爆発系最強令嬢に赤ちゃん扱いで溺愛されています――ただし彼女の愛情で俺は圧死寸前ですが。
「おい、見ろ。大剣が歩いているぞ」
「まさか。よく目を凝らせ。あれは大剣に手足が生えて蠢いているだけではないか?」
白亜の王宮に伸びる長廊。すれ違う近衛騎士たちの口から、隠そうともしない嘲笑が漏れ聞こえる。
いつものことだった。
彼らは上級貴族の血を引く栄えある子息であり、この国の"選ばれし精鋭"だ。
その傲慢な瞳からすれば、下級貴族の四男坊に生まれ、家を追われ、"憐れみ"のようにつなぎ止められた騎士爵にすぎない俺の存在は、さぞや美観を損ねる泥汚れに見えるのだろう。
俺の名前はバリオン・ラスター。
貧乏男爵家の四男坊として生まれたが、家を追い出されて、先の戦争で剣一本で活躍し、一代限りの"騎士爵"を賜った男だ。
数年前まで続いた隣国との凄惨な戦争――その最中、王都の堅牢なる城壁の奥に引き籠もり、一度として血の臭いを嗅ぐことのなかった彼らに対し、俺が抱く感情はひとつしかない。
国の中枢たる宮廷で、格下の騎士を嬲って暇を潰す時間があるのなら、今すぐ庭へ降りて剣の一振りでも研鑽せよ、だ。
そもそも、だ。
俺は今、大剣を背負っていない。王宮内に入る前に衛兵に預けてきたのだから、俺の姿すらまともに見ず、定型句で嘲笑っているだけの的外れな揶揄いだとわかる。
俺は、背が低い。いつも背負っている大剣は、俺の身長と同じサイズがある。
それゆえに、まるで「大剣を背負って歩く蟲のようだ」とか「死贄を運ぶ蟻のようだ」とか、散々な言われようだ。
そしてつけられた異名は【刃矛の虫】である。
聞いたことないわ、そんな異名! 異名ってもっとかっこいいもんだろ?
そもそも、俺の背が低いのは、不摂生のせいでも遺伝のせいでもない。
幼い頃からこの身体にまとわりついている、ある『呪い』のせいだ。
その『呪い』の本質は――他人が俺に向けるあらゆる意識が、魔力的な"重さ"になって、この肉体にのしかかってくるというもの。
それは純粋な"好意"や"関心"だけにとどまらない。
さっきのような"嘲笑"であれ"悪意"であれ、向けられたすべての意識が、目に見えない重圧となって俺を押しつぶそうとする。
けれど、あくまで魔力的な重さであって、物理的な重さじゃない。
だから、俺がどれだけ重さに押しつぶされそうになっても、踏みしめている床は軋み一つも挙げない。
――騎士爵を授かったときのことは、今でも忌々しく覚えている。
王宮の大広間で膝をつき、陛下から直々に叙任のお言葉を賜っている最中だ。
大広間を埋め尽くす大勢の貴族たちは、まるで少年兵であるかのような俺を見て、爵位に値するのかと"値踏み"していた。
あの時は本当に最悪だった。巨大な魔獣が十頭くらい、一斉にこの背中に乗っかってきたかのような重さ。
もしあの時感じた重さが、物理的な重さだったとしたら、俺の身体は一瞬で押しつぶされ、王宮の大広間の床ごと最下層まで踏み抜いていただろう。
あくまで、魔力的な重さで、俺自身が重さとして感じているだけに過ぎず、他人には理解しがたいものだ。
だから、この呪いのことは誰にも打ち明けたことがない。両親すら、幼い頃に伝えたが、幼さ故のたわ言だと、まともには取り合ってくれなかった。
だけど、だからといって、この肉体が味わう苦痛が紛れもない本物であることに変わりはなかった。
――と、そんな昔話に浸っている場合ではなかった。
重厚な黒檀の扉の前で立ち止まり、深く息を吸い込む。
コン、コン――。
「騎士バリオン・ラスター、お召しにより参上いたしました」
「入れ」
中から響いたのは、低く冷徹な声。 俺は扉を開け、静かに一歩を踏み出した。
そこは、この国の頂点に立つ国王陛下の執務室だ。机の向こうに鎮座するヴィクトール陛下が、鋭い視線で俺を射抜く。
――ズン!
地響きが轟くような感覚。
その瞬間、見えない鉛の塊が脳天から降ってきたかのような凄まじい重みが、一瞬で全身に走った。
……おいおい、マジかよ。さすがは一国の王だ。
俺を射貫くようなその視線は、それ自体が強烈な"注目"の重圧となって、容赦なく俺の肉体を圧迫してくる。
今のように鍛え上げた身体でなければ、間違いなくその場に這いつくばっていただろう。
俺が物心ついた頃から死に物狂いで肉体を鍛え続けてきたのは、この理不尽な『呪い』に対抗するためだ。
物理的な重さではないので、鎧は無意味だ。『呪い』に打ち勝つのは、己の筋肉しかない。鍛え上げた筋肉だけは、絶対に俺を裏切らない。
俺は押しつぶされそうな重圧を気合で受け流し、微塵もブレることなく、完璧な騎士の礼を取ってみせた。
そんな俺の様子をじっと見下ろしながら、ヴィクトール陛下は出し抜けに、あまりにも突飛な命令を告げた。
「バリオン・ラスター。公爵令嬢セレスティア・ラグランジュの婚約者として、直ちに公爵邸に出向することを命じる」
「――っ」
……は? 今、なんて言った?
一瞬、思考が完全に停止した。
あまりの衝撃に、危うく膝を突きそうになる。いや、これは重さのせいじゃない。純粋な驚愕だ。
ラグランジュ公爵令嬢の、婚約者?
俺のような、背が低くて身分も低い、一代限りの騎士爵が?
ラグランジュ公爵家といえば、王家をも凌ぐ権力者にして、この国の"最大戦力"だ。
公爵家令嬢の婚約者になるなんて、身分不相応どころの話じゃない。天と地、太陽とミジンコほどの差がある。
(絶対に裏がある。……間違いない。権力争いに巻き込まれるか? あるいは、あの"怒爆の姫"と異名を持つ、公爵家令嬢の押し付け先として、逆らえない俺が選ばれた?)
脳内で最悪のシナリオが幾重にも渦巻く。ここでただ怯えて引き下がるわけにはいかない。
俺は必死に声を整え、真っ直ぐにヴィクトール陛下を見据えた。
「――勅命とあらば、謹んで拝命いたします。……ですが陛下、不躾ながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「許そう、言ってみよ」
「私のような一代限りの騎士爵では、公爵令嬢のお相手としてはあまりにも身分が違いすぎます。それに、すでに家を出た身とはいえ、男爵家当主である父への事前の打診すらありません。貴族同士の縁組みともなれば、相応の手続きや順序があるはずです。それらすべてを強権で押し通してまで、なぜ、これほどまでに急がれるのですか?」
我ながら不敬一歩手前の物言いだが、疑問をぶつけずにはいられなかった。あまりにも道理が通らなすぎる。
ヴィクトール陛下は俺の必死の問いかけに対しても、一切表情を崩さなかった。その鋭い瞳の奥に、底の知れない光を灯すだけだ。
「詳しいことは、ラグランジュ公爵に聞くが良い。我は、お前には多大な期待を寄せている――ということだけ、覚えておけ」
「……っ、は」
これ以上の追及を許さない拒絶の空気。
俺はそれ以上、言葉を続けることができなかった。
「下がれ」
短い許可の言葉を受け、俺はもう一度深く一礼する。これ以上ここにいても、答えは得られないだろう。
王の視線の重みを感じながら、俺はゆっくりと後退り、執務室の扉へと手をかけた。
重い扉をそっと開き、外へと這い出るようにして足を一歩踏み出す。
――その、扉が完全に閉まりきる、わずかな隙間だった。
部屋の奥から、ヴィクトール陛下の、誰に聞かせるでもない低く冷徹な独り言が、かすかに俺の耳に届いた。
「さて――不壊の盾を如何様に貫く? 断陣の矛よ」
パタン、と静かに扉が閉まる。
ただ、背筋に冷たいものが走るような、不穏な響きだけが耳に残った。
それに……"不壊の盾"って、一体何のことだ? "断陣の矛"も聞いたことのない言葉だ。
訳の分からない絶対命令と、謎の言葉。
どうやら俺は今、とてつもなく巨大な渦に巻き込まれつつあるらしい。
俺はため息を一つ吐き、すべての答えが待つという公爵邸へ向かうため、足早に王宮を後にするしかなかった。
⋆⋅⋅⋅⊱∘ ━━━━ ※ ━━━━ ∘⊰⋅⋅⋅⋆
王宮を後にした俺は、そのまま差し向けられた公爵家の馬車に揺られていた。
ラグランジュ公爵家。
王家すら凌ぐという、この国の影の支配者にして、大陸中にその名を知られる"最強火力の最終兵器"だ。
(……一体、どんな魔窟なんだ?)
最悪のケースは幾重にもシミュレートした。
真っ先に思いついたのは、頑丈だと評判の俺の肉体を、"怒爆の姫"の魔法の的にでもするつもりなのだろうか、ということだ。
俺の婚約者となる令嬢は、感情の高ぶりがそのまま魔法の威力に直結するため、常に怒り狂い、対象を圧倒する人物だと聞いたことがある。
あるいは、ラグランジュ公爵家は大陸中にその名を知られているがゆえに、敵も多いと聞く。
暗殺者に常に命を狙われているため、眠ることさえ許されない護衛として、こき使われるのだろうか。
……いや、考えても何もわからない。
どのみち、俺は筋肉と剣一本だけを頼りにのし上がってきた身だ。失う物など何もない。
これは陛下からの勅命だ。従う以外に道はないのだから、どんな逆境だって耐えてみせる。
馬車がラグランジュ公爵邸の門をくぐり、玄関前に停車した瞬間――。
俺のそんな覚悟は、音を立てて崩れ去ることになった。
馬車の扉が開けられる。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
白銀の髪に、吸い込まれそうなサファイアの瞳。
信じられないほど美しく、気品に満ちた、俺より年上の令嬢。
セレスティア・ラグランジュ。
一瞬、そのあまりの美しさに息を呑みかけた。
だが次の瞬間、俺の『呪い』が本気で警鐘を鳴らし始めた。
彼女と視線が合った、その刹那。
ズズズズズズン……!!!
(ま、待て……っ!? なんだこの重さは!?)
視線。ただの視線である。
それだけで、国王陛下に見つめられた時と同等――いや、倍以上の『重さ』が俺の全身を襲った。
おいおいおいおい、嘘だろ!?
彼女が俺を見た瞬間、俺には、神話級のドラゴンに天高くから奇襲を受けて踏みつけられたような衝撃が走ったぞ!?
