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明治逢戀帖  作者:
第二章 東京ノ一日
12/61

 なんとか間に合った。女給にテーブルへ行ってもらうように頼み、際どいところで緊急事態を脱せた千紗は安堵のため息を漏らした。

 気づけばついさっきまで閑散としていた店内はにわかにざわめきつつある。

 女給を探すまではなんとか奥まで見渡すことができたはずが、忙しくなった女給を引き止めるのに時間がかかったせいか。もうすでに頭の海にまみれて元いた場所すらわからない。

 壁に据えられた絵画はなんとなく覚えていた。でも、印象派―――とはいえ千紗の知る絵画の流派は印象派のみ、しかも思い浮かぶ画家なんて「クロード・モネ※1」くらいだから、その記憶も定かではない。なんとなくヨーロッパっぽい絵がかかっているな、という曖昧な印象しかないものだから席に戻る目印になどできるわけもなかった。

(困ったな……)

 今の時点で席を離れてから十分はとうに過ぎている。一人で大丈夫なのだと桐野に宣言した手前、さっさと戻らなくてはあの遠慮のない口調で何を言われるか分かったものじゃない。

 縦長の窓向こうはすでに夕暮れを迎えつつあるようだった。明治時代に来て、二度目の茜色の空。

 右も左もわからずに放り出された千紗は、今ここでこの時代の人たちと「びあほうる」に来て共に当時のつまみを食べて――――――迷子。

(いやいやいやっ! まだ迷子にはなってないし。これから探せるんだしっ!)

 負けるものか、と顔を上げると、遠く見える玄関からぞろぞろとスーツ姿の男たちが山になって入ってくるのが見えた。迷い顔の千紗の横をソーセージの乗った皿を持って女給が通り過ぎていく。忙しいさなかでは、途方に暮れる千紗などかまっている暇がなく、肩をぶつけるような勢いだ。

「……ひゃあっ!」

 突如、立ち竦んでいた千紗は後ろから肩を掴まれた。

「おい、早くびいるを持ってこい!」

 情けない悲鳴をあげ、振り返ると顔の赤らんだ黒いスーツ姿の男が立っている。全くつかまらない女給に業を煮やして探しに来たらしい。

「…………」

 自分の姿を見下ろす。

 なるほど那美子に借りた千紗の服装は地味で、よく見れば確かに女給の着物とよく似ていた。

 返事をしない千紗に酔っぱらいは苛立って「おい、聞いているのか。生意気な女給だ」と吐き捨てる。

 掴んだまま肩を軽く押し、千紗の体が揺らぐ。

 あの、と怖々言い返した。

「……わ、私、女給さんじゃないです。客です!」

 ぶしつけな視線で男は千紗の頭からつま先までをじろりと見やる。

「女だてらでひとり、こんなところに遊びに来るとはなあ。生意気な女だ」

 掴んだ肩を突き飛ばした男は、そう吐き捨てるとどかどかと足音高らかに歩き去った。

 その男と入れ違うようにして、違う男たちが歩いてくる。

 真ん中で立ち竦み、行き先をふさぐ千紗を見る視線は侮蔑と僅かな嫌悪、それに―――――――――。

「この店にはこんな「さあびす」もあったのだな」

「いやいや、これは女給なのだから手を出してはいかんのだよ」

「しかし女給がここでは甲斐甲斐しく僕たちの世話をしてくれるのだろう」

「君、それは違う店の話だ」

 真っ赤になった千紗をからかう男たちは、にやにやと笑いながら横を通り過ぎる。

 桐野たちのいる席まで戻らなくちゃいけない。

 わかっているはずなのに、これ以上千紗の足は進まなかった。明治時代はもちろんのこと、女性の地位はずっと低く扱われていたことを千紗は失念していた。

 桐野の心配は当たり前のこと、店に入った時の露骨な視線は覚えていたはずなのについ現代のレストランと同じように千紗は考えてしまっていた。女の入るべきではないこの場所で、千紗は女給に間違えられても文句は言えない。

 千紗はひとつ、ぽつんと空いた端の席に逃げるように腰かけた。

 深くうつむくと震える手をテーブル下に隠し、小さく縮こまる。ついさっきまで感じなかった不安がひとりになるととたんに増幅して、この場にいるのもつらかった。

(座っていたって何も……変わらないのに)

