の夕方、バイトを終え、二人でファミリーレストランで食事をしているときだった。熱々のドリアをスプーンですくって、ふうふうと息を吹きかけて冷ましていると、

「ラブホテル行かない?」と彼氏が言った。

 しおんはふうっとやった口のまま暫く固まっていたが、徐々に照れた表情に変え、小さく頷いた。

 彼氏とは、高校一年生のときから付き合っている。もうセックスも経験済みだ。だから、ラブホテルへ行くことには抵抗がない。でも、実際に行くのは初めてだった。彼氏の両親は共働きで普段家にいないので、いつもは彼氏の家でしていた。

(ラブホかあ……)

 つい先日、クラスメートからラブホテルへ行った話しを聞いて、それから自分も一度は行ってみたいと、しおんは思っていた。でも自分からは言い出しづらかったので、彼氏のほうから誘ってもらえてよかったと思った。


「ここでいい?」

 ラブホテルが数件立ち並ぶ道に入って暫くすると悟が言った。

 しおんはホテル街への道に入ってから、ずっと俯いて歩いていた。彼女は悟が指差すホテルを見ようともせずに、うんうんと二度ほど頷いた。

「二つしか空いてないなあ」

 悟は部屋の様子を写した写真付のパネルを見ながら言った。その中の二つの部屋だけが、裏からライトがついて照らし出されている。

「ここでいい?」

 悟が指差したのは、部屋の真ん中に丸いベッドがある部屋だった。

 いかにもラブホテルらしい部屋を見て、しおんは唾をごくりと飲み込むと、

(あのベッドって回転しちゃったりするんだろうなあ)

 などと考えながら頷いた。

 部屋に入ると、ホテルへ入るまでは大人しかったしおんが急にはしゃぎだして、ガラス張りで中がすけすけの風呂場や、ベッドの上の天井が鏡張りになっているのを見ては、きゃあきゃあと声を上げながら、興味しんしんといった感じで、部屋の中を見て回った。

 ベッドに乗って、沢山ついてるボタンを操作してベッドを回転させたり、照明の明るさを調整したりして遊んでいるうちに、だんだんと二人ともその気になってきたようで、どちらからともなく服を脱ぎだし、回転するベッドの上で二人とも裸で絡み始めた。


 悟が自分の中を行ったり来たりするたびに、しおんはどんどんと高ぶっていく。そして、彼がしおんの中でびくびくと小刻みに動いた途端、しおんは腰を痙攣させながら悟にきつくしがみついた。

(何て素敵なんだろう)

 最近になってようやく、彼と一つになれる喜びが分かってきた。

「大好き。好きよ、悟……」

「俺も……」

 終わってから暫く抱き合っている時間が、しおんはたまらなく好きだった。


 その後、ガラス張りの風呂場に入り、泡まみれになりながら二人でお互いを洗い会っていると、悟がまた興奮してきて、そのまましおんの中に入ってこようとした。

「だめよ、ゴムつけなきゃ」

 悟は不満そうな顔を見せたが、しおんに泡まみれの手で擦り上げられると、辛そうでもあり、嬉しそうでもある、複雑な表情を見せた後、うっ! と低く呻いて達した。



 悟はバンドをやっていた。パートはドラム。しおんも悟に影響されて、学校のブラスバンド部へ入り、パーカッションを担当している。主なパートは小太鼓だ。

 悟は将来ミュージシャンになることを目指している。そんな悟をしおんは、彼の妻になることを夢見ながら応援している。

 学校が違うので、平日は殆ど会うことが出来ない。その代わり、土曜日の夕方からと日曜日の午前から夕方まで、CDやビデオのレンタルショップで一緒にアルバイトをしている。