俺が脳内でパニックを起こしている間にも、彼女は俺を見るなり、サファイアの瞳をこれ以上ないほどに輝かせた。
「よく来てくれたわ、私の可愛い婚約者様!」
スカートを翻し、嬉しそうに駆け寄ってくるグラマラスな超絶美女。
絵画のように美しい光景だ。誰もが鼻の下を伸ばして見惚れる場面だろう。
だが、俺にとっては『ドラゴンの咆哮』にしか見えなかった。
彼女が近づいてくる一歩ごとに、俺の体にかかる重さが跳ね上がっていく。
そして、彼女の細く柔らかな両腕が、俺の体を優しく包み込んだ。
熱烈な、ハグ。
ドッゴォォォォォンッッ!!!(※心の中の効果音)
「ぐふっ……!?」
危うい。本当に危うい。
穴という穴から、体液や内臓のすべてを吐き出すかと思った。
断っておくが、彼女の腕力が強いわけじゃない。
腕は驚くほど細く、胸元は柔らかく、とてもいい匂いがする。
重いのは、彼女から発せられる、俺への尋常じゃない"好意"だ。
(重っ……! 重すぎる!!)
彼女とは会ったことはないはずだ。
彼女にしてみても、俺は突然に決められた婚約者で、出会って数秒の、喋ったこともない相手のはずだぞ?
彼女が俺に向ける"好意"の重さは、もし物理的な重さであったなら、ハグされた瞬間に間違いなく挽肉だ。
これまで鍛え上げてきた全身の筋肉と体幹をフル稼働させ、引きつりそうな顔を必死にポーカーフェイスで固定した。
直立不動。一ミリもブレずにハグを受け止める。
「あ、あの……セレスティア、様、でしょうか……?」
「ええ、そうよ。セレスと呼んで、バリオン」
顔が近い。
見つめ合っている間も、重さのメーターがギギギと右肩上がりに上昇していく。
「はぅ……なんて頼もしくて、可愛らしくて、素敵な方なのかしら……!」
彼女は頬を染めて、俺の方が背が低いので、すっぽり包み込むように抱え込み、うっとりと見つめている。
(今、少しでも力を抜いたら、俺は淑女に抱きつかれて押し倒された、情けない男になってしまう!)
なぜ彼女が俺に対して、これほど『クソ重い好意』を抱いているのか、全く理解できない。
「さあ、お父様とお母様も、あなたが来るのを待ちわびているの! 案内するから、来て!」
困惑する俺の手を、彼女は嬉しそうに握り締め(手が触れ合っているだけでも重い)、そのまま屋敷の中へと案内された。
――豪華絢爛な応接室。
そこで待ち構えていたのは、ラグランジュ公爵当主と、その奥様だった。
「よく来たね、バリオン。私がラグランジュ公爵だ」
「ようこそいらっしゃいました。セレスティアの母です。歓迎しますよ」
ズゥゥゥゥンッ!!!
(ぎゃあぁぁぁ! 親の好意まで追加されたぁぁぁ!!)
公爵夫妻の、バリオンを温かく歓迎する視線。そこには、全くの"値踏み"も"忌避"もない。
彼らからすれば、陛下から押しつけられた、公爵家には相応しくない下級貴族の婚約者であるはずだ。
なのに、なぜ歓迎する? やはり、この婚約は彼らにとっても都合が良いということなんだろう。
「は、拝謁、いたします……っ!」
声が低くなる。肺が圧迫されていて、声が出せただけでも自分を褒めたい。
だが、そんな俺の必死の様子を見て、公爵は深く深く頷いた。
「君のことは、かねてより注目していたんだ。先の戦争での活躍は、私も前線に立ち、見ていたからね」
なるほど。
もちろん、この国の"最終兵器"である公爵家の当主様だ。あの戦争でも、その火力で隣国を圧倒していたのは知っている。
だが、そのときの俺は、まだ爵位もない一兵卒として剣を振るっていたにすぎない。活躍といっても、な。
砦の一つを落とすのに、少しばかり貢献したにすぎない。ずいぶん堅い門だったが、我が筋力を持ってすれば、壊せないものなどない。
「わたくしも、お話はきいていましたわ。セレスの命を守っ――」
「あああ! お母様! その話はしちゃだめです! 黙っていてくださいと、お願いしたではありませんか!」
先ほどまでの令嬢としての振る舞いを忘れたかのように、幼い少女のように大きな声を上げて母に駆け寄るセレス。
気になることを言っていた気がするが、俺はそれどころではない。
過去最大級の重さに必死に耐えているからだ。
脂汗がひどい。まるで重しをかけて果汁を搾られている葡萄のような気分だ。
そんな俺のことなど全く見えていないかのように、公爵は愉快そうに話を続けた。
「気にしていると陛下から聞いたので言っておく。身分違いなどと気にする必要は一切ない。貴族の習わしに従い、形だけの婚約期間は設けるが、それが済めばすぐにでも婚姻の儀を行う。すでに君の父上――ラスター男爵にも話は通してあり、快諾を得ているよ」
「ええ。何も気にする必要はありません。あなたはただ、セレスティアと親睦を深めてくれれば、それで良いのですからね」
婚姻の儀。実家への根回し。すべて完了済み。
ど、どうなっている?
俺は本当に公爵令嬢と結婚するのか? まったく実感がわかない。なぜ急にそんなことになったんだ?
「お、おまちください。自分はまだ何も詳しい話を伺っていません。ましてや、ラグランジュ公爵家のことも、セレスティア様のことも、恥ずかしながらお名前を知っているというだけで」
「ああ、ラグランジュ公爵家の跡目として自信がないということかね? 最低限のことは学んでもらうつもりだが、家のことは補佐役を用意してあるので名目だけだ。気負う必要はない」
跡目?
え、俺がラグランジュ公爵家の次期当主? それは駄目だろう!
「バリオン、安心して! わたくしが支えますから。あなたは何も心配しなくてよろしいのです。ただ、わたくしの隣にいてくださるだけでいいわ」
セレスが俺の腕を抱き寄せてそう宣言してくれる。
その分だけ重さが増した。
もうさすがの俺も立っているのがやっとだ。これ以上、重さを増やさないでくれ!
「……跡目、ですか? 俺が、ラグランジュ公爵家の次期当主に?」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く震えていた。
冗談ではない。
大陸最強の軍事力を誇る名門の家督を、ついこの間まで一兵卒だった男が継ぐなど、正気の沙汰とは思えなかった。
俺には筋肉と剣一本しかないんだ。とてもじゃないが、務まるとは思えない。
だが、ラグランジュ公爵は、そんな俺の狼狽など織り込み済みとばかりに、不敵に、しかしどこか安堵したように深く頷いた。
「そうだ。我がラグランジュ公爵家が次期当主に求めているのは、小賢しい政治能力でも、きらびやかな家柄でもない。ましてや、火力ですらない。セレスがいれば、もう十分だからだ。必要なのはただ一つ――最終兵器にして、最大火力であるセレスの『鞘』となる存在なのだよ」
「鞘、ですか……?」
「その通りだ」
公爵は厳かに腕を組んだ。
「セレスの魔力は、彼女の感情と完全に同調している。これまで、家格の釣り合う多くの貴族の子息たちを婚約者候補として迎え入れようとした。だが、セレスにその気持ちがなければ、あるいは彼らに少しでも負の感情が芽生えてしまえば、セレスの魔力は過敏に反応、そして暴走し、候補者たちを文字通り爆散させるおそれがあった。だからこそ、これまでの婚約はすべて破棄せざるを得なかったのだ」
背筋に冷たいものが走った。
爆散。
今さらっと、とんでもない単語が聞こえたぞ。
つまり、俺の前にいたエリートたちは、彼女の『重すぎる愛』に耐えかねて逃げ出したのではない。
命の危機を感じて、撤退したのだ。
「バリオン。今のセレスをごらんになって?」
それまで上品に微笑んでいた公爵夫人が、嬉しそうに扇をパチンと閉じ、セレスを示す。
「こんなにも穏やかで、慎ましく、可愛らしいセレスを見るのは、母親のわたくしでも久しぶりですわ。あなたが隣にいるだけで、この子はこんなにも、女の子だったのだと……。もう疑いようもありません。あなたこそがセレスに相応しく、すべてを受け止められる唯一の男性なのです」
(穏やか!? 慎ましい!?)
俺は心の中で絶叫した。
確かに、彼女の表情は恋する乙女そのものだし、噂に聞くような怒り狂っている様子は微塵もない。
だから爆散はしないだろう。
圧死寸前であることは、彼らにはわからないだろうが。
「そうなの……! バリオン、あなたといると、わたくしは胸がときめき、自分が乙女であったことを嫌というほど思い知るの……っ!」
そう言って、セレスティアがさらに俺の腕を抱き寄せ、うっとりと胸に押し当ててくる。
その瞬間。
ズゥゥゥゥゥンッ!!!
重さメーターの針が、一気に限界を振り切った。
(ぐ、は……っ!?)
肺の中の空気が強制的に押し出される。
肺胞の一つ一つが悲鳴を上げ、全身の筋肉がちぎれんばかりに緊張する。
「バリオン。ここに至るまで、あまりに強引に進めてしまったことは謝罪しよう。しかし、君の意思を確認しておきたい。万が一、拒んだとしても、その意思を尊重する準備もしているので、陛下の勅命に逆らった反逆とは見なされない。だが、出来ることならば、受け入れてほしい」
「バリオン。あなたが受け入れてくれるならば、ラグランジュ公爵家のすべてで支えます。あなたは、セレスのことだけ見ていてほしい。それ以外には、何もしなくて良いわ」
「バリオン、お願い。わたくしの隣に、ずっといて……っ。あなた以外なんて、わたくし、絶対に認めないわ……!」
父親、母親、そしてセレスティア。
三人が間髪入れずに、たたみかけるように説得の言葉をぶつけてくる。
一歩、また一歩と夫妻が近づいてくる。
彼らの『過剰な買い被り』もまた、重さとなって俺の肩にのしかかってきた。
(ま、待て……ここで俺が『お断りします』なんて言ってみろ。もし、彼女の感情が『悲しみ』や『絶望』に転じたらどうなる? 少しでも負の感情が芽生えれば爆散する……!?)
セレスティアの瞳から涙がこぼれ、その瞬間にこの豪邸、いや王都ごと灰燼に帰すビジョンが脳裏をよぎった。
限界だった。
全身から噴き出す脂汗。
これ以上耐えれば、ポーカーフェイスを維持したまま、直立不動の姿勢で床に沈んでいくことになる。
肉体的にも、状況的にも、俺に逃げ道など最初から存在しなかったのだ。
「……っ、謹んで、お受け……いたします……っ」
重さに抗いながら、なんとかそれだけの言葉を絞り出す。
「おお! 受けてくれるか!」
「まあ! 嬉しいですわ、バリオン!」
「バリオン……っ! 大好きよ!」
セレスティアが歓喜の悲鳴を上げ、さらに強く俺に抱きついた。
ドゴォォォォン!!!
