薄汚い手
◇四月十五日午後八時半◇
エレベーターが停止すると俺は先に穴の縁に手を掛け懸垂するかの如く必死に暗い空洞から這い上る。
昇った後、穴の中のハルカに手を差し出し、彼女は俺の手を掴む。俺は彼女の手首を掴みなおし握る力を強め、思い切り引き上げた。
ハルカはそんなに重くなかった、やはり女の子だけあって体重には気を配っているのだろうと不意に失礼なことを考える。
彼女を引き上げた後、俺は空洞の蓋を閉め、再びもとの状態に戻し、刺さっている刀を抜いて鞘に納めた。
――カツカツカツカツ
不意に俺達の背後から足音が響いて来て、俺は後を慌ててを振り返る。こちらに向かって歩いて来るのは俺達の良く知っている人物だった。
「紅先生」
ハルカがその人物の名前を口にした。
「貴方達こんな時間まで何してるの?」
紅先生は少々驚いたようすで俺達に詰問してきた。
「いえ、ちょっと学校に忘れ物をしたんで取りに来たんです」
俺は適当にありそうな返答を口にした。ハルカも黙ってそれに頷いていた。
「そう、もう外も暗くなっているから気を付けて帰りなさい」
そう言って紅先生は微笑む、今まで見たこともない歪な微笑で、そして俺はその笑みを知っている、見たことがあった。
彼女は右手を俺に掲げる。手袋に覆われた右腕。紅先生の笑みはさらに歪みを帯びていた。
「そう、早く還りなさい。生まれる前の状態にね」
右手が蒼く輝き、一閃の閃光が走った。俺は咄嗟に身を翻しかわす、しかし俺の動作はまさかの事態に動揺したためか回避の動作に若干の遅れがあり、間に合わない。
考えてみれば、ハルカが最初に襲われたのは紅の自宅前、二度目の襲撃は彼女の授業の直後だった。本来疑うべきだったのかもしれないと今頃になって後悔する、だが既に手遅れだ。
閃光は俺の胸部に命中し、爆ぜるようにスパークした。
「キョウ」
ハルカは俺の名前を叫ぶ、彼女も今の状況に驚いているはずだ。まさか自分を狙っていた人物がこれほど身近に居るとは、マクベだと疑わしきあの黒装束が紅であったとは予想もしていないことだっただろう。
稲妻に貫かれた俺はそのまま力なく地面に伏せる。
◇
その光景を目の当たりにしたハルカは力なく膝を床について座り込んでしまう。守ることも、助けることも、何もしてあげることができなかった。
ハルカはただ絶望してしまう、目の前に伏している男の子をただ見つめて。
紅は雷撃で手袋が弾け裂けた部分から肌の露出する右腕を下ろし、今度は左腕をハルカに向けて掲げる。左腕の五指には見覚えのある、あの不気味に輝くメスが挟まれていた。紅はそのメスを、電磁力を応用したレールガンで射出する。ハルカは抵抗しようとしなかった。自身の責任でこんな現状を招いたしまった悔恨が彼女を苛む。
ハルカは思う、自分が詰問しなければ、自分と出会っていなければ、自分が藤堂でなければ、自分が生きていなければ、目の前の男の子は死ぬことはなかった。それ程彼女は思っていた、初めて出会った時、自分の身を挺して救い、優しい言葉を掛けてくれた目の前の男を。あの時生まれた小さな思いはいつしか膨れ上がっていた。彼女の眼前で殺されてしまった男のことを既に彼女は大切な存在だと思っていた。
もういい………
ハルカの中で渦巻く感情は諦めだった。全てがどうでも良くなったような投げやりな気持ち、目の前に迫っている自らの命の危機すら他人ごとのように思える。
もういい………
そう思ってハルカは瞼を閉じる。迫りくる恐怖も外界の光景も何もかも拒絶して真っ暗闇の自分の世界に浸り彼女はただ一言呟く。
「ごめんなさい………キョウ」
ただその一言がハルカの胸の内で反響し、頭の中を満たしていく。
しかし、数秒の時間を置いてもメスは彼女に刺さることはなかった。ハルカは薄く瞑っていた瞳をゆっくり見開き状況を確認しようとする。
「怪我はないか?」
紅のメスはハルカの眼前に射線を遮るように伸ばされた手に突き刺ささり、傷口からはおびただしい血が流れ出していた。その手の持ち主はは先程まで床に横たわっていた少年だった。彼女はその男の子を見て涙を目の縁に溜め込む。
彼女の心には強烈な安堵と歓喜の思いが押し寄せてきた、先程まで彼女の心を支配していた負の感情を全て払拭し、拭い去ってくれるように彼女の心は落ち着きと温もりを取り戻していく。
◇
「うん、キョウこそ、その傷大丈夫なの?」
ハルカの満面の笑顔、俺はその笑顔を見て安心し彼女の問いに応える。
「このくらい、問題ないよ。前に助けてもらってるからこれでおあいこな」
俺はできる限りの満面の笑みで彼女の目をみつめて彼女を安心させる。そして、彼女から紅に視線を移し、対照的な形相で睨み付けた。