 むしろ心配させるだけだろう。

 女給を呼んでくるといった千紗を軽く送り出した先生は、千紗がすぐに戻ってくるのだと思っていただろうし、金田は―――むしろ千紗がいなくなったこと事態に気づいてもいないのかもしれない。

 桐野は―――探してくれているだろうか、と思う。なんとなく千紗が迷子(もはや確信した)になるのも予感していた彼だったし、なかなか戻らない千紗を不審がって「それ見たことか」と探しに来てくれるのかもしれない。

 でも、

(記憶が戻って帰っちゃったって思うかな……)

 千紗がいなくなっても、この時代の人間は何も関係がないのだろう。千紗が今一時的に被っているこの人が実際に明治時代に存在するかどうか確信はない。知っている人すらいないのだから、もしかすると誰かの姿を借りてここに紛れ込んだだけかもしれないのだ。

 千紗は横髪を垂らしうつむいた。とにかく今は誰にも目につかないようにしていたかった。

「――――も二人目の妻を貰ったというではないか」

 ひとつ向こうの席から聞こえてきた覚えのある名前に、千紗は軽く頭を上げた。

 偶然耳に滑り込んできたのは、日本文学には疎い千紗でさえよく知る文豪の名前だ。一度は本を開いたことがあるけれど、その内容の難解さに一ページにも至らず本を閉じた。そんな文豪が明治時代に生きた人間であったことを、千紗は今この時にして知った。

(てっきり大正か昭和時代の人だと思ってた……)

 軍服姿なのだから軍人だろう。三人の男は尽きない話に忙しい。

 ビールを片手に世界情勢や今の日本の経済についての取り留めもない話は続いている。政府の要人だろうか、とでも思うくらいに論じられる内容は革新的だ。しかし、耳をそばだてても騒がしい店内では聞こえるのが半々なうえに、単語が難しすぎて話の半分も理解できなかった。

「そうそう。大審院判事のご令嬢でしたかな。いや目出度い」

 口髭が邪魔そうな壮年の男がグラス片手に笑った。

「中佐」と呼ばれている男の持つコップは千紗のいる席に持ってこられたものと違い、細長くシャンパングラスのようだ。

 ヨーロッパじみたインテリアに天井にぶら下がるシャンデリアにも馴染んでしまう三人は、辺りで雑談する客とは雰囲気が異なっていた。

「そうなれば、次期男爵の君もそろそろ年貢の納め時でしょうかな? いい噂を聞き及んでいるよ」

「……僕の話はこのような旨い酒の席に不似合かと思いますよ? 沢山の女性が涙する話などつまみには塩気が多すぎるでしょう。」

「ははは、君は支援者に人気だからなあ。僕ももう少し若ければ競ることができたというのに、時の流れは罪なものだよ」

 背を向けた若い男が気障っぽいせりふに返した中佐が冗談を返す。それに誘われたようにそれよりもまだ年若い「少佐」ははじけるように笑った。どっと場が盛り上がる。

「君にはベルリンはどちらのほうが興味深かったかね? その勢いで、ぜひ高説賜りたいものだ」

「そうですね、中佐のお耳汚しにならないとよいのですが、「伯林には伯林」の「巴里には巴里」の良さがある、といったところでしょうか?」

「これはまた将来有望な話だな。君の奥様になるご令嬢は、頑丈な鎖を用意しなければなりませんなあ」

「せめてよく伸びる手綱でも用意させましょうか」

 再び笑いが起こる。

(………最低)

 話を最後まで聞けば、彼らの言う固有名詞が女性を示すのだということくらいわかる。ようはこの若い男は婚約間近にもかかわらず女遊びを公言し、それでいて妻となる女性にも浮気を公認させるのだと言ってはばからないのだ。

 ここにいるのも気分が悪い。千紗はテーブルクロスに乱暴に手を叩きつけると、立ち上がった。

 別に文句を言おうと思ったわけじゃない。なんとなく、ここに彼らが「虐げる」女性がいることを知ってもらいたかっただけだ。

 中佐や少佐は別として、さっきまで偉そうに武勇伝を聞かせているこの男は、千紗の存在を知ってばつの悪い顔をするのだと思っていた。それか開き直って他の客と同じように千紗を侮蔑の目で見るか、どちらかだと勝手に推測していた。

