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―10―

 栗雄は自宅から店に戻ると、心配そうな表情でカウンターに座っている恵梨香の向かい側へ立った。

「ごめんね、恵梨香ちゃん。つくしのやつ、誰とも会いたくないって、出てこないんだよ」

「どうしちゃったのかなあ、つくしちゃん……」

「いやあ、ほんとに申し訳ない」栗雄が頭に手をやりながらそう言うと、店に小梅がやってきた。

「エリちゃん、どう? つくしんぼのやつ」

 恵梨香は残念そうな表情で首を振った。

「どうすんのよ。あさって映画の監督さんに会いに行くのよ! そんでもって、映画を見せてもらって、挿入歌を作んなきゃいけないんだから」

 小梅は頭を抱えて考え込んでいるようだった。そして暫くすると、パン! と膝を叩いて顔を上げると言った。

「こうなりゃ、雅司に無理やり付き合わせるしかないね」

 恵梨香は頷いて言った。

「別に無理やりじゃなくても、つくしちゃんだったら文句ないと思うのよ」

「あいつもどんな女が好きなのか、全然わからないからねえ、でもとにかく、雅司に何とかさせるしか方法がないね」

 その時だった。店のドアが開いて、しおんと雅司が店に入ってきた。

「よう、ねーちゃん。またサボってんのか?」

「丁度いいところに――」小梅は二人を見て、驚いたように目を見開いた。

「おめえら! なに、手なんかつないでるんだよ!」

「えっ? なんでって」雅司がしおんを見ると、しおんははにかんだ顔をして俯いた。

 小梅は顔を引きつらせて言った。

「まさか、おまえら……」

「俺ら、付き合ってるんだもん。いいじゃん、別に」雅司はそう言うと、しおんの手を引いて奥の席へ座った。

 小梅は真っ赤な顔をして立ち上がった。

「ふざけんな! 誰が付き合っていいって言ったんだよ、くぉらあ!」

「うっせーな! ねーちゃんには関係ないだろ!」

「オオアリクイだこのやろー!」

 しおんは申し訳なさそうな顔で二人の間に割って入った。

「やめてください! 喧嘩しないで!」

「ふざけんな! しおん! お前が一番プロになりたいってほざいてたんだろうが! それをなに横取りしてるんだよ!」

「だって……」しおんは目に涙を浮かべた。

 雅司はしおんの前に立ち、小梅を睨み付けた。

「しおんをいじめるな。俺が付き合ってくれって頼んだんだよ」

 小梅と雅司は睨み合って、一触即発の雰囲気になった。

 栗雄はそんな二人を見ると、困った顔をして言った。

「ちょっと待ってよ小梅ちゃん。つくしのことなら俺が何とかするから……」

 小梅は不安そうな顔をして栗雄を見た。

「おじさん、大丈夫?」

 栗雄は穏やかな口調で言った。

「大丈夫だよ、小梅ちゃん。つくしは歌うために生まれてきた子だから」


 *


 自宅と店の間にある小さな庭で、つくしはしゃがみ込んでぼんやりと地べたを見つめていた。

 花を咲かせたタンポポの隣に土筆が生えている。

(私はやっぱり土筆なんだ。一生咲くことは出来ない……)

「春香は土筆が好きだった」

 つくしはハッとして、振り返った。

 栗雄が後ろから覗き込むように見ていた。

「お母さんが?」

 栗雄は頷いた。

「春がやってきたって感じがするって」

「でも、綺麗に咲くことが出来ないじゃん」

「花はいつかは散っちゃうよ」

「そうだけど……、一度くらいは咲いてみたいでしょ?」

「お父さんは、サクラにしようって言ったんだよ。そっちの方が良かったか?」

 つくしは地面の土筆を見つめて、暫く考えていた。

「つくしでいい」そう呟いてつくしは立ち上がった。

 ヘレンを抱き上げて庭を出て行こうとするつくしに向かって、栗雄は言った。

「お母さんがくれたのは、名前だけじゃないぞ」

 つくしは立ち止まって栗雄を見た。

 栗雄は微笑んでいた。


 栗雄は自分の部屋へつくしを連れてくると、机の引き出しの中からカセットテープを取り出した。そして、それをコンポにセットして、再生ボタンを押した。

 スピーカーから流れ出たサウンドに、つくしは直ぐにのめり込んでしまった。

 ハードなエレキギターの演奏に、スライドギターのメロディーが絡み合っている感じに心が躍っていた。

(すごい! なにこれ!? かっこいい!)

