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ダブルフェイス  作者: ジジ
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白と黒の交錯点

 ◆四月十六日午前二時◆


 夜風が室内に流れ込む、まだ春先の心地良い爽風。マクベは開け放たれる窓辺で窓の縁に膝を立てて腰掛けている。ただ星の殆ど見ることのできない都市の夜空を見上げて呟く。

「なぁ、メギド。世界はどうしてこうも不条理なのだろうな」

 誰もいない室内でマクベの声は虚しくこだまする。

「それが世界の仕組み、管理され、円滑に循環するように悲劇を振り撒く」

 メギドは淡々と応えた、何ら感情の篭らない声音で。

 人は慣れる、それはどんな事象に対しても当て嵌まることである。悲劇が続けばそれが当たり前になり、幸福が続けばそれは幸福と感じなくなる。

 だからこそ争いが起こり、悲しみが生まれることで幸福に慣れてしまうことは防がれている。その逆もまたしかり。

 そして、そのバランスが保たれることによって欲深い、人間と言う生物は満足を手にし、無限に膨れ上がる欲求を満たし、抑制することが出来ている。

「何故人間にそんなバランスを保つ必要がある、なくとも………いや感情で物事を把握するのは良くないな」

 マクベにはその理由が既に解かっていた。

 このバランスが崩れ、ただ幸福であり続ければ、人は壊れてしまうだろう。世界に存在する幸福の量は無限ではない、幸福の量に限りがある。ならばそれを求め、奪い合うのは必然となる。それにより争いが生まれ、憎しみが生まれ、悲しみが生まれることもまた必然。

 マクベは長い間疑問に思っていた。では幸福を受けられる者は何故それを手にできるのか、不幸を与えられる者と何が違うのか、その全ての要因を突き詰めればいたち鼬ごっこのように無限に続く。

 才能、考え方、主義主張、環境、努力、様々な要素が次から次に飛び出す。だがその真逆の意見もまた言えることだ。才能、考え方、主義主張、環境、努力、その全て、若しくはどれかを持つ者が幸せを必ず手にできるだろうか。

 否、それは断じて違う。努力する者が必ず報われるのならば誰もが努力するだろうし、才能や環境は努力で必ず克服できる訳ではない。才能を持つものは己が才能に苦しむときもある。恵まれた環境下に居るからこそ逆に苦しむ者もいる。

 広い世界を探せば生まれた時から既にそれらが備わっている人間も中にはいるだろう。そして当然その全てが備わっていない人間もいる。

 何一つ筋がとうっていない矛盾、それは考えても決して答えの導き出すことのできない定理。

 人はそれらの矛盾を簡単に解決するためにある言葉を用いる、それは『運』だ。

 では、この『運』と言う要素は何によって決まる、それは誰にも解らない。

 マクベにとってこれは大きな疑問の一つだった。人を不幸にするか、幸福にするかを確定する不可侵にして絶対的要素。

 マクベが抱き続けていたこの謎の答えを、真理を享受したのは破滅と終焉を司る神、メギドであった。

 メギドはマクベに全てを教えた。世界は神によって管理されている。それは誰を不幸にするかを、誰を幸福にするかをも含んで全てを管理している。

 そして神はそれらの全てをコントロールすることで人間を定期的に争わせ、悲劇を、悲しみを創出し世界のバランスを保っていることを。

「実にふざけている。今の私達は所詮、神の掌で踊る愚かな木偶人形でしかない」

 マクベは言葉を吐き捨て、苦々しい表情を浮かべる。

 姿も見せず、個を見ようともしないそのような存在に全てを決められ、定義され、枠に嵌められてしまう。その不条理にマクベは憤りを感じずにはいられなかった。

 そして、それを許す今の世界が彼にとっては許し難いものだった。

 だからこそ、彼は世界を破壊する。そして神を抹殺し、この世界を解き放つ。例えその結末がどんなものであっても、マクベはもう立ち止まらない、立ち止まってはいけない。

「天使は神と存在を同化させることでよりこの世界に大きく干渉できる。十賢帝の一人と契約したのもそのためだ」

 メギドは未だ淡々と説明する。

「だからこそ、世界の管理者は全て殺す、神であろうと人であろうと。籐堂元老は実質十賢帝を掌握している。奴さえ処断すればこの世の不条理を取り払うことができる」

 マクベは改めてメギドに誓う、初めてメギドと出会った、薄暗いいんうつ陰欝な空間の中でそうしたように。

「さあ、そろそろ藤堂元老とも決着を着けよう」

 マクベは歪な笑みを顔に浮かべる。何もかも全て破壊する、神も管理者も全て排除する、この世界を殺す、そんな破壊者の笑みを夜空に輝く三日月は僅かに照らす。朧気に薄っすらと、だが確実に彼の素顔に光を浴びせる。


 〇四月十六日午前一時〇


「そうか、紅は死んだか」

マクシミリアム・シュヴァインからの報告に籐堂元老は落胆する。

「封鎖されていた研究所も一時稼動した痕跡があった以上貴方がご息女に付けた護衛の少年がサンプル唯一の生き残りファーストであることは確実でしょう」

 淡々と状況報告を電話越し伝える内容に籐堂元老は苛立ちを隠せなかった。

「大した失態だな。役立たずの部下はあっさりと敗北し、懸念事項は増えるばかりだ」

 籐堂元老の声音は明らかに不機嫌だった。

「ですが、状況は芳しくありません。神の悲願である完全な管理システムを確立するためにはマクベに加えて、ご息女とファーストの存在は明らかに障害となります」

「そんなことは解かっている。貴様らパイオニアの無能さ加減は十分に理解した。後は私がまとめて処分する」

「ですが、ホテルの床の切断面を調べた結果、マクベの能力は貴方の予想でほぼ間違いないことが判明していまいす。あの力はいくら貴方でも一人では厳しい」

「ふん、能力の正体が解かっていれば対策などいくらでも取れる。君達役立たずいたところで足手まといだ。残りは私に任せてもらおう」

 籐堂元老はそれだけ吐き捨てると電話を切った。

「ふうー」

 不意に溜息が漏れ籐堂元老は書斎の上に置かれた写真を一瞥した。家族三人が笑顔を浮かべている昔の写真。それは十年以上も前に撮られた物だった。

「これが、過去の過ちを書き換えるための代償か………」

 その愚痴とも言える呟きは誰もいない室内に虚しくこだまするだけだった。


 ◇四月十六日午前十時過ぎ◇


 俺はベッドの上に寝転がりのうのうと惰眠を貪り続けていた。それも、そのはずである、昨日は大変だった。学校で俺は襲い来る紅元教諭を正当防衛の名の基に彼女を絶命させた。今思えばそれは実に非日常的なことであり、決して体験したくはない経験だろう。

