―1―
左手にそびえる山並みの上の空は、夕焼けに赤く染まっている。そのまま右手に目を向けると、そこには海が広がっている。今日の波は穏やかだった。
いつもは混んでいるこの海岸線を走る国道は、今日はとてもすいていて、松本小梅は気分よく会社の十トントラックを走らせていた。
小梅がカーステレオの再生ボタンに手を伸ばしたときだった。携帯電話の着信音が鳴った。丁度信号待ちになったので、携帯電話を手に取ると、弟の雅司からのメールだった。
『ねーちゃん、誕生日おめでとー』
「よしよし、バースデーメールなんて感心じゃん――。でも二十三か、今度こそ受かるかなー、コンテスト――」
五度目の正直――、と言いかけてカーステレオに手を伸ばした。再生ボタンを押すと、スタンリークラークのファンキーなチョッパーベースが流れ出す。小梅はそのリズムに合わせて右手の親指で、ハンドルを叩いた。
信号が青に変わったのでトラックを走らせた。そしてハンドルを叩く手を止めて窓を開けると、潮の香りをたっぷりと含んだ春の暖かい風が吹き込んでくる。その心地よさに満足しながら、鼻から大きくその風を吸い込んで、今度こそコンテストに受かって、今のバンドでメジャーデビューする――、そう小梅は、五度目の決意を固めていた。
会社の駐車上にトラックを止めると、小梅は真っ直ぐに事務室へ向かって歩き出した。
「お疲れーっす!」と小梅が元気よく事務室へ入っていくと、
「よお、小梅ちゃん、今日は早いねえ」と今年で定年退職を迎える事務の佐々木が、帰り支度をしながら小梅に声を掛けた。
「道、すいてたもんで」と小梅が頭に手をやりながら答えていると、後ろから声を掛けられ小梅は振り向いた。先輩の西田が、片手を上げて小梅の方に近づいてきた。
「お疲れっす」
「小梅これ」と西田は小梅にキーフォルダーを差し出した。小梅がそれを手に取り顔を上げると、「名古屋限定だぜ」と西田は自慢げに口元を緩めて言った。
それはハローキティーのキーフォルダーだった。頭に金のシャチホコを被っている。小梅が引きつった顔を上げると、「誕生日プレゼント」と西田は小梅の肩をポンと叩きながら言って、事務室の奥に入っていった。
小梅は仕方なさそうな表情をして、ズボンのポケットにそれを入れると、帰り支度を始めた。
道がすいていたおかげで、小梅はいつもより早く自宅へ向かっていた。
帰る途中小梅は、自宅アパートの近くにあるコンビニエンスストアーに寄って、弁当を買って帰ろうと考えていた。すると携帯電話の着信音が鳴った。電話は実家からだった。
「もしもし?」
『あっ、小梅?』
「ああ、お母さん。なに?」
『ん? ああ……、誕生日おめでとう……』
「なによ、そんなこと?」
『ああ……』
「なによ……」
小梅の母は、相談したいことがあるので、近いうちに実家へ来て欲しいという用件を小梅に伝えた。小梅は出来たら帰ると、お茶を濁すような返事をして手短に電話を切った。口調から、ろくでもない話だろうと小梅は思って溜息をつくと、コンビニエンスストアーの前に立った。
店に入り、五百ミリリットル入りの缶ビールとつまみの乾き物と、弁当の棚からお好み焼きを、迷うそぶりも見せずに手に取って、レジに向かった。
(げっ! シゲちゃん)
レジカウンターの向こうに、隣の部屋の住人の三井繁蔵が立っていた。繁蔵は小梅を見上げて、おどおどした口調で言った。
「い……、いらっしゃい……、ませ……」
小梅は繁蔵をちらりと視線を下げて見て、カウンターの上に品物を置いた。繁蔵はおぼつかない手つきでレジを操作し始める。
(あー、レロレロどんくさい!)
一つの商品のバーコードを読み取るのに、五秒はかかっている。
繁蔵はちらりと上目遣いで小梅を見た。
「なに?」と小梅が睨み付けるように見下ろして言うと、繁蔵は困ったような表情をして俯いた。
「あ……、あの……、お好み……焼き……」
「あっためて!」繁蔵が言い終わらないうちに小梅は答えた。
繁蔵はどぎまぎしながら後ろの電子レンジにお好み焼きを入れて、どのボタンを押そうか迷っている。
(ぐおお! デロデロどんくさい! ふぎゃあ! イライラする! ノリが悪いのよ、ノリが! もっと、チャッチャカとファンキーに出来ないの!)