 ボーカルの歌が流れ出すと、つくしはハッと目を見開いた。一瞬、自分が歌っているのではないかと思ったからだ。

(えっ!? 誰これ? めちゃめちゃ上手い!)

 左手がむずむずしていた。ギターが弾きたくて仕方がなくなっていた。そのうち、右手もむずむずしてきた。マイクが持ちたくて仕方がなくなっていた。ツーコーラス目には、目を瞑ってステップを踏みながら、一緒にサビを歌っていた。

 曲が終わった瞬間に、つくしは叫んだ。

「お父さん! だれ? このバンド」

 栗雄はにやにやと口元を緩めているだけだった。

「お父さん!? 誰よ! 教えてよ!」

 栗雄は微笑んで頷くと言った。

「お父さんのバンドだよ。歌ってるのはお母さんだ」

「うそ!」つくしは目を丸くして言うと、コンポをじっと見つめた。

 そんなつくしを栗雄は穏やかな表情で見つめた。

「お母さんの歌、凄いだろ?」

 つくしは黙って頷いた。

「お前の歌は、お母さん譲りだ。お前も全然負けてない」

 つくしは栗雄に目を向けた。

「お母さんの夢は歌手になることだった。お父さんが必死に頼んで、一緒にバンドをやることになったんだ。そして、今の曲でオーディションを受けた。オーディションに受かって、レコード会社と契約しようとしてた頃だった……」

 栗雄は黙って俯いてしまった。

「どうしたの? お父さん」

 栗雄は俯いたまま話した。

「お母さんのお腹に、お前がいるって分かったのが……」

 つくしは息を呑んだ。

「私のせいで……」

「お前に責任はなんにもない。お父さんとお母さんの問題だ」

「でも、お母さんは私のせいで、歌手になれなくなったんでしょ?」

「違うよ。お母さんは全然諦めてなかった。お前を産んで暫くしたら、もう一度挑戦するつもりだった。若かったからな。お前を産んだのは、お母さんが二十歳のときだった」

 つくしは少し、ほっとしたような表情をした。

「お母さんは大きなお腹を摩りながら、歌の上手い子が生まれてきますようにって、いつも言ってた。お前の産声を聞いたときに、きっとこの子は歌手になるって、お母さんは思ったそうだ」

 机の上に置いてある、母親の写真を収めた写真たてを、つくしはじっと見つめた。

「お母さんの思い……、分かってあげてくれないか?」

 つくしは写真を見つめながら、黙って頷いた――。


 *


 小梅の運転する白いライトバンは、東名高速道路を東へと向かって走っていた。カーステレオからは、スタンリークラークのチョッパーベースが鳴り響いている。

 小梅は右手の親指でハンドルをバシバシと叩きながら、ノリノリで車を走らせていた。

 助手席のつくしをちらりと見て小梅は言った。

「なにむくれてるのよ」

「…………」

「なによ」

 つくしは不機嫌そうな顔を小梅に向けた。

「だって小梅さん、ずるいじゃん」

「なにが」

「なんでそんなに今日は綺麗なのよ。メークもヘアスタイルも服もバッチリで、自分ばっかり、ずるいでしょ!?」

「だって映画の監督さんに会うんだよ。ひょっとしたら次の映画で主役かヒロインでもお願いします、なんてことにでもなるかも知れないじゃん」

「ずるい! 私も映画に出たい!」

「あんたはむりむり。口紅すら満足に塗れないおちびちゃんなんて、相手にされないよ」

「むきー!」つくしは地団太を踏んで、悔しがっていた。


 映画の試写が行われるスタジオに着くと、プロジューサーの人が出迎えてくれて早速映画を見ることになった。監督とはその後に面会することになった。

 映画が始まった――。

 主人公は、オリンピックのマラソンで、将来、金メダルを取ることを有望視されていた仁美と言う女性だった。ある日、仁美は早朝のトレーニング中に、交通事故に遭ってしまう。