 無論、俺の行動が例え自分の命が危うく絶たれる恐れがあった危機的状況であったからと言って正当化できるものでもないだろうし、誰かに認められることもないだろう。

 現に俺はあの後ハルカに連れられて病院で怪我の手当を受けている間すら公安企業の人間にたっぷりと三時間以上も調書を取られた。

 危うく、過剰防衛で過失殺人の罪に問われて、ブタ箱にぶち込まれるかもしれなかった。そのピンチの状況を救ってくれたのはハルカだった。

 彼女は俺自身以上に俺を庇い擁護してくれた。俺は彼女を受け入れることができなかったのにだ。その事実は再び俺に自責の念となって心を蝕んだ。しかし、今はなんとか落ち着きを保っている。

 俺はハルカのお陰で罪を免れた、だがそれは決して許された訳ではないと解っている。

 俺は自分の行為によって誰かを傷付け、誰かに悲しみを与えてしまった。俺は紅が今後得られたかもしれない幸福の全てを紡いだ。

 だからこそ俺は許されてはならない、償えるはずもない咎を負った、その事実を忘れてはならない。

 だが理性の面では解っているそんな当たり前のことに対して俺の感情は随分と冷徹なものだった。

 過去に人を殺めた経験、それは本来絶対に慣れてはいけないものかもしれない。しかし、俺は過去のあの時点で既に何十人という人の命を奪っていた。

 その時の動揺と今の動揺を比べれば、今俺が感じている感情の揺らぎは極めて小さなものだ。自分が本当に人であるかどうかも疑ってしまいたくなる。

 まあ、昨日それほどの大事があり、公安企業の現場検証なども行われることになり本日学校は臨時の休校となった。昨晩病院からの帰宅が夜中になった俺としては睡眠不足にならずに済むのは唯一の救いだろうか。

 俺は十二分に睡眠を取り、体の疲労感も抜けたと実感し、ベッドから体を起こす。八時間以上睡眠を取れば人間の体は充分に回復するように、俺の体から疲労はしっかりと払拭されていた。だが未だに傷は痛む。

 取り敢えず、俺は寝巻き姿のまま立ち上がり、昨晩開けたまま放置されていた窓を閉じ、サロンへと移動した。

 カップに珈琲を注ぎ、いつもよりも遅い朝のブレイクタイムで一息吐く。テレビを点けていつものようにニュースでも見ようかと思ったがスイッチを押す前に踏み止まる。恐らく今テレビを点ければ昨日の学校での事件をより視聴者が食いつくように生々しく編集された報道を否応なしに見ることになる。起床したばかりの俺にはあまり寝覚めの良いものではない。

 俺は今日一日をどのように過ごすか考えた。別段、今早急に済ませる必要のある用事はない。ゆっくりと過ごし頭を冷やしたい、そしてハルカやネルとの接し方をどうするのかも改めて考える必要があった。

 俺はハルカの気持ちを踏みにじった、彼女を酷く傷付けた。俺が己の歩を弁えず、近くに居すぎたために。

 俺は卑怯だな、自分は知らず知らずの内にハルカの傍に歩み寄っていたくせに、彼女のことは知ろうとしたくせに、彼女が俺に近付こうとすれば、俺を知ろうとすれば拒むなど、どこまで身勝手なのだろうか。

 俺は誰も何も求めてはいけない、それだけのことを俺は今までしてきた。俺は幸せになる資格などない。

 こんなことを頭の中で考え続けていると終わりの見えない自責の螺旋に飲み込まれそうになる。

 俺は自分の心を落ち着けるための気分転換に何処かに出掛けようと思い立ち、腰を上げた。

 寝巻きを脱ぎ、床に放置し、クローゼットから私服を取り出す。黒いドレスシャツを傷口に気を配りながら着て第二ボタンまでを丁寧に締め、薄いインディゴのデニムを穿く。靴箱から真新しいオフホワイトのスニーカーを足にフィットさせて地面を二、三度踏み締めて履き心地を確認した。

 悪くはない、俺はそう思うと携帯と財布をズボンのポケットに忍ばせ、部屋の傍らの壁に立てかけていた刀を両手に持ち家を出た。

 外はまだまだ肌寒さの残る気温で長袖が調度良かった、俺は今年の桜をまだ見ていないことを思い出した。しかし、四月も中旬に入っているのならば当然もう花びらは散ってしまっているだろう、花弁のない桜の木を見るのもまた一興かもしれないが今の気分には向いていない。 俺は何処に行くかも決めないままに取り敢えず歩き始めた。

 数分歩いて、俺は街中の雑踏を縫うように人と人の間をすり抜けて、いつの間にか昨日ハルカと共に寄った時計店が俺の視界に入った。

 ちょうど、その時、時計店の扉が開き誰かが店内から出て来た。ハルカだった。俺は予想外の状況に戸惑い、咄嗟にその場を立ち去ろうと反転したが、ハルカの声が先に届いた。

「キョウ、こんな所で何してるの?」

 俺は反転させたばかりの体を再び反転させて彼女に視線を合わせる。

「いや、暇だったから適当に外をぶらついていたらたまたま、ここを通りかかって」

 気まずさの余り逃げ出そうとしたことを隠すように俺は不自然な笑みを浮かべて彼女の問いに応え、逆に彼女に問い返す。

「そういう、ハルカこそこんな所で何してるんだ?」

「昨日、時計の修理に一緒に来たじゃない。それで修理が終わったから時計を取りに来たの」

 ハルカは両手を腰に当てて、理由を説明した。知っている、理由はわかっていた。

「ああ、そう言えば」

 俺は何食わぬ顔で応えた、ハルカは俺の顔をじっと覗き込み。そして、俺の手をいきなり掴んできた。

「キョウ、暇そうだね。お昼ごはん一緒に食べに行こう」

 彼女はそう言って強引に俺の手を引いて歩き出す。俺は戸惑いを更に強くする。彼女との接し方をこれからどうするか、その答えを未だに導き出せていない、それを考えるために外に出たと言うのに、答えを見出す前にハルカと出会ってしまうとは思いもしていなかった。まして面と向かって昼食を共にするなど今の俺には余りにも準備不足だった。