小梅は繁蔵に合うたびに、彼ののろのろとした行動にイライラさせたれていた。去年の同じ時期に今のアパートへ引っ越してきて、隣の繁蔵の部屋に挨拶に行った際には、初めて見た繁蔵の少年のような顔立ちに少しときめくものを感じたが、その後何度か話をするたびに、印象は悪い方向へ向かっていった。
「お……、おまたせ……、しました……」
――ようやく商品を渡された。
「あ……、ありがとう……」
「三井さんておいくつ?」また彼が言い終わらないうちに小梅は訊いた。
「はっ?」繁蔵は驚いたような表情で小梅を見上げた。
「歳よ、いくつ?」
「あ……、あの……、今日で……二十五になります」と繁蔵は俯いて言って、最後に口をほころばせた。
(げげ! 私と誕生日が一緒? しかも、二つも上? チビだし、ゼッテー下だと思ってたのに)
小梅は目を剥いて驚いていた。
「あ……、あの……、松本さんは?」
「レディーに歳を聞く気?」
「すっ、すみません!」
小梅がまた睨み付けるように見下ろして言うと、繁蔵はぺこぺこと何度も頭を下げた。
小梅がそんな繁蔵から目を逸らして商品の入った袋を受け取り、ズボンのポケットから取り出したものを、カウンターの上に置くと、繁蔵は不思議そうな表情でそれを見つめた。そして、その表情のまま小梅を見上げて、「あ……、あの……」と声を出した。
「プレゼントよ。誕生日の」
繁蔵は暫く身体が固まったように動かなくなり、その後ゆっくりと震える手でキーフォルダーを手に取ると、それを大事そうに両手で包んで拝むようにしながら何度も礼を言った。
そんな繁蔵を小梅は横目で見ながら、不満そうな表情で店を出た。
夜九時過ぎ、小梅はテレビのコントを馬鹿笑いしながら見ていた。すると玄関のブザーが鳴った。
「へーい、だれ?」とドア越しに訊くと、
「あ……、あの……」と申し訳なさそうな口調の声が返ってきた。
(なんだ、シゲちゃんか)
小梅がドアを開けると、繁蔵はモジモジしながら立っていた。
「なにか?」
「あ……、あの……」
小梅の心にまたイライラする気持ちが沸き起こってきた。そして、繁蔵の背中に大きなぜんまいのねじをブッ刺して、切れ掛かったぜんまいを巻き上げてやりたいなどと考えていた。
「私、テレビ見たいから早くして!」
「すっすいません!」と繁蔵は謝り、慌てた様子で、小さな白い手提げ袋を差し出してきた。
「なに?」
「あっあの! お返しです」
「は?」
「あっあの、誕生日プレゼントの」
「いいわよ、そんなの」
「いえ! お願いします! 受け取ってください!」
このときは、繁蔵があまりにも、必死に頼むので、小梅は仕方なさそうにそれを受け取った。すると繁蔵はほっとしたように顔を緩ませた。
「悪いわね」
「いえ! あの、誕生日おめでとうございます!」
「へっ?」
「それではおやすみなさい!」
「ちょっと!」
小梅が止めようとするのを無視して、繁蔵は自分の部屋に入っていった。
(ええ! なんで私の誕生日知ってんの?)
小梅はなんとなく不気味に思いながらも、繁蔵からのプレゼントを開けてみて目を剥いた。
「げげ! ティファニーじゃん!」
おそらくは二十万円は下らないだろうと思えるダイヤがちりばめられたピアスだった。
「すっげー! シャチホコキティーがティファニーに化けちゃったよ」
小梅は興奮しながらピアスを眺めて、先輩の西田に心の中で礼を言っていた。
*
窓から入る暖かい春の風がカーテンを揺らしている。繁蔵はその窓の下の机に向かって胡坐を組み、原稿用紙にペンを走らせていた。
『小梅さん、小梅さん。あなたはどうしてそんなにも可憐で美しく、それでいて健康的でパワフルで……』
「ぐわああ!」
繁蔵は原稿用紙を思いっきり丸めてゴミ箱に向かって投げ飛ばすと、大きく溜息をついた。そして、机の上に置いてあるキーフォルダーを見つめた。
繁蔵が家族や親戚以外の女性から誕生日プレゼントを貰ったのは、これが初めてだった。それが繁蔵にとって憧れの小梅だったことで、繁蔵はますます小梅への思いを募らせていた。
繁蔵はキーフォルダーを部屋の鍵に取り付けて微笑むと、「よし!」と気合を入れなおすように声を出して、新しい原稿用紙に小説の続きを書き始めた。
繁蔵は小説家を目指していた。今は大手の出版社の新人賞を目指して、ミステリー小説を書いていた。締め切りまで後一ヶ月くらいしかない。
『私……、五郎ちゃんが好き……。俺も……、小梅さんが好きだ……。小梅さ……』
「ぐおお!」
去年の春に小梅が越してきてからというもの、原稿用紙に向かうと直ぐに彼女のことで頭がいっぱいになって、なかなかペンが進まないでいた。繁蔵はペンを放り投げて、ごろりと床に寝転んだ。
『もっしもーし!』
隣の部屋から小梅の声が聞こえてくると、繁蔵は飛び起きた。
このアパートは壁が薄いのか、それとも小梅の声が大きすぎるのか、隣の話し声が聞こえてしまう。
繁蔵は聞いてはいけないと罪悪感を感じる一方で、聞こえてきてしまうのは仕方がないと開き直る一面もあり、ついつい聞き耳を立ててしまっていた。
『小梅でーす! ラーメンライス一丁よろしく!』
小梅が夕飯の出前を注文する声が聞こえてきた。彼女の休日の夕飯は必ずラーメンライスだった。
(もっと野菜を取らないと)と繁蔵は思いながら立ち上がった。
『小梅さーん! 珍珍軒でーす!』と外から出前が届いた声が聞こえてきた。
「よし! 間に合った」と繁蔵は思わずガッツポーズをして部屋を出た。
