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朝食は、先生と千紗の二人きりだ。
行儀作法にうるさくはない先生(そもそも先生からして食事中に本を読んでいた)との食事は気遣いもいらなく、食事中に質問をしようとする千紗を先生はとがめようとはしなかった。この機を逃してなるものかと思わず先生を質問攻めにした千紗だ。
そして、この時に改めてこの世が明治時代であり大正時代に入る寸前の欧化政策に燃える日本なのだ。ということを思い知らされた。
どんな馬鹿げた質問にも、先生は根気よく付き合ってくれるのが嬉しい。
実は一番千紗の食いついた(文字通り)話題は、先日日本橋の三越にできたばかりの食堂についてのことだ。
先生は三越のことを「デパアトメントストア」と仰々しく言う。その「デパアトメントストア」にできたばかりのレストランのメニューが日本食は五十銭、寿司が十五銭、森永の菓子が十銭、コーヒー・紅茶が五銭なのだそうだ。
物の相場がわからず首を傾げた千紗に、先生は「木村屋のあんぱんがひとつ一銭なのですよ」と教えてくれた。なるほど、そう言われればなんとなく見当もつく。
一銭が大体百円だと思えばいいのかもしれないと千紗は勝手に解釈した。
そうすると、三越のレストランで日本食は五千円。確かにデパートの食事の割には割高で、ちょっとした懐石並みだろう。
そんな楽しい食事を終え、先生が書斎に閉じこもってしまうと居候である千紗はいよいよ手持無沙汰になってしまった。
食後の食器洗いは那美子に丁重にお断りされてしまったので(千紗は一応客の立場であるらしい)結局、千紗は昨日と同じく土間にあった雑巾を持ち出し、門の格子の拭き掃除を始めたのだ。
拭きはじめて数十分もたっただろうか。
何ともうっとうしい、べたつくような視線を感じて背筋に寒気の走った千紗は、門の格子から雑巾をおろし辺りを見回した。
―――――――――――――――誰もいない。
朝食の時、先生が昼過ぎには桐野も来るだろうと言っていた。
てっきり千紗はその桐野が来たのかと思っていたけれど、どうやら勘違いらしい。
正午の鐘に匹敵する昼ドン(朝食時先生に教えてもらった)はまだ聞いていない。聞き逃す音とも思えない。
「やだな……疲れが取れてないのかな」
ぼそり、呟いて真っ黒になった雑巾を濁った水を湛えたバケツに沈めると、背筋にざわざわと何かが走った。
―――――やっぱり、何かいる
千紗は路地に背を向けると、庭先を掃いていた那美子を探し門の中を覗き込んだ。庭木が強い風に揺れ千紗の上に影を作ると、得体のしれない恐怖が忍び寄ってくる。
肩越しに振り返ると、ざらり、角の向こう側に影ができた。
「……ひっ!」
飛び上がった千紗は、自分が握りしめているのが雑巾であることも忘れて胸に抱え込む。
風雨ですっかり色の抜けた板壁の向こう側から、にょっきりと腕が出てきて千紗は悲鳴を上げた。
◆ ◆ ◆
「ですから、僕の心は「でりけいと」なのですよ」
「清廉潔白なのであるのならば、もっと堂々としていればいいのではありませんか。金田君は少し……そうですね、臆病すぎるのではないかと思うのです」
「臆病! この僕が言うに事欠いて臆病ですか! 失礼ですが、先生は僕を過小評価しすぎているのではありませんか? 僕ほど心が獣のような男はいませんよ」
「そうでしょうか」
ずずっと湯呑のお茶をすする音がした。
出会いしなからずっとこの調子で話し続ける金田という男のことを、千紗は絶対に好きにはなれないと確信している。
手元にある本のページをぱらり開きながら、暢気に返事をしている先生にどうしてこんな物言いをされて怒らないのか。いっそ問い詰めたい気持ちでいっぱいだ。
客が来たから自分の部屋を片付けているように、と先生に言われ、桐野が来るまではと床の間に置かれた本を片付けていた千紗だったが、ふすまの向こう側から漏れ入ってくる金田との会話の不条理さに結局掃除の手を止めてしゃがみこんでしまっている。
先ほどは思わぬ行動につい悲鳴を上げてしまった千紗だ。しかし、それよりも場をつんざく悲鳴を上げたのは誰でもないこのふすまの向こう側にいる金田、その人だった。