「ちょ、待って。ハルカ」

 俺は彼女に呼びかけるがどうやら俺の声は届いていないらしい、あるいは意図的に届かないようにハルカは耳に栓をしているのかもしれない。

 結局、俺はハルカにそのまま手を引かれ、抵抗する暇も与えて貰えず、近くのレストランに連れ込まれた。まさか、ハルカがこんな強引な手段を用いるとは予想外だった。

 二人掛けのテーブルに向かい合って座る、時間はまだ十一時前だったので余り混んでいるようすもなく、空席が目立つ。

「キョウは何食べるの?」

彼女はメニューに写真付きで紹介されている各料理に視線を流しながら俺に尋ねて来た。

「ええ、急に言われても。と言うか、俺起きてあんまり時間経ってないからあんまりお腹空いてないんだよな」

 俺は無理やり連れてこられたことに対しての精一杯の抵抗にそう応えた。しかし、彼女は駄々をこねる子供を叱るお母さんのように

「ご飯はちゃんと食べなきゃいけないよ。と言うか、学校が休みだからってあんまりだらけてちゃ駄目だよ」

 と彼女に叱られて、渋々何を食べようかとメニューを覗く。正直お腹は減っていないわけではなかった。俺は自分が注文する物を決めて、ハルカが決まっているかどうかを確認してウェイターを呼んだ。

 ウェイターは俺達の前で一礼し、二人の注文を聞き、確認をとると再び一礼し厨房の奥へと姿を消す。僅かに流れる沈黙に俺の気まずさは時間に比例してどんどん大きくなって行く、眼前の美少女はどうなのだろうかと俺はふと思い視線を彼女に注ぐ。

 ハルカはいつもとなんら変わらないにこやかな微笑みを浮かべている。まるで昨日のできごとなどなかったかのように、それは俺への気配りなのだろうか、それとも彼女の中ではもう気持ちの整理は付いているのだろうか、俺には分からない。

「キョウは昨日ちゃんと眠れた?」

 ハルカは突然沈黙を破ってそんなことを聞いてきた。俺はその質問の真意がいまひとつ解らない。

「ああ、普通にぐっすり眠れたよ。」

 俺は作り笑顔で彼女に応えた、彼女は俺の笑顔を見ると少しだけ顔を曇らせる。

「私は昨日久しぶりに熟睡できた。いつもは怖くてなかなか眠ることができないのに、昨日は安心して眠れた。キョウのおかげだよ、ありがとう」

 今までハルカはずっと命を狙われる恐怖があった、それが最も膨らみ上がるのは一人で夜眠る時だったのだろう。傍に誰もいない静かで真っ暗な室内は彼女に不安と恐怖しか与えてくれない。このまま目を閉じれば再び開くことがないかもしれない、その恐怖は例え厳重な警備の施された自宅でも拭い去ることはできない。

 昨日の事件は彼女に惨劇と言うショックを与えただけではなかった。無論、彼女に取り返しの付かない心の傷を刻み付けたことに変わりはない。

 しかし、彼女は昨日ようやく安心できた、ようやく恐怖から解放されたと言ってくれた。今まで怖くて眠れなかった夜が眠れるようになったと言ってくれた。

 やはり、ハルカはすごいと改めて思ってしまう。彼女の一言は俺を救ってくれる。

 いつしか俺の作り笑顔は彼女の言葉で柔らかく、自然なものに変わっていた。

「お待たせしました、ご注文のお料理をお持ちしました」

 声の主は両手に俺達が先程オーダーした料理を持ったウェイターだった。俺はその声で思考することを中断した。

 俺とハルカ、それぞれが料理を前にする、以前ネルと似たような状況を過ごした時は女の子とのランチが良いと心の中で散々文句をぶちまけていたが、いざ実現すると困ってしまう。

 俺のせいで重くなってしまった場の雰囲気も原因の一つかもしれないが、異性と二人きりで食事を摂るという経験は皆無だった。だから、俺は何を話せばいいか判らない。こんな時、気の利いた台詞を彼女に返すべきだろうが俺の口はまだ彼女の言葉に何ら返事することもできず、閉じられたままだった。

「頂きます」

 ハルカは俺が何か言葉を返す前に、両掌を合掌して呟き、ナイフとフォークを両手に持ち、丁寧に料理を口元に運んで行く。その仕草は気品に溢れて美しかった。

 食事中俺達はあまり言葉を交わすことはなく、それぞれが完食すると直ぐに店を出た。

「ハルカはこの後どうするんだ?」

「もう、用事も済んだし、帰るかな」

 ハルカは静かな声でそう応えた。

「迎えは?」

「もう、狙われることもないから今日は一人で出掛けたいって言って電車でここまで来たの。だから帰りも電車」

 彼女は俺の問いに微笑みながら応えた。

「送って行くよ」

 俺は静かに彼女にそれだけ告げる、ハルカは一度だけ頷き駅に向かって歩き始めた。俺も彼女の後ろに続いて歩き出す。


 〇四月十六日午前十時〇


 藤堂元老は考える、彼の役割を果たすタイミングと手段を、彼にとってこの任を遂行することは造作もないことだ。

 過去の失態と自身の棄てきれない人間としての感情の精算、彼はそれらを今日終わらせるつもりだった。

「人間とは実に不思議な存在だ。自ら捨て、自らの願いが叶おうとしていても悔恨の念を抱いてしまう。矛盾だな」

 藤堂元老の感情を読み取って声に出したの彼の共同体であり彼と契約を交わした神エリゴスだった。

「そうだな、私も所詮まだ人間だ。それらの感情を棄てきれていないのかもしれん」

 藤堂元老は嘆く、人は人である以上全てを手にすることはできない。人は存在できる時間が限られている、持ち得る能力も限られている、視野の領域も限られている。

 それが例え神と存在を共有する天使となり、頂上の力を手にしたとしても、彼自身は未だ人の領域を超えてはいないからだ。

 だからこそ、藤堂元老は嘆く。彼が神と契約するにあたって支払った代償に対して、これから自らの計画のために失わなければならない代償に対して。

 神の存在を知り、世界の真理を知った時、彼は人であることを棄てた。それは同時に彼にとってそれまで掛け替えのないものまで同時に棄てること意味していた。

 人に留まり管理され続けるか、人であることを棄て神に近付き、管理する側に昇華するかの無情な選択を前にした時、藤堂元老は迷わず後者を選んだ。

 何かに管理される、それは彼にとって酷くプライドを傷付けるものだった。その誇りこそ彼にとっては当時最も価値のあるものだった。

 ものの大切さは失って初めて理解できる。

 それは藤堂元老においても例外ではなかった。彼は最愛の人を失い初めて、その存在の大きさを理解する。しかし、それはもう取り戻せるものではない。彼はその時、人生で初めて後悔したのだ。そして、自分の未熟さに怒りを覚えた。下らないプライドのために味わった喪失感、それを彼の守り抜いた誇りで埋めることはできなかった。

 彼はこの時、心に誓う。更なる高みに昇り、神へと昇華することでこの心に残る喪失感を必ず埋めると。例え、そのプロセスにどれ程の残酷な試練が阻もうと全てを力で捩伏せる。そして、高みに辿り着いた時、頂上の力をも超える完璧な神の絶対的力をもって全てを取り戻すと。