繁蔵は小梅の部屋の前に立ち、深呼吸してドアの横のブザーに指を掛けた。そして、唾を飲んで押した。
『へーい、だれ?』
「あ……、あの……」
少し間をおいてドアが開いた。
(ああ……、今日も美しい……)
繁蔵は思わず心の中で溜息を漏らした。
「なに?」という小梅の怪訝そうな表情を見て繁蔵は我に返った。
「あっ! あの、これ作りすぎてしまって」
繁蔵は小梅に野菜を取らせるために、サラダとサトイモの煮っ転がしを差し出した。
「ああ、いつも悪いわね。一人暮らしで自炊すると、そうなのよね」と言いながら、小梅は繁蔵が作った料理を受け取った。小梅が出前を注文するたびに彼女に料理を作って食べてもらう。それが最近の繁蔵の、ささやかな楽しみになっていた。
部屋に戻ると、(ああ……、小梅さんも今これを食べているのか……)などと思いながら、繁蔵はサトイモを口に入れた――。
*
今日は近くの中央公園で花見をやっていた人達が多かったらしく、酔っ払った客で店の中がごった返していた。繁蔵がくたくたになった足を引きずるようにアパートに帰ってきて部屋の鍵を開けていると、突然小梅が何かに怒りながら部屋から出てきた。
「あ……、あの……」
「ん? ああ、三井さんこんばんわ」
「こ……、こんばんわ。ど……、どうかされたんですか?」
「風呂が壊れちゃってさ、入れないのよ」と小梅は自分の部屋を睨みながら言った。
「あ……、あの……」
「ん? なに?」
「あの……、よかったら、ウチのお風呂使ってください……」
繁蔵は言い終わると、心臓がバクバクしている胸を押さえた。
「ほんと! 悪いわね、助かるわ」
あっさりと受け入れた小梅に、繁蔵はひっくり返った声で礼を言った。
「はい! ありがとうございます!」
繁蔵はぜんまいが電動モーターに変わったかのような勢いで必死に風呂を磨いて、湯を沸かした。風呂が沸く間に部屋を片付け手際よく掃除をした。そして、風呂が沸いて小梅を呼びにいくと、暫くして彼女が部屋に来た。
小梅が部屋に入ってくると、繁蔵は目を潤ませていた。
「覗いたりしたら、ボコボコだからね。私、空手五段だから」
「そんなこと、しません!」と繁蔵が真っ赤な顔で言うと、小梅はにこりと口元を緩めて脱衣所の中に消えた。
風呂の中から音が聞こえてくるたびに、あらぬ妄想が繁蔵の頭の中に沸き起こってきて、繁蔵はそれをかき消すのに必死になっていた。
「ああ、さっぱりした!」と言いながら小梅は風呂から出てきた。
湯上りでほんのりと色づいた小梅の頬を、眩しそうに見つめた後繁蔵は、「あ……、あの……、今、ビールをお持ちします」と言って立ち上がった。すると、「あら、悪いわね」と言って、小梅は部屋のテーブルの前に胡坐を組んで座った。
「テレビつけていい?」
「はい! どうぞ!」
小梅はリモコンでチャンネルと色々と変えて、音楽番組のところで止めた。
繁蔵は小梅の横に正座すると、ぼんやりとテレビを見ている彼女の前にグラスを置いてビールを注いだ。それを小梅は一気に飲み干して、口の周りについた泡を首に掛けていたタオルで拭った。繁蔵は直ぐに黙ってビールを継ぎ足した。
「三井さんて、小説かなんか書いてんの?」
小梅はグラスを持った手の小指で、窓際の机を指差して言った。
「は……、はい……」
「へえ、本とか出してんの?」
「いえ、まだです。いつかは出せたらいいと思うんですけど……」
「ふーん、どんな小説?」
「今は、ミステリーを書いています」
「ふーん」と言って小梅はまたテレビに目を向けながらグラスに口をつけた。
すっぴんにもかかわらず、きめの細かいやわらかそうな透き通った肌の横顔を、繁蔵は眩しそうに目を細めて見つめた。
「松本さんは、楽器がお好きなんですね」
「えっ?」小梅は不思議そうな顔を繁蔵に向けた。
「あ……、あの……、ベースって言うんでしたっけ……」
「えっ? ああ、聞こえる?」
「はい……」
「ごめんなさい、うるさくて」
「いえ! そんなんじゃないです。大丈夫ですから……、はい……」と言って俯いた繁蔵を見て小梅はにこりと微笑むと、残りのビールを一気に飲んで立ち上がろうとした。
(もう、帰ってしまう……)と繁蔵ががっかりしていると、小梅の携帯電話が鳴った。
「はい、もしもし?」
小梅はまた胡坐を組んで電話に出た。
「えっ! はい! 松本です!」と小梅は突然はきはきとした口調になって正座した。そして、「はい! あっ! ありがとうございます!」と何度もお辞儀をしながら礼を言っていた。
電話を切ると彼女は、携帯電話の液晶画面を見つめながら小さく震えていた。そんな小梅に繁蔵は、心配そうな表情で声を掛けた。
すると、小梅はゆっくりと繁蔵に顔を向けた。きつく閉じた口元が微かに震えているようだった。目が少し潤んでいる。
繁蔵はますます心配になって、事情を訊こうすると、「やったー!」と小梅は万歳をして叫んだ。
繁蔵が度肝を抜かれて唖然としていると、
「シゲちゃん!」と言われて、繁蔵の心臓はバクンと大きく動いた。
「へっ?」
「やったのよ!」
「へっ?」
「通ったの!」
「へっ?」
「コンテストの一次審査! パスしたのよ!」
「ほんとですか!」
繁蔵には何のコンテストなのか分からなかったが、彼女の尋常じゃない喜び方をみて、繁蔵の心にも嬉しさがこみ上げてきた。
「本当よ!」と小梅が叫んだかと思った次の瞬間――。
(ひええ! 彼女が僕を抱きしめて――。顔がおっぱいの間に――。刺激が……、強すぎる!)