落雷のような衝撃が脳髄を揺らし、俺の視界が一瞬、真っ白に染まった。
物理的な重さがないはずなのに、世界が数センチ沈み込んだ気さえした。
ともかく何もわからないが、大歓迎されているらしい、ということだけはたしかのようだ。
この日から、公爵家での生活が始まった。
⋆⋅⋅⋅⊱∘ ━━━━ ※ ━━━━ ∘⊰⋅⋅⋅⋆
ラグランジュ公爵邸での新生活が始まった。
この生活を、一言で表現するなら――『溺愛』。
セレスティアは、まるで赤子の世話をするかのように、至れり尽くせりで、俺の世話を焼いた。
朝、ベッドで目を覚ますと、どれほど朝早くであっても、俺の顔をのぞき込む、セレスティアがいた。
「おはよう、バリオン」
「お、おはよう」
俺は騎士として鍛錬を積み、騎士爵を拝領するにまで至った身だ。
警護の任を果たすべく、人の気配を鋭く察知する訓練も当然のように重ねてきている。
しかし、セレスティアが枕元まで近づいてくる気配を察知できない。
まだまだ鍛錬が足らないらしい。
「さあ、着替えましょうね」
メイドを差し置いて、俺の着替えを甲斐甲斐しく準備するセレスティア。
それを遠巻きに見つめるメイドたちの、何もかも諦めきった達観の表情には、見ていて胸が締め付けられるものがあった。
「さあ、バリオン。バンザイしてちょうだい。服を着せてあげるわね」
言われるがままに、両の手を上げる。なんと情けない姿か。
騎士としての、いや、男としての矜持をどこに捨てた、と笑う者もいるだろう。
――だが、聞いてほしい。
初日こそ、俺は全力で抵抗したのだ。
朝の身支度は自分でできる。起こしに来てくれなくても、食堂で待っていてくれれば自分で行く。
――当然のことを、当然のように、訴えた。
しかし、セレスティアが涙目になり、「ダメなの……?」と呟いた、その瞬間。
部屋にいたメイドや執事たちが、一斉に床へ伏せ、両手で耳を塞ぎ、口を半開きにした。
――完璧な耐爆体勢だった。
日頃から訓練していなければ、あれほど機敏に的確には動けまい。
「あ、いや! やはり、お願いする。セレスの好意を無碍には出来ない!」
「うん! まかせてね。バリオンのことはすべてわたくしがお世話する、そう決めたのだから!」
満面の笑顔でそう答えるセレスティア。
その後ろでは、さっきまで伏せていたはずのメイドや執事たちが、何事もなかったかのように、元の直立の姿勢に戻っていた。
だが、執事の一人が、声に出さずに、「さすがでございます」と口を動かしながら、頭を深々と下げた。
――それから、彼女の提案を断ることはなく、すべて受け入れる覚悟を決めた。爆散したくない。
わかったこと。セレスティアは、俺を成人した男性とは認識していないのかもしれない。
溺愛のやりかたが、完全に、赤子に対する"ソレ"だ。
なすがままに服を着替えさせられたあとは、靴を履こうと屈もうとすれば、それを察した彼女は、躊躇いもなく床に膝をつく。
「靴紐も私が結んであげるわ。動かなくていいのよ、私の可愛い婚約者様」
「ああ、ありがとう」
しゃがみ込んで靴紐を結んでくれている、セレスティアの丸めた背中を見つめながら、思う。
(こんなのが、これから毎日、続くのか。俺、いつまで持つかなぁ)
――朝食のため、セレスティアに手を引かれて食堂へと向かった。
先に、ラグランジュ公爵と奥様は席に着いており、優雅に朝の紅茶を楽しんでいた。
「おはようございます」
「おはようございます、お父様、お母様」
俺とセレスティアが挨拶すると、ラグランジュ公爵は優しく微笑みながら、返事する。
「おはよう、セレス、バリオン。今日も仲良しだね」
奥様も優雅に口を拭ってから、眩しそうに目を細めて、俺とセレスティアを見つめる。
「おはよう。私たちの若い頃を見るようだわ」
(え、公爵様も、若い頃は靴紐を結んでもらっていたのだろうか……?)
そんなはずが無いと思いながらも、奥様のその言葉の真意はわからないまま、席に着いた。
ラグランジュ公爵家自慢の、広い食堂は、大貴族の権威を象徴するかのように、長いテーブルが置かれている。
だが、その長いテーブルの端に、ラグランジュ公爵と奥様が身を寄せ合うように並んで座っている。
そして、それに倣うように、セレスティアが俺の隣にぴったりと密着して座った。
――ツッコミどころが多過ぎ。まるでコントのようだ。
セレスティアはともかく、なんで公爵夫妻までぴったりくっついて座ってるんだ?
普通に、食事しにくいでしょうが! ほら、肘があたっちゃってるじゃないか!
貴族の食事は、大きな食器に少しずつしか盛り付けないんだから、たくさん並べなきゃいけないのに、並べる場所がない!
せっかく広いテーブルなんだから、広く使えばいいじゃないか! ギュウギュウじゃないか!
――けれど、俺は耐えた。口に出すことなく、耐えるしかない。数日も過ごせば、慣れたもんだ。
「さあ、いただきましょう」
奥様がメイドたちに合図を送る。
俺が心の中でため息をついていると、銀のトレイを持ったメイドたちが、音もなく料理を運んできた。
運ばれてきた料理を見て、俺は改めてこの家の財力と、貴族という存在の浮世離れっぷりを思い知らされる。
朝食だというのに、並べられた料理はどれもこれも、王都の一流レストランで出されるディナーのようだ。
「さあ、バリオン。冷めないうちに召し上がれ」
セレスティアが微笑みながら、俺の前に置かれた皿を指さした。
その皿には、黄金色に輝くオムレツが鎮座していた。
ただのオムレツではない。白トリュフがふんだんに混ぜ込まれ、その芳醇な香りが食欲をそそる。
隣には、キャビアが添えられたスモークサーモンと、熟成された生ハム、そして色鮮やかな旬のフルーツが美しく盛り付けられている。
別の皿には、焼きたてのクロワッサンとブリオッシュ。
自家製のイチジクジャムと、王室御用達だという最高級のバターが添えられている。
飲み物は、薔薇の香る最高級のアッサムティーと、搾りたてのオレンジジュース。
(これ一食で、我が貧乏男爵家の一週間分くらいの食費がかかってるんじゃないか?)
俺が料理の豪華さに圧倒されていると、セレスティアが行動を開始した。
セレスティアは、俺の前に置かれたナイフとフォークを手に取ると、躊躇なくオムレツを小さく切り始めたのだ。
「セレス、自分で……」
「ダメよ、バリオン。あなた、先日もそう言って自分で食べようとして、フォークを落としたじゃない。わたくしがしてあげるわ」
セレスティアは、俺の言葉を笑顔で遮った。
――ここまで、あえて考えないように努めてきたが、改めて、説明させてくれ。
俺には、――他人から俺に向けるあらゆる意識が、魔力的な"重さ"になって、この肉体にのしかかってくる――、という呪いがある。
自室としてあてられた部屋で、一人でいるときは、何の重さも感じない。
だが、朝になり、寝てる間にセレスティアが部屋に忍び込んでくると、とたんに"ズシン"と重みがのしかかってくる。
初日はパニックだった。敵襲か!と飛び起きようとして、それを押さえ込まれるように、重さが増すのだから。
しかし、数日もすれば、慣れた。慣れるしかなかった。身体に重さがのし掛かっても、眠っていられるようになった。
セレスティアが近づいてくる気配に気づかないというよりも、その気配を感じた瞬間に身体が強ばり、情報を遮断してでも、自身を守ろうとする防衛本能なのだろう。
セレスティアに起こされ、どうにか身体を起こすも、腕を上げることさえ困難なので、着替えられない。
セレスティアが部屋を出てくれたら、自分でも着替えられるのだが、それを口にしようとすると、爆散してしまう恐れがある。
やむを得ず、セレスティアのなすがままに、着替えさせてもらうことになる。靴紐も結んでもらうことになる。
そして、フォークすら握っていられなくなる。
セレスティアは、小さく切り分けたオムレツをフォークですくい、俺の口元に運んできた。
「はい、あーんして」
俺は、一瞬、周囲を見回した。
公爵夫妻は、自分たちの世界に没頭しており、こちらの様子など気にも留めていない。
メイドたちは、壁際に直立不動で並び、視線を虚空に向けている。その表情は、まるで感情を削り取られた彫像のようだ。
(……拒否権はない)
俺は覚悟を決め、羞恥心を押し殺して、口を開けた。
「……あーん」
オムレツが口の中に運ばれる。トリュフの香りが鼻を抜け、ふわふわの卵が口の中でとろける。
味は絶品だ。これまでの人生で食べた中で、最も美味しいオムレツかもしれない。
「美味しい? バリオン」
セレスティアが、期待に満ちた瞳で俺を見つめる。
「ああ、とても美味しいよ」
俺がそう答えると、セレスティアは満面の笑みを浮かべた。
「よかった! さあ、次は生ハムね」
彼女は、今度は生ハムを小さく切り、再び俺の口元へ。その都度、俺は「あーん」を繰り返す。
生き残るためには、従うしかない。
「あ、口元にソースがついているわ」
セレスティアは、すかさず自身のナプキンで、俺の口元を優しく拭った。
その手つきは、本当に母親が赤子の世話をするかのように、丁寧で、愛おしげだった。
(……俺、本当にいつまで持つかなぁ。このままじゃ、歩き方も忘れちまいそうだ)
トリュフの香りと、セレスティアの甘い香りが混ざり合う食堂で、俺は複雑な心境のまま、彼女の手によって朝食を口にし続けるのだった。
公爵夫妻の睦まじい様子を、視界の端に捉えながら。
⋆⋅⋅⋅⊱∘ ━━━━ ※ ━━━━ ∘⊰⋅⋅⋅⋆
いくら『溺愛』されているとはいえ、ずっとセレスティアと一緒にいるわけではない。
彼女はラグランジュ公爵家の令嬢だ。
高位貴族としての教養の講義、マナーレッスン、ドレスの仕立て、社交の準備……。
高貴な身分ゆえにやるべき用事が山ほどある。
つまり、彼女が用事をこなしている間――俺は完全に自由の身になる。
――なぁ、ちょっと想像してみてほしい。
今まで自分で靴紐も結べないほどの重さに押さえつけられていた人間が、急にその重さから解き放たれた時の開放感を、想像できるか?
(軽っ……! 身体が羽毛のように軽い……!!)