 その事故が原因でオリンピックの代表を逃してしまった仁美は、卑屈になってしまい、家に閉じこもってしまう。

 医者からは、ちゃんとリハビリすれば、普通に歩けるようになると言われているにもかかわらず、仁美はリハビリを拒否し、ずっと車椅子での生活を送っていた。

 仁美の家は父子家庭だった。仁美の世話をするため仕事に集中出来ない父親は、足の不自由な仁美を次第に厄介に思うようになる。そして遂に彼女を大阪の親戚の家に預けてしまう。仁美は父親に見捨てられたという思いを抱いたまま、親戚夫婦に世話になることになる。

 親戚夫婦は数年前に一人娘を亡くしていた。生きていれば丁度仁美と同じくらいの年齢だったはずだった。だから夫婦は仁美の世話をすることを歓迎した。そして、仁美に対してやさしく接した。しかし仁美は、なかなか心を開くことが出来ないでいた。そんなある日、親戚夫婦が飼っていた柴犬に、子犬が二匹生まれる。一匹は健康で直ぐに貰い手が見つかったが、もう一匹は後ろ足が不自由な雌の子犬だった。仁美はその子犬に、自分の境遇を重ねてしまう。そして、仁美は積極的にその犬の世話を進んでやるようになっていく。仁美はその犬をヘレンと名づけた。

 手先の器用な叔父は、ヘレンのために、車輪の付いた台車のような車椅子を作ってあげる。仁美は後ろ足を車椅子に乗せたヘレンを連れ、毎朝散歩に出かけた。

 ある朝、仁美はランニング中の浩二と言う青年と出会う。浩二は仁美を知っていた。浩二もマラソンランナーで、仁美のファンだった。浩二は仁美に恋をする。そして、仁美が歩けるようになって欲しいと願い、彼女を励まし、リハビリを必死に即す。しかし仁美は彼の思いを鬱陶しく思うだけで、一向にリハビリをしようとしないでいた。自分の思いがなかなか伝わらず、浩二は仁美から少しずつ距離を置くようになってしまう。そんなある日、浩二に思いを寄せる女性(雅美)の存在を仁美は知る。知った途端、仁美は浩二に恋をしていたことを自覚するが、浩二とはあまりにも距離が出来すぎていた。仁美はそれでも浩二との恋を諦めることが出来なかった。仁美はリハビリすることを決意する。もう一度走れるようになれば、彼が自分に振り向いてくれるかもしれない。仁美はそう思った。そして、必死にリハビリに励む。

 リハビリの効果が現れ、ようやく少しだけ歩けるようになった頃、浩二は仁美がリハビリに挑戦していることを知る。浩二は仁美のリハビリの手助けをするようになる。仁美は幸せだった。浩二の励ましが本当に嬉しかった。仁美は浩二に自分の思いを告白する。浩二は仁美の思いを受け入れてくれる。浩二は仁美に言った『仁美は自分の憧れだった。仁美の走る姿に、ずっと励まされていた』と――。そして、『だから今度は、自分が仁美を支えたいんだ。そして、世界のトップランナーたちと一緒に走る仁美の姿を、もう一度見たい。それが、今の自分の夢だ』とさらに言った。

 お互いの思いが通じ合い、幸せな日々を二人は送っていたが、ある日デート先でチンピラ数人と揉め事を起こす。浩二は、仁美にちょっかいを出そうとするチンピラと揉み合いになり、後ろから棒で頭を殴られ重症を負う。病院で数日間生死の境をさまよっていた浩二は、ようやく意識を取り戻すが、仁美の記憶がなかった。自分の記憶がない浩二に仁美はショックを受けるが、いつか必ず記憶を取り戻すことを信じ、浩二の介抱に必死になる。しかし、浩二の心は新しく担当になった看護士のほうに向いてしまう。その看護士は雅美だった。浩二は雅美を選んでしまう。

 浩二を失い絶望の底へ落ち込んだ仁美を救ったのは、かつての浩二の言葉だった。『仁美がもう一度走る姿を見るのが自分の夢だ』その言葉が仁美を立ち上がらせた。仁美は浩二の夢を叶えることに希望を持つ。

 一年強のブランクは仁美にとって大きな壁だった。それでも仁美は浩二の夢のために、過酷なトレーニングを必死に積んだ。そしてその年の冬、大阪国際女子マラソンに、一般選手枠で出場する。

 スタートラインに立ち、仁美は思う。このレースで勝っても浩二の心が戻ることはないだろう。でも、このスタートラインに再び立つことが出来たのは浩二のおかげだ。だから、浩二のために必ず勝つ――。まだ自分のことを愛していてくれていた頃の浩二の夢を叶えるんだ。そしてこの恋に終止符を打とう――。その思いを支えに仁美は走った――。

