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明治逢戀帖  作者:
第一章 逢偶ノ刻
3/61

     ◆    ◆    ◆


「痛……っ!」

 千紗は、びたんと踏み固まれた土に尻餅をついて小さな悲鳴を上げた。

 全体重がかかった尻はじんじんと熱を持っている。痛みは背骨を辿って脳みそに響き、千紗は唇を真一文字にして奥歯を噛み締める。

「………っくぅ……!」

 体を強張らせ、千紗は迫りくる痛みを堪えた。ひとつやっとのことで大きな波が去ったところで深く息を吸う。

 それから周りを見渡した。

 電線が、空でたくさん交差している。道路というよりも舗装前の畦道だ。ただ千紗の良く知る畦道とは決定的に違うのは、その道は太く舗装さえしていれば十分に主要道路に近かった。

 千紗は首を傾げた。

 記憶に残っているのは迫りくる車だ。結構なスピードが出ていたと思う。混雑する車を抜き去って、開いている車道に出ようとしたのだろう。パイロンの並ぶ緊急通路から千紗が転がり出てくるとはまさか考えずに、ハンドルを切ったに違いない。

 千紗の運動神経の云々は別として普通の人間であの車は避けようもないだろう。しかし走馬灯とでもいうべきか、車は驚くほどにゆっくりと動いていた。

 フロントガラスで目を見開いていた男の姿も記憶に残って―――。

「………覚えて……ない」

 一瞬にも永遠にも思えるあの時間。目の前まで迫ったはずもないのに、くっきりと見えていた運転手の顔は今や千紗の記憶の中から消え去っていた。

「……私」

 助かったの? と、土に付いた手の平をしげしげと眺めてから見上げた空には交差する電線。素っ気なく立つ木の電柱が天へとそびえたっている。

 薄汚れた木の壁と屋根が見えた。青くどこまでも澄み切った空にはなんとも気持ちよさそうに鳥が飛ぶ。

 千紗は眉を寄せた。 しゃがみこんだままでいる千紗の耳に、やっとざわざわと集まってくる人々の喧騒が飛び込んでくる。

 車輪が石の上を走る音が聞こえた、と思うや否や千紗の脇ぎりぎりをすり抜けていく。

「……っ!」

 大きな車輪の激しさに、千紗は両手で頭を庇い思わず小さく体を丸めた。

 次こそは本当にひかれるかと思ってしまった。しかも「馬の曳いた」車にだ。

「…………何あれ」

 黒く大きな車輪が遠くに去っていく。自分の見ているものが信じられずにもう一度振り返り、目を擦り眺めてもやっぱりあれは馬車に見える。

 見覚えのない形の車を見送りながらぽかんと開けたままの千紗の周辺に、タイミング少し遅れて黄土色の煙が舞い散った。口の中に置き土産の土埃が舞い込んでくる。

 だから思わず、息を飲んでしまった。口に入り込む細かい土埃に、咽喉が悲鳴を上げる。

「……っ! げほ、げほげほっ!」

「おい! 怪我は無いのか」

 若い男の声が聞こえて、千紗は首を振った。

(全然、大丈夫じゃない!)

 物凄く混乱しているし胸は苦しい。聞こえてきた声に返事をしたくても、呼吸が辛くて出来ないのだ。 一度咽ると咳は次々とこみ上げてきて、しゃくりあげるように何度も大きく咽てしまった。

 しゃがんだままでいるのももう無理、と手のひらを土についたもののしこたま打ち付けた腰はいうことを聞かない。足に力が入らないまままた込み上げてきた咳に、千紗はまた背中を丸めた。

