力なき者
◇四月十四日午前七時半前◇
――ピーンポーン」
朝早くから俺の自宅の呼び鈴は大きな音を室内に響かせる。週末の連休を明けの朝は、けだるい。そのため俺は着替えと身支度を済ませた後二度目のだみん惰眠を貪っていた。
――ピーンポーン
再びチャイムが鳴る、俺は渋々瞼を開き、重い体を持ち上げて玄関のノブを回す。
「もお、いつまで寝てるのよ。早くしないと遅刻するよ」
玄関先に立っていたのは笑顔の良く似合う俺にとって、いやクラスの男子にとっての癒しの存在であるハルカだった。
俺は先日、彼女の父親に頼まれ彼女の警護を任されることになったのだが、それに伴い何故か彼女は毎日俺を家まで迎えに来るようになった。普通逆だと思うのだが彼女はものすごい満足気なので突っ込まない。
「ごめん、ごめん、すぐに行くから車の中で待っててくれ」
俺がそう伝えると彼女は頬を膨らませて
「もう、急いでよ」
と念を押し、階段を降りて行く。
さて、今日も学校か。面倒臭いと俺は心の中で溜息を吐くと家を出た。
車に手早く乗り込むと車は静かなモーター音を上げ、発進する。
今日も穏やかだ、俺は車の中で朝の静けさに浸る。隣に座っているハルカは朝方にも関わらず瞼がしっかり開き爽やかな表情をしている。俺も彼女のこう言ったしっかりした部分を見習うべきだろうか。
俺達が学校に到着したのはいつも通りの七時半を少し回ったぐらいの時刻、教室にはこんな時間にも関わらずもう何人かクラスメートが来ていた。
気の早い連中だ、そんなに早く学校に来て何が楽しいのやら俺にははなは甚だ疑問だ。
いつもの日常の風景、いつもの穏やかな雰囲気は実に平穏だ。
ニュース番組を見れば、また無法者のマクベが襲撃事件を起こしたと物騒な見出しが飛び交っているがこの場所はそんな社会のことなど関係ないようだった。
「やぁ、キョウ。今日も相変わらずハルカの車に相乗りで登校かい?」
俺に声を掛けてきたのはお調子者のネルだ、こいつは常に俺達より早く教室に居る。一体何時に登校しているのかと疑問に思う。
ネルのこの挨拶は余計だ、既に登校している何人かのクラスの男子生徒諸君は俺に殺気の篭った、おっかない視線を突き刺して来る。俺は正直怖い、ハルカも大変だろうと視線を隣の女の子に移すと、彼女は少しだけ頬を赤らめて俯いている。彼女のそのリアクションは例えるならば小野小町と楊貴妃とクレオパトラ全員の良いところを足したくらい可憐で雅だ。
「羨ましいだろ」
俺はネルの挨拶に冗談めかしにネルに応える、が俺のこの発言は他の男子の逆鱗に触れたらしく殺気は強まり、所々から舌打ちが聞こえてくる。
そんなに本気になるなよ………俺は若干背筋を凍らせなが苦笑いを浮かべて殺気の篭った視線の主達に返して席に着く。
「あははは、ハルカのファンクラブも最近できたみたいだからね、あんまり仲良くし過ぎてたら処刑されちゃうかもね」
ネルは俺の戸惑っているようすを見て笑いながら冗談を言っているつもりらしいが、俺には冗談に聞こえない。
と言っても一応は彼女が家に着くまではだいたいいつも近くには居るため怨まれるのも無理はないだろう。もし俺が他の連中と同じ立場なら舌打ち所か不幸の手紙だって送り付けるね。
「そういえばキョウ、一限目の現代社会状勢の宿題はちゃんと済ませた?」
俺はネルの問いを聞いて考え込む、宿題、そんな物が本当にあったかどうか必死に思い出す。
「なんか、あったっけ?」
結局俺は思い出すことができず、素直に尋ねた。
「昨今の企業の在り方についてレポート一枚書いて来なさいっていわれたじゃない」
俺の質問に応えてくれたのは隣に座り、教材を鞄から机に出していたハルカだった。
レポート………
しまった、すっかりその存在を忘れていた。確かに前回の授業で担当の紅先生がそのようなこと言っていた気がする。
「あ、忘れてた」
俺は正直に応える。
「やっぱりね。キョウなら忘れると思ってたよ、残念ながらレポートだから答えを見せてあげることもできないし、どうするんだい?」
ネルは俺に嫌味な毒を吐き、ニヤニヤと嫌らしいスマイルを向けて来る。
「どうするの?」