 でも、千紗が立ち上がった音に気づき顔を上げた男は千紗の予想したどちらでもない。

「―――――――――っ!!!!!!!」

 がたがたと激しい音を立てて、椅子が後ろに倒れた。

 男が千紗の顔を見て、思い切り立ち上がったからだ。首だけをこちらに向けて唇を戦慄かせ、目を見開いている姿は尋常な様子じゃなくて、千紗はその迫力に一歩後ろに下がる。

「……あ、あの……?」

 席が壁沿いなのを忘れていた。千紗の肩は簡単に絵画の飾られた腰壁にぶつかり、逃げ場を失ってしまう。

 男は軍帽をかぶるなり、

「失礼、中佐。用事を思い出しましたので」

 と、中佐に敬礼をした。

 中佐のいぶかしげな顔に「後日、説明させていただきます」とテーブル脇で短く告げると、風のように千紗の場所に足音なく踏み寄ってくる。

 顔を見て、声で想像していたよりも若い、と思った。男はどちらかといえば文系の桐野や金田よりも雰囲気が刀剣のような鋭さを持っている。桐野の鋭さが「きり」なのだとすると、その男は「日本刀」だ。

 短く刈り揃えられた髪は教科書の記憶そのまままさに軍人でやたらと威圧感があり、狭い額の下には恐ろしげなふたつの目が光る。

 それは、背中越しで聞いていた華やかで洗練された印象はとは遠くかけ離れていた。

「来い、聞きたいことがある」

 威丈高に命令し千紗の腕を掴み上げると、男はそのまま混み合う店内を玄関へ向けて大股で歩きだした。引き摺られるようにして千紗が戸惑う声を背中に向ける。

「……あ、あの……っ!」

「黙ってついてこい。口がきけなくなりたいのか」

「……っ!」

 言い返そうとした千紗は、その冗談では決してなく人を殺しそうな目つきに押し黙った。

 静かな声色だというのに言っていることは物騒なことこの上ない。掴まれた二の腕は鬱血しているんではないかというくらいに強く握りつぶされている。明日はきっと内出血しているに違いない。

 人を命令することに慣れきっているこの男は、こうでもしたら女は黙りこくるものだと思っているようだ。頭に血が上った。

(でも私はこの時代の人間じゃないし)

 こんな酷い行動に黙っていられる明治時代の女ほど優しくもないし、従順じゃない。

 男の力に抗おうと全力で踵に力を入れて腕を引いた。

 出かけるとき、那美子に渡された下駄ではなく靴擦れしても履きなれた靴を履いてきてよかったと思う。

 踵に感じる摩擦。そのままで引き摺られながらも男の足が玄関を出たところで千紗はやっと止まった。店の外に出たのだ。

 温い風が吹いている。湿った風は、店先に上がったたくさんの「ヱビスビール」なる旗を激しく揺らしている。湿った空気に明日は雨だと暢気に思った。

 茜色から群青色に変わる前の空はその混じり合った複雑な色を店の窓に落とし、こんな状況ながら千紗は凄く綺麗だと思う。

「は、離してっ!!」

 道の往来で止まる人力車に向かおうとした男の腕を、千紗は乱暴に振り払った。

 もしかすると男の手の甲を少し爪で引っ掻いたかもしれない。じんじんと熱を持つ腕を守るように片腕で包み込むと千紗は負けじと男を睨み付ける。

 そんな千紗の思わぬ反抗が逆鱗に触れたのだろう。

「お前―――――っ!」

 男はそんな千紗に我慢ならなくなったのか、片手を振り上げた。

 半身が茜色に染まっている。男の表情は影になって千紗には見えない。

 嘘、こんな往来で――――――――――――?

 千紗は殴られると覚悟して、目を強くつぶる。あの事故のときのように、衝動に備えて身を竦めた。

 と、引き寄せられるようにして千紗の体が後ろに傾ぐ。転ぶと覚悟した千紗の体は柔らかい何か受け止められた。薄眼で覗くと、肩に大きな手が乗っている。

 半身、軍服の男と千紗の間に割り込むようにして桐野の姿があった。

 桐野のもう一方の手は千紗の目の前で、千紗を殴ろうとした姿のまま静止している男の手首を掴んでいる。もう少し遅ければ、千紗の顔はこの拳で殴り飛ばされていただろう。そうすれば千紗の顔は一体、どんな状態になったのか。想像するだけで恐ろしい。鼻の骨だけで済めば幸いかもしれない、命すら定かではない。