繁蔵は小梅に抱きしめられて、全身の力が抜け、へろへろになってしまった。
「シゲちゃん!」と小梅は腰抜けになっている繁蔵の両肩を掴んで、ブンブンと身体を揺すりながら叫んだ。
「ひゃ……、ひゃい……」
「お祝いよ!」
(お祝い……、彼女と二人でお祝い……)
繁蔵の身体にみるみると力がみなぎってきた。
「はい!」と繁蔵は返事をして、勢いよく立ち上がった。
「小梅さん! お酒買ってきます!」
「おー! 買ってこい!」
「はい!」とまた繁蔵は元気よく返事をして部屋を飛び出した。
繁蔵が両手に酒やつまみが沢山入った袋をぶら下げて帰ってくると、繁蔵の部屋の中がなにやら賑やかだった。
恐る恐る繁蔵がドアを開けてみると、小梅意外に女性が一人と男性が三人部屋の中にいて、わいわいと雑談していた。
「おー! シゲちゃん! 早く!」
玄関でぼんやりしていた繁蔵に、小梅は手招きしながら声を掛けた。
「はっ、はい!」
繁蔵は慌てて部屋の中に入り、酒の準備を始めた。
酒が手元に渡されると、繁蔵を無視して宴会が始まった。
一体全体ここに集まっている人達がどういう人達なのか、繁蔵は不思議に思いながら酒やつまみを振舞っていると、玄関のブザーが鳴った。
繁蔵がドアを開けると、「お待たせしました、特上寿司十人前でーす!」と寿司の出前を渡された。
繁蔵が思わずそれを受け取ると、
「シゲちゃんご馳走様!」と言って、小梅は寿司を奪っていった。
繁蔵が呆気に取られて寿司に群がっている皆を見ていると、
「一万八千円になります」と後ろから言われた。繁蔵は顔を引きつらせながら金を支払った。
結局繁蔵には何の集まりか分からないまま、皆酔いつぶれて雑魚寝を始めた。時刻は深夜の二時を過ぎていた。
繁蔵は皆に毛布やタオルケットを掛けてあげ、洗物を始めた。
いびきと歯軋りと寝言を聞きながら、洗物をしていると、誰かが後ろから抱き着いてきて繁蔵はハッとした。
背中にやわらかいものが二つ押し当てられている。繁蔵の心臓はバクバクと激しく打ち始めた。
「シゲちゃんて……、いい人だね……」
(こ……、小梅さん……)
繁蔵は声が出せなかった。
「夢だったの……」
「夢?」耳元で囁いた小梅の言葉に繁蔵は訊き返した。
「今回でもう最後にしようって、みんなと決めてたの……」
今日繁蔵の部屋に集まったのは、小梅のバンドのメンバーだそうだった。小梅たちは毎年行われている大手レコード会社主催のコンテストに、五回目にしてようやく一次選考のデモテープ審査に合格したということだった。
有名なミュージシャンを何人も発掘しているそのコンテストのことは、あまり音楽に興味のない繁蔵も知っていた。
小梅たちの夢はプロのミュージシャンになることで、そのコンテストで全国大会まで進み、ある程度の評価を得られるかどうかで、自分たちがバンドを続けていくかどうか、決めようとしていた、ということだった。
「松本さんだったらきっとプロになれます」
繁蔵がそう言うと、「ありがとうシゲちゃん」と小梅は繁蔵の耳元で呟いて離れ、部屋の隅に寝転んでいびきをかきはじめた。
繁蔵は小梅に毛布を掛けてあげ、愛おしそうに彼女の寝顔を見つめていた。そして、自分が小梅の夢の実現のために出来ることは何もないけれど、せめてその夢が叶うように、毎日祈り続けていこうと考えていた――。
*
午後八時、小梅はアパートの横の階段を、手すりに手をついてだるそうに上っていった。
「あー、やっと家に着いたー」
昨晩から長距離の配達を終え、ようやくの帰宅だった。
部屋の鍵を開けていると、繁蔵の部屋のドアが開いて、「三井さん、それじゃあどうもご馳走さま」といいながら、母親が出てきた。
「えっ? お母さん、そんなところで何してんの?」
「あんたがなかなか帰ってこなくて、外で待ってたら、三井さんが夕飯を作りすぎちゃったから食べていきませんかって言うからさ」
「ええ! 何ずうずうしく夕飯なんかご馳走になってんのよ!」
「だって、三井さんが……」
「いいから、入んなさいよ!」
小梅はぷりぷりと怒りながら母親を自分の部屋へ押し込んだ。
母親は部屋の中へ入ると、ちゃぶ台に向かって座り、部屋の中をしげしげと見渡している。小梅は台所でお茶を入れながら、久しぶりに会った母親の背中をじっと見つめた。一年前に家を飛び出して、一度も家には帰っていなかった。母親はなんだかやつれているようで、家のほうがうまくいっていないんじゃないかと心配しながら、突然母親が自分に会いに来たことに、不安な気持ちがよぎっていた。
小梅は母親にお茶を出すと、向かい側へ横を向いて座り、テレビをつけた。
「三井さん、お料理が上手でね」
「やめてよね、恥ずかしい」
小梅はテレビを見ながら言うと、ちらりと母親を横目で見て、「で、何の用?」と訊いた。
「ああ……」
「……なによ」
「あの……」と母親は上目遣いで小梅の表情を探るように見てから、持って来た手提げ袋の中に目をやった。
「これなんだけどね」
「嫌よ!」母親が手提げ袋の中から取り出したものを見た途端、小梅は母親に背を向けて膝を抱えた。そして、嫌な予感が的中したと思った。
「ちょっと、ちゃんと見てから言ってよ」
「冗談じゃないわよ!」
「いや、ほんといい話なんだよ」
「ふざけないでよ! 私、まだ結婚なんてしたくないから!」
「お願いよ小梅、見るだけでもいいからさ」
「見る必要なんてないわよ! 私、絶対お見合いなんてしないから!」
「別にお見合いしなくてもいいのよ。小梅も知ってる人で、相手の方もね、小梅のことをよく知ってて、小梅なら是非にって言ってくれてんのよ」
「知ってる人?」小梅は顔を母親に向けた。
「そう、ほら! 池辺さんの息子さん」
「えっ! 池辺って、まさか、おさるのこと!?」
「おさるなんて、そんな言い方するもんじゃないよ! 勝さんでしょ! 社長さんの息子さんなのよ! あそこの会社の跡継ぎなのよ!」
「冗談じゃないわよ! 誰があんなヤツと――。絶対、嫌だから」小梅はまた母親に背を向けた。
「なんで……、小梅……、お願いよ……」と母親は小梅の背中に拝むように手を合わせていた。
「なんで、そんなに必死になるのよ」
母親は小梅の言葉に答えずに俯いた。
「なんでよ!」
「あの……、お父さんがね……」
「……、お父さんがなに?」
「もう、すっかり落ち込んでてね……」
「それと私の結婚と、何の関係があるのよ」
「その……、工場が大変なんだよ……」
「そんなの今に始まったことじゃないでしょ?」
「だから、もう限界なんだよ」
「だから、工場と私の結婚と、何の関係があるのよ!」
「だから、あそこの社長さんがね、ウチの借金を肩代わりしてくれるって言うんだよ」
母親の言葉を聞いて、小梅はゆっくりと母親に身体を向けた。
つりあがった小梅の目を見ると、母親は身体を横に向けて俯いた。
「私はね、いい話だと思うんだよ。だって、社長さんの息子さんだよ。将来は社長婦人だよ」と言って母親はちらりと小梅を見ると、また俯いた。
「あんた……、娘を売る気……」
小梅はわなわなと震えていた。
そんな小梅を見て母親は、「お願いだよ、小梅!」と何度も土下座をして言った。
「小梅……、お願い……、工場をね……、お父さんをね……、助けてやって……」
母親は涙を流しながら、手を合わせて小梅に言った。
「何でよ……」
「お願いだよ、小梅……」
「私より……」
「小梅、お願い……」
「ふざけんじゃないわよ!」
小梅は母親の傍へ立ち睨み付けた。
母親は小梅の足に手を添えて、必死に小梅に頼んでいた。
「帰ってよ!」
「小梅!」
「帰れ!」
小梅は母親の腕を掴んで立たせると、外へ押し出した。
小梅が背にしているドア越しに、母親が必死に小梅の名前を叫んでいる。
――暫くして、母親の声が聞こえなくなると、小梅はその場に崩れ落ち、必死に鳴き声を押さえつけていた。
小梅は繁蔵の部屋側の壁際に膝を抱えて座っていた。
直ぐ横のテレビでは、小梅が好きなお笑い芸人がコントをやっている。いつもならその番組を見ながら笑い転げているはずだったろう。でも今の小梅には、そのコントなど全く耳に入っていなかった。
(なんでよ……。信じられない……。いつも私のことなんて何にも考えてない……。もう少しで……。やっと夢が叶いそうなのに……。なんで諦めなきゃいけないの?)