名残惜しそうにセレスティアが部屋を出て行った瞬間――。
あまりの身体の軽さに、ジャンプしたらそのまま屋敷の天井を突き破って空の彼方まで飛んでいけるんじゃないかと錯覚した。
「――とはいえ。何をしたらいいのやら」
ラグランジュ公爵家では「何もしなくて良い」と言われている。
――言い換えよう。これは「何もしてはならない」と厳命されてるのと同じだ。
ラグランジュ公爵夫妻や、セレスティアには歓迎されているのは間違いない。
だからと言って、屋敷に住まうすべての住人から、歓迎されているわけではない。
俺が勝手に何かをすると、誰かの手を煩わせることになり、誰かの仕事の邪魔をすることになる。
そして、最後にはセレスティアが予定を放ってでも、やってくる羽目になる。
先日、そのことを思い知る出来事が発生した。
――まだ、「何もしなくて良い」を正しく理解していなかった俺は、公爵邸の広大な庭へと足を運び、愛用の大剣を振ることにした。
ヒュンッ! ヒュバッ!!
空気を切り裂く突風のような風切り音。
下級騎士用の訓練場では、常に注目され、常に重さが身体にのし掛かった状態、"海底で剣を振るう"かのように、訓練していた。
誰からも注目されていない状況で、愛用の大剣を振る機会はあまりなく、まるで木の枝でも振り回しているかのような軽快さだ。
(これじゃあ、訓練にならないなぁ)
そう感じながらも、剣を振るい続けた。身体を動かしておかないと鈍ってしまうし、そして、他に何もすることもない。
――そうして、剣を振っていると、急に、身体が少し重くなるのを感じた。誰かの意識が俺に向けられた、ということだ。
それが誰なのかは、すぐにわかった。
「おいおい、見ろよ。あれが噂の"刃矛の虫"だぜ」
嫌味な笑い声を響かせながら、数人の男たちが近づいてきた。
ラグランジュ公爵家の警備隊に所属する、若手の団員たちだ。
警備隊という組織があるのは珍しい。なぜなら、ラグランジュ公爵家は我が国で最強の軍隊を持つ権力者であり、衛兵が"警護"の任に就いている。
なのに、警備隊という中途半端な組織が?
「セレスティアお嬢様ご指名の婚約者様だからな、どんな化物かと思えば……。本当にチビじゃねえか」
「あいつが軽々振り回せるくらいだ、あの大剣、鉄じゃなくて木で出来てるんじゃないか?」
王宮のモブ騎士に続き、今度は公爵邸のモブ警備隊か。どこに行っても、この体は舐められるらしい。
いつもなら無視するところだが、ほどよく"ダンベル代わり"が来てくれたんだ。訓練にならず困っていたから、助かるよ。
俺は大剣を肩に担ぎ、不敵に笑ってみせた。
「だったら、手合わせで確かめてみるか?」
「はっ、言ったなチビ! 泣いて謝るんじゃねえぞ!」
売り言葉に買い言葉。
若手の一人が剣を構え、俺に対して明確な『敵意』と『見下し』の視線を向けてきた。
だが――。
(――軽いなぁ。もっとしっかり、意識を高めて、俺を見ろよ)
こいつらにしてみたら、少し揶揄ってやって、剣を突きつけて脅してやれば、すぐに本性を暴けるだろう、というくらいなんだろう。
そんな軽い気持ちでは、俺には『小鳥が肩にちょこんと載った程度』の重さだ。ピヨピヨ鳴いているようなものである。
「いくぞ、チビ――ッ!」
若手モブが鋭い踏み込みから剣を振り下ろしてくる。
モブ、と馬鹿にしているが、このラグランジュ公爵家の警備を任されている程度には、鍛錬された戦士であるはずだ。
一般的には、なかなかの速さなんだろうが、俺の目には止まっているように見えた。
振り下ろされようとしている剣を、避けることも、いなすことも、そして、しっかり大剣で受け止めることも、容易なんだが。
あえて、乱暴にやらせてもらおうか。
パシィィィンッ!!
「ぶふぉっ!?」
俺は、大剣刀身の側面で、振り下ろされた剣もろとも、若手モブを叩いた。
若手モブの剣は弾け飛び、本人はそのまま芝生の上をゴロゴロと無様に転がっていった。一撃、いや、一瞬だった。
「な、なんだと……!?」
「おい、今何が起きた……!?」
唖然とする周囲の若手モブたち。
――あれ? もしかして、俺が何をしたのか、見えてなかったのだろうか。
この程度の練度しかないなんて。大丈夫か、ラグランジュ公爵家の警備隊は。襲撃を受けても、守り切れないんじゃないだろうか。
「お、おい。このままじゃ、やばい。全員でかかるぞ!」
全員が剣を抜き、一斉に俺に向かって構えた。それでもまだまだ重さが足りないが、相手しよう。
「殿下に殺されちまう」
――ん? 今、なんか、小さな声で、聞き捨てならない言葉を言ったぞ。
殿下、と言えば、一般には皇太子や王太子、あるいは王子や王女のことを指すが。
セレスティアのことは"お嬢様"と言っていたから、セレスティアではない。
こいつら、ただ俺を揶揄いに来ただけかと思えば、何か後ろにいるのか? それも"殿下"と呼ばれる人物が。
「そこまでにしてもらおうか」
彼らの後ろからカツ、カツと硬い足音が響いた。
現れたのは、ガタイのいい髭面の男。公爵邸の警備隊長だった。
どこかで俺たちの様子を見ていたらしい。
「若い者が不調法を働いたな。……だが、我が部下をここまで手玉に取るとは。今度は私が相手をしよう」
警備隊長が腰の剣を抜き、鋭い構えを取る。
いやいやいや。それほどのこともしてないぞ? ただ大剣を無造作に振り回しただけだ。
それを見ていながら……。こいつも何か一枚噛んでいるのか。
先ほどの若手モブとは比べ物にならない鋭い『殺気』の視線が俺に刺さる。
(お、さすがに小鳥よりは重いな。……そうだな、『子犬が足元にじゃれついてきた程度』の重さだ。ワンワン吠えてるレベル)
子犬級の重さを負荷として感じながら、俺も大剣を構え直した。
いざ、警備隊長と刃を交えようとした――まさに、その瞬間だった。
ドガァァァァァンッッッ!!!!!
「ぶふぉっ!?!?!?」
突然、凄まじい衝撃が俺を襲った。
(な、なんだこれ!? 子犬が、急に大型魔獣に進化しやがったぞ!?)
意味が分からない。警備隊長が急に覚醒したのか?
だが、当の本人は不思議そうな表情で俺を見つめている。
突然に俺がよろめきそうになった、その理由がわからないらしい。
――まさか。
恐る恐る、公爵邸の二階の窓を見上げてみた。
そこには、マナーレッスンの最中のはずのセレスティアが、窓越しに俺を見つめていた。
俺と視線が合った瞬間に、はじけるような笑顔で、窓を開け放って身を乗り出してきた。
セレスティアは、これ以上ないほどに、両手をブンブンと振り始めた。
「バリオン様ぁぁぁ!! なんて凛々しいお姿なのかしら……!! 頑張って、私の可愛い婚約者様ぁぁぁーーー!!!」
(ゆ、油断していたのもあるが、ズシンと来たな! やはり、セレスの"意識"は重い!)
応援してくれるのは嬉しいけど、これ実質的に、味方を砲撃してるようなものだ。本人にその自覚はないだろうが。
「ほう……。私の構えを見て、一歩も動けなくなったか。やはり、ただのチビではないな。蛇に睨まれた蛙の心境というわけか」
目の前の警備隊長が、ニヤリと不敵に笑う。
(うざっ。なんで、こんな安っぽいのが、ラグランジュ公爵家の警備隊の隊長を務めているんだ? ひどくないか?)
こんなのに、無様に負けるわけにはいかない。
「ふー……」
深く息を吸い込み、全身の筋肉に活力を流し込んでいく。
俺には魔力はないが、おそらく魔法使いが魔力を全身に循環させるのと同じ感覚なんだと思う。
「では、いくぞ!」
かけ声と共に、隊長が剣を振り上げて、襲いかかってきた。
先ほどの若手モブに比べたら、踏み込みの早さも早く、剣の鋭さも段違いだ。
――それでも、俺がすることは、さっきと全く同じ。
ガギィィィィンッ!!!
「なっ……!?」
俺が払うように振るった大剣刀身の側面に、振り下ろしてきた剣諸共に叩かれ、隊長は若手モブと全く同じ軌道で、吹き飛んでいった。
そのまま、若手モブの横に転がっていき、白目を剥いて崩れ落ちた。
静まり返る庭。
「キャーーー!! 素敵よ、バリオン様ぁぁ!!」
遠くの窓から、セレスティアの黄色い歓声が響き渡る。
それと同時に、彼女の興奮がさらに跳ね上がり、俺の身体にのし掛かる重さが増した。
(ぐっ……! 何か、気になることがあったはずなのに、頭に血が回らない! 考えられない!)