俺が死なずに済んだ理由は至って単純なものだった。俺は以前屋上でハルカが紅に襲撃された際に彼女の能力は既に見ていたし、能力がどのようなものか理解もしていた、刀を弾かれたことでその能力にも干渉されていた。
つまり、俺は紅の能力を写し取るために必要な条件を既に満たしていた。同じ能力が備わっているならば紅の電撃を相殺処理するまではできなくても、その威力を極端に減退させることはあの僅かな時間でもなんとか可能だった。
紅は目の前に佇んでいる俺を見て驚きを隠せないといった表情だった。当然だろう、彼女からすれば俺が何故生きているのかは不思議でしょうがないだろう、数万ボルトの電撃を流し込まれた人間が生きているなど常識では考えられない、あくまでも彼女の備えている常識ではだが。
「勝敗は既に決まっているのでは? 不意を突いても貴方は俺を殺し損ねた。正体もバレた。貴方は終わったんですよ」
俺は紅を見下し、そう最後通告を下した。
「黙りなさい、何も知らない子供が何を言う」
「何も知らないのは貴方のほうだ」
俺はそう言葉を浴びせ、納めたばかりの愛用の刀を右手に握り、抜いた。殆どの照明が落とされた薄暗い校舎内で俺の抜き身の刃はその僅かな光を反射し怪しく笑うように不気味に光る。
俺は右足で床を蹴り、僅かに跳躍し落下の重力と腕の振り下ろす力をシンクロさせて斬り掛かる。紅はメスを左手に再装填し再び射出させ、先程より距離を詰めているためメスの勢いは速く、強力で二本が俺の肩を貫通し残りは振り降ろす俺の刀が弾き飛ばす。俺はメスで負傷してもお構いなしにそのまま刀を振り下ろす。
紅は咄嗟に電磁力の防壁を張り俺の斬線を弾こうとする、が俺は手持ち無沙汰になっている左腕を素早く伸ばし彼女の胸倉を掴み、直接電力を流し込もうとする。
例え彼女が電気を操作できるパイオニアであっても彼女の体自体は電気に耐性を持っているわけではない。遠距離からの放電ならば体に触れる直前で操作し消し去ることも可能だろう。
しかし、このゼロ距離ではそんな芸当は不可能だ。
紅は瞬時に次の行動を決断し、刀を左腕で受け、俺の左の手首を右腕で掴み、俺と同時に同量の電気を流し込む。それぞれの能力は互いの能力の干渉を受け合い相殺された。
電撃は防がれたものの、俺の刀は紅の左手首に接触、硬い硬質な物に触れる感触が刀越しに伝わってくる。しかし、俺は構うことなくそのまま刀に力を注いで振り抜いた。
――キーーーー
金属どうしが擦れ合うような不協和音を上げながら、紅の左手首から先は重厚な音を鳴らして地面に落ちた。俺はすぐさま後ろに跳んで後退し彼女の全体像を視認する。
紅の左手は確かに切断されている、しかし、露出している切断面からは血は出ていない。代わりにメタリックな金属製の様々な部品や配電線、ワイヤーが微かに見える。恐らくあれは義手だろう。
俺は紅の対処に素直に感心した。ほぼテェックメイトに等しい状況下で左手を捨てる判断を瞬時に下したことにしても、自らの負傷は取り替え可能な義手一つで済ませたことにしても、能力と能力をぶつけ合って相殺させたことにしても、そのどれも到底真似できない芸当だった。
眼前の女性は相当な経験と訓練を積んでいることは容易に察しが付いた。
俺は一瞬の間を置き冷静に考える。ただ猪のように突っ込めばこちらがやられるだろう。敵は左腕を失ったがこちらもメスによって左腕と肩がもう殆ど使い物にならない上に傷口からの出血も多い。長期戦をすれば不利なるのは明白であり、尚且つ自分が追い込むどころか逆に追い込まれてしまったことを反省する。
残念ながら、戦闘においては俺より紅の方が遥かに経験も技術も勝っている。ならば、俺は俺が勝っている点でこの状況を打破するしかない。一人一つの能力の原則にただ一人存在するイレギュラーとしての能力を駆使するしかない。
覚悟を決めて俺は再び懐に潜り込もうと左足の爪先に力を溜め、床を蹴って駆ける。
「今度は右手を頂きます」
そう言って俺は紅の右腕に向けて今度は下から上へと刀を振り上げる、ただしルビー・ジョーから写し取った能力で自らの姿を不可視にして。
先程と違い、紅は俺の行動に大きな動揺を見せた。彼女は複数の能力を持つ個人と戦った経験は当然ない、ならばその対処に困惑するのも必然であった。
「やはり何も知らないのは貴方の方でしたね」
俺の声がこだまするのと同時に、刀、腕、そして俺へと伝う腕を斬る感触。今度は柔らかいものだった。
鮮血を巻き上げながら紅の右腕は縦にくるくる回転しながら宙を浮遊する、そしてポトリと虚しい音を響かせながら床に転がった。