 桐野はよほどの力で握りしめているのか、力でせめぎあう震える拳が次第に赤黒く鬱血していった。 

「……女を誘うにしては無粋すぎやしませんか、軍人さん」

 まるで地の底から這い出るような声だ。

 低くどすを効かせた桐野の声は、かばわれているはずの千紗ですら身の危険を感じるほどで、思わず震えあがった。

「うちの人間が何かしましたかね? 酒の力で女を口説くにはちょっと乱暴すぎやしませんか?」

 見上げれば意外にも桐野の口元は笑っていた。相手を挑発しているように持ち上がる唇は、千紗の目の前で途切れることもなく相手を罵る。もちろん、遠慮なく叩きのめす気満々で。

「無抵抗の女に手を上げるなんざ、欧化政策を推進する文明国の軍人を名乗る割に知性のかけらも感じられないねえ。こんなことだからこの国はヨーロッの足元にも及ばないんだよ。外面ばかりを気にした中身のない張り子だから、猿真似だと揶揄されるんだ」

 笑っているんじゃない。怒りで歪んでいるのだと千紗は顔色を変えた。

 軍人である男どころか、国を貶める言動は不敬罪だ。切り捨てられて文句は言えない。

「……っ、貴様っ!」

 案の定、桐野の物言いに血相を変えた男が、拳を拘束していた手を振り払い腰の軍刀に手を伸ばした。

 かちりと硬質な音をたてて、隙間から輝くものが見えると、千紗は桐野が庇うよりも先に身を前に翻す。殺されるわけにはいかない、それしか考えていなかった。

「―――――――駄目えっ!」

「この馬鹿っ!!!!」

 千紗は目を閉じずに、両手を広げた。

 そのまま薙ぎ切られるのかと思いきや、男は千紗の顔を見るなり今にも引き抜きそうだった手を押しとどめる。

 辺りには人ごみができていた。

 殴られそうだった女を庇い、軍人に逆らう書生姿の男に興味を持って集まってきたのだ。千紗が殴られそうになったのも見られていたのか、視線は主に同情が多い。儚げ(実際は別として)な女性が無体な真似をされるのは必ずしも受け入れられるわけではない。

(………いつの間に……こんなにたくさんの人)

 辺りを見回した千紗はごくり、唾を飲み込んだ。

 人の輪の中に先生と金田の姿も見える。金田は人ごみが間にあるので千紗を見るのは比較的大丈夫なのか、忙しなく身振り手振りで何かを知らせようとしている。

 なんとなく状況を察したらしい桐野が千紗の後ろで大きなため息をついた。

 にやり、次こそは本当に笑う。ただし物騒な笑みだ。

「ここいらには娯楽に餓えている人間が随分と多いようじゃあないですか。そちらも分が悪いことだし、これでお開きにしませんかね?」

「自分の言動は棚に上げてか。生憎簡単に見逃してやれるほど人ができていない」

 煽る桐野の口調に、苛立ちを隠せない男が離したはずの軍刀に手を伸ばす。

 桐野はそんな脅しにも動じず、だらり垂れた邪魔くさい前髪の奥から男を剣呑な視線を向けた。

 ぎり、と奥歯が擦り切れそうな音を立てる。

 何も物騒なのは軍刀に手をかけている男だけじゃない。桐野もまた一触即発なのだ。

「……こっちも腹に据えかねてるんだ。いい加減、見逃してやれるうちにとっとといなくなれって言ってるんだよ。「桂木中尉」さん」 

「え。 ―――――――――――――――っ!!!!!!!!」

 見知らぬ名前に驚いた千紗の肩を乱暴に掴むと、桐野は千紗を人ごみの中へ強引に投げ出した。

 声ない悲鳴を上げながら揺らぐ体は人ごみの中から伸びてきた腕に受け止められ、そのまま中へと引き込まれる。

「ひひひひひひひ、ひょえぇぇっ……!」

「金田君、耐えなさい。君の宿した獣を見せるときだよ」

 金田の声を殺した悲鳴と、それをなだめる先生の声が千紗の頭上から聞こえる。

 千紗をまるで雑巾を摘まむように指先だけで支えながら、それでも「獣」をかろうじて維持しているのか。ふらつく千紗を放り投げることだけは決してしないのが嬉しい。 

 振り返ると桐野の姿が人の壁の向こう側に見えた。今にも斬られてしまいそうだというのに、動じた様子を見せていない。やっぱり笑っている。

「男爵継承前の大切な時期なのに、びあほうるで口説こうとした女に無下にされて苛立ちまぎれに殴ろうとした中尉が、次は女を庇った「だけ」の男を斬り殺してたんじゃあ。ブン屋に何を書かれるか分かったもんじゃあないでしょうねえ」