俺はプルプルと震える足を踏ん張り、窓辺の美女に、引きつったスマイルを返すのが精一杯だった。
――そのあと、ラグランジュ公爵から、呼び出された。
「ははは、見事な腕前だったそうじゃないか、バリオン。セレスから聞いたよ」
応接室のソファに深く腰掛けたラグランジュ公爵は、苦笑いを浮かべながらも、その切れ者の瞳で俺を見つめていた。
「……面目ありません、公爵様。少々、身体を動かすだけのつもりが、行き過ぎてしまいました」
俺は直立不動のまま、頭を下げた。
「いや、責めているわけではないんだ。むしろ、手間が省けたと言ってもいい」
公爵は組み替えた脚を戻し、少しだけ声を潜めた。
「あのあと、隊長を務めていた男は、荷物もそのままに姿を消したよ。それに追従するように、警備隊の中から他にも十数人が消失した」
「……消えた、ですか?」
「そうだ。他国の"見えざる手"が、我が国の歪んだ貴族の袖を引いていてね。形ばかりの席を与えざるを得なかった」
不思議に思っていた中途半端な組織は、政治的な背景を持つ、お飾り組織だったわけだ。あの時のモブたちの言葉は、他国に通じていることを示していたのだろうか。
「いずれ、事が動く。……すまないが、今はまだそれ以上を述べることはできない」
「今回の婚約は、その"事"に、関わっている、そう考えても宜しいでしょうか?」
公爵は、ただ小さく、頷くだけ。それが今、俺が知ることが出来る、精一杯の情報だと、理解した。
「君には、何をしていても良い、と言ったが。改めよう。何があっても、セレスの傍を離れないで欲しい。それが、君に頼みたい唯一のことだ」
公爵の言葉は、懇願のようでありながら、一国の命運を賭けたかのような重みがあった。
「――畏まりました、公爵様」
俺は深く頷いた。
裏でどんな陰謀が渦巻いていようと、俺のやるべきことは変わらない。
――それから、彼女が用事をこなしている間、俺は部屋に軟禁されることになった。
⋆⋅⋅⋅⊱∘ ━━━━ ※ ━━━━ ∘⊰⋅⋅⋅⋆
軟禁生活にも慣れてきた頃――。
「バリオン! 明日、ピクニックに行きましょう!」
部屋の扉を勢いよく開けて飛び込んできたセレスティアは、いつにも増して頬を紅潮させていた。
「……、あ、明日? また急な提案だね」
未だに、いきなり重さがズシンとくる感覚には慣れない。
それも、セレスティアの意識ほど重さともなると、油断すると床に這う羽目になる。
「ええ。分からず屋のお父様がなかなか許可を出してくださらなくて。でも、ようやく黙らせ――、お許しが出たわ!」
ラグランジュ公爵、爆散してなければ良いのだが。
「ピクニックというと、どこか風光明媚な場所に、二人で出かける、ということか?」
「ええ。場所は公爵領内の『日乗りの丘』よ。日頃は何もない丘なんだけど、明日に限り、特別な場所になるわ」
「特別な場所?」
「ええ。見てのお楽しみよ。さあ、わたくしは今から明日の準備してきますわ。明日は早起きして出発しますから、バリオンは、それに備えて早めに寝るのよ? わたくしは準備で忙しいから、申し訳ないのだけど、あなたのお世話――」
「お構いなく。俺は何か準備するものはある?」
「いえ! すべてわたくしが準備を整えるから、大丈夫ですわ。あなたのお世話は侍女にちゃんとさせるから、安心してね」
「ありがとう、明日を楽しみにするよ」
「うん!まかせて!」
そう言って、セレスティアは部屋を出て行き、部屋に静寂が戻った。
俺は「ラッキー、久しぶりに外に出られる」くらいの軽い気持ちで、その日は早めに床についた。
――だが。
この時の俺は、まだ知らなかったんだ。
セレスティアによる"命がけの戦い"が始まっていたことを。
翌朝。日の出よりも早い、まだ薄暗い時間――。
俺は一人で起きて、侍女の用意してくれた服に自分で着替え、靴紐を結んでから、玄関へと向かった。
「あ……おはよう、バリオン……」
「セ、セレス!?」
明らかに寝不足で、目の下にうっすらとクマを作り、どこかフラフラとした様子のセレスティアだった。
いつも完璧に整えられている白銀の髪も、心なしか少し乱れている。
しかも、彼女が近づいてきても、いつもの重さが……なぜか少し、頼りない。
「大丈夫か? もの凄く疲れているようだが……」
「いいの、大丈夫よ……! それよりバリオン、一人で支度ができたの、偉いわ」
「ありがとう」
「さあ、早速、出発しましょう。馬車の中で、朝食を食べましょう」
彼女はフラつきながらも、俺に愛らしい微笑みを向けてくれた。
一体どうしたんだと思いつつも、俺は彼女の言葉に促されて、彼女に手を引いてもらいながら、馬車へと乗り込んだ。
――しばらく馬車は領地内を走り続ける。馬車の中では、セレスティアは朝食代わりの軽食を食べた後、俺にもたれ掛かって、眠ってしまった。
そして、御者が馬車を止め、静かに扉を開けた。
「お嬢様、ラスター騎士爵。『日乗りの丘』に到着いたしました」
その声で起きたセレスティアの手を引きながら、馬車の外へ出る。
そこは見渡す限りの鮮やかな緑と、鏡のように美しい湖畔が広がる絶景の地だった。
俺は、執事から、お弁当の入ったバスケットや、簡易な野戦用タープなどが詰まった大きめの背嚢を受け取った。
そして、執事や御者たちは、セレスティアの指示で、そのまま馬車に乗って離れた場所へと走り去っていった。
完全に、俺とセレスティアの二人きりだ。
「さあ、行きましょう、バリオン」
セレスティアがそっと俺の隣に並び、俺の腕に自身の腕を絡めてきた。
一歩、また一歩と、共に丘の頂上へと歩みを進めた。
やがて視界が開け、目の前に飛び込んできたのは、思わず息を呑むような美しい光景だった。
『日乗りの丘』は、うっそうと茂る広大な森の中心にありながら、そこだけがぽっかりと小高く隆起した不思議な場所だった。
周囲には天を突くような深い緑の巨木がひしめき合っているというのに、この丘の領域にだけは、なぜか樹木が一本たりとも生えていない。
代わりに足元を覆い尽くしているのは、まるで熟練の庭師が丹念に手入れをしたかのような、ふかふかで短い草の絨毯だった。
どこまでも続く柔らかな緑は、寝転がればそのまま吸い込まれてしまいそうなほど心地よさそうに見える。
そして、そのなだらかな丘から正面を見下ろすと、深い森に抱かれるようにして静かな湖が広がっていた。
朝の澄み切った空気を吸い込んだ湖面は、木々の隙間から差し込む陽光をいっぱいに浴びて、まるで無数の砕けた宝石を撒き散らしたようにキラキラと眩しく輝いている。
時折、吹き抜ける穏やかな風が緑の絨毯を撫で、そのまま湖へと向かうと、水面がさざ波立って光の粒が優しく踊った。
外界から完全に隔離されたような、この静謐で幻想的な空間に、俺はしばらく言葉を失い、ただ目の前の絶景に見入っていた。
「すばらしいところでしょう? でも、まだ、よ。これからもっとすごいことになるわ」
「……セレスの言っていた"特別な場所"という……?」
「ええ。でも、まずは、この景色を楽しみましょう。でも、湖に近づくのはダメよ。危険な魔獣も生息しているから」
「わかった」
絶景をしばらく堪能した後、太陽が高くなり日差しが本格的に強くなる前に、俺は拠点作りに取りかかることにした。
「少し待っててくれ。すぐに準備するから」
腕に絡みつくセレスティアから一時的に解放され、密かに息を整える。
そして、俺は大きめの背嚢を下ろした。
ピクニックの準備といっても、中に入っているのは可愛らしいレースのパラソルや、編み込みのレジャーシートなどではない。
ラグランジュ公爵家の軍隊が、実際の行軍や野営で使用している備品だ。
俺はまず、丸められた深緑色の分厚い布と、短い金属の筒を取り出した。
筒を伸ばして二本のポールを作り、芝生の上に立て、布を被せて張り、四隅をペグで地面に固定する。
あっという間に風通しの良い日よけが完成した。
装飾一つない無骨な見た目だが、確実に日光を遮断して涼しい日陰を作ってくれる。
続いて、残りのパーツを組み立てる。
机も椅子も非常に簡素な作りで、軽量かつ頑丈な金属の骨組みを広げ、そこに極厚の帆布生地を張るだけの代物だ。
座り心地の良さよりも、すぐに畳んで移動できる携帯性だけを追求した設計になっている。
ものの数分で手際よく設営を終えた俺は、帆布の机の上に弁当の入ったバスケットを置き、軽く手を払った。
「お待たせ、セレスティア。準備完了だ」
「ありがとう、バリオン」
俺は違和感を覚えていた。
(……今日は静かだ。どうしたんだ?)
いつものセレスティアなら、キャンプの設営にしても「わたくしが!」と言って、俺から取り上げそうなものだ。
靴紐さえ自分では結ばさせてくれない程なのに。
しかし、俺が自発的に設営に動き始めたとき、微笑みながらも、その視線は俺では無く、森の湖畔を見つめていた。
セレスティアの意識が外れたおかげで、設営が楽に出来たのだが、その反面、様子がおかしいのは気になる。
いつもなら、手を握るだけでも「わたくしの可愛い婚約者様!」「なんて愛らしいの!」と、マシンガントークを炸裂させる。
あるいは、赤子のように俺を甘やかそうとしてくるセレスティアが、今は最低限のコミュニケーション以外、一言も発しない。
彼女の顔を盗み見る。
白銀の髪が風になびき、サファイアの瞳は遠く、『何か』をじっと待っているかのようだ。
そのきゅっと結ばれた唇からは、何か重大な運命を受け入れるかのような、悲壮で、けれど固い決意が感じられた。
胸をざわつかせながらも、俺は何も言わず、ただ彼女の手を引いて、椅子に座るように、促した。
セレスティアは小さく息を吐き、静かにバスケットを開いてサンドウィッチを取り出した。
「さあ、食べましょう、バリオン」
促されて、俺は一つ、サンドイッチを手に取った。
(ん……? これ、パンの耳の切り方がやけにガタガタだな。それに、具材のトマトの厚みもバラバラだ。なんなら、ちょっと形が不格好というか……不器用な跡が残ってる?)