「けふっ……! げほげほ!」

 涙が出てくる。

 声をかけた男はそんな千紗の背中をさするわけでもなく、ただこの発作のような咳が収まるのを待っているようだった。

 口の中の土埃は咳をしたくらいでは簡単に消えなくて、飛び出してくるものを抑え込もうと口を閉じると舌の上にざらりとした食感が残る。

 そして、まだしゃくりあげている体を機械仕掛けの人形みたいに動かして、千紗はやっと辺りを見回した。

 勿論ここは、いつも見慣れた帰宅路なんかじゃない。それはもう分かっていた。呆然として、パニックになるタイミングを失ってしまったのだ。

「……ここ……どこなの?」

 遠くでは店の人間と値段交渉している女たちの笑う声が聞こえる。

 近くの店先では呼び込みをしているのか、言い合いをしているのか。どちらにしても、考え事をするには向いていない。騒がしい怒鳴り声は、すごく耳に触ると思う。

 見上げた軒先の木の看板には、縦書きで『東京新橋』の文字。変な店の名前だと思ったら、看板はすべて右から書き始め左で終わっている。

 見たことのない古臭い文字で名前、次いでその看板は『洋品店』とも読めるけれど達筆すぎて自信がない。

 古臭い店の割に人気のある店なのか、店先には何人もの客の姿があった。

 ただ千紗の視界に入る客は一様にして和装と、袴姿だ。たまに興味本気で覗き込む男たちには袴姿もあれば、上下きちっと決めたスーツ姿もいる。勿論、着物も。

 窓ガラスに貼られたちらしには縦書きで、「深編上靴」「プリンセスシヨール」「ブロオチ」「リボン」と見える。勿論、達筆な墨書きだ。

 表記は少々異なるものの、千紗のよく知っている物を扱っているのに店の外装はまるで和服店のままで、違和感この上ない。

(一体、何が起きたの?)

 心臓がばくばくいっているのがわかる。

「おい! いい加減に立ち上がって呉れないか。ずっと手を出して居る身になって貰いたいのだが」

 千紗の前にもう一度、立ち上がることを強制するかのように手のひらが突き出された。

 のろのろと、顔を上げる。

 きつい顔立ちの青年と目が合った。

 綺麗な顔をしている、と思った。こんなときなのに、長すぎる前髪が半分ほど顔を隠しているのをもったいないと思ってしまう。

 幼げな顔立ちの割に青年なのだと確信できたのは、きっと突き出された手のひらがあまりにも大きかったせいだ。

 手を伸ばすこともせずに、千紗はその長く細い指を見つめた。

「おい、聞いて居るのか。お前、医者を呼んだほうが良いのではないか?」

「だ……大丈夫」

「大丈夫って顔色じゃあないだろう!」

 千紗が答えると、間髪入れずに怒鳴られた。

 まだほかに何か言おうかとしているのか、青年は噛みつくように口を開く。と、急に何かに気づいたようにその口は剥き出しの歯で閉じられて、青年は勢いよく千紗から目をそらした。

 ふわり、髪の毛が千紗の目の前で舞う。

 そしてうつむいたまま、指を向けた。

「…………其れに……っ! そろそろ然う云うものは仕舞ったほうが良い、と……僕は思う」

「し、まう……?」

 千紗は青年を見上げ、首を傾げた。

 転んだままの千紗を助けるように突き出された手の平は、なんら変わらない。それの指だけが数を減らし、千紗のある部分を指している。

 その指をぼんやりと見て、ゆっくり先を辿った。

 と、なるほど袴がめくり上がって千紗の膝小僧が剥き出しになっていた。痩せている膝には擦り傷。今まで気づいてもいなかったのに血が滲み、見ただけでなんとなく痛くなってくる。

(……ああ、これか)

 重い体を動かして立てた膝を倒すと、足を隠した。

 青年の過剰な反応もなんだが、制服のミニスカートに慣れ切っている千紗には、たかが膝小僧だ。

 確かにわずかに太ももが見えていたものの、風の強い日にはこれくらい良く見えることもあるので別段焦ることもない。

「……ありがとう、ございます」

 膝の傷はじんじんと痛むけれど、何より自分が身に覚えのない恰好をしているほうが気になってしまう。

 ヒールローファーを履いていたはずの足は編み上げブーツに変わり、千紗は今、海老茶色の袴をはいていた。肩を滑る髪はいつもの千紗の髪よりもほんの少し長く、さらりと前に落ちてくる。だが、若干今は土埃でごわついているけれど。