 そうだそうだ、と声が上がる。いつの間にやら女給も店の外に出てきたらしく、いつも客に煮え湯を飲まされている女たちはそろって声を張り上げていた。こういう機会でなくては男に一矢報いるような胸のすく事件は起きないのだろう。

「あの、先生……」

「大丈夫ですよ」

 不安げに見上げる千紗に先生はうなづいた。

 強張ったままの肩をぽんぽんと二度ほど叩き、千紗を桂木の目の届かないところまで誘っていく。金田の獣は放出し終えたらしく、少し離れたところでこちらをうかがっていた。

 人の壁向こうの離れた場所で、軍刀を鞘に戻し桂木が身をひるがえしているのがちらりと見えると、それに誘われるように人混みは崩れていった。

 ごっがえす人に隠れ、桐野の姿は千紗の目には見えない。

「桐野さ――――――――」

 人波の向こうにいるだろう桐野へ駆け寄ろうと、千紗は体を乗り出した。土を踏むはずだったブーツが宙を浮き、千紗は手首を掴み押しとどめた先生をもの言いたげに振り返る。

 咎めるような視線を向けた千紗に、先生はいうことを聞かない駄々っ子に向けるような表情を返し、首を振った。

ちょっと、千紗さん。今はまだ寄らないほうがいいと思いますよ。君は先ほど連れ去られかけたのを忘れてしまったのですか?」

「……で、でもっ!」

 千紗は人ごみの向こう側を振り返る。

(…………いない)

 勝手にいなくなった千紗を探しに来てくれた桐野を、こんな事態に巻き込んだのは千紗だ。いつ斬られてもおかしくなった遣り取りをしなくては、千紗はここにいなかった。誰だかわからない男に連れ去られていたのかもしれない。

 考えると恐怖で体が震える。

「私、何も言ってないんです。だから……っ!」

 せめてお礼だけでもすぐに言いたかった。

「気持ちはわかります。ですが、耐えましょうか。ね?」

「……………はい」

 先生の手が俯く千紗の頭の上で跳ねた。柔らかく包み込む手のひらの感触に千紗は弱弱しく頷いた。

 ここで先生に逆らっても仕方ない。千紗はこれ以上迷惑が掛からないように、言われた通りにするほうが賢明だ。

 すっかり何事もなかったようになってしまった店先に桐野の姿はなかった。彼はどさくさに紛れて、帰ってしまったらしい。

 呆れられてしまったのかもしれない。込み上げる後悔に千紗が俯いていると、そんな千紗を見て先生が苦笑した。

「桐野君なら遅くないうちにまた会えますよ。今日はきっと……そうですね。顔を突合せづらかったのでしょう」

「………」

 帰りましょうか。と言った先生の声に千紗はこくりと頷いた。

 会計をしている金田が来るまで店先で待っていると今更ながらどっと疲れがやってくる。今日も死んだように眠れるに違いない。妙な確信がある。

 全く、今日もまたなんて日だったんだろう。

(まだここにきて二日しかたってないのに……毎日毎日疲れている気がする)

 脱力した千紗は背中にあたる店の窓を振り返った。

 夕暮れ過ぎた空はすでに暗く群青色の装いだ。電気の通っているビアホールとはいえ、千紗の知る現代の店と違い暗めの店内のせいで窓ガラスはまるで鏡のように千紗の姿を映し出している。

 そこに―――――――見慣れた自分の顔が見えた。

 疲れた顔をした千紗の顔は、ため息をついた千紗と同じように全身を脱力させていた。

 ほんの少しやせただろうか。千紗は自分の頬を撫でた。この時代に来てからとんと鏡を見る機会がなかった。全力で桂木の力に抗ったせいか、汗まみれになって前髪が額にくっついてしまっている。

(……お風呂、入りたいなぁ……)

 千紗は酷い状態になっていた髪を直し始めた。

 そして――――――――――――――――ゆっくりと目を見開いた。

「どうしました? 千紗さん」

 様子のおかしい千紗に声をかける先生の声が遠く聞こえる。

 何のことはない。てっきり違う顔、違う姿でこの時代にいるだと思っていたのが、間違いだったことに気づいただけだ。

 高校生で十七歳であった現代の時と全く同じ顔をして、今千紗はこの場所に立っていた。

 着物を着て、こっちを見ていた。

※1 クロード・モネ  印象派のフランス画家 代表作「睡蓮」

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