 春休みが終わった最初の土曜日、しおんはバイト先近くのハンバーガーショップで悟と落ち合って昼食を一緒に取ると、そのままデートを楽しみ、二人でバイト先へ向かった。

 春休みは終わっているのに、この日は家族連れの客が多かった。子供向けのアニメのDVDの貸出を終えて、しおんが次の客を案内しようと思った時だった。

「松本君!?」

 次の客が、同じブラスバンド部員で同級生の松本雅司で驚いた。彼もパーカッションを担当していて、主なパートはティンパニーだ。

「よう、ここでバイトしてたんだ」

 と言いながら、雅司はしおんの前にクラシックオーケストラのCDを三枚置いた。

「おっ! 雅司じゃん、久々だなあ」

 横からの悟の声に、しおんは驚いて訊きかえした。

「えっ!? 知り合い?」

「中学が同じだったんだよ。俺、こいつにドラム教えてもたったんだぜ」と悟は雅司を指差しながら言った。

「そうなんだ」としおんは頷いて言うと、雅司の方に顔を向けた。

「松本君もドラムやってんだ」

「今はそんなに叩いてないよ。たまに、ねーちゃんのバンドの練習見に行ったときに、ちょっと叩いてるだけ。俺の生きがいはティンパニーだから」

 雅司はそう嬉しそうに言い、貸出を終えたCDが入ってる青いレンタル袋を持つと、店を出て行った。


 バイトを終え、桜の咲き誇る川沿いの道を、しおんは悟と手をつないで、ぶらぶらとゆっくり歩きながら家に向かっていた。

 悟は夜桜を眺めながら言った。

「今度のコンテストは、結構自信あるんだ」

「うん。あの曲なら絶対受かるよ」

 しおんが悟の手を、少し力を込めて握って言うと、悟はしおんに目を向けて微笑んだ。

「ねえ、コンテストに受かってプロになったら、東京に行っちゃうの?」

 悟は顔を正面に向け、暫くしてから頷いた。そして、「どっちにしろ、卒業したら東京に行くから」と言った。

(行かないで……)

