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いったい、どうしてこんなことになったんだろう?
千紗はほら食べろと言わんばかりに目の前へ集められた海老の佃煮と大根のスライスの小皿たちを眺め、この場にいる誰にもばれないように内心でため息をついた。
「さあさ、今日は僕がご馳走しよう! 飲み給え、食べ給え」
空気を読まないことにかけてはこの男の右に出るものはいない、と桐野が太鼓判を押した金田が上機嫌で乾杯のポーズをとっている。
ひとりぽつんと座るそのテーブルには誰もいなかった。千紗たちが座っているのは彼の横のテーブルなのだ。
千紗たちの横のテーブルでひとり、そっぽを向いて楽しそうに騒いでいる金田はぱっと見、酩酊したただの酔っぱらいだ。もしくはただの「陽気な」不審者だ。
案の定、周りのテーブルの客が「なに、この変な人」とでも言いたそうに怖々と席を移動していった。
もちろん、着物にエプロン姿の女給も立ち上がっている金田と視線を合わさないようにして、盆を両手持ちして奥へ駆けていく。奥ではきっとまことしやかな作り話が女給の間で広がっているだろう。
千紗が今いる場所は、明治三十二年七月四日、銀座八丁目に作られたという「恵比寿ビアホール」だ。
煉瓦造りの外壁にカタカナで「ヱビスビール」と書かれた娯楽場の外は、乗りつけた客を待つ馬車や人力車がひしめいている。
赤い看板が遠目にも眩しく、簡単に足を踏み入れるには敷居が高かった。先生にまるで背中を押し出されるようにして千紗はドアの中に足を踏み入れたのだ。
記憶の中にある簡素なスチールテーブルとパイプいすの期間限定なビアホールとは一線を画し、踏み入れた先はさながらホテルのロビーにあるレストランのようだ。
音楽にもこだわりぬいているのか。店内にはクラシックが華やかに流れ、喧騒の間からたまに聞き漏れてくる。
重厚なインテリアに、テーブルひとつひとつにかけられたクロスが、どことなくフランス料理店を思わせてそういう場所に慣れていない千紗には居心地の悪いことこの上ない。
行き交う客は洋装、和装入り乱れていたものの比較的こぎれいな格好をしている人が多い。一方、賑わっている割に女性は千紗が見る限り見つけることはできない。ただ例外として、給仕はほとんどが女性で縞模様の着物に白い胸までのエプロンをつけていた。
そのせいか、入店してからというもの千紗は常に好奇と嫌悪の視線にさらされている。
現実では十七歳の現役高校生である千紗はいるには場違いで、先生に飴色の椅子へ腰かけるように勧められたものの三十分たってもまだどうにもおさまりが悪いし、ぶしつけな視線が気になってしまう。
「びやほうる」に皆で行こうと言い出したのは誰でもない金田、当の本人だ。
つい二時間前、お茶を淹れてくれた桐野に付き添い千紗が座敷のふすまを開けるとそこはすでにアルコールの臭いが充満していた。金田が「ぷれぜんと」として持ってきた「びいる」の瓶は空になって畳に転がり、つまみのつもりなのか用意された「びすけっと」はもう残り僅かになる有様だった。
酒に強いのか、飲み足りなかったらしい金田は酒の勢いで「びやほうる」に行くことを提案し、まだ仕事が終わっていないからと遠慮した千紗も桐野の制止空しく、半ば強引に引きずり出されてしまったのだ。
失った記憶を戻すには同じような衝撃が必要なのだという。ただし、高説ぶった金田の力説を千紗は背中越しに聞いたわけだが。
だがしかし、極端な人見知り(主に女性に限る)であるらしい金田が千紗と同じ場所で顔つき合わせることができるわけもなく、結局こんな奇妙な席分けになってしまった。
(同じテーブルにいるのが嫌なら、誘わなければいいのに……)
なんて面倒な人だ。
千紗は箸でつまんだ味のないシンプルな大根のスライスを噛み砕きながら、半ば呆れ気味に思う。
横目でちらりちらりと千紗の反応を探っていたらしい金田が千紗の同情交じりの視線に気づき「ひょう」とまた珍妙な声を上げた。
金田がテーブルの下にさっと隠れると、誰もいない(ように見える)テーブルに置かれたビールのコップを、当然客が帰ったものだと思った女給が速やかに下げていく。その一連の流れはさながらコントのようだ。
「…………残念……」
「放っておいたほうがいいよ、仲間と思われるのは心外だ」
桐野がにべのない口調でばっさりと切り捨てた。一口飲み込んだのは千紗と同じ大きさのカップに注がれた琥珀色の液体だ。
一方、千紗の目の前にあるのは小さなコップだ。ただし、中身はただの水。
小さく泡の立つそれを、まるで苦水でも飲みこむような顔で一口飲み込んだ桐野は「やっぱり好きじゃない」と呟いて、コップの残りを一気に喉へと流し込んでしまった。
千紗の近くに寄せられた大根のスライスを指でひとつまみ口に放り入れると、金田の奇行に遠巻きにしていた女給を呼び寄せ「大コップでふたつ」と申し付け、ついでに小声でなにか頼んでいる。
ここにもひとり、面倒な人がいる。千紗はため息。
「…………結構気に入ったんですね」
長い前髪でうつむいた顔を隠し、桐野はそんな千紗の言葉を切り捨てた。
「好きじゃない、って言ったんだ。誰も気に入ったなんて一言も口にしていないだろう。お前のその耳は節穴か、それともただの飾りか? 今頼んだのは先生と金田君の分だ」
必要以上に噛みつくような剣幕に千紗は、ぐう、と口ごもる。
(何もそこまで言わなくていいのに……!)