 彼は心の中にこれから自分の行う行動に対して嫌悪感がないわけではない、再び自身にとって大切な存在を廃棄しなければならない行為が苦痛でないはずがない。

 しかし、藤堂元老は躊躇わない。全てを取り戻すために一度すべてを棄てる。それが彼の覚悟であり、誓いである。

「エリゴス、私の感情が乱れていることは認めよう。しかし、私は立ち止まる訳にはいかない。私は君達と同じ領域に至り、全てを取り戻す。それが私の選んだ道だ」

 藤堂元老は力強く、エリゴスに宣言する。

「その言葉を聞けて安心したよ。では行こうか、新たな代償を失いに」

 エリゴスがそう呟くと藤堂元老は無言のまま自室を出る。彼が見ている先にはもはや彼の抱く願いである、淡い理想郷しか映らない。それが雲を掴むような幻想であったとしても、実態のない夢想だとしても彼はその世界をただひたすら追い求める。


 ◇四月十六日正午◇


 俺とハルカは二人並んで深緑の座り心地の悪いシートに腰を据えていた。地下鉄の走る、僅かな騒音と振動は他に客のいないこの車両内で唯一俺達の触覚と聴覚を刺激する。ただいつも定められたレールに沿って業務的に、決められた時間通りに暗いトンネルをひたすら疾走していた。

 俺達が地下鉄に乗り込んで五分、ハルカの家に近い駅まで後三駅ほどだろうか。俺は未だに気まずさを引きずったままで、彼女に話し掛けることもできずにいた。

「一つだけ聞いてもいいかな?」

長かった沈黙を破ったのはハルカだった。俺は黙ったまま首を上下させて同意する。

「私はキョウの側にいたい。例え、キョウが私を受け入れることができなくても良いから、私はあなたの傍にいたい」

 俺の瞳を見つめて彼女は告げた、その言葉で俺の頭の中は再び混乱する。

 彼女を巻き込んでしまう恐怖、彼女を失ってしまうかもしれない恐怖、彼女に軽蔑されてしまう恐怖、その全てが溶け合って頭の中を蝕む。

 完全に断ち切ってしまおう。

 もはや俺は冷静さを失っていた。普段の俺からは考えられない感情的な行動を俺は断行しようとしている。それがどれだけリスクのあることか判断することさえ俺は忘れていた。

「俺はハルカの傍に居る資格はない。君は俺の傍に居れば死ぬかもしれない、深い傷を負うかもしれない、人に怨まれるかもしれない。俺は既に汚れ過ぎている。ハルカはまだ俺の全てを知らないからそんなことが言えるんだ」

 俺は怒鳴るように少しだけ語気を荒げていた。そしてそのままの勢いで次の言葉を捻り出そうと俺は息を吸ったその時。

 ――ボーン

 突然前方の扉が轟音を上げて爆発し吹っ飛び、焦げ臭い香りが車内に充満してくる。それと同時に車内の壁、床、天井の色がみるみる変わって行く。

 くすんだ白い壁面も、それに続く天井と床も全てが灰色一色に塗り潰される。気が付けば扉も窓もなくなり、車内は異質な空間に変化していた。座っていたシートも同様で、尻から伝わって来る感覚は先程までの柔軟で暖か味のあるシートのものから硬質で冷たいものになっていた。

 爆発で扉を吹き飛ばした穴もいつのまにか綺麗に塞がり、その空間は完全に密閉されている。

 俺は突然のできごとに驚きすぐさま立ち上がり、壁面に手を当てる。伝わってくる感覚は座っている時に伝わって来たものと同じ、堅く、冷たい、金属のような肌触り。

 今度は拳を握り、壁を二、三度軽くノックする。そこから伝わるのは衝撃を反響させることのない重圧、それはこの壁が相当分厚いことを物語っている。

 俺はハルカに視線を向ける。彼女もこの状況が何なのか理解できていないようで首を傾げて両手で壁を調べている。

 俺はそこから先程爆発のあった扉に視線を移す。すると、そこには誰もが知っている人物が佇んでいた。いつ現れたのか、何処から入って来たのかは分からない。黒いスーツ越しでも分かる、鍛え抜いた筋肉質の輪郭に、髭の剃られた皺の深い顔。そこに立っていたのは間違いなくハルカの父親であり、十賢帝の一人でもある藤堂元老その人だった。

「お父さん、こんな所で何してるの? それにこの状況は?」

 ハルカは俺の瞳の動きに釣られて、視線を藤堂元老に向けると目を見開いて、疑問を口にした。

 しかし、藤堂元老は何も応えない。ただ哀れむような瞳で唇を噛み、そして口元を閉じ、今度は歪な弧の形に変えた。流れるような動作で懐に右腕を入れ、何かを握る。

「お父さん?」

 ハルカは自分の父親の態度を不振に思う。質問には応えず、ただ黙り歪な微笑みをこちらに向ける父親が自分の父親ではないかのように思えた。

「愚かな娘よ。お前がそんな能力を得なければ、何も知らず、ただ平穏に過ごすこともできただろうに。再び母と蘇るその日まで死ぬがいい」

 ハルカをさと諭すように藤堂元老は静かな、そして無情な声で呟き、懐に入れていた右腕を引き抜いた。

 ――ドン

 密閉された空間に耳障りな轟音が反響する。壁、天井、床に音は何度もぶつかり反射し音と音とが混ざり合い、俺の耳には余韻を残し続けていた。

 俺の視線は藤堂元老の右腕に握られている物に釘付けになっている。そこにある物は自分の娘には本来決して向けることのない鉄の凶器、先端から薄い煙を上げるヘッケラーアンドコックが異質な存在感を放っていた。

 俺の視界は急いでハルカを捉えなおす。隣に佇む彼女の表情は現実を直視できない疑念に満ちたものだった。彼女の視線は自分の父親から徐々に自分の胸元に移動する。俺の視線も、彼女の視線の動きに合わせるように彼女の顔から胸元に流れた。

 そこにあるものは穴だった。彼女の左胸と肩の付け根の間辺りには直径一センチメートル程の風穴を穿っている。そこからは紅い彼女の血が流れ出し、徐々にハルカの服を染め上げていく。

 ハルカは自身の身に何が起きているのか理解できていなかった。ただ自分の傷口を見つめ何も考えることなく立ち尽くしている。

 ――ドン

 再び藤堂元老の手に握られる拳銃は唸りを上げた。俺は立ち尽くすハルカに覆いかぶさるように抱き抱え、そのまま重力に任せて床に倒れ込んだ。

 二発目の凶弾は俺達を貫通することなく、背後の壁に激突し、金属を叩くような音を発しながら二度兆弾する。俺は自分のシャツの袖を破り、ハルカに巻きつけ、きつく縛り、血を噴出する穴を塞いで止血を施した。