俺は彼女の返り血を浴びると同時に光の遮光を解き、姿を顕にする。俺の制服は自分と紅の血が混ざり合った染みを幾つも浮かべる。顔にも血飛沫で赤い小さな斑点を浮かび上がらせ、嗅覚を血の臭いが刺激した。
紅はここでようやく悲鳴にも似た呻き声を上げたが、その音を文字として表現することはできないような奇怪な声音だった。身震いしたくなる奇声を上げながら紅は足の力が抜けてしまったようにその場に伏した。
俺は視線を彼女からハルカに移す、ハルカは俺の行動か、紅の叫び声かどちらかわからないが恐怖したように僅かに肩を震わせていた。
俺の視線とハルカ視線がぶつかりあった時、彼女は無理に笑顔を繕う。無理もない、こんな凄惨な光景を彼女は見たことがないはずだ。それを俺に気丈に振る舞うように笑顔を向ける彼女の行為を俺はただ強いな、と思った。そして、同時にそんな状況を生み出したことに申し訳ないと思う。
俺は再び視線を横たわる紅に向け、ゆっくりと歩み寄る。俺が近付くに連れ彼女の表情はどんどん凍って行くように青ざめた。
実に憐れだと俺は思う。しかし、情けはかけない、目の前の敵を見逃せば何時また命を狙われるか分からない。ジャッジに突き出すと言う手段もあるがこれほどのパイオニアならば脱獄して再び俺達の前に現れることも十分に考えられる。ならば紡ぐしかあるまい。
例えそれが彼女の今後得られるであろう幸福も喜びも満足も、それらあらゆる可能性をも奪い去る行為であっても。
「やめろ」
紅は叫ぶが俺はその声を無視し、彼女の腹部を足で踏み付け、身動きを封じると右手に握っている刀を逆手に握り直す。先端が鋭く鋭利な鋼の刃を紅の胸元に翳す。刃は徐々に彼女が着ているピンク色の服の布地に近付き、俺はそこから一気に力を込めて胸部を抉り、刃を突き立てる。
「いやーーーー」
手に伝わる不快な感触と同時に彼女の悲鳴が響く、刀は彼女の皮膚を貫通し内部の臓器を裂き、何本もの血管を断つ。傷口からは血が噴き出し、俺に再びかかった。
悲鳴が紅の口から発せられ続けるが俺は聴覚を遮断したかのように無視する、じたばたともがく彼女が動きをやめると同時に彼女は息を引き取った。もうその口から呼吸することも、先程までの悲鳴が発せられることも二度とないだろう。もうその心臓が鼓動することも二度とないだろう。
紅の死亡を確認した俺は自分の刀を傷口からゆっくりと引き抜いた。刀を引き抜くのに大した力は要らない。ただ刃が引き上げられるに連れ紅い鮮血を纏った刃を見るのは決して気分の良いものではなかった。
俺は血塗られた刀の刃を制服の内ポケットに忍ばせてあるハンカチを取り出し、拭う。刀がもとのくろがね鉄が放つ闇色の輝きを取り戻すと俺はたった今人を殺めた凶器を鞘に戻した。
「大丈夫、じゃないよね………」
ハルカは俺の傍に歩み寄って来て俺の背中をそっとさす摩りながら、腕にハンカチで、肩に自分の制服を破った布片で止血をしてくれた。
「大丈夫だよ、人を殺すのは初めてじゃない」
俺は作り笑顔を取り繕い彼女に応える。
実際、俺の心にそれ程大きな動揺はない、皮肉な話だ。研究所から逃げ出し、大人達を次から次へとほうむ葬った時は、二、三日眠ることもできなかったし、何度も繰り返し嘔吐した。
慣れた、ただその一言で片付けてしまうのは簡単だが、実際はそんな単純に人はできていない。
しかし、皮肉にも現在の俺は慣れてしまっている。汚れた手に、汚れた体、そして汚れた心。なにもかも俺は汚れ切っている。実に俺という存在は醜いと改めて認識する。
「キョウは悪くないよ、もちろん正しいとも言えないかも知れないけど、キョウは私を守ってくれた。私のためにキョウは傷付いてくれた。だから、私はこれからはキョウを守る、支える」
なんとも、痛み入るほどハルカは嬉しいことを言ってくれる。こんな俺に、まだ優しさを注いでくれる。彼女は分かっているのだろうか、このたった一言が俺をどれだけ苦しみから守り、支え、そして苦しませているのか。
俺は彼女を求めるわけにはいかない、彼女の存在を望んではいけない、彼女に傍に居て欲しいと願ってはいけない。俺はもう何も失いたくない、大切な存在を作るわけにはいかない。俺には失くすことへの恐怖に打ち勝つだけの勇気がなかったのだ。
「ありがとう、その言葉だけで十分だよ」
俺は苦笑いを浮かべ彼女にそう告げる。言葉の半分には感謝の気持ちを込め、もう半分には拒絶の念を含ませた応え。
ハルカは俺の返事を聞き、俯いた。下を向く彼女の表情を俺は探らない、そして再び顔を上げた時ハルカは微笑んでいた。悲しさと寂しさの入り混じったような儚げな微笑、俺はハルカのその表情から眼を逸らすことしかできなかった。