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―――――――――――――少し、安易すぎた行動だったかもしれない。
桐野は部屋の中に唯一許された天井からぶら下がる瓦斯燈に視線を向けた。
落ち着きのない気持ちのようにちらちらと瞬きを繰り返す危なげな明りは、吹き込んだ風にゆらり揺らぐ。
風が強くなってきた。
誰にも見つからないように忍んでここに到着するやいなや、最初こそしとしとと夏に相応しく閑雅に降り始めた雨は、屋根を気まぐれに濡らすだけだったというのに今や激しい地鳴りとなり障子の向こう側の雨戸を軋ませている。
時間を追うごとに酷くなっていく雨足に、桐野は早朝の雪原にも似た全く汚れていない原稿用紙を見下ろして嘆息を漏らした。
八畳ほどの部屋の中央に敷かれた絨毯には所狭しと紙が散らばっている。どれもこれも短い単語を中途半端に書き止めたものばかり。たとえ誰かが一枚手に取って読もうとしても、内容は支離滅裂でこれだけでは何を書きたかったのか理解できないだろう。
部屋に先ほどから絶えずに聞こえてくるのは、さらさらという万年筆が紙を滑る音だ。
書き物をしている割には器用にだらしなく、桐野は板張りの床の上に敷かれた絨毯の上に片足を崩し、束になった原稿用紙を立てたままの片膝にのせている。背中は洋書が隙間なく詰め込まれた三段の書棚に預けていた。
天井からのぼんやりとした明るさでは書斎の総てを照らし出すのは不可能だ。
薄暗い部屋の中、できるだけ手元がよく見えるようにと桐野は原稿用紙に顔を近づけた。意地を張らず電気を通せば明るい電灯が使えるというのにそんな余裕はないのだと一点張りで家はいつも薄暗く、何かがひしめき合っている。然しながらこれはこれでいいのだと、先生は言う。
先生にはなにかが常に満たされず、息苦しく不自由していることが必要なのだ。
「何か、気にあることでもありますか?」
そんな無作法を別に咎めるわけでもなく、部屋の真ん中に据えられた紫檀の文机に本を置き、定期的に頁を捲っていた先生が聞いた。
文机の横には使い込んだ火鉢。季節の変わり目に納戸へ仕舞い込むのが面倒なのか、通年この場所が定位置だ。もちろん火は入っていない。文箱のふたは固く閉じられたままだった。今はその上に数冊の本が積み重なっている。
決して綺麗とはお世辞でも言えない部屋だ。
桐野が来てからというものすでに二冊の本を読み終えた先生は、寝間着の肩に羽織をかけている。夏とはいえまだ朝晩は冷える。まだこういった物は夜半には欠かせない。
ゆらり、雨戸の隙間から滑り込んだ風が障子の穴から忍び入り、部屋に散らばった書き損じを部屋の端まで運んで行った。ただ視線で追うだけにとどめる。追いかけるまでもない、あれはただの塵だ。
ぺらり。桐野の返事を待っている間にも、先生は頁を捲る手を止めることはしない。頁を捲ることに迷いのない指先は、その先にどんな物語があり、そこで誰が存在して何を決断し何を切り捨てているのか、何もかも総て見知ってるようだ。
全部知っているとはそれはそれで魅惑的であり、しかしながら生きていてどんなに退屈なことかと桐野は想像する。
だからこそ―――――――――、いくつかのふすま向こうで眠っているだろう娘のことが頭を過った。
桐野が黙りこくったのを肯定の意だと判断したようだ。手にした本を急に読むのに飽きたかのように文箱の上に開いたまま乗せ、先生は疲れた目頭を強く押した。
欠伸をして、大きく伸びをする。すでに時刻は夜半を過ぎていた。
「会って行かれないのですか?」
桐野は原稿用紙から目を離さないままで、
「誰のことです?」
顔色を変えずに聞く。
「千紗さんですよ。あのまま顔も見せずに帰ってしまっては、あの子も心配するでしょう」
「僕が彼女に会わなくちゃあいけない義理でもあるんですか?」
桐野の声が険を帯びる。
「先生の家に連れてきた責任を問うのであれば、滞在を許した先生にも責任がありますよ。僕は今日、その分の責任を果たしたまでです。僕は―――」
桐野は何かを書き込もうとして、途中でその手を止めた。
黒い体に金色の帯を巻きつけ軌跡を残していく筆先はいくらかの平仮名を書き込んだところで力尽きたように線が擦れ、紙の上に後だけを残して力尽きてしまう。
急ぎ、紙に万年筆の先を滑らそうにも点のひとつも跡を残さない。まるでこれ以上書かれるのを万年筆自体が拒んでいるかのようだ。
「……なんでもありませんよ。雨が、酷いなあと思っていただけです」