 そして、俺は藤堂元老から彼女を隠すように彼女の前に体を入れて立ち上がった。

「邪魔だ。どけ」

 藤堂元老は常務的に何の感情も込めることなくただ言葉を発する。俺は彼の警告を無視し、その場を動こうとはしない。

 俺はこの時初めて気付いた。自分の傍らで傷付いて座り込んでいるハルカを前にしてようやく解った。俺にとってハルカは既に大切な存在になっていることを、失いたくない掛け替えのない存在になっていることを。

 彼女を守る。例えそれによって彼女に軽蔑されようと、彼女に恨まれる結果を生もうと、大切なものを失うあの苦しみに比べれば幾分かましなものだ。彼女が生きてさえいればそれでいい。

 俺の心の中では既に覚悟が決まっていた。全てをさらけ出し、彼女に拒絶される覚悟が。

「なら、お前から先に消してやろう。早く仲間の元に行きたいのだろうファースト」

 藤堂元老は俺を挑発する。彼は俺の素性を既に知っていた。それは別段驚くことではなかった。藤堂元老が紅を使ってハルカの命を狙っていたのも、彼が天使であり、神と契約していることも、この状況を作り出しているのが彼の神の力であることも全て理解していた。

 その理由は至って簡単なものだ。俺は以前藤堂元老の能力を眼にしている。俺は以前紅と藤堂元老が共にいるところを目にしている。俺は自らも神と契約し、藤堂元老がテスタメンツだと既に知っている。俺は天使であり、神と存在を共有している。

 そう、雪白恭介とマクベは同一の存在。

 そう、俺は。いや私はマクベだ。

 俺は口元を歪に吊り上げ、家を出るときに両手に持ったそれぞれの刀の鍔を親指で弾く、右腕だけを鞘から放し、左腰の刀の柄を掴む。

 ――カチ

 音と同時に放たれる居合い。

 藤堂元老にはその笑みにも、その音にも、その動作にも、見覚えがあったのだろう。そしてその直後に抉られる肩の痛みにもだ。

「お前、まさか………」

 藤堂元老の表情は先程までの無感情なものから一転し、僅かに引き吊ったものに変わっていた。そこには驚きと焦りの念が明確に刻まれている。

「そうだ、私がマクベだ」

 俺は静かな声音で藤堂元老に現実を突きつける。

 そして、俺の言葉は同時に俺の傍らに座っているハルカをも驚愕させた。しかし、彼女は何も喋らない、ただ黙ったまま顔を伏せるだけだった。

「一つ尋ねよう、貴方がハルカを殺そうとする理由は何だ?」

 俺はただ、物静かに藤堂元老に尋ねた。

「神を殺せる力。春香の持つ能力は神の力すら及ばない、何故それ程の力がパイオニア如きに宿ったかは不明だが、テスタメンツの脅威になりえる存在は排除する。例えそれが娘であろうとな」

 藤堂元老は表情を元の無感情なものに戻しそう呟きながら、抉れた肩の傷を摩った。彼の手が離れたときそこにもう傷も服の裂け目もなくなっていた。

「では、私も一つ尋ねよう。何故君は十賢帝を殺す、何故君は神であるテスタメンツを狙う。我ら管理するものが居るからこそ世界は調和を保つことができる。君がしようとしていることは秩序を破壊し、世界を不幸にする行動ではないかね?」

「調和、秩序、確かにそれも世界には必要なものかもしれない。だが、そのために何者かに管理され、誰かがその犠牲として不条理な悲しみを、不幸を強いられることが正しいのか? 私のような絶望を神が、管理者が、世界が一方的に与えることが正しいのか? 私は認めない、そんな犠牲の上に成り立つ調和など。だから私はこのシステムを、管理する者達を消去し、運命という概念を破壊し、世界を解き放つ」

 俺は藤堂元老の問いに僅かに怒りの感情を含んだ口調で応えた。

「君もこの世界のシステムを理解しているならば、分かるだろう。人間は強欲だ、だからこそ誰かが悲しみを背負う必要がある。我らはそれをより効果的に、システムにより円滑に循環するように管理しているに過ぎない。人間は管理されることで始めて自由が得られる、君もそれが分からぬわけではあるまい」

 藤堂元老は俺を諭すように告げた。

 確かに彼の意見もまた真実であろう、人間はシステムに管理されて始めて自由を得ることができる。ルールのない世界ほど人間にとって不自由なものはない。

 矛盾、それは人間が人間である以上は克服することのできないものかもしれない。人は誰かに管理されねば自由に生きることはできない。しかし、その管理が存在するからこそ人は不条理、理不尽に抑えられる。それは誰にも、何にも払拭することはできない。

 しかし、俺にもそんなことは解っている。

「だから、人に差異を強制的に生み出し、争うように世界を操り、戦争を起こさせるのか。人間が幸福に慣れないように、限りある幸福と不幸を貴様達の意志で強制的に振り分けるのか。貴様らの都合のいい世界を保つために多くの人間を理不尽に苦しめるのか。十年前に意図的に戦争を起こし、国家を崩壊させたことも。子供を拉致して、非道な実験を行い、最終的に廃棄したとも。世界の秩序を維持するためだから納得しろと言うのか。ふざけるな。ならば私にはそんな秩序も調和も必要ない。人は愚かだ。しかし、人は考える。人は自分達の力で自分達に相応しいシステムを生み出せる。悲しみも、苦しみも因果があれば受け入れることはできる。私は世界から争いをなくせるなどと言う理想を口にする気はない。争いも苦しみも不幸も、人間には必要なことくらい解っている。だが、それを誰に強いるかを決め付け、高みからゲームに興じているように人を踊らせる貴様達の存在は認めない」

 双方の意見はどちらも正義とも悪とも言えるだろう、どちらが正義でどちらが悪かそれは人によって答えは変わる。

 この場で互いの論理をぶつけ合うことに何の意味もない。それは俺も藤堂元老も解っていることだった。

「ならば、言葉は意味を持たない。勝利し、生き残ったほうが正義。単純なことだな」

 藤堂元老がそう呟いた瞬間俺の体は既に動いていた。

 まだ抜いていない左の刀に手を添えたまま俺は藤堂元老の眼前に飛び込む。右手の刀を藤堂元老の脇腹目掛けて斜め下からから振り上げ、それに連動するように左手でもう一方の刀を抜き、刀の二連撃を放つ。

 俺はこの斬撃は阻まれることを予想していた。以前クリアボックスで藤堂元老を斬り付けた時、彼は二度目の攻撃を能力で刀の刀身を消去した。この攻撃は能力の断定のための伏線でしかない。

 刀の先が藤堂元老の体に触れるその瞬間を見逃すまいと俺は目を凝らす。当たるその瞬間に何が起きているのかを見極める。

 刀身が藤堂元老の体に触れた。しかし、何も起こらない。俺の二振りの刀はそのままの勢いで藤堂元老の胴体を裂き、斜めに穿った傷口からは鮮血が噴出した。俺は目の前の光景を疑った。