 そう、しおんは言いたかったが、口をきゅっと閉じて悟の手を放し、彼の腕にしがみついた。

「しおんもこいよ」

 悟るの言葉を聞いて、しおんは顔を上げた。

 切なさが滲み出ているような表情のしおんを見つめ、「東京で一緒にくらそ?」と悟は言った。

 しおんは悟の腕を強く抱きしめて、何度も頷いた。そうしながら嬉しさをかみ締めていた。ずっと悟と一緒にいたい――。それ以外、今のしおんの心の中にはなかった。


 *


 放課後の音楽教室の中から、タラタタ、タラタタという、小気味よい小太鼓の音が聞こえる。

 雅司は感心したような表情を見せると、教室のドアを開けた。

 小太鼓の練習に励んでいるしおんに、雅司は声を掛けた。

「お姫様、なにかいいことありました?」

 しおんは太鼓を叩く手を止めると、「まあね」と言いながら、右手のスティックをくるくると器用に回した。

「おっ! スティック回し、上手くなったじゃん」

「まあね」と言いながら、しおんはまた自慢げな表情を見せてスティックを回した。

 雅司は悔しそうな表情をして、スティックを手に取ると、彼は両手で回し始めた。

 どうだ、という表情でスティックを回している雅司を見て、しおんはむっとした表情を見せると、右手のスティックで雅司の脇腹を軽くついた。

「だあ!」と声を上げて、スティックを落とした雅司を見て、しおんはげらげらと笑い転げた。

 雅司はむっとした顔をして、落としたスティックを拾うと、にやりと嫌らしい笑みを漏らして、しおんの胸にスティックの先を近づけていった。

「やめて! エッチ! セクハラよ!」

 しおんは胸を両手で隠して逃げ惑った。

「で、なに、いいことあったんだよ」

 雅司はしおんを追うのをやめると言った。

「ちょっとね」としおんは一言だけ言って、また小太鼓に向かった。

 雅司はつまらなそうな表情を見せると、しおんの後ろで、ティンパニーの準備を始めた。

「松本君はさあ、卒業したらどうするの?」

 ティンパニーに耳を近づけ、軽く叩きながらチューニングをしている雅司に、しおんは訊いた。

「ん? うーん」と雅司はティンパニーのチューニングをしながら言っただけで答えなかった。

「別に関係ないか」としおんが呟いて、小太鼓に向きを変えた。

「今、家が結構大変でさ……」

 雅司はしおんの背中に向かって呟いた。

「家?」しおんは雅司のほうに振り返って、怪訝そうな表情を見せた。

 雅司はティンパニーを何度か叩いてみせると、しおんに愛想笑いのような表情を見せて、「家の工場がつぶれそうなんだ……」と言った。

「そうなの……」しおんは雅司の言葉を聞くと、寂しげな表情を見せて俯いた。

 そんなしおんを見て雅司は微笑んだ。

「でも俺、工場継ぐ気ないから、どうでもいいんだけどさ」と言って、ティンパニーを力強く叩き始めた。

 楽しそうにティンパニーを叩いている雅司を見つめ、しおんの表情も次第に明るさを取り戻し、雅司のリズムに合わせて小太鼓の音を刻んだ。



 週が変わった月曜日の放課後、雅司が部室のドアを開けると、しおんがの奥のドラムセットに座ってぼうっとしているのが見えた。

「今日は全然元気ないじゃん」

 雅司がしおんの横に立って言うと、しおんはゆっくりと雅司の方に顔を向けていき、そして俯いた。

「へっ? どうしたの?」

 しおんは小さな声で呟いた。

「悟のバンドが、コンテストの一次審査に受からなくて……」

「そうか……」と雅司が呟くと、しおんは小さく頷いた。

 肩を落としているしおんを見て雅司は微笑むと、彼女の肩をぽんぽんと叩いて、「悟のほうが落ち込んでんじゃないの? あいつのこと励ましてあげられるの、佐山だけじゃないの?」と言った。

 しおんはハッと目を見開くと、雅司を見上げて力強く頷いた。

 部室を飛び出していくしおんを見て雅司は微笑むと、彼女の変わりにドラムセットに向かい、激しくドラムを叩き始めた。


 *


 悟はしおんを寂しそうな表情で出迎えた。

 悟の部屋に入っても、悟は好きなバンドのライブビデオをぼんやりと見ているだけだった。

「悟……、あのさ……」

 悟にはしおんの声など届いていないようだった。

 しおんはそんな悟を見て寂しそうに俯いた。

「俺ら……、才能ないんだよ……」

 悟の言葉にしおんは、驚いたような表情をして顔を上げた。

「そんなことないよ!」

「そうなんだよ!」

 悟は顔を歪めてテレビを消すと、リモコンをテレビに向かって投げつけた。

 床に落ちたリモコンから零れ落ちた乾電池が、ころころと床の上を転がっていくのを、しおんは寂しそうな目で見つめていた。

 あいつのこと励ましてあげられるの、佐山しかいないんじゃないの――。

 雅司の言葉が蘇ってきた。

 しおんはすくっと立ち上がると、うな垂れて床を見つめている悟の前に立った。

 悟が見つめている床の前に立つしおんの足元に、彼女の制服のスカートがばさりと落ちた。

 悟が驚いた顔を上げると同時に、制服を脱ぎ捨てたしおんが悟に抱きついた。

「抱いて……、悟……」

 ブラジャーを取り去った白い乳房に、悟は顔を近づけていく。

 子供のようにしおんの乳首に吸い付く悟の頭をしおんは優しく抱き、

「悟……、忘れるのよ……、嫌なことは全部、私が忘れさせてあげる……」と囁いた。


 *


 駅前の中央公園の中の、野外音楽堂の回りの林は、新緑の若葉に覆われていた。

 もう直ぐゴールデンウィークだった。

 しおんはその林をすがすがしそうな表情で眺めながら、悟との連休の過ごし方をウキウキとした気持ちで考えつつ歩いていた。

 しおんは公園を出ると、真っ直ぐ駅のほうに歩き、駅ビルの中に入っていった。

 エスカレーターで三階まで登ると、目の前にある『サニーレコード店』の中へ入っていった。

「レインボーなんて渋いじゃん」

 一枚のCDを手にとって見ていると、後ろから突然話しかけられて、驚いて振り向いた。

「松本君!」

 雅司はにっこりと微笑むと、しおんの手からCDを取って眺めた。

「俺、レインボーなら『SinceYouBeGone』が好き」と雅司はしおんにCDを返しながら言った。

「悟はアイサレンダーが一番好きだって」

「ふーん、ひょっとしてあいつにあげんの?」

「そう! 誕生日プレゼント。私と悟って誕生日が同じ日なんだよ」と、しおんは嬉しそうな顔で、CDを雅司に見せながら言うと、「へえ、じゃあ俺とも同じ日じゃん」と雅司は言った。