 レースは予想外に混戦だった。第一集団は、前回のオリンピックで金メダルを取ったエチオピアの選手を囲むように、日本の選手が三人並送する状態で最後の十キロを過ぎた。仁美はその集団から三十メートルほど後ろを一人で必死に追いすがっていた。

 最後の五キロを過ぎた。トップ集団との差がじりじりと開く。仁美は気持ちが折れそうだった。もう、体力を使い果たし、気力だけで走るしかなかったが、それももう限界だった――。別に勝っても、浩二は戻らない……。自分のことなんて誰も期待していない……、別に……、頑張る必要なんて……、ないじゃない……。

 ぐっとスピードが落ち、レースを諦めようと思ったときだった。仁美は目を見張った。浩二が歩道から身を乗り出し叫んでいる。

『仁美! 頑張れ! 諦めるな!』

 身体も心も限界を超して、幻覚を見ているんだと仁美は思った。幻覚の浩二は係員に押し戻されながらまだ叫んでいる。

『仁美! ゴールで待ってる! 必ずトップで帰って来い!』

 夢でも幻でもかまわない。仁美は最後の五キロに全てを賭けた――。一気に仁美の走りが変わる。全盛期の仁美が復活したようだった。トップとの差がぐんぐん縮んでいく――。

 残り三キロ――、エチオピアの選手がラストスパートをかけた。トップ集団の日本選手が離されていく中を、仁美は一人で抜け出し、トップの選手の後を追う。

 浩二が待つゴールの競技場が見えてきた。仁美はトップのエチオピアの選手に迫る。トップ争いはトラック勝負となった。エチオピアの選手も相当息が上がっているようだった。仁美を放すことが出来ない。最後のコーナーで仁美は遂にエチオピアの選手を抜く。観客席の歓声が轟音と化し競技場を揺らす。そんな歓声も仁美は気が付かないほど集中していた。ただ正面のゴールを走り抜けることだけに。その先の光の中で、両手を広げて待つ、浩二の胸に飛び込むことだけに――。しかし――。

 最後の直線に出たところで、仁美は突然足を取られたように転んでしまう。ごろごろと転げまわる仁美の横をエチオピアの選手が走り抜ける。観客席から、悲鳴のような声が響く中、仁美は右足を押さえて苦しそうにもがいている。

 音声が消え、静かにピアノの伴奏が始まった――。

 やがて、語りかけるようにつくしの歌声が流れ始めた――。

 スクリーンにはアップで、仁美が血が滲むほど歯を食いしばり、はってゴールへ向かおうとする姿が映し出されている。

 そんな仁美を励ますように、つくしの歌声がバックで流れている

 ゴールまであと少し。

 仁美は――、薄れていく意識の中で彼の名前を叫んだ――。

 恵梨香のギターソロが仁美の心の叫び声のように鳴り響く。それをバックに、担架に乗せられた仁美は救急車へ乗せられる。

 ギターソロが終わり、カンナの優しいピアノの伴奏が暫く続く。

 病室のベッドに寝かされている仁美は、子守歌でも聴いているかのような、穏やかな寝顔をしていた。やがて、仁美はゆっくりと目を開ける。

 しおんのドラムが、サビへと導くようにゆっくりと、力強く響く――。

 ぼんやりとしていた、仁美の視界がはっきりとしていく――。

 つくしがハイトーンで歌い上げるサビが始まった途端に仁美が見たものは、浩二の優しい笑顔だった――。

「びえーん!」

「うえーん!」

 つくしと小梅は滝のような涙を流しながら、エンディングロールの中で流れている曲『ヘレン』を、ぐちゃぐちゃになった泣き顔で熱唱していた。

「私! 感動しちゃった!」

「私も!」

 二人は映画が終わると、抱き合ってそう叫んだ。

「どうでしたか? 映画の方は」

 後ろから男性の声がして、つくしと小梅は振り向いた。プロデューサーと白髪の男性が後ろの席に座っていた。プロデューサーは隣の白髪の男性を、この映画の監督だと紹介した。

