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明治逢戀帖  作者:
第二章 東京ノ一日
9/61

 ちちち、と小鳥が軽やかに啼いた。

 罪もない小鳥を「駄目ですよ、静かにしてください」と諌めている声がかすかに聞こえて、声に誘われるように千紗はゆっくりと目覚める。

 自分のものとは思えないほど、どんよりと重苦しい体を起こした。半開きの目をこすると、布団が千紗の体から落ちていく。

 今まで温まっていた体はほんのりと寒さを感じた。

 と、どこからかかび臭く湿っぽい臭いが漂ってくる。千紗の部屋ではありえない全く覚えのない臭いだ。

 なんのことなく、千紗は出所を確かめようと辺りを見回す。まだ半分瞼を閉じたままの狭い視界に、見知らぬ部屋の壁が飛び込んできた。

 ―――――――――――――――天井、壁、窓。

 寝ぼけ眼だったのはどこへやら、千紗は布団を跳ね飛ばした。

「……えっ? ここどこっ…?」

 状況にうまく反応できなくて混乱する。

 枕元に簡素に作られた床の間があった。本来花卉や掛け軸が飾ってあるはずの場所は、いまや収納場所になっているらしくたくさんの洋書が山になっている。

 雀が庭先に来ているのか可愛らしい囀り声が聞こえた。ふすま向こうには人の気配がする。声を殺し「こらこら、お静かになさい」と言っている。

 なんとなく聞き覚えのある声だった。

(……これは……………先生?)

 ―――――そうだった。千紗は混乱でとっさに胸元へ引き寄せた手を、脱力してぱたりと落とす。

 昨夜、ひとまずの居場所を確保したことに安心したのか。長い一日を耐えてきた緊張の糸がぶつりと切れて、襲ってきた恐ろしいほどの眠気に抗うことができなかった。

 さほど大きいとは言えないけれど一軒家である先生の家は借家で、二階建てだ。

 先生の寝室(書斎兼であるかどうかは千紗の知るべくもない)は二階にあるらしい。なので、千紗は結局一階の客間をひとまず借受けた。

 桐野は千紗が欠伸をし始めた時点でそれこそ、情けない奴と言わんばかりの蔑んだ視線を向け先生に挨拶するや否や、面倒な仕事を終えたとばかりにさっさと帰って行ってしまった。

(また会えるかどうか……聞けなかったな)

 精神的に悪いあの視線と口調には僅かばかりの怯えがあるものの、桐野は右も左も全くわからない千紗をここまで連れてきてくれた恩人だ。何か隠しているそぶりもやっぱり気になっていて、いつか彼とはしっかり話さなければいけないと思う。ただ、それは今すぐというわけではないのだけれど。

 近くにある棟続きの共同住宅に住んでいるという那美子は先生の家には泊まらずに帰るらしく、千紗は畳の部屋に布団を引いてもらい那美子の寝間着を借りた。

 千紗の記憶にあるものよりもずっと固く薄い布団。寝れるかな、とかすかに不安に思ったまでは覚えている。ただ記憶はそこからぶつりと途切れ、気づくと朝だった。

 体が重い。寝苦しかった覚えなんてなかったけれど、寝汗をかいていたらしい。那美子に借りた寝間着の首元がじんわりと濡れて気持ち悪かった。

 あれだけ寝て眠いわけでもないのに、なんとなく体に力が入らない。

(起きなくちゃ……)

 一度でも眠れば、勝手にこの奇妙な夢から覚めるものだとほんの少し甘く考えている気持ちもあった。

 夢の中の蝶から目覚めて、いつも通りに学校に行き―――――

「あれ?」

 何か大切なことが抜け落ちている気がする。

 こちら側に飛ばされる寸前に千紗はとても大切な何かを考えていたはずだ。よくよく思い出してみれば、千紗の記憶は必要最小限の記憶を残して少しずつぱらぱらと零れ落ちていた。

 事故のとき、飛び出してくる車の中でフロントガラス越しにこちらを見ていた男の顔もはっきり覚えている。通行人なのか何人もの人が危ないと叫び、千紗を助けようと伸ばされた手もまた覚えていた。

 何かにすごく焦っていたはずだ、千紗は何も乗っていない手のひらを見つめる。

 何かを探さなくちゃいけないと焦って千紗はあの場に立ち止まっていた。大切なことを忘れないようにと、これだけは絶対に探さなくちゃいけないのだとそう思っていた。

 でも――――昨日は思い出せたはずなのに、

(もう……何も)

 思い出せなかった。

 不安と喪失感で呆然とする千紗の耳に、暢気な声が滑り込んでくる。重く立ち込めていた暗雲が、そんな簡単なことで消え去っていく。

「千紗さんが起きてしまうでしょう? ゆっくり寝させてあげるのだと昨夜、約束したのですよ」

 もしかすると先生はこれで十分に声を潜めているつもりかもしれない。けれど実は、一番うるさいのがその声の主だ。

 というのに、先生は次は範囲を広げて庭先に入ってきた闖入者にも注意することにしたらしい。

 にゃあという鳴き声のあと「こら! 猫君! 今日はいけませんよ」と猫に注意している。がたがたとせわしない音を立てて先生は立ち上がった、のだと思う。

 次いで何かが倒れる音。

「ああ!」

 小さな叫び声が聞こえた。どうやら何かを溢したみたいだ、縁側は燦燦たる有様だろう。

 先生の困り果てた表情を想像して、千紗は思わず頬を緩めた。

 だって、起きても何も変わらないことは昨日のうちになんとなく覚悟はしていたのだ。千紗は固い煎餅蒲団に足を投げ出した。寝間着の裾がだらしなく翻り、膝から下が剥き出しになる。

「そんな簡単には……いかないよね」

 嫌な気持ちは吐き出してしまえとばかりに、深呼吸をして立ち上がる。

 千紗は枕元に置かれた那美子さんの用意してくれた今日の服装を見下ろした。恐らく綿素材の質素な着物、帯が畳まれて置いてある。一番上に置かれた白い布は広げてみると腰に巻くだけのエプロンだった。

 一度は律儀に広げてみる。

 千紗の記憶にある着物はくるぶしが隠れるほど長いものだけど、那美子が用意してくれたものは千紗の体でも足首が出るほどに短いものだった。

(子供用……じゃないよね?)

 千紗は途方に暮れて布団の上に舞い戻る。何本かある紐は、恐らく腰に巻くものだろう。とはいえリボン結びしてもいいものか、まったく見当もつかない。

 ここから躓くとは、かなりのカルチャーショックだ。

「……部屋から出ていけない………」

 疲れ切った千紗を眠らせてあげようと縁側で見張りをする先生の好意に阻害されて、寝間着で先生のいる場所を経由して那美子を探しに行くわけにもいかず。

 途方に暮れた千紗は結局、那美子が朝食の準備を終えて起こしに来るまで客間で待機することしかできなかったのだ。

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