気がつくと母親が帰ってからかなりの時間が立っていた。小梅は携帯電話を取って、弟の雅司に電話を掛けた。
「雅司?」
『ああ、ねーちゃん、どうしたんだよ、こんな時間に』
「あの……」
『何だよ、気持ちわりいな、いつもの元気、ねえじゃん』
「うるさいわね……」
『どうしたんだよ』
「あの、お母さん……、帰った?」
『ああ、帰ってるけど、ねえちゃんのとこ、行ったの?』
「ん? うん……」
『ふーん――で、なんの用で?』
「ん? うん……、別に……、帰ってるならいいから……、じゃあ」
『ねーちゃん?』
「えっ?」
『気にすんなよ』
「えっ?」
『どうせ工場のことだろ?』
「えっ?」
『工場なんて、潰しちゃえばいいんだよ、俺、継ぐ気ないし』
「なに言ってんのよ……」
『ねーちゃん、ずっと我慢してたんだからさ、いいんだよ、こっちのことなんて気にすんなよ』
「生意気なこと言ってんじゃないの、じゃあ切るから……」
『んじゃ、元気だせよ』
何か言い返そうと思っていると、雅司のほうから電話を切られた。
正直に言って雅司のことが気がかりだった。今の状態では、実家は雅司を大学まで行かせることは無理だろう。雅司も音楽好きだ。高校のブラスバンド部で、パーカッションをやっている。雅司は音大に進学して将来はオーケストラで演奏したいと夢見ている。自分は音大に行くことを諦めて就職したが、雅司にはその道に進んでもらいたかった。
『こっちのことなんて気にすんなよ』
弟の言葉が蘇ってきた――。
雅司は工場を継ぐ気はないと言っていたが、弟はきっと自分の夢のことより親のことの方を心配しているはずだ。雅司はそういう弟だと、小梅はよく分かっていた。
(ごめん……、おねえちゃん、何にもしてやれなくて……)
小梅はその晩、膝を抱えたまま一夜を明かした――。
*
翌日配達を終え会社の事務所に戻ると、先に西田が帰り支度をしていた。
「西田さん今日は早いっすね」
「おう、今日は近場だったからな。ほれ、お土産だ」
西田は例によって小梅にキーフォルダーを渡してきた。
「静岡限定だぜ」
それは茶摘み姿のハローキティーのキーフォルダーだった。
小梅が引きつった顔を上げると、「コンテストの地区大会出場祝いだ」と西田は言って立ち上がり、小梅の肩をポンと叩いて事務所を出て行った。
「これはこれは、愛しい小梅さんのお帰りだ」
小梅はその声を聞いてぎくりとした。
「恥ずかしがってないで、こっち向けよ」
「小梅ちゃん、池辺さんのお坊ちゃまにご挨拶しなさい」
後ろから社長の声が聞こえて、小梅はしぶしぶと振り向いた。
「うーん、相変わらずいい女だ」
小梅よりも二十センチは背の低い池辺は、いやらしい笑みを見せ、顎を撫でるように指を動かしながら、小梅を上へ下へと嘗め回すように視線を動かしていった。
「こんなとこで、なにしてんのよ」
「おいおい、睨むなよ。もうじき婚約する仲じゃないか」
小梅がどなりつけようとすると、池辺は振り向いて、「じゃっ」と、社長に手を上げて挨拶した。そんな池辺に社長はぺこぺことお辞儀をしている。
横を通り過ぎようとする池辺を小梅が横目で睨んでいると、「工場のことは俺に任せろ」と言いながら、彼は小梅の尻を撫で回した。
小梅は目を剥いて拳を振り上げて、怒鳴りつけた。
「さわんじゃねえよ! このチビザル!」
それを見た社長は慌てて、小梅を後ろから羽交い絞めにして止めた。
池辺はその光景を見ながら、「うききき」と気味の悪い笑い声を漏らし、事務所を出て行った。
(ふざけんじゃねえよ! 誰があんなチビザルと結婚なんかするか!)