(この格好……確か卒業式とかで見たことあるかも)

 上半身は着物だ。祖母の家で見たことがある「矢絣」。昔は華族女学校の学生服だったのだというそれを、千紗も着ているのだ。

 でももちろん、事故のときにはそんなものを着ていた覚えなんて千紗にはない。

「……いや、別に……良い」

 耳が赤い。

 手を出すために屈みこんだままの青年をついまじまじと見てしまう。ほんのり赤らんだ耳とは反して、眉が不機嫌そうに歪んでいた。眉間の峡谷は深く、長い。

 視線が不快だったのか、牙をむく勢いで口が開く。

「何だよ!」

「あ。いえ! 別に! なんでも!」

 千紗は思わず大きく首を振った。

 こんな顔をしながら、見も知れない人間を起こそうと手を伸ばすこの青年の優しさが嬉しかった。それでも、そんなことを言おうものなら物凄い勢いで噛みつかれそうだから黙っている。

 通りすがりの何人かが、道脇でしゃがみこんだままの千紗を見て「怪我か?」「医者を呼ぶか?」と声をかけてきた。

 洋品店の店先でしゃがみこんだままの千紗はさすがに目立つらしく、すぐ立ち上がろうとしない姿が気になるのか気づくと周りには人の輪ができていた。

 見れば、背後では店先にいた女学生らしき袴の少女が三人ほど、こちらをうかがっている。反して、スーツ姿の男たちは怪我もない千紗に興味を失ったのか。とっくに店先から姿を消していたようだ。

「あ……いえ、多分大丈夫ですから」

 笑いかけると「本当かー?」と返しながら、面倒に巻き込まれなかった安心からかあっさりと人の輪は解ける。

 ついでに不安げな少女たちに「大丈夫」なのだと微笑みかけ、ついでに怪我もないと千紗は両手を振って見せた。

 それだけで、洋品店に買い物に来ていたらしい少女たちは安心したように店の中に入っていく。

 残されたのはこの青年だけだ。

「ったく」

「わ……っ!」

 ぼんやりと力を抜いていた千紗の体が宙を浮いた。

 手を出そうとはしない千紗に業を煮やしたのか。青年は、しゃがみこんだままの千紗の腕を乱暴につかみ、片手で一気に持ち上げる。

 最近まったく運動をしていないせいで、程よい肉のついた二の腕が悲鳴を上げていた。パッと見細腕に見える印象とは反し千紗の体は軽く持ち上がって、海老茶色の袴から小石がぱらぱらと零れ落ちる。

 膝を打っていたのか、足から腰に痛みが走った。

 無理やりに引き摺られるようにして、千紗は青年の前に立たされる。

 彼は、藍の縞の着物に帯。肩に羽織をかけて、頭にはそんな和装一辺倒な格好には似合わなく洋帽をかぶっていた。

 短く切りそろえられた髪型の他の男たちとは少し違い、ゆるく柔らかそうな長めの髪を後ろでひとつまとめている。おしゃれなんかじゃなく、ただ単に髪の毛を整えるのが面倒なのか。前髪も伸びたままでうっそりと前にかぶっている。

 隙間から目が見えた。どこか、鋭く苛立った雰囲気をさせる視線だと千紗は思う。

 手には何冊もの本。表紙には『ヴヰクトル・ユーゴー』とある。何を書いた人のなのか、千紗には到底題名を思い出すことはできないけれどなんとなく聞き覚えのある名前だった。

「もう良いだろう。僕は、行くぞ」

 そんなことを言いながらも、一向に立ち去ろうとしない青年の羽織を千紗は掴んだ。ぎょっとした表情と、一歩後ろに引いたような態度に逃げられそうで千紗は指にもっと力を入れる。