 天使。それは神と存在を共有する頂上の力を持つ者。それだけの力を所持する存在がこんな単調な攻撃をまともに受けるはずがないと俺は思っていた。

 傷口からは確かに血も出ている、中の臓物が僅かにはみ出し、臓器が傷付いていることも分かる、間違いなく致命傷だった。

 俺は未だに現状を信じられず、藤堂元老の顔に視線を移す。彼は笑っている。これだけの傷を負っているのに彼は余裕に満ち溢れている。

 俺は藤堂元老の先程の行動を思い出す。彼が自分の肩を摩った時のことだ。手が肩に触れた瞬間、肩の傷は綺麗になくなっていた。ならば………

 俺は振り上げた刀の勢いを利用して体を一回転させ、そのまま振り返った勢いに刀を乗せて藤堂元老の両手を刎ねる。彼の手は何の抵抗もなくあっさりと床に落ちた。床にぽたぽたとおびただしいほどの血を垂れ流し、血溜まりはみるみる大きくなって行く。

 俺は再び、藤堂元老の表情を確認する。痛みに歪む彼の悲痛の表情を確認するために傷口から徐々に視線は彼の体を駆け上がっていく。

 しかし、やはり彼は笑っている。まるで何事もないように余裕の笑みを浮かべている。

 俺には理解できない、何故それだけの余裕があるのか。俺自身自分の攻撃が通用するとは思っていなかった。だが、実際はこうして藤堂元老の体を裂き、両腕も切断し、辺りに血をぶちまけている。確実に藤堂元老は死へと、消滅へと近付いている。

 何故、笑っていられる。

 俺の頭の中にはその疑問だけがくるくる回り、ただ不安を煽る。まさか効いていないのか、それ程の傷も無意味なのか、俺の頭によぎる常識では考えられない推測。しかし悲しいことにその推測は正しかった。

 突然床に転がる藤堂元老の両腕は塵のように細かく分解して視認不可能なほどになっていく、そして、分解された両腕だった各粒子は藤堂元老の傷口に収束し、再び再結合し始める。脇腹の傷口も同様に傷の周りが粒子状に分解し再結合し傷口はおろか彼の服装その物も裂け目のない新品の状態に戻っていく。

 俺には何が起こったのか解らなかった、傷も服ももと通りになるなど在り得ない。俺の持ち得る常識では考えられない現象だった。

 俺は混乱し、どうすればいいのかもわからず唯ひたすら両手に握る刀で藤堂元老を斬り付け続ける。 俺の刀が藤堂元老に傷を穿つ度に分解、再構成が起こり、傷は直ぐに消える。実りのない作業の繰り返し、どれだけ深く、どれだけ鋭利に斬り付けてもその傷は瞬時に修復される。

 藤堂元老はただ笑い、余裕に満ちた表情で俺の徒労を眺めている。

「無駄だよ、私の力は原子の操作。私は触れることで原子によって形成されている万物を操る。いくら私を攻撃しようと何の意味もない」

 彼は俺の相手に飽きたように退屈そうな声音で呟いた。原子の操作、それはつまり気体、液体、固体その全てを自らの意志で自由自在に操れることを意味する。この車両の中が異質な物に変化したことも納得できる。

「私はパイオニアを経て天使になったわけではない。故に能力はこの原子操作ただ一つ。だがこの力は絶対的だ」

 藤堂元老は言葉を発しながら俺の左手に握られている刀の刀身を掴んだ。

「原子を操作できればこんな武器も玩具に等しい」

 彼がそう告げると、俺の刀は徐々に分解し始め粉塵を上げるように触れられた部分が消滅する。

 余りに強大で絶対的な力、俺は神と契約することで得られる天使の力の強大さを改めて思い知らされる。

 しかし、天使であることは俺も同じだ、破滅と終焉を司る神メギドの力。それは絶対的な消滅、触れたあらゆる力も物体も完全に消去する力。

 俺は不意に笑った。藤堂元老に教える必要がある。上には上が居ることを、自分の持つ力こそ絶対的な暴力であることを。

 俺は一旦藤堂元老と距離を取り、両手に握っている刀をその場に投げ捨てる。そして、歪な笑みを浮かべる。マクベが常に浮かべる、歪な笑みを。

 藤堂元老は原子を自在に操ることができる。つまり彼自身が傷付いても構造を操作して元に戻すことができる。ならば構造の基礎となっている原子自体を消去すれば再生することは不可能。

 常識で考えれば原子を消去することは本来絶対に不可能だ。しかし、俺にはそれらの絶対的法則を捩曲げる力がある。メギドの力はどんな物であろうと完全に消し去る。原子レベルで藤堂元老を消去することは容易に可能なはずだ。

 俺は考えをまとめると空いた両手に力を込める、頭の中で藤堂元老の消去ただそれだけをイメージして、消去する対象を確定する。

 そして、俺は右足に力を込め再び藤堂元老の懐に飛び込もうと堅い金属質の床を蹴る。俺は藤堂元老を視認すると左腕で彼の頭を鷲掴みするように掌を半開きにして突き出す。

 しかし、藤堂元老はその攻撃を僅かに首を捻ることでかわす。先程まで俺の攻撃を蚊に噛まれる程度にすら思っていなかった彼が初めて回避行動をとった。

 そして、藤堂元老はそのまま床の原子構造を変換し液状のものに変換し、沈み込んで行く。俺は突き出した手でそのまま彼を追撃するように腕を振り下ろすが藤堂元老が床の中に姿を消す方が僅かに早い。俺の左腕は床にぶつかり勢いをなくした。

 メギドの力の性質が知られている。それ以外に藤堂元老が俺の攻撃を避ける理由が考えられなかった。

 俺が彼の回避の理由を考察し、周りの警戒を緩めた隙を突くように突然床が形態を変化させて俺の両足を貫通した。

 突然の痛みに顔を歪めながら俺は足元を確認する、そこには床から伸びる二本の鋭利な棒が俺の両足を貫いている光景が映る。床の一部に触れ原子構造を操作した攻撃だった。

 俺は舌打ちし、消去する対象を敵の攻撃に切り替える。すると足に刺さっていた棒は跡形も残さず消滅し、足の傷口からは詮が抜かれたかのように血が流れ始める。

 まずい、足を奪われ、その上藤堂元老の能力は想像以上に応用の利くものだった。俺は自身の危機的状況に焦り、咄嗟に苦笑いを浮かべる。

 考えて見れば俺はマクベを演じている時は余裕を持って戦っているが、雪白恭介の時はいつも切迫する状況に陥る。二度にわたる紅の奇襲の際は能力を隠そうとするが故に死にかけ、ルビー・ジョーには散々殴られた。