しかも千紗の悲鳴にびっくりしたから、などと理由をつけて先生に言い訳したものだから、千紗の機嫌はこの時代に来てからの史上最悪なものになっている。確かに一日半という短い期間ではあるけれど。
「しかしですよ、あの女性の叫び声は実にけしからんと思いませんか? 乙女の悲鳴というものは、か細く哀しげに響き儚げであるべきで、先ほどの女性の叫び声は「ひょえー」なる、まるで鵺※1ではないですか!」
「そ・れ・は・あなたの悲鳴でしょう!」
千紗はふすまをすぱんと開けて、怒鳴った。
それこそ文字通りにジャンプして、先生の背に隠れた金田の見え隠れする頭を仁王立ちして睨みつける。
ぶるぶると大きな体を縮こませて震える姿には千紗だってほんの少し同情するけれど、お世話になっている先生に嘘偽りを吹き込まれるのは我慢できない。
「き、君! 出てくるなら出てくる前に断りを入れたらどうだろうかっ!」
「言ってからなら逃げてしまうんでしょ!」
「言ってから出てきていない君に、言われたくはないな!」
「ぐ…………そんなの屁理屈じゃないですかっ!」
「ああ、千紗さん。那美子さんにお茶をお願いしてもらってもいいでしょうか?」
「――――――っ、…………はい。今すぐ行ってきます」
千紗は睨みつけた視線を緩ませる。ぐっと奥歯を噛み締めると小さく頷いた。
那美子は金田にお茶を出すやいなや自分の長屋に戻ってしまっている。昔の台所の使い方を知らない千紗が、頼まれるままにお茶を入れることもできず、頼みごとのほとんどが那美子頼みだ。
あからさまに口調を変えた千紗へもの言いたげな金田が、先生の後ろからこっそりと半顔を覗かせる。
「君、人によって対応を変えるのはどうかと思うよ。品性が疑われる」
「……………」
どっちがどっちなんだか。
千紗は聞こえないふりをして、背を向けると路地へと飛び出した。
先生の家のある界隈には、たくさんの借家が集まっているのだという。
本郷と呼ばれる坂の多いその界隈は大学があることもあり、千紗から見れば今にも崩れ落ちそうで人が住んでいるようには到底見えないほど古めいた長屋や二階建ての下宿屋も学生たちに盛況だ。
本郷のはずれにある先生の家からはその騒がしさがいまいちわからないものの、少し歩けば「本郷座」という芝居小屋や寺、それに大きな銭湯があるのだと先生は教えてくれた。
千紗が教科書などで見知っていた明治時代は、「鹿鳴館」に「文明開化」だったり「ドレス姿と燕尾服で舞踏会」と先端的で華やかなものだったが、どうやらそれは一握りの人間に限るようで普通の人はつつましい生活を送っていたらしい。
繁華街は日本橋、浅草、新橋、銀座などだ。対して住宅地が多いのは、中野、杉並、世田谷辺りだ。
那美子の住む長屋までは歩いてたった一分程度。
金田のあの行動を考えると苛々した気持ちが増幅してしまう。だから千紗はあえて庭先に咲いた紫陽花を見ながら歩いた。
柔らかい青と紫に、心が休まっていくのがわかる。
と、路地の先に見覚えのある姿を見つけた。千紗はまだ汚れもない新しいエプロンを蹴飛ばして駆け寄る。
「桐野さん、こんにちは」
可能な限りの愛想を見せた千紗へ挨拶を返すわけでもなく、桐野は昨日とまったく変わらない仏頂面を歪ませた。黙ったまま顔をあげる姿は、心地よい(雨が降りそうな曇り空ではあるが)昼前には全く不似合だ。
この人が機嫌よく笑うところなんてあるんだろうか、と想像してみる。
千紗よりも確かに背は高いとはいえ、どちらかというと童顔の顔は笑うときっと素敵なのだろう―――と、一応は思ったけれど、全開の笑顔で笑う桐野の姿など千紗には全く思いもつかなかった。つまりはただの願望だ。
今日もまただらしなく伸ばした髪の毛を後ろにひとつで括っている。昨日と違うのは、着物姿ではなく、今日の桐野は書生のような風体だった。その恰好が特に彼を若く見せていた。
両手に持った風呂敷の包みを右手に持ち替えて、桐野が聞こえよがしにため息ついた。
「何、もう家出でもしたの? 何か思い出したんなら、新橋は逆方向だよ。とっとと帰れば」
開口一番の可愛げのない口調に千紗は思わず不貞腐れた顔をした。
