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明治逢戀帖  作者:
序章
1/61

「私のね、母親はあの時代には珍しく恋愛結婚だったのよ」

「……みんな好きな人と結婚するんじゃないの?」

「まさか。あの時代はね、結婚式までお互いの顔を知らないってことだってあったんだから」

「……ふぅん、なんか嫌だね」

「そうねえ」


 大正生まれの祖母が笑った。

 千紗の祖母は笑うと目じりの皺が柔らかく寄る、いつもおっとりと話す声が優しい。

 祖母の母親は明治の時代には随分と珍妙な人間だったらしい。祖母の口から聞く話はあの時代にしては突拍子もないことばかりで、聞くと千紗はいつもつい魅せられてしまう。

 しかしそんな祖母も戦時、見合い結婚が主流だった中で小学校を訪問した海軍士官の祖父に一目惚れして駆け落ち同然に一緒になったのだというから、これはきっと血だろう。三男とはいえ、良家の人間だった祖父の家に祖母が嫁入りするまでにはかなりの紆余曲折があったらしい。

 今ではもうおっとりとしてしまった祖母からは、全くもって想像ができないドラマティックな恋だ。

「まあ、私は母親ほどは大変じゃなかったんだけどねえ」

 レース編みをする指を一度止めて、祖母は眼鏡をずらす。

 歳をとると視界がおぼつかなくて、最近は趣味のレースを編むのも億劫そうだ。

 千紗が結婚するまでにせめてあちこちを飾れる分くらいは作っておかなくては、というのが彼女の談。とはいえ、千紗が三回ほど結婚したとしても十分あちこちを飾れるほどには編みあがっている(それこそ段ボール三箱分ほど)から、これはただの言い訳だと思う。次はウエディングベールでも作り出すのではないかと千紗は少し思う。

「私の母親は婚約中に旦那様になる人とは違う人と恋に落ちて、それは大変だったんだってよ」

「……それって簡単に言えば、婚前浮気ってことでしょ?」

「千紗にかかると、劇的な恋愛なのに容赦ないわねぇ」

「意味わかんない。みんなにどんなに迷惑かけても自分を押し通すなんて、自分勝手だと思う」

 ソファーに深く腰掛けながら、千紗は首を傾げる。

 結婚前に違う男と逃げる女の話なら、今の時代でもなんら珍しいことじゃない。ただ小説や、漫画やドラマの中の話だ。残された家族や相手のことを思うとそんな簡単にできることじゃない。

 肘置きの横に重なった小説にもそんな情熱的なものがあった。でも高校生の千紗にはいまいちピンとこない。

「まあ、そういう私も駆け落ち同然だから言えた義理じゃないんだけどね」

「おばあちゃんは……お互い好きあってたのに、反対されたんだから別問題だよ」

「うふふ、千紗はおばあちゃんには甘いのね」

 だって、大好きなおばあちゃんだし。と、心の中で千紗は小さく言い訳をする。

 ペールグリーンのクッションに顔をうずめた。祖母の作ったクッションカバーに包まれた外に天干ししたばかりのクッションは、いつも柔らかな日差しの匂いがする。

 鼈甲の眼鏡を外して、首を大きく回すと祖母が千紗を振り返り、笑う。

「そうそう。私は実はいいところのお嬢様なんだって、私が小さい頃はいつも笑って言っていたわねえ。まぁ、まったくそんな感じの人ではなかったんだけどね」

「ちょっと大げさに言ったんじゃない? そんなに裕福な暮らしだったわけじゃないんでしょ?」

「そうねえ……中の中かなぁ」

「……平々凡々ってところなら、絶対におばあちゃんはひいおばあちゃんに騙されたんだって」

「そうねえ……」

 そんなドラマティックな出会いを持つ曾祖母と祖母を持つ千紗の母親は、いたって普通のサラリーマンの妻だ。

 ごく普通に社内恋愛で順風満帆に結婚し、今に至る。昔からなぜなのか女系しか生まれないせいで、祖母も母親も皆男兄弟はなく姉妹だった。

 そして引き継ぐようにして名前には千の文字が入る。

 千紗に曾祖母の記憶はない。彼女は明治の世でもまだ十分に若く三十歳でこの世を去ったのだ。

 曽祖父は頑固な人だったと聞いている。彼もまた、曽祖母の後を追うようにして出兵後、病気で亡くなったのだそうだ。

 物書きであったとも、研究家であったとも聞いている。両親を亡くし、激動の時代を生き抜いてきた祖母の記憶は両親の部分だけ曖昧らしい。大変な時代だったと聞いている。きっと、祖母は苦しくつらい思いをたくさん乗り越えてきたのだ。