雨が降り止まず暫くこのままだとすると、何としてでも辺りが闇に包まれている間に帰りたい桐野は、雨の中を濡れ鼠で帰らなくてはいけない。
使い物にならなくなった万年筆を投げ出し、桐野は嘆息する。原稿用紙を手にしてからすでに数時間、言葉はとりとめのないものばかりで、何ひとつ成果ができていない。このままでは夜が明けてしまう。
「早めに今日の分を終わらせましょう。今日は無駄話が多すぎますよ。あの騒がしい娘に感化されたのではないでしょうね?」
「さてどうでしょうか。このなかなか入り口にも辿り着けない感じが、終わりのない夢のようで私は愛しくて仕方がないのですよ」
「……どちらのことを言っているのでしょうか?」
さながらその言い方では、あの記憶喪失の娘のことでも言ってるかのようだ。
訝しげな桐野の問いかけに、至極当然といった顔をして先生は答える。
「もちろん! 桐野君が記す話の行方ですよ」
床に散らばった書き損じを、嬉しそうに眺めてその一枚を手に取る。
そこには何のことはないただの平仮名の羅列しか残っていなかった。桐野が聞いたそのままの印象を書き連ねただけだ。行にすらならなかったただの点。点が線になるにはまだ遠く、時間も根気も必要だ。
「そうそう、親に強引に決められた婚約中のご令嬢が、婚約相手ではない身分違いの男を愛恋した故に世を嘆き、自殺を決意するところまででしたか」
桐野は床に転がったままの無用の長物となった万年筆を見下ろした。瓦斯燈の危なげな光を反射して、よく使い込まれたその体は傷だらけでも光っている。
雷が鳴っている。まだ遠いとはいえ低く地を這う轟音が雨戸を揺らし腰かけた桐野の尻に響く。屋根を穿つつもりなのか、雨足が一層激しくなると桐野はもうあきらめるしかない。最早これなら傘も意味がない。濡れることを厭って慎重に帰っても、田端にある下宿屋に着くころには結局濡れ鼠だ。
「よいしょ、っと」
「どこに行かれるのです?」
文机に手のひらを付き年寄りめいたことを言って立ち上がった先生に驚き、桐野は顔を上げた。
手にした原稿用紙はまだ白紙のままだ。渦巻く平仮名の羅列はどんな先行きも描かず虚しく漂っている。桐野は先生を咎める視線を向けた。
「眠るのはまだ早いのではないですか。怠けると癖になりますよ」
「いえいえ、眠りませんよ」
悪戯小僧のような笑みを浮かべた先生は唇に人差し指を当てると、雨戸の閉まった縁側へ向かう障子に視線を向けた。障子をわずかに開けただけだというのに、雨戸を叩く雨粒の音が途端身近に聞こえる。
「一寸、雷が苦手なお嬢さんのところへ行ってきます」
桐野は眉を跳ね上げた。
「……そんな馬鹿げた理由で、夜半に年若い女性の部屋へ呼ばれてもいないのに忍んで行くのですか。歳を考えなさい、歳を」
手にした原稿用紙を足元に投げ出した。ばさりと書き損じの上を広がる沢山の紙は多く、容易に絨毯を覆い隠してしまう。
「そもそも、どうして雷を彼女が苦手なのだと先生が知っているのですか」
「……彼女は昨夜、うなされているのですよ。声を忍んで啜り泣きながら、苦しそうに体を丸めて」
問いに明言を避けた先生の言葉を聞き流し、桐野はふすまの向こう側を見遣る。遠く地鳴りは聞こえても、うなされる声は聞こえてこなかった。
そのことになぜか安堵しながら、桐野は「かといって」と説教口調を改めない。
「眠っている女性の部屋に勝手に入るのは―――」
「それでは、桐野君が行ってくれますか?」
意味が分からない。桐野はため息を漏らした。
「僕を含め、世間一般の男もですよ。先生が駄目だと言っているのではないのです」
「知っています。然し乍ら、知っていて誰も助けないのはあまりにも可哀想過ぎる。あれでは……また、いつか迷ってしまう」
「――――先生」
桐野は原稿用紙の上に胡坐を組み、立ち上がりふすまに指をかけたままの先生を見上げた。
珍しく微笑みとは違う表情をこちらに向けている。眉間にわずかに寄った皺は、まだ四十に達していないはずの先生を酷く齢を経た老人に見せていた。気掛かりそうに閉まった雨戸を見つめ、今にも奥へと踏み入ってしまいそうな危うさに桐野は違和感を感じる。
「彼女とは、初めて会ったのでしたよね?」
先生は、振り向くと躊躇も言いよどみもなく「ええ」と答えた。瓦斯燈の頼りない明かりを先生の頭が遮り、表情を読み取ることは難しい。
それを聞くと、桐野は何も言わずにその場を立ち上がった。地響きの向こう側から途切れ途切れに聞こえる啜り泣きに小さく吐息つく。
雨は降り止むことを忘れ、ただ彼方此方を濡らしていく。きっと彼の人の枕も同じように濡れているだろうと、桐野は思った。