桐野の指がひらり、宙を向く。その方向がどうやら昨日千紗がいた新橋らしい。
本当に、先生の家に来る人間はみな奇人変人ばかりだ。タイムトラベラーである千紗が、先生の家に間借りしていることは棚に上げておいて思わず内心で憤慨する。
それに、
(そんな簡単に帰れるものなら……とっくに帰ってるし)
言い返せずに唇を噛み締める。
「何も思い出してなんかいません」
「そう、なんだ」
「はい」
なんとも気まずい空気が辺りを漂って、結局沈黙に耐えられなくなった千紗のほうが口を開きかけたその時、耳をつんざく轟音が聞こえてきた。
(…………昼ドンだ)
激しい音に驚いたのか。庭先で餌をついばんでいた鳥が一斉に飛び立ち、近くの長屋で泣き出す赤ん坊の声が聞こえた。
桐野は小さくまた嘆息するとそれ以上は千紗の言葉を期待していなかったらしく、千紗の横を抜けてそのまま振り返りもせず先生の家のある方面に歩いて行ってしまう。
思わず追いかけようとした千紗は踏み出した足を止めた。自分がなぜこの路地を歩いていたのか、不意に思い出した。
(那美子さんを呼んでこないといけなかった)
踵を返して走り出そうとした矢先、千紗の進む方向とは逆方向へ歩いていた桐野が苛立つ声が千紗の背中に突き刺さる。
「おい……何しているの」
「……はい?」
「お前の帰るのはこっちだろう。言った端から忘れるなんて、頭の中身をのぞいてみたいものだ。それに逃げ出すつもりってわけじゃあないのなら、あちらこちらむやみに出歩かないほうがいい」
桐野は立ち止まった千紗から視線を離し、背を向けた。
「……ここ最近、ここいらは大学の奴らがうろうろしているから、お前みたいな馬鹿顔をした鴨を見つけると羽をむしり取られるよ。女のくせに不用心だろう」
これは、もしかして心配してくれているのだろうか。桐野の表現は、ねじまがっていて理解するのが難しいから判断に困る。
(下手な言い方をしたら、厭味のスイッチが入ってしまいそう)
困惑する千紗が何と返せばいいのか思案していると、その優柔不断な態度が気に食わないらしい。片手に持ち替えたはずの風呂敷包みを、桐野はせわしなく両手に持ち替える。
「おい。僕がお前を助けたのは、お前が縋り付いて助けてと言ったからだよ。先生に預けた手前、僕にもお前を監督する責任があるだろう。うろうろしてその間抜け面を辺りにさらされるとこちらも困るんだ」
どうも今日の桐野は特に虫の居所が悪いらしい。
(下手に変な逆鱗触っても困るし)
千紗は桐野の機嫌を取るために遠回りするよりも、そのままずばり現在の状況を伝えてしまうことにした。
「でも、金田さんが見えてお茶を淹れてもらいに那美子さんを呼んでこなくちゃいけないんです」
「金田君が?」
桐野の表情に一層の剣呑さが混じる。
横を向き「今日は朝から嫌な予感がしていたんだ」とため息交じりに独り言ちた。
(桐野さんも金田さんには容赦がないんだ。まぁ……気持ちはわかるけど)
桐野という人間は極端に短気なうえに、慎重に言葉を選ばず相手を傷つけるのに抵抗がないのだろう。きっと先生はその鋭い剣を受け入れるのでなく、うまく受け流しているに違いない。
「おい」
本人に自分の言葉は剣なのだという自覚がないのも困りものだが、自覚がない以上周りが注意しなくてはいけない。むしろまっすぐで嘘がないと思えばいい、のかもしれない。多分。
そもそも――――。
「おい!」
「い、痛っ! 痛たたっ! ははははは、はいっ?」
突如耳たぶに走る激痛。そして耳元への大声に千紗は飛び上がる。
次いでじんわりとやってくる痛みと熱。いつの間にか近づいてきていた桐野が思い切り千紗の耳たぶを引き上げたからだ。声をかけるときに耳をかすめたのは吐息だったのか、唇だったのか。
「那美子さんを呼んでくる必要はないよ。お茶なら僕が淹れる。………まぁ、間に合うのならだけどな」
不穏な言葉を吐いて去って行った桐野の言葉の意味は、桐野とともに先生の家へ戻った千紗がすぐに嫌でも思い知ることになるのだった。
※1 鵺 日本で伝承される妖怪あるいは物の怪。「ひょえー」とは鳴かずに「ひょーひょー」と鳴く