「うそ!」と、しおんが目を丸くして言うと、「ほんと。じゃあ、俺は『のだめオーケストラ』がいい」と、雅司はしおんに手を差し出して言った。

 しおんは口を尖らせてぷいっと顔を横に向けると、「早く誕生日プレゼント買ってくれる彼女が出来るといいね」と言って、レジに向かった。



 今日、五月三日の憲法記念日は、しおんと悟の誕生日だった。この日は動物園でデートをした後、久しぶりにラブホテルへ行って誕生日会をやることになっていた。

「そういえば、松本君も今日が誕生日だっけ」

 早起きして弁当を作りながら、しおんは思い出したように呟いた。


 待ち合わせ場所の中央公園の野外音楽堂の裏のベンチに座って、しおんは悟が来るのを待っていた。

 大きなセントバーナードを連れて散歩をしている男性が通り過ぎると、しおんは腕時計を見て時刻を確認した。

 約束の時間を二十分過ぎている。

 しおんは目の前の高い木を見上げ、はあっと溜息をついた。

 さらに五分ほど過ぎるた。しおんは悟の携帯電話に電話を掛けたが、つながらなかった。

 留守番電話サービスへつながるメッセージを聞くと、しおんは口を尖らせて携帯電話の蓋を閉じた。すると、突然後ろの林から不気味な鳴き声を上げて、カラスが飛び立った。

 しおんは身を硬くしてカラスの行方を追うと、急に不安な気持ちが沸き起こってきて、悟の自宅の電話番号へ電話を掛けてみた。

 自宅の電話にも誰も出なかった。しおんはとりあえず悟にメールを出すと、もう暫く待つことにした。


 結局一時間待ったが、悟は待ち合わせ場所へ現れなかった。

 今までに悟が約束を破ったことは一度もなかったし、待ち合わせに遅れたことすらなかった。しおんは何か悟の身に起こったんじゃないかと不安でたまらなくなってきた。

(悟の家に行ってみよう)と思ったときだった。後ろから肩を叩かれて、はっとして振り向くと、そこに立っていたのは雅司だった。

「なんだ」と言って、しおんは口を尖らせると正面を向いた。

「なにそれ」と言いながら、雅司はしおんの横に座った。

「私、忙しいの」と、しおんが雅司を見ずに言うと、「思いっきり暇そうに見えたけど」と雅司が言った。

(違うもん!)としおんは言いたかったが、代わりに涙が溢れ出た。

「ちょっと、待ってよ。ごめん、俺、変なこと言った?」

 しおんは口を押さえて、首を振った。

 雅司がポケットから赤いバンダナを取り出してしおんに差し出したが、彼女は受け取らず、手で涙を拭って笑顔を作った。

「ごめん……」としおんは震える声で言った。

「どうしたんだよ……」と雅司は心配そうな表情でしおんに訊いた。

「悟が来なくって」と言った途端、しおんの目から涙がこぼれた。

「電話した?」と雅司はしおんの顔を覗きこみながら訊くと、しおんは頷いた。

「なんか、あったんじゃないかと思って……」しおんは震える声で呟いた。

 雅司は暫く考え込むように辺りを見回すと、「あいつんち、行ってみよう」と雅司は言って立ち上がった。そして、しおんの手を取って彼女を立たせた。

 自分の手を握ってきた雅司の手の感触に、しおんはハッとなって、思わず彼の手を見つめた。

「なに?」と雅司に訊かれたが、しおんは小さく微笑んで首を横に振った。

 雅司の手のスティックだこの感触が、悟と同じだと、しおんは思った。


 *


 横を歩いているしおんの表情を見ていて、雅司まで不安な気持ちになっていた。いつの間にか、歩く速度が上がっている。

 自分もつい先日、父親を失いかけたばかりだった。だから今のしおんの気持ちを、雅司は理解出来るような気がしていた。

 でも、自分の場合は父親だ。彼女がそこまで悟のことが好きなんだと知って、雅司は悟のことを羨ましく思う気持ちも感じていた。

 悟とは中学のときには仲のいい友達だった。二人とも音楽好きだしミュージシャンの好みも同じだった。しかし、別の高校へ行ってからは、ほとんど会うことはなかった。しおんと悟が付き合っていたことを知ったのも、つい先日のことだった。