(こんなどこか知らない場所で一人きり……)

 不安で仕方なかった。

 見も知らないこの青年に頼るのもどうかと思うけれど、この道を通り過ぎるどんな人よりもまだいいほうなんだと自分の心の中で何かが叫んでいる。

 女の勘、予感、運命。沢山表す言葉はあるけれど、ただ一番先に手を伸ばしてくれたこの青年は千紗の伸ばした手を絶対にふり払わないという確信があった。

 どうしてかはわからないけれど。

「……ここは、どこですか?」

「…………馬車の行き交う大通りだ」

 そういうことじゃなくて。

 それでも、震える千紗の指に気づいたのか。聞いた言葉には聞きたい内容はなかったけれど、律儀に返事が戻ってきた。

 と、急に歩き出した青年に、千紗がすがるような視線を向けると彼からは「邪魔」と短い答えを叩きつけられてしまう。

 確かに全く言い逃れできないほどに彼の今日の予定の邪魔をしているのだろうけれど、邪魔扱いされると苦しくなる。

(……だって)

 今、この青年に手を離されてしまったら千紗はもう本当にどうしたらいいのかわからないのだ。

 それでも羽織をつかんだ千紗の指をふり払われずに、促されるままもう少し店先に近付く。と、先ほどまで千紗と青年が立っていた場所に勢いよく馬車が入ってきた。

 どうやら千紗のしゃがみこんでいた場所は馬車の通り道だったらしい。

 邪魔とさっき青年が言ったのは、千紗の存在じゃなくてただ単に交通の邪魔だ、ということだ。

 不安げについさっきまでいた場所から目を離さずにいると、頭の上から声が降ってきた。

「車輪に曳き潰されて肉塊に成りたいのなら、僕は止めない」

「……すいません。なりたくないです」

 はあ、とため息が聞こえてくる。

「………新橋の端。銀座はあの角からだ。ほら、向こうに恵比寿のビアホウルが見えるだろう」

 新橋、銀座。指さされた場所は、千紗の知っている場所とは全く違っていた。

 洋風で煉瓦の建物が立ち並ぶ中で、街路樹が見える。ひとの行き交いは多く、それなのに千紗のよく知る格好をしている人間はひとりもいない。

(やっぱり、知らない場所だ)

 確信が持てる。千紗はどこか知らない場所にいる。全くわからない恰好をして、こんな道の往来に転がされてしまった。

 揺らいでいる足元が溶けて、ずぶずぶと飲み込まれる感じがした。

「………………嘘」

「…っ、おい!」

 膝から力の抜けて行く感覚に、青年の羽織をつかんだまましゃがみこんだ千紗は、体に回された腕にも気づかず顔を両手で覆った。

 懐かしい自分の世界。戻る手立てもなく、これが夢だとも言い切れない。

 腰も足も、鐘のように鳴り響く心臓もあまりにリアルすぎてこのまま意識を失っても、また戻れるなんて自信はなかった。

(このまま消えてしまいたい)

 今にも倒れそうな千紗を支えながら、やっぱり放り出したりはしない青年は不安げな声を荒げた。

「だから、医者は! って……然うだ。「うち」は? 仕方ない、家に送ってやるよ。面倒だけど本当に仕方ないだろう」

「……ない……で」

「は? 聞こえない!」

 千紗は、手のひらの温い感触に気づきながら唇をかんだ。

「何も分からないんです! わたし、どうしたらいいか。もう……わかんない…っ!」

 だから助けて、とついさっき会ったばかりの青年にお願いしているのを、千紗は自分でもおかしいと思う。

 でも、何よりもそんな懇願を聞いた青年に苛立ちと戸惑いと何か読み取れない感情の混ざり合った複雑な表情が浮かぶのを見て、千紗は最初に手を伸ばした人がこの人で良かったと本当に思った。

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