ハルカも心配そうに尋ねてきた。
ふん、レポートが写させて貰えないことくらい俺も重々承知している。
俺は腕時計で時間を確認、まだ午前七時四十五分、授業の開始は九時ジャストからだ、幸いにも企業についての知識は俺の得意分野の一つ、HRの時間も集中してレポート制作に取り組めば充分に間に合う。
「今から急ぎで書けば余裕で間に合うよ」
俺は余裕に満ち足りた表情で二人に応えると鞄の中からレポート用紙、ペン、そして教材を取り出し机に広げる。
ペンを手に持ちレポートに必要な情報を頭の中で索引し、補足のために教材も開く。室内に響き渡る喧騒を遮断し俺は黙々とペンを走らせる。今の俺にはもう誰の声も届かない、完全な一人の世界にトリップする。
俺がレポートを完成させたのは作業開始からほぼ一時間が経過した午前八時五十分。予想よりもてこずり、授業開始ぎりぎりまで掛かってしまった。だが、そのおかげで自分でもなかなかに満足のできる課題の仕上がり具合だった。
俺は「ふう」と一息入れ、背伸びをする。
「終わったの?」
隣の美少女、ハルカは俺に尋ねてきた。
「おう、なかなかの力作だ」
俺は満足気な表情で応える。しかし、まさか朝からこれだけ集中力を使う作業をしなければならないとは思っていなかったためか、予想以上に俺の体には疲労感があった。まあ、自業自得と言えばそれまでなのだけれど、やはり人というのは予期せぬ事態の対処にはかなりの体力と集中力を削がれてしまうようだと俺は改めて実感する。
「そこまで言うなら見せてよ」
背後のネルが『面白そう』を絵に書いたような純粋で真っ直ぐな表情で顔を近付け、手を伸ばしてくる。
「いいぜ」
俺にはなんら断る理由はない、実際自称ではあるができはいいはずだ、見せて恥ずかしい物でもない。俺は机の上に置かれた出来立てほやほやのレポートを伸ばされたネルの手に乗せる。
ネルは手を引き戻し、俺のレポートを眼前に掲げ食い入るように読む。ネルの目が左右の往復を何十回も済ませるとレポートを机の上に置いた。その眼は大きく見開き俺に視線を合わせてくる。
「すごい、キョウって意外と賢いんだね」
ネルの素直な意見。恐らくこの純粋無垢な少年には欠片も悪気は無いのだろう、俺はそう信じたい。しかし、例えそうだったとして、こいつの発言は失礼にも程がある。
俺はネルの後頭部を平手で軽く叩く。ネルは「いたっ」と小さく悲鳴を上げるが俺はなんら同情しない。
「お前、俺を馬鹿にし過ぎだ。俺はこれでもそれなりに偏差値も知能指数も高い」
俺は少しばかり自慢げに言う。
「私にも見せて」
ハルカまで俺の頭のできを疑うとはちょっとだけショックだ。俺は不服そうに小さく「どうぞ」と許可すると、ネルがハルカに俺のレポートを手渡す。
ハルカは俺のレポートを読みながら小さく何度も頷きながら、僅か三十秒ほどで読み終え、感想を述べる。
「これ、賢いなんてレベルじゃないよ。中には教材にも載ってないデータを参照しているし、ここまで詳しく的確にまとまったレポート、私見たこと無い。こんな情報何処から探して来たの?」
彼女の驚きはネルのように俺を半分小馬鹿にしたものではなく、純粋な敬意の念が含まれたものだから嬉かった。しかし、そこまでベタ誉めされるとさすがに照れる。
「このレポートってそんなにすごいの?」
背後のネルが少々不思議そうに尋ねると、ハルカは首を縦に小さく上下させて首肯する。実際、俺はレポートに教材には記載されていないかなり専門的な知識を盛り込んだ。
この二人は普段の会話や勉強に取り組む姿勢から判断して、間違いなく秀才である。秀才二人だからこそ俺のレポートの内容も理解できたのだろう。
もし、俺が知識もさほど持ち合わせていない状態でこのレポートを読んだら、まず山のように出てくる専門用語の意味を調べるのが面倒で最初の三、四行で読むことを諦める。
「でも、このレポートさっき書いたんだよね?、なんでここまで専門的な知識を持っているの?」
ネルはもっともな疑問を俺にぶつけてくる。もちろんレポートに使われている知識は調べて参照したものではない、何よりそんな時間はなかった。つまり、レポートに使われている知識も専門用語も、元から俺に備わっていたことになる。