「おばあちゃんの名前は弥千子で、お母さんが千鶴でしょ? じゃあ、ひいばあちゃんの名前は?」

 祖母は目を細めて、笑う。

 遠い昔を思い出すとき、いつもそんな表情を浮かべる祖母を千紗はいつも眩しいものを見上げるようにして見てしまう。どうしてだろうか、不思議な気持ちがした。

「……伊沙子、よ。いつも自分の名前が嫌いだって言ってたっけ」

「千の文字は入っていないんだね」

「…………そうね、入っていないわね」

「おばあちゃんの時からなんだ? 変なの、別に引き継ぐ家宝とかもない平凡な家庭なのに」

 いくら曾祖母の家が過去名家だったとしても、千紗の家庭は普通にアパート暮らしの一般家庭だ。祖母の家は祖父の会社経営が順調だったせいか、立派な日本家屋といえるがそれでも豪邸とはいいがたい。

 一人っ子の千紗は、いつも仕事で忙しい両親に代わってこの祖父母の家に預けられていた。留守がちな両親よりも一緒にいる時間が長く、二年前に他界した祖父に比べ特に祖母には懐いている。

 縁側に置かれた柔らかな曲線を描く籐の椅子。それが千紗のお気に入りの場所だった。

 美しい着物、愛らしい刺繍、網掛けの膝掛け。鼈甲のブローチ、梅に鶯の彫られた髪飾り。この家には千紗の胸を躍らせるものがたくさんある。

「千紗は可愛らしいから、愛らしいものが似合うわねぇ」

「……何? 突然」

 よっこらしょ、と立ち上がり祖母はふすまを開けて奥に入っていく。

 滅多に開かない、二棹の箪笥は祖母の嫁入り道具だ。

 美しい仕立てのそれは曾祖母からの最後の贈り物だったのだという。あの時代の普通の家庭には確かに細工も素材も勿論、見た目からして千紗にも高価なものだとわかるもので、これだけを見ると曽祖母が名家の生まれだというのもなんとなく千紗も納得してしまうのだ。

 きっとかなりの名家だったのだろう。それほどまでにこれだけはこの家で存在感が違う。

 この箪笥は宝箱だ。千紗も一度だけ、曽祖父の命日に開けて見せてもらったことがある。それでも、決して開けない小さな扉、隠し扉と呼ばれるものの中身だけは決して開けないのだ。

 それは亡くなった曾祖母の遺言で、千の名を引き継ぐのと同じく祖母もまた引き継いだ。

 祖母ですら、何が入っているのか知らないのだと言った。本当かどうかは分からない。

「この箪笥、いつか私も引き継ぐんだね」

「……どう、かしらねえ」

「あ、まずお母さんか。それから私、私の子供って継いでいくんでしょ? っていうか、そこまで千のつく名前のバリエーションがあるかなぁ?」

「あらあら、交際相手もいない人間がそんなことを気にしているの?」

 くつくつと襖の向こうで笑う声。

 障子の閉め切っている奥の和室はいつもほんの少し薄暗い。

 欄間の松の彫りがなんとなく怖くて、千紗はいまだに中に踏み入ることができなかった。いわばそこは聖地。祖母と曾祖母の、大切な場所のような気がしてその空気を壊すことができないでいる。

「絹の手袋がいいかしら? それとも真珠のピンかしらね?」

「そんなのまだ早すぎるよ。私、まだ高校生だよ?」

 まるでデパートで買い物をするように浮かれる祖母の声を聴きながら、千紗はふすまに背中を預けた。

 天井を見上げると、幼いころはお化けの目に見えた木の節が見える。視線でそれを一つ二つと数えていると、横からにょっきりと腕が伸びてきた。

 このレースのカーディガンの腕は祖母だ。

 手には真珠のピンが握られている。背中にぎしり、体重がかかり千紗は唇を尖らせると大きくため息をついた。

 小さなころはこうやっていつも祖母に驚かされた。祖母もまた、曽祖母に驚かされたのだという。それほどまでに、曾祖母もお茶目な人間だったのだ。

 小学生のころの千紗は怖がりで、驚かされるたびに飛び上がり泣いては祖父に祖母がたしなめられていた。あまりに驚かせすぎて来なくなったらどうするんだ、と祖父が怒るたびに祖母はからからと笑っていた。

 仕返しですよ、と祖母は笑う。千紗には祖母を驚かせた覚えがないのできょとんとしていると、夜、小学生のくせに寝小便したことをばらされるのだ。

 優しい毎日だった。

「もう……おばあちゃん。私、子供じゃないんだからこんなことじゃ驚かないよ?」

 振り返ったふすまの向こう側には、力なく倒れるレースカーディガンの姿。

 真珠のピンが握られた手だけがこちらの部屋に力なく出て、千紗の視界の向こう側に決して開けないはずの箪笥の引き出しが見えた。

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