背景描写と物語の視点
物語を書く上で背景描写は「どう見せていくか?」という意味でとても重要だと思う。
ただ小説において背景描写というものが、 ときに「説明的」になり、それどころか物語の流れを堰き止める可能性すらあったりする。丁寧に描写しているつもりが、読みにくさを助長する事もある。雰囲気を出したいのに何か違う。せめて背景の説明役割を果たしたいのに、それすらも厳しい場合も、、。
……なぜでしょうか?これは小説ではなくて、映画などで考えるとわかりやすい気がします。
映画において、背景だけを長まわししているシーン、ある部分をクローズアップしているシーンがありますが、どれも演出的な意図があります。
今、すぐに思いつくのをいくつか例に出します。
①物語が流れに入る前に、世界観を提示したい場合
②主人公がそのシーンを強く意識して眺めている場合
③観客に対して、ある存在を強調したい場合
④物語のひとつの流れが終わった事を示す為の余韻、①における対比
映画において背景だけを特徴的に取り出しているシーンというのは、あからさまにその意図が表れています。
また映画において(必然的に)人物と背景は同時に映し出されていますが、観客の視点はカメラワークによって誘導され、映像のもたらすニュアンスは限定されます。 その時、いくつもの要素が画面に存在していたとしても、そのフォーカスが絞らる事によって、その意図が表れ、観客は映像の流れに 迷わず混乱する事なく乗ることができます。
……小説も同じなのですね。
小説における背景描写というのは、意図して見せる必要があると思う。
小説における背景描写において、丁寧に描かれているのに、なんか読みづらいという現象がおきるのは、その「焦点」がぼやけているからです。
それはプロットと演出の関係に密接にかかわり、「テーマをどうみせるか?」と言う問題に繋がるのだと思う。
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感想において背景描写が少ないという意見を良く見ますが、その多くは「単に背景描写が少ない」事が問題だと考えるべきではないでしょう。何故なら、読み手が演出的にそう見ている事はほとんどないからです。
……ではなにか?
…それは、演出的な意図における「具体的なイメージが不足している」という事だと思います。
例えば…
①私はあのナイフを手探りで探した
②私は、あの過剰に装飾されたナイフを手探りで探した。
③私は震える指先で、あのナイフを手探りで探した。
…ある状況下の中でナイフを探そうした文を3つ書きましたが、この中で一番最悪なのは②です。
何故か?ここで知らせるべきは「どうナイフを探したか?」という事であってナイフについての説明は「あの」だけで十分だからです。②は①より描写が多く付け足されていますが、必要な描写ではない。むしろ無駄な表現がある為に、むしろ読みにくさを読み手にあたえる可能性があります。
小説において①のようなシンプルな文が多い場合、読者は描写が足りないんじゃないの?と素直に考えますが、具体的にどうすればいいのかまで考えません。
そして作者は、読者の意見を汲み取り 描写を付け加えようとした際に②のような過剰な描写になる危険性があると思うのです。 これは小説を書きなれた人ならともかく、書きなれてない人が落ち入りやすい罠だと思います。
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ちなみに一人称で物語を描く場合、この背景描写の無駄(過剰性)が、仕組み的に少なくなりやすいです。それは、主人公が見て感じた流れでまっすぐ物語がすすむからです。読者の方でも読んでいて流れが掴みやすいです。
逆に三人称になると、必要以上の描写が増えすぎるパターンが多い気がします。複数の視点が混ざる為に、その演出意図が曖昧になりやすいからだと思う…そして「読みにくい…」となる。
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描写表現のうまさは、描写そのものにおける巧みさにあるのではなくて、意味のある描写を描く事にあると思う。演出的な効果としての描写です。
そこを意識すれば、背景描写について難しく考える必要がなくなるかと思います。
「文章のうまさ」「文章の技術」というのは、何かと表面的に取られやすい気が最近しているのですが、、、しかし本質的には「作者が伝えたい事をちゃんと伝える」という「演出的な意図と、その表現」にあるのだと思うのです。
それは、技術というよりも「明確に何を伝えたいのか?」という事そのものだと思います。