言い負かせたのに満足したのか、ふう、と桐野はため息をつき海老の佃煮を指でつまむと口へ放り入れた。
次は千紗が眉を跳ね上げる。
「それは私が貰った海老の佃煮ですよ! 食べないでください」
「べ……っ、別にそれだけたくさんあるんだから、別に少しくらいもらったっていいだろう! 意地汚い奴だな!」
ぐうと、千紗は一瞬口ごもった。しかし昼ドンを聞いてからすでに三時間弱、金田の件もあって昼食をとっていない千紗にはこの海老の佃煮の死守は死活問題だ。
「桐野さんはビールを飲んだじゃないですか。私は水しか飲んでいないんです。しかも海老の佃煮は一つしかなかったじゃないですか。残りは味のないただの大根ですよっ?」
「それは塩を振って食べるんだ! 大体お前、金を払っていないだろう」
「それは、お互い様です!」
「ぶ―――――――――――っ!!!!」
そんな掛け合いが笑いのつぼに入ったのか。先生が激しく噴き出した。
はた、と我に返って千紗は開きかけた口を閉じる。先生がひらり手を振って、残ったビールを飲み干した。
「いえ、私は気にせずに先を続けてください」
そんなことを言われてそうですかと再開できるわけもない。千紗は空腹のあまりに我を忘れた言動が恥ずかしくて俯く。桐野は海老の佃煮に手を出すことはあきらめたらしく、何もなかったように大人しく大根に塩を振って口に投げ込んだ。
「それにしても、まさか桐野君が付き合ってくれるとは思いもしませんでした。意外に気に入ったようではありませんか、また追加を頼むくらいにはね?」
ほら頼んでるじゃない。もの言いたげな視線を桐野に向けると、そっぽを向いた上に次はメニューまで広げ顔を隠してしまう。
「まさか、金田君の奢りだというから、いつも困らされている分せいぜい会計で困らせてやろうかと思っただけですよ」
と、毒づく。
本当に素直じゃない人だ。千紗は女給行き交う中で落ち着かないらしくさながらもぐらたたきのようになってしまっている金田を振り返りながら、残り僅かになった海老の佃煮を放り込んだ。
「千紗さんも残念でしたね。せめて成人していれば一緒に楽しめたのですが」
顔を上げると、先生が申し訳ない顔をしてこちらを見ている。
先生が持っているのは大きなコップだ。しかも、入店して十分もたっていないのにすでに三杯目。上戸に流し込むようにビールを飲み込む姿は、テレビで見る早飲みのようだ。いったい今日の会計はどんなことになるんだろう。自分の懐が痛まないとはいえ、想像するだに恐ろしくなる。
千紗は首をゆるゆると振った。
「いいんです。ここに連れてきてくれただけでも、十分にうれしいです」
「そうですか? ではお腹が空いている千紗さんには私が何か御馳走してあげましょうね」
先生は顔を上げた。
いつの間にか辺りには空席が目立っている。夕方から再び混み合う前のしばしの休息時間なのだろうか。通路に女給の姿はなく、奥を覗き込んで呼び寄せようとしている先生を千紗は制止した。
「先生、私が行って呼んできますよ」
女給は金田の奇行を恐れてこの席に近付こうとはしない、といくら本当のことだとはいえはっきり本人の前で言ってしまうのは気が引けた。
先ほど桐野が頼んだビールもまだ出されていないし、それ以上に千紗の我慢が限界だったのだ。
―――――――――――――――トイレ。
空腹なのも手伝っておもわず何杯も水を飲んでしまった。何とか我慢しようとしていたけれど、帰るときの鉄道馬車の揺れに耐えられるとも思えない。テーブルに寄ってきた女給の前でまさか「トイレの場所」を聞くことはできず、今の今まで来てしまった。
「そうですか? お願いしますね」
「はい、すぐ戻ってきます」
行かなければ、事態は緊急を要する。
と、背中を向けた千紗の体が後ろに傾ぐ。手首を掴まれていた。
振り返った先に、いるのは桐野だ。ビールを飲むのに前髪はうっとうしかったのか、軽く避けられた前髪の間から珍しく心配そうな顔が見えた。
「……大丈夫なのか?」
迷子にでもなると思っているんだろうか。千紗は笑ってごまかして見せる。正直、そろそろ急がなくては緊急事態コールが鳴り響きそうだ。
「大丈夫ですよ、子供じゃないんだし」
一体この「びあほおる」のどこに危険が潜んでいるというのか。千紗は笑いながら席を後にした。
ほんの少し、駆け足で。