小梅がむかむかしながら帰り支度を始めていると、社長が呼ぶ声がした。顔をそちらへ向けると、応接室から社長が手招きしていた。
「あの、そこに座ってもらえる?」
小梅は社長に言われて、ソファーに座った。
「なんすか?」と向かい側に座った社長に、小梅はふて腐れた表情で訊いた。
「あの……、今後のことなんだけどね……」と社長は小梅の表情をちらりちらりと伺うように見ながら言うと、額の汗をハンカチで押さえた。
「はっ? なんのことです?」
「いや、いつまでもウチに置いておく訳にもいかないもんでね」
「えっ?」
「いやっ! あの、やっぱりね」
社長は視線を落としてまた額の汗を拭った。
「なんだって言うんすか?」
「いや、あの、池辺さんのところにお嫁に行くとなると、それなりに、その、あの、お料理の勉強だとか、礼儀作法の勉強だとか、いろいろとこれから大変でしょ?」
「ちょっと待ってください!」
「いや、あの、異例なんだけどね、退職金のほうもそれなりに出してあげるつもりでいるんでね、あの、本当に小梅ちゃんがいなくなるのは残念なんだけど、やっぱり池辺さんのところにお嫁に行く人を、いつまでもウチみたいなとこでトラックの運転手をやらせている訳にもいかないもんでね」
「クビですか?」
「いや違う! 全然クビじゃない!」
「じゃあ! なんなんですか! いっときますけど、私、あんな男と結婚なんてしませんから!」
小梅はそう言うと立ち上がった。
「そんな! それじゃ困るんだよ!」
「はっ?」
「小梅ちゃんが池辺さんと結婚してくれないと、ウチもちょっと……、あのね……」
「あいつに脅されてんですか?」
「いや、あの……」小梅の言葉に社長はうろたえ始めた。
「そうなんでしょ!?」
「いや、あの……」
言葉に詰まっている社長を見て、小梅は下唇をかみ締めた。
池辺の会社はこの会社の大株主だった。融資も沢山受けていることを小梅は知っていた。おそらく池辺は、自分に花嫁修業をさせるため、社長に圧力を掛けて会社をやめさせようとしているに違いないと小梅は思った。そして、本当に卑劣なヤツだと思った。むかしからそう男だった。この辺りの小さな会社で、池辺の会社の息のかかっていないところはない。池辺の父親は金の力でこの辺りの中小企業を束ねていた。その父親の力を利用して、池辺自信も学生時代は学生たちを束ねるようなヤツだった。池辺は金の力でいうことの聞かない人間はいないと思うような男だった。
しかし、小梅だけは違った。池辺がどれだけ金を使って、小梅を自分のものにしようと企んでも、小梅は池辺の思うがままにはならなかった。高校三年のときに池辺は、一度自分が束ねている不良たちを使って、力ずくでものにしようとしたことがあったが、付近の凄腕の女子高生が集まって作った、不良相手に戦う女集団のリーダーをやっていた小梅を、結局ものにすることは出来なかった。とにかく小梅は、池辺のような男が大嫌いだった。
(図々しい、私がいつ結婚するなんて言ったのよ)
「あの……、小梅ちゃん?」わなわなと震えている小梅に社長は声を掛けた。
小梅は目を閉じて大きく息を吸い込み、ゆっくりと目を開けると、社長に視線を向けた。社長は懇願するような目で小梅を見ていた。
「分かりました……」
小梅は社長に向かって静かにそう言った。
社長は小梅の言葉を聞いて、ほっとした表情をすると、小梅の手を取り、何度も礼を言った。
「じゃあ、今月いっぱいと言うことで、いいね?」
「はい」と小梅は頷いて部屋のドアを開けると振り向いた。
「どうしたの? 小梅ちゃん」
「でも私、あいつとは結婚しませんから」
「ええ!」
社長が驚いて小梅の傍へ近づこうとすると、小梅は部屋を出てドアを閉めた。
小梅が出て行った部屋の中で、社長はおろおろしながら手を揉んでいた。
弟の雅司から、父親が首をつって自殺したという電話を受けたのは、小梅が憂さ晴らしに酒でも飲んで帰ろうと、馴染みの居酒屋の暖簾をくぐろうとしたときだった。
小梅はその電話を受けると、直ぐに父親が運ばれたという病院へ、タクシーを使って駆けつけた。
父親の病室のある階へ階段を駆け上ると、廊下の長椅子に弟の雅司がうな垂れるように座っていた。
「雅司!」と叫んで小梅が駆け寄ると、雅司は顔を上げ、ほっとしたような目を小梅に向けた。
「ねーちゃん……」
雅司の目に涙が滲むのが分かった。
「お父さんは?」
雅司は目を擦りながら鼻を啜ると、小さな声で答えた。
「病室……、今寝てる……」
「お母さんは?」と小梅は、くしゃくしゃになっている雅司の髪の毛を、整えるように撫でてあげながら訊いた。
「家……、ショックで寝込んじゃって……、ゲンさんが付き添ってくれてる……」
「そう……」
小梅は雅司を優しく抱きしめると、背中をぽんぽんと叩いてから振り向いて、父親の病室の前に立った。ゆっくりとドアを開くと、中にはベッドが四つほどあった。どのベッドもカーテンで目隠しされている。
小梅は中へ入り、直ぐ左手のベッドのカーテンを少し開けて中を覗いた。
父親は寝ていた。首が動かないようにギブスで固定されている。
小梅が父親の顔をじっと見ていると、父親はゆっくりと目を開けて、その目を小梅のほうに向けた。
小梅はカーテンの中へ入り、ベッドの横のパイプ椅子に腰掛けた。
父親は真っ直ぐ天井を見つめながら、苦しそうにかすれた声を出した。
「迷惑……掛けたな……」
「喋んなくていいよ、首が痛いんでしょ?」
父親は微かに頷いて、右手を上げ字を書くような仕草をすると、左手でベッドの横のテーブルのほうを指差した。
小梅はテーブルの上に置いてある、メモ帳とボールペンを取ってあげた。
父親はメモ帳に何か書き、小梅に手渡した。
『色々とすまなかった。工場は潰すことにした。小梅は何にも心配することはない。俺は小梅を池辺にやるつもりはない。母さんを許してやってくれ』