「まぁ、現代社会情勢には個人的に興味があったから、昔から独学で勉強していたんだ」
俺の応えに二人は感心したように「おーーー」と声をハモらせる。
「ガラガラ」
俺達がレポートで盛り上がっていると、先生が来たのか教卓真横の扉が開いた。ヒールが床を一定のリズムで叩き、音を立てながら担当の紅先生は教室に入ってくる。
今日も先生は実に麗しいお姿だった。今日の紅先生の服装は黒のパンツにノースリーブのピンクのシャツ、それに長い肩近くまである白い手袋をはめている。実に個性的な服装ではあるが似合っているから文句はない。
「はい、それではまず、前回の授業で出した課題を提出してもらいます。後ろから前に回してください。」
少し高めの女性らしい声で紅先生は生徒に課題の提出を促す。全員指示通りにレポートを後ろから前に手渡しし、最終的にレポートの薄い束となって課題は教卓の上に積まれた。
一限、二限の授業は順調に終わり学校で唯一心休まる昼休みに突入すると、俺はネルと共に購買部へと向かう、普段ネルは昼食を持参してくるのだが今日は気分的に購買で買い食いしたい気分だったらしい、俺には良く分からん。
俺は適当に前回食べた物とは違うものを手早く選ぶが、ネルはどれを買うかなかなか決まらない様子だ。
「早くしろ、上でハルカが待ってるんだぞ」
俺はネルを急かす。ネルは「うー」と小さく唸り声を上げながらこちらを上目遣いで見つめてくる。ネルは確かに整った顔立ちをしているし、幼さも残った童顔だから恐らく年上のお姉様方はこれでころっと許してしまうだろうけど、俺は男であり、かわいい男の甘える顔を見ても吐き気しか湧いてこない。
「遅いから先戻っとくぞ」
俺は一言そう告げるとすたすたと教室へ向けて歩み出す。
俺が二階に続く螺旋階段の中腹まで来たとき、手すりに体をもたれさせてきざ気障ったらしく佇む男子生徒が目に止まった。俺はなんだこのナルシストはと一瞥し、真ん前を通り過ぎようとした時、男子生徒は俺に話し掛けてきた。
「君が雪白恭介君かい?」
爽やかなスマイルで、整った顔をした美形の男子生徒は尋ねてくる。
「そうですけど何か?」
一応先輩である可能性も踏まえ俺は丁寧語で応対する。
「そうか、じゃあ目障りだから死ね」
男子生徒はそう言うと俺の脇腹目掛けて脚を振り抜く、俺は咄嗟のことで判断が遅れるのに加え、双方の手には先程購買で購入した昼食の弁当と飲み物をそれぞれ持っているため防御に身構える動作が遅れた。
男子生徒の蹴りは俺の脇腹の特に痛い急所を的確に捉え、抉り込むような衝撃が到達、僅かに遅れて痛みが走る。俺はそのまま体勢を崩してしまい、階段を転げ落ちた。
本気で痛い、と言うより俺は何故校内で見ず知らずの男子生徒に蹴られねばならんのだろうか。
俺は落下により全身打撲して軋むように痛みの走る体を持ち上げて立ち上がる。
一応、俺はハルカの護衛役を任されている。しかし、現在俺は昼食の購入のために彼女の傍を離れてしまっている。自分で頼みを引き受けた以上役目を果たすのは道理というものだ。だから俺はこんな厄介ごとに構っている時間は惜しかった。だが、理由もなくただ蹴られるのは腹の虫が治まらない。
「いきなり、初対面の人間に随分なご挨拶ですね」
俺は男子生徒を睨み付け、言葉を吐き捨てた。
「そうだね、自己紹介が遅れた。僕の名前はルビー・ジョー、先日亡くなった元十賢帝の一人イビル・ジョーの息子だ」
十賢帝の親類か、ハルカ以外にそんな家系の人間がこの学校にもう一人居たことには驚いたがそれと、俺が蹴られる関連性はないはず。
「そのお偉さんの息子がどうして俺にこんなことをするんですか?」
俺は素直な疑問を口にした。
「答えは簡単だ。君みたいな人間が藤堂氏の御息女の警護役を勤めているらしいね。僕に刃そのことが気に入らない。だから僕は君がいかに無能か知らしめて、代わりに僕が彼女の警護役になろうと思ってね」
なるほど、要するにこのルビー・ジョーは俺をボコボコにしてハルカの護衛を引き受けることで藤堂元老とお近付きになりたいのだろう。