 つくしと小梅は立ち上がって丁寧に挨拶をした。

「すっごく感動しました。大ヒット間違いなしです!」小梅は言った。

「なんか、直ぐにでも曲が書けそうです!」と、つくしが叫ぶように言うと、監督はにこにこと微笑んで頷いた。

 二人は監督にラウンジへ招かれた。そこでお茶を飲みながら、挿入歌の打ち合わせを始めた。

「仁美がもう一度マラソンに挑戦するために、トレーニングに励んでいるシーンのところに曲を入れたいんですよ」

「はい! あのシーンならピッタリなのが書けそうな気がします」と、つくしが元気に答えると、監督は嬉しそうな顔で頷いた。

 監督は小梅に目を向けた。

「それにしても松本さんは、本当に綺麗だね。演技なんかには興味ないのかな? 役者をやってみたいとか」

「そんなあ、私なんて……、おホホホホ」

 身体をくねらせて、技とらしく照れた素振りを見せている小梅を横目で見ながら、つくしは思った。

(めちゃめちゃ演技しとるやないか、このオヤジギャルが)

 監督は、カップのコーヒーを一口飲んでから言った。

「お二人のバンドのことは、スポンサーになってくれた会社の社長さんの紹介でね、この映画にピッタリの曲があるからどうですか? と勧められて聴いたんですよ」

「ヘレンをですか?」つくしが訊いた。

「うん、そう。ヘレンと言うのはつくしちゃんが飼っている犬なんだってね」

「はい! でも、どうしてご存知なんですか?」

「そのスポンサーの方が教えてくれたんだ。なんでも、つくしちゃんのヘレンが使っている車椅子は、そのスポンサーの会社で特別に作ったものらしくて、映画のヘレンの車椅子もそこで特注したんですよ」

「そうなんですか。でも本当はヘレンは、譲ってもらった犬なんです」

「うん、知っている。ヘレンの前の主人の方と、スポンサーの方が知り合いだったらしいんだ。中学校で教師をやっているって言ってたかなあ……」

「ええ! 先生と!? そうなんですか……」

「どんな人なんだろうね。そのスポンサーの人。とにかく私たちの恩人だよね」小梅が言うと、つくしは相槌を打った。

「とても若くてね。好青年って感じの人ですよ。あの歳であんな大きな会社を任されているんだから、ほんとに素晴らしいと思いますよ」監督は小梅に向かって言った。

「青年実業家ですか……」小梅はうっとりとした表情で言った。

「後で紹介しますよ。打ち合わせをする約束をしていて、ここに来る予定なんですよ。お二人のバンドのファンみたいなので、紹介したら喜ぶと思うし」

「本当ですか!?」

 小梅はそう叫ぶと、慌てた様子で化粧室へ向かった。そんな小梅を横目で見送ると、つくしは思った。

(小梅さん、さては化粧直しに行ってるな。もしかしたら玉の輿に乗れるかも、なんて思ってるよ。むふふ……、甘いわよ、小梅さん。オヤジギャルで、めちゃめちゃ酒癖が悪くて、ゴリラ並みの怪力女だってこと、ばらしちゃうもーんだ)

「おや、噂をすれば来た来た」

 つくしは振り向いて男性が近づいてくるのを確認すると、すっと立ち上がった。

 スポンサーの男性は本当に若くて、自分と大して歳が変わらないんじゃないかと、つくしは思った。男性に少年のような眼差しで見つめられ、つくしはほんのり頬を赤らめた。

「はじめまして……。わたくし、ボーカルをやっております、石田つくしと申します。このたびは、わたくしたちのバンドの曲を推薦していただきまして、大変ありがとうございました」

 つくしは挨拶すると深々と頭を下げた。

「とんでもありません」

 スポンサーの男性は名刺を取り出して、つくしに差し出した。

「わたくし、三井と申します」

 代表取締役社長の肩書きの下に、三井繁蔵と書かれていた。

「一度ライブを拝見させていただいたことがあるんですよ。本当に感動しました」

 つくしは嬉しそうな顔をして、顔を上げて三井繁蔵を見た。

「近くで見ると、本当に可愛らしいですね。石田さんは」

「そんなこと……」つくしは腰をくねらせてテレていた。

(さすが青年実業家だわ。見る目があるっていうか、小梅さんといるとちょっと霞んじゃうかも知れないけど、私だってこれでも結構美少女なのよ。ああ……、そんなに見つめないで……、ひょっとして……、私のことが……、ひょっとして……)