公爵邸の一流シェフが作ったものなら、寸分の狂いもない芸術品のようなサンドイッチになるはずだ。なのに、これはどう見ても――。
モグ……。
「……ッ!」
美味い。
味付けは信じられないほど繊細で、俺の好みに完全に合わせられている。
見た目は不格好だが、驚くほど丁寧に、一生懸命に作られているのが伝わってくる味だ。
セレスティアは、俺の顔を大きな瞳を見開いて見つめていた。
さきほどのまでの憂いに満ちていたセレスティアはいなくなり、彼女の意識はズッシリと俺の身体にのし掛かってきた。
「ど、どうかしら、バリオン……? お口に合う?」
「……美味しい。もの凄く、美味しいよ、セレス」
俺が本心を口にした、その瞬間。
「――っ!」
セレスティアの顔が、パッと花が開いたかのような、まばゆいばかりの笑顔になった。
それと同時に、重さが増した。椅子に座ったまま、しっかり両足を踏ん張り、下腹部に力をこめる。
魔力的な重さゆえ、椅子が壊れることはないはずだが、俺が力んだせいで、ギシリと椅子が軋む。
「良かった……! 本当に良かった……。ちゃんと、約束が果たせて……」
彼女は胸に手を当てて、心底ほっとしたように涙ぐんだ。
「約束?」
俺が首を傾げると、セレスティアは少しいたずらっぽく微笑んだ。
「やっぱり、覚えていないのね。数年前のことだもの」
「ああ、申し訳ないが……。いや、そもそも、セレスとは今回の婚約での対面が、最初だったはずだ」
「そうではないわ。……あの戦争で。あなたも、そしてわたくしも体験した、あの凄惨な死線の先で、わたくしたちは出会ったの」
「……こう言っては、気障に聞こえるかもしれないが。セレスほどの美女を見たのなら、覚えていないはずがない」
俺の言葉を聞いて、セレスティアは一瞬きょとんとした後、可笑しそうにくすくすと笑い始めた。
「美女だなんて、嬉しいわ。……でも、あなたがわたくしだと気づかなくて当然なの。だってあの時のわたくしは、美女どころか、顔さえ見えない『兵器』だったのだから」
「兵器?」
「ええ。あなたも覚えているでしょう? かつて難攻不落と言われた、ガルデニア帝国の要塞攻防戦を」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、血と泥と硝煙の匂いが強烈に蘇ってきた。
忘れるはずがない。
俺がまだ少年兵として、文字通り泥水をすすりながら戦場を駆けずり回っていた頃の、最も過酷な激戦だ。
そして、俺が騎士爵を賜った功績は、この戦いで生まれた。
「まさか、あの時……同じ戦場に?」
「わたくしは、最高戦力なんて言われ方をしても、その実態はただの『攻城兵器』として扱われていたわ。歩くのも一苦労の、分厚い拘束具のような重装甲で、命令のままに戦陣を駆け抜け、爆発魔法で敵の砦を打ち崩すためだけに放たれた」
セレスティアの言葉に合わせるように、俺の記憶のピースがカチリと音を立ててはまり始めた。
――あの日。
戦況は泥沼だった。敵国の張る結界魔法はあまりにも堅牢で、味方の術士部隊の攻撃はことごとく弾かれていた。
そんな中、最前線に単機で突出させられていた味方の「重装甲の魔術兵」がいた。
度重なる爆発魔法の行使により、その術士は全身煤だらけ。おまけに分厚い装甲のせいで、性別はおろか、人間かどうかも怪しいほどずんぐりとしたシルエットだった。
魔術兵は無謀にも敵の要塞に肉薄し、最大火力の魔法を叩き込み続けたが、結界は破れない。
足止めされている間に戦線は分断され、気づけばその魔術兵は敵の砦を前にして完全に孤立し、無数の敵兵に包囲されていた。
誰の目にも、その魔術兵の死は明らかだった。
そこへ――。単騎で突っ込んでいった馬鹿な少年兵がいた。
過去の俺だ。
当時の俺は、頭から爪先まで泥と返り血にまみれ、顔など全く見えなかったはずだ。
小柄な少年の身体に対して、大剣があまりにも巨大だったため、まるで『大剣が自分で意志を持って敵を討っている』かのように見えただろう。
俺は包囲する敵兵を強引に薙ぎ払い、その孤立した魔術兵の前に立った。
魔術兵は、結界が壊せない、このままでは殺されると、目に見えて悲壮感に暮れていた。
だから俺は、泥だらけの顔を向けて、とびっきりの笑顔を作ってやったのだ。
『なんだ、そんなことか』
そう言って大剣を振り上げたが――結界はびくともしなかった。
――重さが足りない。そう思った俺は、周囲を見回すも、俺の重さになってくれそうなのは、孤立した魔術兵だけだった。
『ひとつ、頼みを聞いてくれないか? 俺を好きだと叫んでくれ』
『え?』
兜の奥から、困惑したような、くぐもった声が聞こえたのを覚えている。
『そうだな、ダメ押しで、約束でもしておけば間違いないか。なあ、この戦争が終わったら、あんたが料理を作ってくれないか? なんでもいいけど、俺はサンドウィッチが好きだ』
『な、なにをいって?』
『頼む。あんたが、俺を思ってくれさえすれば、俺がこの結界を叩き切れるんだ」
しばしの逡巡の後で、魔術兵は破れかぶれのように叫んだのだ。
『好きよ!』
その瞬間だった。ずしっとした重さが俺の身体にのし掛かった。
「いい重さだ! いいぞ、強い意志を感じる! だが、もっとだ! もっと俺のことを思ってくれ!」
「す、好きよ! この戦争で生き延びたなら、あなたの全て、わたくしが世話してあげる!」
その瞬間、空間そのものが歪むほどの重さが、俺の身体を押し潰さんとした。俺の小さな身体が押し潰されそうな"思い"であり、それが"重い"となった。
「おっしゃ! これならいける!」
俺はその莫大な重さを刃に乗せ、鍛え上げた筋肉が唸りを上げて、結界に向かって突進した。
大剣の切っ先が、一瞬だけ結界に阻まれて止まるが、今の俺が背負っている重さは、魔力的な慣性力となって、大剣をグググと押し込んでいく。
すると、どうだ。結界に、亀裂が生まれ、そこから、無理やり敵の結界に大剣をねじ込んだ。
「今だ! あんたの爆発魔法を!」
「まかせて!――いつまでしょぼい壁の裏に隠れてるつもりだ?! その自慢の壁ごと、チリひとつ残さずに消え失せろ!」
結界の亀裂から、魔術兵が爆発魔法を吹き込むように発動させ、結界の内部で爆風は吹き荒れた。
――こうして、難攻不落と言われた、ガルデニア帝国の要塞を打ち崩したのだった。
「……っ!!」
俺は弾かれたように顔を上げ、目の前で微笑む白銀の髪の美女を見た。
「まさか……。あの時の魔術兵が、セレスだったのか!?」
「そうよ。あなたが私を覚えていなかったのも、私があなたを見つけ出すのにこれほど時間がかかったのも、無理はないわ」
セレスティアは、愛おしそうに俺の頬にそっと手を伸ばした。
触れられた瞬間、ズシリと、いつもの強烈な重圧が俺を包み込む。
「あの時、絶望のどん底にいたわたくしを救ってくれた、泥だらけの小さな背中。笑った時に見えた白い歯だけが、妙に眩しかった……。好き。それは、言われたとおりに言っただけの言葉、だった」
「い、いや、あれはだな。俺の呪いが――」
「――でも! あなたが本当に結界を貫いてくれたとき、わたくしは……心から、あなたのことが好きになったの!」
だから、か。
だから、彼女の意識は、感情は、これほどまでに重い。
戦場の極限状態での出会い、命を救われた事実。そして長い年月をかけて発酵し続けた執着にも似た愛情。
「あの時の約束、やっと果たせたわ。あなたに、サンドウィッチを作ること」
「……ああ。最高に美味かった。約束を守ってくれてありがとう、セレス」
俺がそう答えると、セレスティアの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私、悔しかったの。命を救ってもらったのに、そんな簡単な願い一つ叶えられない自分が。……だからね、昨日、シェフを全員追い出して、生まれて初めて包丁を握ったの。火の使い方も、パンの切り方も分からなくて、何度も指を切りそうになって、何度も失敗して……でも、どうしても、あなたに食べてほしくて」
胸の奥が、じわっと熱くなる。彼女の愛は純粋で、本物だった。
「セレス……俺、そこまでしてもらって、なのに覚えてないなんて、本当に申し訳ないというか……」
「謝らないで、バリオン。あなたがおいしそうに食べてくれた。それだけで、私の昨日の苦労なんて、すべて報われたわ」
心からの、本当に自然な、女神のような笑顔を俺に向けた。
――次の瞬間。世界が暗転した。急激に、世界の明かりが失われていった。
「な、なんだ?」
「……始まったわ。特別な刻。太陽と第二の月が重なるとき、この『日乗りの丘』には異界の門が開くとされているわ」
「異界の、門?」
セレスティアが立ち上がり、ある一点をじっと見つめながら、指さした。
白昼の空から急速に光が奪われ、周囲は夕闇のような薄暗さに包み込まれた。
吹き抜けていた穏やかな風は止み、鳥のさえずりも、葉擦れの音すらも、ピタリと鳴り止んだ。
俺は椅子を蹴り倒すように立ち上がり、セレスティアが指さした森の湖畔へと視線を向けた。
鏡のように静まり返っていた湖面に、空の異変がくっきりと映し出されていた。
本来の太陽と、それを覆い隠すように重なった第二の月。
水面に揺らめくそれは、太陽のコロナを周囲に纏った、真っ黒な月だった。
そして、その漆黒の暗闇の中心からは、得体の知れない『何か』が、這い出そうと蠢き、もがいているように見えた。
背筋に冷たいものが走る。
「あれが、異界の門か?」
身構えながら尋ねた俺に、セレスティアは静かに首を振った。
「いえ、そう見えるだけ。解明はされていないけれど、あれは何処にもつながっていないことは確かめられているの」
彼女の言葉には、不思議と焦りや恐怖はなかった。
「でもね、この刻、この場所は……あらゆる魔法を、あの月が吸い上げてしまうのよ」
そう言って、セレスティアは右手のひらをふわりと開いた。
彼女の指先に魔力が収束し、小さな火の玉が生み出される。
しかし、それは熱を放つ間もなく、まるで水に落とした砂糖のように、すっと周囲の空間に溶けて消えてしまった。
「……!」
俺はそこで、はたと気がついた。
ないのだ。
先ほどまで、俺の全身をミシミシと軋ませいた、あの強烈な重さが。
セレスティアが俺の隣に立っているのに、俺の身体には何の負荷もかかっていない。
俺の『他者の強い意識を重さとして感じる呪い』までもが、この空間では完全に無効化されていた。
「今だけは、大丈夫だから……あなたに伝えたいことがあるの」
俺を振り返ったセレスティアの顔からは、いつものあの『溺愛の仮面』が綺麗に剥がれ落ちていた。
過剰なまでの愛情表現も、狂おしいほどの甘やかしも、そこにはない。
ただ、精神を擦り切らせ、今にも折れてしまいそうなほど痛々しい、一人の令嬢の姿がそこにあった。
今日、彼女が湖畔を見つめながら見せていたあの悲壮な「決意」は、この瞬間――誰の目も、どんな魔法の力も届かないこの場所で、すべてを打ち明けるためのものだったのだ。