確か、イビル・ジョーはマクベに公開処刑された失態の責任として所持していた株式を後任のマクシミリアム・シュヴァインに譲渡させられたという記事を見たことがある。
全くもって、この男の考え方は気に入らない。強い者には媚びへつらい、弱い者には自身の力を見せびらかすように圧力を与える。厳しい社会という環境下で這い上がるためには、そうすることも必要だということは解る。しかし、俺はその方法に対して少なくとも良い印象は受けてはない。
何より、彼女はそのように自身を見て貰えないことに思い悩み、苦しんでいた。その気持ちを無視し、自身の欲望を満たすことしか考えていないことには、例えそれが人間の本質だと解っていても俺は憤りを感じずにはいられない。
「………下種が」
俺は小さく怒りの感情を呟く。
俺の罵声はルビー・ジョーまで聞こえたらしく分かりやすいぐらい奴は眼を鋭く傾け、俺を見下ろした。
「言うじゃないか、君のような無能なくず屑が」
奴は俺に一言告げると階段を翔け、今度は俺の左こめかみに回し蹴りを放つ。
俺は既に両手の荷物を階段脇に投げ捨てていた。空いた左腕でルビー・ジョーの体の回転により生まれる遠心力を利用し襲来する右足の一撃を左手で掴み防ぐ。
俺は奴の足首を握る力を強めて、左腕をそのまま振り落とす。
ルビー・ジョーは後頭部から床に叩き着けられ僅かな唸り声を上げる。俺はそのまま右足を振り上げ、踵から足を重力に任せて振り落とす。俺の踵はルビー・ジョーの股間にめり込んだ、これはまた尋常ではないほどの痛みに苛まれていることだろうと想像する。その痛みを想像しただけでぞっとするね。
俺はこのくらいで勘弁してやるかと足を放し、階段脇に転がる荷物を再び手に取り階段を昇ろうと足を上げる。
しかし、ルビー・ジョーは俺の背後から後頭部を殴打する。その衝撃で俺の視界は揺れ、足元がふらつき、俺は咄嗟に左腕で手すりを掴み、辛うじて体を支えた。
俺は背後を振り返る。ルビー・ジョーは不敵な笑みを浮かべ瞳には怒りが宿っていた。
そして、陽炎に包まれるようにルビー・ジョーの体は段々透明に透けて行く。パイオニアの能力、まさか校内で生徒相手の喧嘩如きで使う人間が居るとは思っても見なかった。
俺の視界からルビー・ジョーの姿が完全に見えなくなり、ロストしたと同時に俺の右こめかみに衝撃が走り、俺の手すりを握る握力が抜け、俺の体は左に傾ぐ。間髪入れずに今度は顎左側に拳を振り抜かれる感覚、見えない相手に良いように殴られるのは随分と気に障る。
次から次に奴の拳は俺の頭も胴も無差別に襲い掛かってくる。浴びせられる衝撃に伴い俺の体は振り子のようにブンブンと左右を往来する。
聞いたことがある、同学年にお偉いさんの息子で光を操るパイオニアが居ると言う噂が流れていた。この学校に地位ある人間の身内は多数居るだろうから、ルビー・ジョーが自身の名前と家系を名乗った時には気付かなかった。
光を操る能力ならば、今眼前で姿を消したトリックは容易に予想できる。ルビー・ジョーは自身を照らす光を全て屈折、もしくは反射、遮断することで肉眼では視認不可能の状況を作り出している。
タネが分かれば対処は簡潔だ。今奴は俺を乱打している。それはつまりルビー・ジョー自身も俺の拳が届く範囲内に居ると言うことを示す。そして、駆け抜ける衝撃に角度方向から奴が今、どのような体勢でどのような攻撃を仕掛けてきているかも感覚器と脳を全開に研ぎ澄ませば予想できるし、対処することもできる。
しかし、俺は気付くまでに時間を掛け過ぎた。既に俺の頭と肉体はダメージによりそれ程の繊細な処理を行うだけの余裕はない。
自らのパイオニアとしての能力を使わない限り、この理不尽な状況を打破することはできない。
ごめんだね………こんな所で俺は自らを誰かに曝け出すような、自分についての何かを、誰かに知られるようなことだけは絶対に容認できない。俺は誰にも俺自身のことを知られたくない。例え、そのせいでボコボコにされようと命に別状がないのなら、俺は痛みを我慢する。
「キョウ、どうしたの?」
不意に前方から誰かの声が俺の鼓膜を震わせた。