 そうこうしているうちに、彼の家の近くまで来ていた。次の角を曲がって直ぐのところが悟の家だ。その角を曲がると、丁度悟の家の前から灰色のライトバンが走り去っていくところだった。家の前には何人かの人が集まっていて、心配そうに悟の家を覗きこんでいる。

「どうしよう……、やっぱなんかあったのかも……」しおんは不安そうな表情で雅司の腕に手を添えた。

「とにかく行ってみよう。あそこに知ってるおじさんがいるから聞いてみるよ」

 雅司が顔見知りの男性に近づいていくと、男性は直ぐに雅司に気がついて、手招きして雅司を呼んだ。

「大変だよ、雅司ちゃん」

「どうしたんですか?」

「悟君、知ってるだろ?」

 雅司は悟の名前を聞くと、振り向いてしおんを見た。彼女は胸元で手を握り、顔をこわばらせいてる。

 雅司は不安な気持ちを拭いきれず、ごくりと唾を飲み込んでから訊いた。

「悟がなにか?」

 男性は潜めるような声で話し出した。

「あのね……。亡くなっちゃったんだよ。交通事故で」

 言葉を出そうと思ったが、雅司はそれをすることが出来なかった。そして、直ぐにハッとして、振り返った。

 しおんの顔から血の気が失せ、視点が全く定まっていないようだった。今にも倒れそうなしおんを見て、自宅の庭で倒れている父親を発見したときの母親の顔を、雅司は思い出した。



 悟が死んでから五日が過ぎていた。

 しおんは学校をずっと休んでいた。悟の通夜に来ると思っていたが、彼女の姿を見つけることは出来なかった。

 彼女と仲のいい友達が見舞いに行ったが、会ってもらえなかったと、その友達は雅司に話した。

 雅司はしおんのことが心配で仕方がなかったが、友達が行っても会ってもらえないのに、自分なんかが行っても無駄だろうと思うと、たまらない無力さを感じていた。

「おい! どうした? 可愛い弟君!?」

 縁側に座って、ぼうっと庭の梅の木を眺めていると、小梅が肩を叩きながら話しかけてきた。

 つい先日まで、したくもない結婚をさせられそうになっていて、どん底まで落ち込んでいたくせに、結婚しなくてよくなると見違えるように元気を取り戻し、全く能天気といった感じの姉の表情に嫌気がした。

「ねーちゃん好きなひととかいる?」と雅司は訊いて横目で小梅の顔を見ると、小梅は口を押さえて笑いを堪えているようにしていた。

「もういい! あっちいけ!」

「どんなこ? あんたの好きなこって。学校のこ?」

「そんなんじゃないよ!」

「嘘だね、悩んでないでコクッちゃいなよ。男でしょ? 決めるときはビシッとさ」

「もういい!」と言って雅司は立ち立ち上がり、自分の部屋へ向かおうとすると、居間から母親に呼ばれた。

「雅司、電話よ。悟君のお母さん」

「悟の!?」雅司は驚いて母親からコードレスフォンを奪った。

「もしもし、お電話変わりました」

『あの、悟の母ですけれども』

「はい」

『松本君に教えてもらいたいことがあるんだけれども……』

「何でしょう?」

『悟とお付き合いしていたこが、松本君と同じ高校だと聞いてね』

「はい……」

『松本君、知ってるかしら?』

「知ってますけど、なにか?」

『そう……、あの、そのこにお渡ししたいものがあるんだけども……』

 雅司はしおんを悟の家に連れて行くと約束して電話を切った。


 しおんの家に行ったが、彼女に会ってもらえなかった。彼女の母親は申し訳なさそうに、雅司を見送った。

 雅司は、悟の母親の用件をメールに打ち、会ってもらえるまで家の前で待っていると付け加えてしおんにメールを送信した。

 しおんを待ちながら、不安な気持ちが増していた。彼女の母親に彼女の様子を聞いたからだ。しおんはろくに食事も取らず、完全にやつれていて、あと数日このままの状態が続くなら、医者に診せようと思っていると母親は雅司に話した。