 俺は自身の不甲斐なさに溜息を吐き、そして気持ちを引き締める。今死ぬ訳にはいかない、俺にはやらなければならないことがある。テスタメンツと管理者を排除、そして今後ろにいるハルカを守る。どちらも、俺の自己満足でしかない。

 世界の解放と大義名分を立ててはいるがそれは俺の正義を押し付ける行動に外ならない。ハルカを守るにしても彼女は俺がマクベであると知った以上俺を受け入れることなどできるはずもない。

 結局、俺が成そうとしていることは無意味なものなのかもしれない。だからと言って俺は自分の正義を曲げるつもりもない。俺と同じ理不尽から誰か一人でも救われるならばそれは俺にとっては無意味なものではなくなる。例え神や管理者に無意味と罵られようと、多くの人間に愚かと蔑まれようと俺自身に有意義なものなら無駄ではない。

 ならば、俺は今地べたに伏している暇はない。俺は自分にそう言い聞かせ力無く項垂れようとする足に無理矢理力を注ぎ込み、体を支える。

「藤堂元老、貴方はその力の代償に何を支払った?」

 俺は藤堂元老の位置を確認するために彼が食いつきそうな質問を投げ掛けた。天使ならば誰もが失う代償、それは神によって、人によって何を失うか異なる。ただ一つ言えることはその代償は決して軽くはない。ならば、この質問は否応なしに勘に触るはずだ。

「私は最も愛する者を捧げた。己の無意味な誇りを守るために」

 床の中から藤堂元老の応えが届く、しかし、俺は声の発信源を割り出そうとはしなかった、それ以上に俺の頭の中には彼の言葉が引っ掛かった。

 最も愛する者を捧げた、その言葉の意味を俺は一瞬疑う。

「まさか、ハルカの母親を代償にしたのか?」

 俺は肉親も友人も全て失った人間だ、故にその尊さと大切さは誰よりも理解しているつもりだ。だからこそ余計に俺はこの男の言葉が信じられない。

「そうだ、私は己の力のために最愛の妻を捧げた」

 藤堂元老の静かな声音で発せられた応えが俺の耳に届いた瞬間、俺の理性は消し飛んだ。

「鬼畜が」

 俺はそう叫ぶと自身の持つ力を全開で解放する。金属質の床に全力で電撃を流し込んだ。

 その瞬間、床の一部が変質した。金属製から絶縁体のゴムのような材質に構造を変化させ、電撃を防ぐ、その部分は明らかに他の床と異なり、遠目からでも初見で判別できる。

 俺は即座にその部分に手を翳し、次は存在消去の力を発動させる。攻撃対象は敵の能力、俺が床に着いた手に力を注いだ瞬間その部位だけ円柱の穴となり、その中には藤堂元老が居た。

 俺は左腕で藤堂元老の胸倉を掴み、穴から引き摺り出し、そして右腕で力一杯腹を殴る。無論右腕に攻撃対象を藤堂元老と設定したメギドの能力を注ぎ込まれた拳でだ。

 俺の拳は藤堂元老の腹部を貫通した。俺は拳を引き抜きもう一発殴ろうと再び振りかぶる。しかし、その前に彼は左手が掴んでいるシャツを分解し、俺の攻撃をかわして数歩後ろに下がった。

 無駄なことだ、既に藤堂元老の死は確定している。腹部の真ん中に穿っている拳大の穴からはおびただしい量の血液が流れ出ていた。その部位に存在していた構成物質は原子単位で既に消滅している。その傷が塞がることは在り得ない。

 藤堂元老は傷口を左手で押さえながら、俺を睨み付ける。その瞳には明確な怒りと憎悪の念が宿っている。それは、今まで彼の見せていた余裕の表情とは明らかに異なるものであり、形勢が逆転したことを意味していた。

 俺はその目を見てようやく感情の高ぶりを抑え、理性を取り戻した。

「見事だよ、まさかこの私が追い詰められるとは予想だにしなかった。君はやはり有能だな」

 藤堂元老は俺に向かってそれだけ告げると顔を伏せ、片膝を床に着いた。俺は彼の弱り切った姿を見て、それが決着の合図だと悟った。

「どうして、そこまでする。自分の愛する妻も娘も手にかけてまで貴方が望むものが私には理解できない」

 俺は力なく屈む藤堂元老に疑念をぶつけた。

「君はまだまだ青い、誰しもが失ったものを取り戻したいと望むものだ。それが決して戻って来ることのないものなら尚更求める。君にもあるだろう、失ってしまったことを後悔し、渇望するほどの喪失。

それが取り戻せる、天使となり、更なる高みに至れば我らは神となれる。人の領域を脱することができる。そうなれば全てを取り戻すこともたやすい。だから私は高みに辿り着くためにはどんな手段もどんなことでもする。そこで失っても後で取り戻せるならば迷う必要はあるまい」

 藤堂元老は俯いたまま自身の考えを語った。俺には彼の気持ちが少しだけ解かる。自分も似た経験をし、同じ苦しみに苛まれた。無論、彼のように取り戻したいという願望もないとは言えない。

 親父と兄の恐怖に歪む顔も、研究所の仲間達の悲鳴も、クロムの見せた最期の微笑みも、それらは俺の夢の中で何度も再生され、あの日をなかったことにしたいと数え切れないほど願った。あの時、今みたいに力があれば守ることができたのにと毎日のように悔やんだ。

 だが、それは所詮譫言でしかない。

 俺は藤堂元老に何も応えないまま、ゆっくりと歩み寄り、彼に終焉を与えるためにメギドの力を宿した右腕を振り上げた。

「悲しみを背負っているのは貴方だけじゃない」

 そう一言呟き、俺は右手の手刀を振り下ろす。処刑台に固定された死刑囚の首を刎ねるために真っ直ぐと落ちるギロチンのように垂直に首に向けて一直線にあらゆる存在を断ち切る刃が近付いて行く。

「ガキが知った風な口を利くな」

 不意に藤堂元老がそう吐き捨てた。

 そして、俺の足元の足場が突然融解したように液状化した。俺は液体になった床に右足を取られ体勢を崩しその場に倒れ込む。素早く右足に力を注ぎ纏わり付く液体金属を消去するが藤堂元老は床を変形させ左足を攻撃した。

 俺の左足に再び激痛が走る、見れば床から伸びた針が俺の左足の底から垂直に刺さりくるぶし踝から針の先端が突き出していた。体勢を崩し、倒れた勢いは俺の左足の肉を容赦なく引きちぎり、筋肉の組織が裂ける度に激痛と鮮血が吹き上げて来る。

 俺の体が床に着いたときには左足の側面は裂け、その裂け目から針は俺の足から外れた。既に左足は悲惨な状態に陥り、力を入れることも、ましてや立ち上がることもままならない。俺は咄嗟に眼前で立ち上がった藤堂元老に視線を合わせる。