声の主は先程購買部で何を買おうか、悩んでいた友人、幼い子供のような顔立ちをした友人、いつも気に障る毒ばかり吐く友人だった。ネルソン・トラファルガーは所々痣を作り、血を噴出している俺の姿を見て激昂していた。
「おや、お友達が来るとは予想外だね。君もこうなりたくないなら見て見ぬ振りをしてさっさと教室に戻りたまえ」
ルビー・ジョーは姿を包み隠していた光の衣を脱ぎ、再び姿を現した。
「お前がやったのか?」
静かに猛りを抑えながらネルは目の前で友人に凄惨な仕打ちを行うルビー・ジョーに尋ねた。
「そうだよ、僕がやった。何か文句でもあるかな?」
ルビー・ジョーはネルに当然だと言わんばかりに憤然とした態度で応えた。まるで自分の行いが正義であり、なんらとが咎められる理由がないと言いたげな堂々とした口調で。
「何で、キョウにそんなことをしている?」
「単純だ、ただ単に目障りだからだよ。こいつの存在は僕にとっては邪魔なんだ、だから粛清しているんだ」
ルビー・ジョーの回答を聞き、ネルは普段の愛らしい笑顔に満ちた顔からは想像もできないほど怒り狂った瞳でルビー・ジョーを睨む。
よせ、俺なんかをわざわざ庇うな。俺はお前に心を少しも心を開いていないんだ、お前を欠片も信じていないんだ、お前のことを信じることができないんだ。
だから、お願いだ、ここは素通りしてくれ。
「そうか、ここで今すぐキョウに謝って二度と僕らに近付かないなら、君に酷いことはしない。だからやめてくれないか?」
俺の願いは届くことなくネルは俺を庇い続ける。
「それは無理な相談だな」
ルビー・ジョーは嫌味な微笑みを浮かべ、ネルを挑発する。この挑発がネルの沸点を越えさせてしまったようだった。ネルは両掌を叩き合わせ、パンと乾いた音鳴らした。
その瞬間、ルビー・ジョーの表情が変化した。両目の焦点も定まらず、口もぽっかりと開け放たれ僅かに口の端から汚いよだれ涎が垂れる。そんな状態でもルビー・ジョーは何も考えていないようにぼうっとただ立っていた。
これがネルの能力、対象者と会話した時間の分だけ対象者の知能指数を極端に低下させる。噛み砕いて言うならば話した時間だけ相手をど阿呆にする能力。知能指数が極端に低下させることで相手は思考することが不可能な状態に陥り、状況に対処するために考えることも、それに応じて能力を発動させることもできなくする、ある意味最強に近い能力。
ネルはルビー・ジョーの眼前まで駆け寄り、握り込んだ右拳を顎に叩き込んだ。その衝撃でルビー・ジョーは倒れ込むがそれでも間抜けな表情のままなんら反応しない。
ネルはルビー・ジョーにのしかかりマウントポジションを取るとひたすら顔に硬く握った拳を豪雨のように浴びせる、僅か十五秒ほどのできごと。
ネルが腰を上げ、立ち上がった時、既にルビー・ジョーの意識は完全に飛んで、気絶していた。顔中が晴れ上がり、前歯の何本かが折れている。あれではせっかくの甘いマスクも台無しだろう。
俺は助けてくれた友人に視線を移す。彼の表情は普段同様穏やかなものに戻っていた。ネルはゆっくりと俺のもとに歩み寄ると右手を差し出してくれる。見ればその右手の甲には出血が見受けられた。
こいつは俺のために怒り、俺のために殴り、俺のために血を流してくれた。彼の優しさは俺に大きな罪悪感を与える。まるで彼を騙し、嘲笑しているのではないかと俺は自身に自問する。しかし、その答えは返ってこない。
俺には何もない、俺を助けてくれたネルのような勇気も、優しさも、人間味も何もない。
「ありがとう」
俺は消え入るような小さな声でネルにお礼を言う。しかし、俺はネルと視線を合わせることができなかった。俺は俯いたままネルの手を取り、立ち上がった。
「保健室に寄ってから戻る。」
俺は嘘で塗り固められた薄っぺらな作り笑顔をネルに向け、彼を先に教室に戻るように促す。
ネルは心配そうな表情で俺の顔を覗き込んだが「わかった」と一言残し、教室に戻る。
俺は彼の背中を見つめていた、彼の暖かな小さな背中。それに視線を注ぐ俺の心の中では羨望と嫉妬の念が凝り固まり、坩堝で溶かし混ぜ合わせたように複雑な感情が蠢いていた。