セレスティアは自らの肩を抱くように身を震わせ、静かで、震える声で語り始めた。
「……実はね、バリオン。私は隣国の第一王子――カヴェンから、異常な執着を受け続けているの」
「カヴェン……」
その名には聞き覚えがあった。いや、忘れるはずもない。
「結界と空間魔法の天才と言われている、隣国の守護の要。あの日、俺とセレスで破った要塞にもいた男か」
「ええ。自分の絶対の自信作であった結界を破ったわたくしに、強い気持ち……いいえ、歪んだ執着を抱いたらしいわ。そして、幾度となく求婚を迫ってきた。でも、もちろん拒絶したわ。でも――」
「でも?」
「何度も何度も、拒絶しても……あの男は諦めようとしない。それどころか、自分の『空間魔法』を使って、常に私を監視し続けているわ。常によ。公爵邸の自室にいようと、何をしていようと、肌を這い回るような粘着質な視線が付き纏うの。私はその視線の不気味さに、精神が擦り切れるほどのストレスを感じていたの」
彼女は大きな瞳に涙を浮かべ、消え入りそうな声で、ずっと胸の奥に秘めていた真実を吐露した。
「私があなたを婚約者として求めたのは……あなたが好きだという気持ちに嘘はないけれど。でも、カヴェンに『私はこの人を深く愛している』という様子を、これでもかと見せつけるため。そして、カヴェンを絶望させて、完全に諦めさせるためだったの」
ポロリと、彼女の頬を涙が伝い落ちた。
「その役にあなたなら適任だと、陛下から推薦されたわ……。あなたの気持ちを無視して、こんな危険な事情に巻き込んでしまって……本当に、ごめんなさい、バリオン」
あの異常なまでの溺愛は、監視者であるカヴェンに向けた、命がけのブラフだった。
そして、重さが完全に消え去っている今。
俺は初めて、彼女の『仮面の下の本当の心』と向き合っていた。
涙を拭うこともせず、セレスティアは力なくうつむいた。その華奢な肩が、小刻みに震えている。
「戦場での約束をようやく果たせて、ずっと胸にあったカヴェンのことも打ち明けられたけれど……。私、怖くてたまらないの。カヴェンに見せつけるためだったとはいえ、あなたに対してあまりにも無礼で、あなたを馬鹿にしたような行動ばかりしてしまったわ。靴紐すら結ばせなかったり、子供のように着替えさせようとしたり……。これまでの私の狂ったような溺愛のせいで、もう、あなたに嫌われてしまっているんじゃないかって……」
彼女の声は、今にも消え入りそうなほどに掠れていた。
「今のこの刻だけは、カヴェンの監視の目は届かない。魔法の通じないこの場所だからこそ、何の遮りもない、バリオンの本当の気持ちを確かめたいの。……この婚約を、本当は嫌だと思っているのでしょう? こんな、怒れば相手を爆散させてしまうような恐ろしい女、本当は嫌でしょう……?」
サファイアの瞳が、捨てられた仔犬のように怯えた光を宿して、俺をまっすぐに見つめてくる。
「もし、あなたがこの関係を苦痛に感じているのなら……カヴェンとの決着がついたその時は、すぐに婚約を破棄してくれて構わないわ。あなたをこれ以上、私の都合で縛りたくはないの」
向けられた悲痛な告白を受け止めながら、俺は静かにセレスティアを見つめていた。
過剰な『溺愛モード』の仮面を脱ぎ捨てた彼女を、これほど間近で見るのは初めてだった。
不気味な監視から身を護るために必死に虚勢を張り、精神を擦り切らせていた一人の繊細な女性。
薄暗い異界の光の中で揺れる白銀の髪と、涙に濡れた美しい顔立ち。
――ああ、やっぱり、とんでもない美女だな。
不意に、そんな至極当然の感想が胸を過った。
そして、俺の思考は、これまで彼女が俺に傾けてきたあの途方もない重さへと行き着く。
俺の身体にかけられた、他者の強い意識を重さとして感知する呪い。
もし、彼女のあの異常なまでの愛情表現が、カヴェンを欺くためだけの完全な『嘘』や『打算』だったとしたら――。
俺の身体を床に這わせんばかりのあの狂おしいほどの重さが生まれるはずがないのだ。
カヴェンへの当てつけとして行動が過激になっていた部分はあったとしても、その根底にある「好き」という意識は、戦場の日から今日まで、彼女の中で途方もない重さへと育ち続けてきた本物に他ならない。
彼女の愛の重さを、誰よりも、何よりも、この俺の身体が一番よく知っている。
だから、彼女の気持ちを疑う余地なんて、最初から一欠片もなかった。
そんな風に俺を文字通り"命がけ"で想ってくれる彼女のことが、俺はまったく疑いようも無く、心から好きなんだと自覚した。
俺はゆっくりと歩み寄り、彼女を見上げて、視線を合わせた。
「セレス」
そっと、彼女の冷たくなった手を俺の手で包み込んだ。
「俺を馬鹿にしているなんて、一度も思ったことはないよ。着替えの件は、まあ……ちょっとびっくりしたけどさ。男としては、可愛い婚約者にそこまでされるのは、悪い気はしないものさ」
少しおどけるように言うと、セレスティアが小さく息を呑んだ。
「俺は、この婚約を嫌だなんて一度も思ったことはない。それどころか、俺はセレスのことが好きだよ」
「え……? でも、私は、あなたを巻き込んで……」
「まだ、誰にも打ち明けたことのない、俺の呪いのことを教えよう。俺は、他者から意識されると、体が重くなるんだ」
「重くなる?どういうこと?」
「言葉にして、説明するのは、はじめてのことなんだ。だから、上手く伝えられないけど。他人から、俺に向けるあらゆる意識が、魔力的な"重さ"になって、この肉体にのしかかってくる。それは純粋な"好意"や"関心"だけでなく、"嘲笑"であれ"悪意"であれ、向けられたすべての意識が、目に見えない重圧となって俺を押しつぶそうとする」
「そんなこと――。でも、そうなのね、だから着替えさせようとしたときも、ひどく辛そうだったり、フォークを落としてしまったり」
「ああ。けれど、魔力的な重さであって、本当の重さじゃない。俺がどれだけ重さに押しつぶされそうになっても、こうして立っている地面に沈み込んだり、あるいは座っている椅子を壊したりはしないんだ」
「……それは、呪いなの?」
「俺はそう思っている。あるいは、セレスが感情によって爆発魔法の威力が高まるのと、同じ要因なのかもしれない」
「なるほど、そうね――。あなたの場合、他人の意識に反応して、あなた自身の魔力が重みを増す、それも無意識に、制御できないほど強く。それなら、説明が付くわ。でも――。大変だったでしょう?」
「もう慣れたさ。でも、言いたいことは、ここからだ。俺は、他人からどれほど思われているのか、重さとして感じることができる。だから、セレスの思い、その重さは、俺はよくわかっている。誰よりも強く感じていた。これほどの美女に、そこまで強く思われて、喜ばない男はいないよ」
「バリオン……」
やがて、水面に映る漆黒の月が静かに滑るようにズレ始めた。
太陽を覆い隠していた暗闇がゆっくりと晴れ、一筋の陽光が木々の隙間から差し込む。
ピタリと止まっていた風が再び吹き抜け、草の絨毯を優しく撫でると、森の木々がざわめきを取り戻した。
小鳥たちのさえずりが高らかに響き渡り、湖面は再び無数の砕けた宝石を撒き散らしたように、キラキラと眩しい輝きを取り戻していく。
異界の門が開く特別な刻が、終わりを告げようとしていた。
「……っ! 終わってしまうわ。また、あの視線が……!」
急速に明るさを取り戻す世界の中で、セレスティアがハッと我に返り、慌てたように身を縮ませた。
魔法の無効化が解ければ、再びカヴェンの空間魔法による執拗な監視が再開される。
だが、彼女はただ怯えるだけでなく、決意に満ちた瞳で俺を見上げると、その華奢な腕で俺を包み込むように、ギュッと力強くしがみついてきた。
「でも、大丈夫! わたくしは、あなたのことを誰よりも強く想うから……!」
その瞬間――。 『ズンッ!!』と、全身の骨が軋むような、あの途方もない重さが俺の身体にのしかかってきた。
だが、今の俺にとって、それは決して単なる苦痛の呪いではない。彼女の純粋で、狂おしいほどの不器用な愛情そのものだ。
俺は体幹にグッと力を込め、その愛おしい重圧を真正面から受け止めると、セレスティアの細い腰に腕を回し、力強く抱きしめ返した。
「ああ、二人で見せつけてやろう。あいつには、遠くから指をくわえて見させておけばいいさ」
俺は彼女を抱き寄せたまま天を仰ぎ、見えない監視者へ向けて、ありったけの声を張り上げて叫んだ。
「よく見とけ! この途方もなく重くて、最高に愛らしい美女は、俺のものだ!!」
俺の宣言が、澄み切った青空へと響き渡る。
セレスティアは一瞬驚いたように目を丸くした後、花が咲くような満面の笑みを浮かべ、さらに強く俺の胸に顔を埋めた。
全身にかかる重みが、さらに一段階増す。
――だが、その直後のことだった。
突如として、俺たちから数歩離れた空中の空間が、陽炎のようにグニャリと不自然に歪んだ。
空間そのものが裂けたようなその歪みから、ポトリと、一通の封書がふかふかの芝生の上へと吐き出されるように落ちる。
俺とセレスティアは、抱き合ったままその場に立ち尽くし、足元に転がったその手紙を見下ろした。
拾い上げて宛名を確認するまでもない。
その豪奢で分厚い封筒の口を閉ざしているのは、禍々しいほどに赤い、隣国・ガルデニア帝国の王家を示す刻印が押された封蝋だった。
⋆⋅⋅⋅⊱∘ ━━━━ ※ ━━━━ ∘⊰⋅⋅⋅⋆
一通の封書。
俺は、芝生の上に転がったそれを拾い上げた。
「……これは」
セレスティアの顔から、さっきまでの血色が嘘のように引き、真っ青になった。
王家の印が押された物を、俺が開けて良いものか判断に困ったが、思い切って封を切り、中身を改める。
その豪奢な羊皮紙に流麗な文字で綴られていたのは、ガルデニア帝国の王家への謁見の正式な招待状だった。
表向きは、先の戦争の講和調印を経て、仮初めの同盟国となった両国の親善を深めるための、使者としての招待。
しかし、宛名にはラグランジュ公爵ではなく、明確に『セレスティア・ラグランジュ公爵令嬢、並びにその婚約者』と記されていた。
「カヴェンの……差し金か」
「ええ……。表向きは親善使節への招待状。でも、これは間違いなくあの男が、ご丁寧にも『婚約者ごと』私を自分のテリトリーへ引き摺り込むための罠だわ……」
セレスティアの身体が小刻みに震える。
だが、国家間の正式な招待状である以上、これを断ることは、再び両国間に戦火を交える口実を与えかねない。
断るわけには、いかないのだ。
「行くしかないな」
俺の言葉に、セレスティアはすがるように俺の腕を強く握りしめた。
彼女の決死の覚悟が、ズシリと重い質量となって俺の身体に伝わってきた。
――十数日後。
俺たちは、かつての敵国であり、今は仮初めの同盟国であるガルデニア帝国の帝都へと足を踏み入れていた。
帝都の街並みは、我が国のような華やかさとは無縁の、鉄と石で構築された重厚で威圧的な軍事国家そのものだった。
空は分厚い鉛色の雲に覆われ、街全体に冷たい影を落としている。