(佐山に渡したいものってなんだろう……)

 そう雅司が思ったときだった。後ろで玄関のドアが開く音が聞こえた。

「さっ……」

 雅司は思わず息を呑んだ。母親に支えられるように立っているしおんは、相当にやつれた表情をしていた。

「佐山……、大丈夫か?」

 雅司がしおんの傍へ近づき、優しく声を掛けると、しおんはぼうっとした目をしたまま、こくりと一度頷いた。

 雅司は彼女の母親に会釈すると、代わりにしおんを支えるように腕を回し、ゆっくりと歩き出した。


「ごめんなさいね、あなたにも辛い思いをさせてしまって……」

 悟の母親の言葉に、しおんはゆっくりと首を振った。

「佐山……、お線香上げよう……」

 雅司がしおんの肩をに手を掛けて言うと、しおんはゆっくりと仏壇の前に身体を向けた。

しおんは線香を上げ終わっても、ずっと悟の遺影を見つめたまま、動こうとしなかった。雅司は何か話しかけたかったが、掛ける言葉が思いつかないでいた。

 そうしているうちに悟の母親がお茶を持って現れて、雅司はほっと息を吐いた。

「佐山さん?」

 悟の母親が声を掛けると、しおんはゆっくりと、身体をこちらに向けた。

 悟の母親はしおんの前に、綺麗に折った赤い包み紙と、その上に一組のスティックを置いた。

「悟は事故に会って意識をなくしても、それをきつく握ったままだったそうよ」

 しおんは目の前のスティックを、じっと見つめていた。

「それと一緒にこれが入っていたわ」と悟の母親は、一枚のカードをしおんに手渡した。

 カードを見ていたしおんの目に、涙が溢れてくるのを見て、雅司はグッと奥歯をかみ締めた。

「悟はあなたと出会えて、幸せだったと思うわ……」悟の母親はしおんに向かって、穏やかに声を掛けた。

 しおんの目から大粒の涙が落ちた。

「ありがとうね、しおんちゃん……。悟の分までしっかり生きてあげて……」

 しおんはスティックを抱きしめるように持ち、苦しそうにすすり泣きながら、何度も頷いていた――。


 *


 悟の家に行ってから二日が過ぎていた。

 しおんはまだ学校へ姿を見せない。

 三日目の朝、雅司が溜息をつきながら教室へと向かう渡り廊下を歩いていると、校舎の裏の部室の方から、ドラムの音が聞こえてくるのに雅司は気がつき立ち止まった。

 今日は朝練がないはずだった。雅司が耳を澄ましてドラムの音を聞くと、手足が上手く噛み合っていない、へたくそな演奏だった。

 雅司は一年生が勝手に叩いているのだと思った。一年生はまだドラムを叩いてはいけない規則だったので、雅司はドラムを叩いている後輩を注意しに行こうと思い、部室の方へ歩いていった。

 雅司はへたくそなドラムの音に顔をむっとさせながら、部室のドアノブを力いっぱい引いた。そして、ドラムセットに向かっている生徒を睨み付けた途端、驚いたように目を見張った。

「さっ――、佐山!」

 ドラムを叩いていたのは、しおんだった。

 しおんは、ドラムを叩くのをやめ、額の汗を拭いながら、雅司のほうに身体を向けた。

「おはよう! 松本君」

 しおんはやつれた顔つきをしているが、目だけはキラキラと、なんだか力がみなぎっていると雅司は感じた。

「な……、なにやってんの?」と雅司が言うと、しおんは嬉しそうに立ち上がり、雅司の傍へ来て、「ねえ、松本君! ドラム教えて! 私、ドラムがやりたいの」と元気よく言った。

 どういう心境の変化か雅司にはよく分からなかったが、とにかく彼女が元気になってくれたのが雅司は嬉しかった。

 雅司は微笑んで、力強く頷いた――。


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