「大好きなんですよ」

「えっ!」

 つくしは目を剥いた。顔がみるみる赤くなっていく。頭の中では、繁蔵が言った大好きという言葉がこだまし、彼がその後「石田さんの歌が」と言ったのが耳に入らなかった。

 つくしは顔をとろんとさせた。妄想の中で彼女は、きらびやかな電飾を散りばめた玉の輿に、今まさに乗ろうとしていた――。片足を輿に乗せたその直後、小梅の大声を聞いてハッとした。

「シゲちゃん!」

 繁蔵は飛び上がるように立ち上がった。

 小梅が、いつの間にか横に立っていた。そして驚いた表情で繁蔵を見いていた。

 先程まで穏やかだった繁蔵の表情から血の気が引いていき、おろおろし始めた。

「あ……、あの……」

 小梅はまだ驚いた顔をしていた。

「な……、なんでいんの?」

「い……、いや……、あの……」

 繁蔵はゆっくりと後ずさった。

「か……、監督すいません。僕……、あの……、急用が……」

 監督は不思議そうな表情で言った。

「えっ? 三井さんどうされたんですか?」

「すいません!」と繁蔵は叫んで、急ぎ足でラウンジを出て行った。

 小梅は不思議そうな顔で繁蔵を見送ると、つくしと監督を交互に見た。

「小梅さんと三井さんて、知り合いなんですか?」つくしは不安そうな表情で、貰った名刺を小梅に見せながら訊いた。

 その名刺を小梅は受け取り、目を剥いた。そして呟いた。

「嘘……」

 小梅はつくしに名刺を付き返すと、走ってラウンジを出て行った。つくしもその後を追った。

「小梅さん!」


 小梅はスタジオのビルを飛び出した。歩道を左右振り返り、早足で歩いている繁蔵の後ろ姿を見つけると、もうスピードで繁蔵を追いかけた。繁蔵は小梅の気配を感じたのか、一度振り返って、驚いた顔をすると、直ぐに走って逃げようとした。しかし小梅の迫る速度のほうが断然速く、小梅は繁蔵のシャツの襟首を掴んで彼を捕まえた。

 小梅は肩で息をしながら言った。

「な……、なんで……、逃げるのよ……」

「す……、すいません……」

「だから……、何でって……、訊いてるでしょ?」

「す……、すいません……」

 小梅はイラついた表情をして、繁蔵を自分の方へ向かせた。

「なんでいちいち謝るのよ」

「ぼ……、僕……、勝手なことばかりしてしまって……」

「別に何にも怒ってないわよ! 感謝してるのよ! ウチのバンドを監督に紹介してくれたのも、ウチの工場を救ってくれたことも、――全部、感謝してるのよ!」

「本当ですか?」

 小梅は穏やかな表情をして答えた。

「本当よ」

 繁蔵はほっとしたような表情を見せた。

 小梅は繁蔵を懐かしそうでもあり、淋しそうでもある表情をして、じっと見つめた。

 繁蔵はみるみる顔を赤らめていき、俯いてしまった。

「シゲちゃん?」

 繁蔵はどぎまぎした表情で顔を上げた。

「私……、待ってたのに……」

「えっ?」

「シゲちゃん、私に気があったでしょ?」

 繁蔵は息を飲んだように、目を剥いて固まった。

 小梅は優しく微笑んで繁蔵を見つめると言った。

「私……、シゲちゃんが告白してくれるの……、ずっと待ってたのよ」

 繁蔵の口元がぐにゃりと歪んだ。そして、彼の少年のような瞳から、大粒の涙が溢れ出てきた――。

「ぼ……、僕……、こ……、小梅さんが……」

 小梅は繁蔵を優しく見つめて返した。

「ぼ……、僕は……、こ……、小梅さんが……、小梅さんが! 大好きです!」

 小梅は繁蔵の頭を、優しく包み込むように胸に抱きしめると言った。

「私もよ……。私も……、シゲちゃんが大好きよ」

 繁蔵は小梅の胸の中で、子供のようにわあわあと泣き叫んでいた――。


 小梅から数メートル離れたところで、つくしは立ち尽くしていた。

 顔を思いっきり引きつらせ、暫く唖然と抱き合う二人を見ていたが、ゆっくりと身体の向きを変え、スタジオのほうに向かっていった。

(やっぱ、私は筑紫なんだ。一生咲くことは出来ない……)