小梅が目を向けると父親は、「寝る……」と呟いて目を閉じた。
(お父さん……)
閉じた父親の目から、涙が滲み出るのを見て小梅は、口を押さえて病室を飛び出した。
雅司を連れて実家へ帰ると、居間で工場の職人である、小泉源五郎が出迎えてくれた。
「ゲンさんすいませんでした」
小梅は手を突いて、小泉に頭を下げた。小泉は工場の一番古い職人で、父親よりも五歳上だった。
「いやあ、なんてことない……。ほんじゃ、俺もそろそろかえるだに」
小泉はそう言うと、「どっこらしょ」と声を出して立ち上がった。
小梅は玄関で小泉を見送ると、庭の梅の木に目を向けた。
小梅が生まれた年に父親が植えた木だった。一番下の枝が一本折れている。父親の体重を支えきれずに折れたのだろう。
小梅はそのまま庭の向こう側の工場に目を向けた。それほど大きくはないが、金属加工部品の製作を主な仕事とする工場だ。
特に特殊精密加工が得意で、以前は大手メーカーからの注文が絶えることはなく、従業員も大勢いた。
そんな工場を経営していた父親は、この辺りでは、池辺と肩を並べるほどの実力者で、小梅はその父をずっと尊敬していたし、ピアノや琴、クラシックバレーや空手など、小梅がやりたいと言ったことはなんでもやらせてくれる父親が、本当に大好きだった。
ベースを始めたのも父親の影響で、小梅が初めて弾いたベースは、父親が若い頃に使っていたベースだった。
母親は後妻だった。小梅の本当の母親は、小梅が二歳のときに病死した。父親が再婚したのは、小梅が五歳のときで、突然赤ん坊を抱いた女性を父親が家に連れてきて、今日からお前のお母さんになる人だと父親に言われた。
今の母親をそのときそれほど抵抗なく受け入れることが出来たのも、本当の母親の記憶が殆どなかったことと、赤ん坊の雅司が可愛かったからだ。雅司は父親の子供だった。雅司ができたことで、父親は再婚することを決めた。
小梅が高校に入学するまではよかった。工場の経営も順調で、家族も円満だった。しかし、高校に入学して暫くして、事件は起きた。工場が火事になり全焼したのだ。
火事は火の気のないところから出火していて、出火直後に工場付近で不振人物が目撃されていたことから、放火と断定されたが、犯人は捕まらなかった。
工場の建て直しは直ぐに行われたが、金属の特殊精密加工用の機械を揃えるのに手間取り、営業開始までに時間がかかってしまった。ようやく営業の目途がついた頃には、得意先を池辺の息のかかった工場に奪われてしまっていた。
その頃になってようやく容疑者が浮上した。容疑者は、得意先を奪った工場で働いていた、ブラジル人男性だった。
その男は、容疑者とされて直ぐに、海岸で水死体として発見され、結局いまだに真相は解明されていない。
そして工場のほうは、得意先を奪われ仕事は減り、優秀な職人も、次々に池辺の関係の工場へ引き抜かれていった。
その頃から小梅は池辺に恨みを持つようになり、勝が仕切る不良グループとの対立を深めていった。
それから工場の経営は落ちていく一方だった。小梅の家の家計のほうも悪化していき、不良グループとの喧嘩を繰り返す小梅と、両親との間の亀裂は深まっていく一方だった。
小梅は結局、大学進学を諦めざるを得なくなり、バンド活動に夢を託すようになる。
高校を卒業して一年ほどフリーターをしていたが、その後運送会社へ就職してからは、さすがに暴力事件を起こすようなこともなくなった。しかし、両親とのギクシャクとした関係は改善することが出来ず、結局小梅は一年前に家を飛び出した――。
両親が悪いことは何もしていない――。
小梅は、庭に面した縁側に腰掛けて、梅の木を見つめながら、そんな風に思っていた。
「小梅?」後ろから母親の声がした。
小梅が振り向くと、静かにサッシを開け母親は廊下に正座した。
「具合は?」
「もう……、大丈夫」
母親はそう言うと俯いた。
母親は、先日会ったときよりも、さらにやつれているようだった。
母親が顔を上げてすまなそうな目を向けると、小梅は顔を逸らして立ち上がり、口を開いた。
「私――、結婚するから」
「えっ?」
母親の意外そうな表情をちらりと見て、小梅は、「会社もクビになって、やることないから、いいわ、結婚してあげる。それで、工場もなんとかなるんでしょ?」と言った。
「でも……」と言って母親が立ち上がると、
「そういうことだから、話、進めといて」と言って、小梅は実家を後にした。
小梅が立ち去ると、庭の梅の木折れた枝から、葉っぱが一枚はらりと落ちた――。
*
繁蔵がアパートの脇の階段のところで、泥酔して寝転んでいる小梅を発見したのは、小梅の父親が首をつって小梅が実家へ帰ったあくる日の夜だった。
「小梅さん! 大丈夫ですか!?」
「だー! うるせえ! 誰だ! こらー!」
「ぐるじい……、はなじで……」繁蔵は小梅に首を締め上げられて、顔を真っ赤にしながらもがいた。
繁蔵が白目を剥いて落ちそうになると、ようやく小梅の手が緩み、繁蔵は苦しそうに肩で息をした。
下で仰向けに寝転んでいる小梅を見ると、小梅はいびきをかいて寝ていた。
繁蔵は小梅を担いで、必死に自分の部屋に連れて行った。
部屋の真ん中に布団を敷くと、小梅をその上に寝かせて、毛布を掛けようとした。すると、突然小梅に下から抱きつかれた。
「フガ! 小梅さん!」
繁蔵は今度は、小梅の大きなおっぱいの間に顔を押し付けられて、またじたばたと苦しそうにもがきだした。
繁蔵が必死に顔を上げて息を吸い込むと、
「シゲちゃん……、抱いて……」と小梅は呟いた。
「へっ!?」
「シゲ!」と小梅は叫んで、繁蔵を布団へ押し倒すと、繁蔵のシャツのボタンを外し始めた。
「ちょちょちょちょ!」