 腹に風穴を開けられ、瀕死の状態だったはずの藤堂元老は俺を哀れむように見下ろしている。腹部を確認すると、そこには拳大の穴はなくなっていた。

 どうして………

 物体の完全消去の力は確実に藤堂元老を構成する礎となる原子を消去した。何故その再生不可能なはずの傷口が塞がっている。

 藤堂元老は困惑する、俺の表情を見て笑う。まるで普段俺がマクベとなった時に浮かべるような歪に口元を弧に緩める不適な微笑。

「確かに私を形作っていた原子は君に消去され、原子自体がなくなった。しかし、人を構成している原子は特別希少なものが含まれているわけではない。その辺の空気中に漂うものと周囲のものを適当に分解すれば十分にことは足りる。その原子を代わりに使えばなんら問題なく私は自己の再構成ができるのだよ」

 藤堂元老は冥土の土産に教えるように傷を塞いだタネを明かし、俺の首を掴み上げる。

 原子の操作による俺の体を分解しようとする力は完全消去の力で相殺することはできる。しかし、俺はメギドの力で破壊できる対象を複数設定するほど器用なことはできない。つまり、掴まれている手を破壊することも俺の首を締め上げる握力も消すことができなかった。

 俺は自分の未熟さを痛烈に感じた。今までで最も強く自分の考えの甘さを教えられた。狭い視野で相手のようすだけで勝利を誤認した。

 実に浅はかで愚かなことである。

 単純な力の強さは恐らく俺の方が強い。しかし、俺は自身の力も、天使としての力も満足に使いこなせていない。

 首から伝わる藤堂元老の力は的確に俺の頚動脈を締め上げ、体内に酸素を供給できなくする。徐々に朦朧としてくる意識。少しずつ視界がぼやけ、最早腕を上げて抵抗することもできない。

「君は個人にしては良くがんばったよ、テスタメンツと管理者が作り上げたシステムに抗い、それを破壊しようとした。君の持つその強い意志だけは評価しよう」

 藤堂元老の言葉もしっかりと聞き取ることが俺にはできない。もう、落ちる寸前だった。

 しかし、突然俺の口内から一気に酸素が体内に染み渡って来る。その急激な落差に頭がふらつく、血流の循環が未だ鈍っていて俺の頭では何が起きているのかが解らなかった。俺ははっきりしない視線を右往左往と迷走させてからようやく、先程まで俺の首を締め上げていた藤堂元老を視界に捉えることができた。

 藤堂元老の表情はただ驚愕していた。彼にとっては予想だにしていなかった事態に陥ったように、自身に起きていることが信じられないように、その双方の眼は大きく見開き、自身の腹部を見下ろしていた。

 俺も何が起きたのか理解できなかった。何故藤堂元老は何にそれ程驚愕しているのか、何故彼は俺の首から手を離したのか解らなかった。

 俺は藤堂元老の視界の先にある物を確認しようと、彼の視線を辿った。

 そこに広がる光景に俺自身も目を疑った。彼の腹部には背後から貫かれたように紅い塗りの細剣が突き出されている。可憐で適度に装飾の施された美しい細剣が刀身に血を滴らせ、赤をより一層濃い色に染め上げている。

「お父さんは間違ってる。そんなことしたって、喜ぶのは父さん達だけだよ。もう終わらせよ」

 藤堂元老の背後からは細い透き通るような声に悲しみの念を含ませた言葉が聞こえてくる。聞き慣れた、俺にとって掛け替えのない大切な人の声。声の主はきめ細かい白い肌を紅い鮮血で汚し、小刻みに震える手で細剣を握り締めて藤堂元老の体を貫いていた。

 俺を助けてくれたのはハルカだった。

 彼女は自分の父親を自分の剣で刺し、目元に雫を滴らせながら言葉を搾り出すように口にしていた。

「私はお父さんのしようとしていることを認められない、お父さん達がしていることも許せない」

 ハルカの震える声を聞き、藤堂元老は背後を振り返る。その表情にもう先程までの驚きの色は失せ、ただ慈愛に満ちた父親の顔がそこにはあった。

「そうか、私は娘にも否定されたのか………」

 どこか悲し気な声音で藤堂元老はハルカの顔を見つめる。彼の慈愛に満ちた父親としての表情は優しいものだった。それは今まで俺の見てきた藤堂元老のどの顔でもない本当の父親としての顔なのだろう。

「春香、強くなったな」

 藤堂元老は静かにそう呟き、ハルカはただ、涙を流したまま一度だけ小さく頷いて、その声に応える。

 俺はその二人のやりとりに入ることはできなかった。親子だからこそできる、見つめ合うだけで互いの意志を疎通させる言葉なき会話。藤堂元老が天使となり、変わってしまってから久しく交わしていなかった親子の会話。それは誰も踏み込むことの許されない神聖な領域だった。

「雪白君、私に止めを刺したまえ」

 十秒程の沈黙の会話を終えた後、藤堂元老はそう呟いた。そして彼は続ける。

「春香の能力で貫かれたこの傷はエリゴスの力を持ってしても直すことはできない。身勝手な我儘だが、私は娘に父親殺しなどさせたくない。だから君の手で私を葬って欲しい」

 藤堂元老の優しい声、俺は彼の心境が少しだけ解った気がした。

 藤堂元老はただ、己の過ちを修正したかっただけなのかもしれない。自らのちっぽけな誇りのために妻を失い、彼は自身の愚かさを嘆いた。

 彼はただ、家族と慈愛に満ちた世界を望んだだけだった。それが、決してどうにもならないことでも、どうにかしようと足掻き続けていた。それを娘に否定されることでようやく気付いた。もう過去には戻れないことを、過去を修復することを望まれていないことを。

 俺は彼の声に一度だけ首を上下させ首肯する。そして座席横に備え付けられている手すりを左手で掴み辛うじて立ち上がり藤堂元老の胸元に右手を翳し、祈った、この男の安らかな消滅を。

 完全消滅の力が発動すると、藤堂元老の体は瞬時に塵となり完全に消え去った。

 藤堂元老が消えるのと同時に異質の空間は元の地下鉄の車内に戻った。そこに残ったのは瞼を閉じ、片手に細剣を握るハルカと俺だけだ。

 ハルカは静かに声を殺して泣いている。俺は無言のまま彼女の顔を胸で覆った。俺の胸で彼女はずっとすすり泣いていた。涙で俺のシャツは湿り、俺は彼女の涙の温度を感じ取る。

 地下鉄の出す騒音は彼女の声を掻き消し、辺りに響かせるのは耳障りな騒音だけだった。だが俺には彼女の声がずっと聞こえていた。


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