 暫くして小梅と繁蔵は揃ってラウンジへ戻ってきた。監督と繁蔵が次の映画の打ち合わせを始めている間、小梅と繁蔵は時折目を合わせ、笑みを投げかけあっていた。その横でつくしは、ぼうっとした表情で座っていた。


 *


 スタンリークラークの軽快なチョッパーベースが鳴り響く車内で、小梅はノリノリで車を西へと走らせていた。

 御殿場インターを過ぎ、二車線の区間に入ると、少しスピードを落として、カーステレオのボリュームを絞った。ちらりと助手席に座っているつくしを見る。そして溜息を吐いた。

「ねえ、つくし?」

 つくしはぼんやりと、フロントガラスの向こうを見つめている。

「つくしってば!」

 つくしはびくりとして、驚いた顔を小梅に見せた。

「なにずっと、ボケッとしてるのよ」

 つくしは口を尖らせると顔を背けた。

「なによ。言いたいことがあるなら、言いなさいよ」

「…………」

「なによ」

「だって……」

「だって、なに?」

「だって、私がいいって思う人がいると、直ぐに誰かが取っていっちゃうんだもん」

「はっ?」

「ずるいじゃん! なんでみんな直ぐに彼氏が出来るのよ!」

 小梅がふふっと小さく笑うと、つくしはまた口を尖らせて、反対側の窓の先に目を向けた。

「あんたにだって、ちゃんと春がやってくるよ」

「きたって私は咲けないの!」

「なにそれ?」

「私はつくしんぼだから!」

 つくしの言葉を聞くと、小梅はげらげらと大笑いを始めた。

「ひい! おかしい! 笑わせないでよ! 運転出来ないでしょ!? ギャハハ!」

「もう! 全然いいことない!」つくしはそう叫ぶように言うと、また膨れっ面を見せた。

 小梅は落ち着きを取り戻すと、穏やかな表情で言った。

「でもあんたいいじゃん」

「何がよ」つくしは膨れっ面のまま正面を向いて訊いた。

「えっ? だってヒロインやるんでしょ? 監督さんが頼んだら、あんた頷いてたじゃん」

「へっ? なにそれ?」

 つくしは驚いた顔を小梅に向けた。

「えっ? あんた覚えてないの?」

「全然……」つくしは唖然とした表情で言った。

「えー、信じらんない。監督さんがさ、次の映画で歌の上手いヒロインが必要で、あんたがぴったりだからお願いしますって言ったら、あんた頷いたでしょ? 監督さん、よしってガッツポーズしてたよ?」

「ええ! うそー! どうしよう、私お芝居なんて出来ないよ!」

「知らないわよ。今から断ったりしたら失礼だからね」

「えー! どうしよう! どうしよう!」

 つくしは頭を抱えて、地団太を踏んだ。

「そんなに嫌なら私が変わってあげようか? 主役の男優さんが、めちゃめちゃいい男らしいし」

 つくしはぴたりと動きを止めた。

「変わってあげるよ。恋愛ものらしいからね。イケ面の俳優さんに、ぎゅってしてもらえるかもしれないじゃん?」

 つくしは顔を上げて、小梅を見た。

「なに?」小梅は訊いた。

「駄目よ」

「なによ、さっき出来ないって言ってたじゃん」

「私やる。私が頼まれたの! その映画のヒロインは、私じゃなきゃ駄目なの!」

 小梅は微笑んで正面を見つめていた。

 つくしは今、白馬に跨ったイケメン俳優がさっそうと現れて、自分の前にひざまずく光景を思い描いていた。

『つくしさん、君は僕の太陽だ』

(そんな、私なんて……、ただのドジでのろまな亀です……)

『そんなことはありません。どうか僕と付き合ってください』

 イケメン俳優がつくしの手を引き、彼女を抱きしめる。

『僕は、君の心に花を咲かせたい』

 つくしの目の前に、広大な花畑が広がった――。

(ああ……、幸せ……)


 *


「ハイ! それでは撮影に入りまーす! シーン百二十八! ヒロインの琴美が、主役の直樹に思いっきり振られるシーンから!」

 それは、粉雪の舞う、冬の北海道でのロケだった――。

(ううっ! 私の春はいつくるの! 私はいったい、いつになったら咲けるのよ!)


 ――完――


 最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。(Y’z)


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