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明治逢戀帖  作者:
第一章 逢偶ノ刻
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 それに巻き込まれたのは、一瞬の出来事だった。

 またそのきっかけを作ったのも、夕暮れ時帰宅ラッシュの混雑する時刻に起きた衝突事故だった。

 中型トラックに側面をぶつけられた軽自動車は、よく千紗が利用しているパン屋のウィンドーぎりぎりの歩道に乗り上がり、歩道を完全に閉鎖している。

(店も休みだし)

 千紗は小さく舌打ちをした。

 高齢のせいで病院通いは続けていたものの先日倒れ、とうとう一進一退の状況になってしまった大正生まれの祖母の病院に泊まり込むため、今晩、千紗の母は帰ってこない。

 元々がおばあちゃん子だった千紗も勿論、学校を休んで病院に行くことを母親に懇願した。とはいえ、母親にはすげなく却下されたのだ。

(いつもは全然おばあちゃんの傍にいない癖に)

 千紗は内心で舌打ちをした。週末にはどんなことをしても病院には行く予定だった。

 母親が朝からいるなんてことこの数年覚えはなくても、朝から食事の準備なんてかったるい。千紗は明日の朝食に食べるパンでも買おうかと立ち寄ったのだ。

 開店を示すいつもの看板が表に出ていなかった。もしかすると事故の余波で早くから閉めてしまったのかもしれないと思う。

 千紗は見慣れたウィンドーを遠くから覗き込み、小さくため息をついた。 夕焼けをうつしてバニラアイスのような色になってしまった外壁を恨めしく見つめて、がっくりと肩を落とす。

 先生に頼まれた仕事をちょっと無理してでも片付けて、走ってきたのにこれだ。食べることが出来ないとわかると途端に鳴り始める腹の音が、何とも恨めしい。

「帰ろうか……、仕方ないよね」

 独り言つ声にもなんとなく覇気がなかった。

 千紗の帰宅方面に向かう歩道は、右前方がひしゃげた軽自動車で封鎖されていた。警察が歩行者を促す車道へ作られたパイロンの並ぶ歩道には、帰路を急ぐ人々の列がぞろぞろと流れていく。

 小さな文句、遠回りにあからさまに顔を顰める人たち。勿論、千紗もその一人だったけれど仕方ない。 この道を通らねば、もっと遠回りをしなくてはいけなくなる。

 行き交う人々に辟易しながらも、千紗は流れに逆らうことなく肩や背中を押されながら三角コーンの列に入った。

 それからすぐのことだ。

「あれ……?」

 聞き覚えのある音が鳴ったのに気づき、千紗は足を止めた。

 止めるなり後ろから軽い衝動がやって来る。千紗は顔を顰め振り返った。背中を少し乱暴に押したのは後ろを歩いていたサラリーマンだ。混雑する中でも足を止めた千紗に苛立ったのか、すれ違いざまに舌打ちをしていく。

 聞こえよがしに邪魔だと文句を言ってくる男にも一応はと軽く頭を下げると、車道を区切るパイロンぎりぎりまで寄った。今にも車道にはみ出しそうな場所で千紗はバッグを開ける。

 途端に大きくなったメロディー。気のせいではない。やっぱり千紗の携帯が鳴っていたのだ。しかし探ろうにもあるはずのものが見当たらない。

「……あれ、下に落ちたかな?」

 千紗は首を傾げた。

 電話の相手が母親の可能性も捨てきれない。もしかして祖母の容体が変化したのかもしれない。 片手を入れてバッグの中をかき混ぜた。ハンカチ、ティッシュ、色付きリップの入っているポーチが指にあたる。

(中にせめてファスナーがついていればよかった)

 千紗はこの場所が車道の近くであることをすっかり忘れ、肩に持ち手をかけて両手を突っ込んで中を探った。

 聞こえるメロディー、まだ切れてはいない。

 足を一歩、後ろに引いた。ふくらはぎに当たる固い感触にも気を向けず、首を傾げ手さぐりに探すものの、バッグをかき混ぜる指に目標のものはやっぱり当たらない。

 バッグの中、決してなくさない場所につけられた真珠のピンが千紗の人差し指にあたった。あの祖母が倒れた日、入院するきっかけになった日に千紗が祖母から貰ったものだ。

 ―――もう少しで、切れてしまうかもしれない。

 いつもの千紗なら、着信音が鳴り響くことを気にも留めなかっただろう。見つからないのをいいことにそのまま出ることもなく放置して、後から連絡でもしたらいい。

 それなのにどうしてだろうか。今、この時を逃していけないようなそんな気がしていた。この着信だけは逃してはいけない気がしてしまった。

 これを逃すと、もう『そんなとき』は来ない気がして。

 それで思わず意固地になった。

「………もう!」

 千紗は手だけで探るのはあきらめて、バッグの中を覗き込んだ。

 底が深く、中に区切りのないトートバッグは夏のセールで手に入れた千紗のお気に入りだ。でもそれが今は恨めしい。柔らかい革が千紗の体の線に沿って、底まですっきりと見下ろすことができない。

 通行人に押されてまた一歩、後ろに下がった右足がパイロンを車道側へ押し出した。がらら、とアスファルトを滑る音が聞こえた。

 足元が揺らぐ。履き慣れない、これまたセールで手に入れた少しヒールのあるローファーの踵がパイロンの端を踏んづけたのだ。

 体の重心を戻そうと手を振り回しかけて、両手がバッグの中に納まっていたことを思い出した。体は揺らいだ重心を元に戻すことが出来ず、そのまま斜め後ろへと落ちていく。

 思うようにならない両手の代わりに踏み出した左の足が地につく前に、苛立って横入りした学生がぶら下げたバッグが千紗の身体を車道へ押し出した。

「こら……君! 危ないっ!」

 千紗は声も出せず、目を見開いた。

 全ては淡々とことが過ぎていく。スローモーションのように叫ぶ人間と、駆けてくる警察官の姿が視界に入った。

 聞こえる何人もの叫び声と急ブレーキの騒音。近づいてくる車の運転席に座る男の顔がまるで千紗と全く同じような顔をして、目を大きく見開いている。

 確か思い切り転んだはずなのに、腰も尻も痛みはない。まるで宙を浮いているような感覚に、飛び込んでくる金属の塊がやけにリアルだった。

 どこからか、千紗を助けようと手が伸びてくる。

 その手を伸ばすほどには時間があまり残っているようには思えなくて、ただ車のフロントガラス越しに見える見開いた眼から目を離さないようにすることしかできなかった。

(――――――もう駄目!)

 一瞬で、息が止まる。何もかもが闇の中へ流されていった。

 そして、あの時間の中へ廻り巡っていく。

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