繁蔵は驚いて、うつ伏せになって身を硬くした。
「なによ! 意気地なし! チビ! インポ!」
「小梅さん……、一体どうされたんですか?」繁蔵がちらりと小梅を見て言うと、小梅はわあわあと泣き出した。
「小梅さん?」繁蔵は慌てて起き上がり、小梅の前に正座すると、小梅の顔を心配そうに覗きこんだ。
繁蔵は小梅が泣き止むまで、静かに小梅を見つめていた。
「小梅さん?」小梅が少し落ち着くと、繁蔵は優しく声を掛けた。
「私……、結婚したくない!」と小梅は叫んで繁蔵を抱きしめると、またわあわあと泣き出した。
小梅の大きな胸の間に顔を埋め、繁蔵は小梅が気が済むまで泣かせてあげた。
「シゲちゃん?」小梅は泣き止むと、繁蔵を放して、彼の顔をじっと見つめた。
(小梅さん……)
小梅のとろんとした目で見つめられ、繁蔵は胸の奥がぐっと締め付けられるような感じがした。
小梅の顔がだんだんと近づいてくる。
(ああ……、憧れの小梅さんの唇が……)
と思った途端、小梅は目を剥いて口を押さえた。
(まさか!)繁蔵は慌てて立ち上がった。
「吐く!? 気持ち悪いんですか!?」
小梅はうんうんと頷いている。
繁蔵は慌ててゴミ箱を取り、小梅に差し出した。
繁蔵は、こんなにも荒れている小梅を心配しながら、その晩、小梅が眠りにつくまで優しく介抱してあげた。
*
小梅は昨日で運送会社を退職し、引越しの準備をしていた。実家へ戻るため、アパートを引き上げるためだ。しかし、その作業は全くはかどらないでいた。溜息をついて窓から見える空を見上げた。空は突き抜けるような青空だった。
また溜息をつく――。
(みんなになんて言おう……)
まだ、バンドを辞めることを告げていなかった。ようやくコンテストの地区予選に出場が決まったのに、もうバンドを続けることが出来なくなってしまった。
小梅の心の中は、今日の天気に反して、どす曇だった――。
小梅がまた溜息をついたときだった。玄関のブザーが鳴った。小梅が玄関のドアを開けると、繁蔵が立っていた。
「ああ、三井さん何の用?」
「あの……、僕……、今日で引っ越すことになりまして……」
「あら、そうなの?」
「はい……、もう荷物も運び終えまして……」
「そうなんだ、私も明日引越しなのよ」
「はい……」と言って、繁蔵は俯いたまま黙ってしまった。
「どうしたのよ」と小梅が呆れたような表情で言うと、「あの……、これ……」と言って繁蔵はお守りを差し出した。
「なにそれ?」
「あの……」
「なによ、私、忙しいから早く言って」と小梅が少しきつい口調で言うと、繁蔵は小梅にお守りを握らせ、そのまま小梅の手を握り締めて真剣な眼差しを小梅に向けた。そして、
「小梅さん! 諦めないでください!」と叫んだ。
繁蔵の剣幕に小梅は身を硬くして、思わず後ずさってしまった。
「へっ?」
「小梅さんなら、絶対にプロになれます! 夢を……、夢を諦めないでください!」
小梅が唖然としていると、繁蔵は走り去っていった。
小梅は暫く呆然とした後、繁蔵が手渡したお守りを見た。
(なんで、合格祈願?)
繁蔵の気持ちがよく分からなかったが、それをポケットに入れてドアを閉めた。
部屋に戻ってCDを整理していると、CDに混ざってコンテストに応募した曲を録音したMDが出てきた。
小梅はMDを置くと、ベースを手に取った。
部屋の中に、小気味よいチョッパーベースの音が鳴り響いた――。
(駄目だよ……、シゲちゃん……、もう、諦めるしかないのよ……)
小梅はベースを床に置いて、膝を抱えた。
*
小梅が実家へ帰って数日が立っていた。丁度五月の連休が終わった、最初の平日の昼過ぎだった。
小梅が居間でぼんやりとテレビを見ていると、母親が横に座った。
「池辺さんも忙しい人でね、結納は今月の最後の日曜日にして欲しいって言うんだよ」
小梅は母親の言葉を聞くと、壁のカレンダーに目を向けた。
五月の最後の日曜日、その日はコンテストの地区予選の日だった。
小梅はカレンダーから目を逸らし、溜息をつくと居間を出て、庭へ出るサッシを開け、縁側へ腰を下ろした。
もう、メンバーにはバンドをやめることを話していた。メンバーは皆残念がったが、小梅の事情を察して理解してくれた。
小梅は代わりのメンバーを見つけて地区予選に出場して欲しいと、必死に皆に頼んだが、メンバーたちは小梅意外のベーシストとはやる気がないと言って譲らなかった。
「もともと、無理だったんだよ。俺らじゃプロでやってけない。今回はたまたまラッキーだっただけだ。小梅がやめるなら、俺もやめるよ」
バンドのギターの男の言葉に、他のメンバーは皆頷いていた。
そんなことを思い出しながら、うな垂れて地面を行進している蟻の行列をぼんやりと見つめていると、父親が息を切らして駆け込んできた。
「どうしたのよ、お父さん」
目の前で、膝に手をついて肩で息をしている父親に小梅は訊いた。
「大変だ……」父親は暫くしてようやく口を開いた。
「なに?」
「これ……」と言って、小梅に一枚の紙を手渡した。
何だろうと思いながら小梅が見ると、それは小切手だった。金額を見て小梅は目を剥いた。
「五千万円て、なによこれ、どうしたの?」
「東京の医療機器メーカーがウチに仕事をくれるって言うから、会いに行ったら直ぐに契約してくれて、それで前金としてそれをくれたんだ」
「うそ!」
「本当だ!」
小梅は顔をほころばせながら、小切手を見つめた。
「小梅!」父親に呼ばれて、小梅は顔を上げた。
父親は小梅の両肩を掴んで、
「もう、結婚のことはなしだ! 池辺のヤツのところにも、婚約解消するって言ってきた! あんなヤツのところには、お前をやらないからな!」
小梅は黙って頷いた。嬉しさのあまり、声が出せなかった。
涙を堪えている小梅の頭を、優しく包み込むように父親は小梅を抱きしめた。