俺とセレスティアを乗せた馬車が、巨大な城門をくぐり抜けた。
馬車を降りた俺たちを待ち受けていたのは、凍りつくような敵意と重圧だった。
謁見の間である大広間に至るまでの道程は、果てしなく遠く感じられた。
案内役の文官の背中を追い、巨大な大理石が敷き詰められた果てしなく続く回廊を歩く。
その両脇には、一分の隙もなく整列した漆黒の甲冑を纏う近衛兵たちが、まるで石像のように立ち並んでいた。
彼らの兜の奥からのぞく双眸は、明らかに俺たちを――特に、かつて彼らの難攻不落の要塞を陥落させた"怒爆の姫"であるセレスティアを、憎悪と警戒の入り混じった目でにらみつけている。
コツ、コツ、コツ……。
静寂な回廊に、俺たちの足音だけが不気味に反響する。
「大丈夫だ、俺がいる」
隣を歩くセレスティアの冷え切った手を、俺はそっと握りしめた。
彼女はビクッと肩を震わせた後、僅かに安堵したように俺の手を強く握り返してきた。
そのたびに、俺の足腰に心地よい重さがかかり、それが俺の体幹をさらに強固なものへと変えていく。
やがて、回廊の終点にたどり着いた。
そこにあったのは、見上げるほどに巨大な、純金と黒曜石で装飾された両開きの重厚な大扉だった。
「ラグランジュ公爵令嬢セレスティア様、並びにバリオン・ラスター騎士爵、ご到着にございます!」
案内役の声が高らかに響くと同時に、巨大な扉が重々しい音を立てて左右に開かれた。
眼前に広がったのは、目が眩むほどに豪奢でありながら、どこか禍々しさを孕んだガルデニア帝国の大広間――謁見の間だった。
広大すぎる空間には無数のシャンデリアが吊るされ、煌びやかな光を落としている。
しかし、その光の下に集う帝国の高位貴族や将軍たちの視線は、一切の温度を持っていなかった。
誰もが氷のような冷たい眼差しで、入室してきた俺たちを品定めするように見つめている。
大広間の最奥、一段高くなった玉座には、病床にあると噂される皇帝の姿はなかった。
代わりに――ついに、その男が俺たちの目の前に現れた。
禍々しい漆黒の礼服を纏った、ガタイのいい男だった。
隣国の第一王子――カヴェン・ディ・オブシディアン。
顔立ちは整っているが、その相貌には傲慢さと残忍さが深く刻み込まれていた。
彼はふてぶてしい態度でニヤリと唇を歪め、俺の隣に立つセレスティアを、まるで蛇が獲物を舐め回すようなねっとりとした目で見つめた。
「これはこれは。はるばるよく来てくれたね、我が愛しの君よ。いやはや、空間魔法越しではなく、やはりこうしてこの目でしっかりと見る君は、格別に美しい。さあ、我が婚約者となる申し出を受け入れてくれる準備は整ったのかな? 我が結界を破る唯一の存在に、最高の幸福を約束しよう!」
その瞬間、俺の身体にドロリとした不快な重圧が走った。
間違いない。空間魔法による常軌を逸したストーキングでセレスティアの精神をすり減らしていた、カヴェンの異常なまでの執着の視線だ。
他者の強い意識を重さとして感じる俺の呪いが、この男の歪んだ感情を感知して警鐘を鳴らしている。
気持ちの悪い、吐き気を催すような泥沼のような重さだった。
だが、セレスティアは怯まなかった。
彼女は貴族の完璧な作法に則り、一切の隙のない優雅なカーテシーを見せた。
そして、氷のように冷ややかな微笑を浮かべ、カヴェンに見せつけるように言い放った。
「お招きいただき感謝いたしますわ、カヴェン殿下。ご紹介いたしますわ。こちらはわたくしの愛する婚約者、バリオン・ラスター騎士爵です。私たちは自国に戻り次第、すぐにでも婚姻の儀を行うつもりですわ」
広間にどよめきが走る。敵国の王族の求愛を、ここまで堂々と、しかもその本拠地で拒絶し、別の男との結婚を宣言したのだ。
俺も彼女の覚悟に応え、一人の騎士としての威厳を示すべく、堂々と一歩前に出ようとした。
だが――。
「どけ」
カヴェンが忌々しげに低く鼻を鳴らし、虫けらを払うかのように片手を軽く振って、そう一言呟いた。
その刹那だった。
ドォォォォォンッッ!!!
「――っ!?」
カヴェンの足元から、半球状の不可視の障壁が爆発的な速度で広がった。
奴の代名詞とも言える固有結界――どんな物理攻撃も魔法も通さない、あの難攻不落の要塞を覆っていたものと同質の『絶対に壊せない魔法結界』が発動したのだ。
俺は一歩踏み出していたがゆえに、その理不尽な結界の拡張にまともに巻き込まれた。
目に見えない分厚い鉄の壁に激突されたようなすさまじい衝撃。
俺の身体は抗う間もなく押し出され、大砲の弾のように吹き飛ばされて、謁見の間の数十メートル後方にある頑丈な石壁へと激突した。
ドシャァァァンッ!!
「バリオンッ!!」
セレスティアの悲鳴が大広間に響き渡る。
もうもうと舞い上がる粉塵の向こう、広間の中央には、半径十メートルほどの巨大なドーム状の不可視の結界が展開されていた。
その内側には、カヴェンとセレスティアの二人だけが閉じ込められてしまっている。
結界の向こうで、カヴェンが狂気に満ちた笑みを浮かべながら、セレスティアへと一歩近づいた。
「くはははは! 見え透いた演技はもうおしまいだ。空間魔法越しに、お前があの小男といちゃついているのを見るたびに、ずっと反吐が出そうだったよ。あんな身分の低い、背も小さい男など、本当は好きではないのだろう? わかっているとも。あれはすべて、私への当てつけ。私に見せつけて、嫉妬させ、こうして強引に抱きしめてもらうための、お前なりの可愛いおねだりだろう? いいだろう、ほら、今すぐその望み通り、力強く抱きしめてやるよ!」
完全に頭のハッピーな勘違い男が、気持ちの悪い熱情を込めてセレスティアへ手を伸ばす。
セレスティアは恐怖と嫌悪に顔を歪め、後退りして結界の不可視の壁へと背中を押し付けた。逃げ場はない。
「やめろぉぉぉーーーっ!!!」
俺の咆哮が、広間の空気を震わせた。
壁に激突した俺は、すでに粉塵を払いのけて立ち上がっていた。
壁の大理石はクレーターのようにひび割れ、砕け散っていたが、俺の身体にはかすり傷一つない。
打ちどころが良かったのではない。
長年、戦場の最前線で巨大な大剣を振り回し、セレスティアの重すぎる愛の質量を日々受け止め続けたことで、鋼鉄すら凌駕するほどに鍛え抜かれた俺の超圧縮筋肉が、結界による弾き飛ばしのダメージをすべて無効化したのだ。俺の筋肉は、帝国の城壁よりも硬い。
俺の姿を見たカヴェンは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに歯牙にもかけない様子で嘲笑った。
「無駄だ、小男よ! 生きていたのは褒めてやるが、この私の結界は『絶対不可侵』だ。あらゆる物理的干渉、あらゆる魔法の攻撃を完全に無効化する。破れるのは、この愛しのセレスティアのみ。お前にできることは何もない! そこで這いつくばって、愛しの君が私のものになるのを指をくわえて見ておれ!」
結界は半球状のドーム型。その壁を横から殴っても、奴の言う通りびくともしないだろう。かつての戦場でもそうだった。
ならば、あの時と同じだ。俺に足りないのは、物理的な攻撃力ではない。重さだ。
そして、その重さを一点に集中させるための位置取りが必要だ。
俺は瞬時に謁見の間の構造を脳内に叩き込んだ。
壁面に並ぶのは、歴代皇帝の権威を示す巨大な大理石の装飾柱。
そこから高い天井に向かって、アーチ状の梁が伸び、中央には巨大な鋼鉄製のシャンデリアが吊り下がっている。
カヴェンの結界の、ちょうど真上を通るように。
「なっ、何をしている!?」
カヴェンが素頓狂な声を上げた。
俺は床を爆発的に蹴り上げ、先ほど激突した壁面へと跳躍した。垂直の壁を、強靭な脚力で数歩駆け上がる。
重力に引かれ落ちそうになる刹那、壁面に彫り込まれた巨大な装飾柱の、わずかなレリーフの凹凸に、鍛え上げられた十指を深々と突き立てた。
「ふんっ!!」
ミシミシと石が砕ける音を立てながら、腕力と指の力だけで自らの身体を強引に引き上げ、さらに上方へと跳躍する。
「なんだあの身のこなしは!? あれが人間の動きか!?」
周囲の帝国貴族たちがパニックに陥る中、俺は天井付近を走る太い石の梁へと飛び移った。
そこから躊躇なく、広間の中央に吊るされた巨大シャンデリアを支える極太の鎖へと跳ぶ。
鎖を蹴り、その反動を利用して、眼下に広がる不可視のドーム型結界の頂点――そのド真ん中へと向かって、真っ逆さまに自由落下した。
トンッ。
完璧な体幹コントロールにより、俺は結界の球面の頂上に、まるで平地に降り立ったかのようにピタリと二本足で着地した。
ツルツルと滑るはずの不可視の急斜面だが、俺は足の指先の筋肉までをフル稼働させ、結界の表面を万力のように掴んで立ち続ける。
結界の真上に躍り出た俺は、眼下にいるセレスティアに向かって、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「セレス――ッ!!! あのときと同じだ! 好きだと叫んでくれ! 俺のことを強く、誰よりも強く想ってくれ!!」
結界の内側で、恐怖に顔を強張らせていたセレスティアが、ハッと驚愕して天井――俺を見上げた。
俺の言葉の真意。俺の身体にかけられた呪い。そして、かつての戦場で俺たちがどうやってこの男の結界をぶち破ったのか。
「カヴェン! お前の歪んだ心が拒絶する盾が強いか、たった一つの強い思いが全てを貫き通す矛が強いか。――勝負といこうじゃないか!!!」
俺の意図を、彼女は完全に理解してくれた。
セレスティアの顔から一切の恐怖が消え去った。
彼女はカヴェンに背を向け、胸の前で両手を固く握り締め、祈るように、ただ真っ直ぐに、結界の上に立つ俺へとその意識のすべてを向けた。
偽りではない。見せつけでもない。
ただひたすらに、純粋に、俺という存在を愛おしく想う、その魂からの絶叫。
「好きよ! バリオン! 誰よりも、何よりも、あなたを愛してる!!」
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴギギギギギギギギギギ……!!!!!
「が、はっ……ふぅぅぅううううっ!!!」
俺の全細胞が、筋肉が、骨が、かつてないほどの超絶質量を感知し、悲鳴を上げた。
重い。重すぎる。今まで日々の生活で味わってきた重さなど、羽毛に等しい。
この場にいる全ての人間が俺を見ている。意識している。いったい、何をするつもりなんだと、じっと見つめている。
そして他でもない。カヴェンもまた、俺を凝視している。自慢の結界に飛び乗り、意味のわからない勝負の宣言だ。嫌でも見るしかない。
これほどまでに集まった意識は、かつて、騎士爵を賜ったときに匹敵する。
しかし、それ以上に。セレスティアの、俺への想い。
それは、カヴェンへの当てつけの演技なんかで生み出されるものじゃない。
あの泥まみれの戦場から、ずっと彼女の胸の中で大切に温められ、膨張し続けてきた、本物の、爆発的な愛の重さ!
その途方もない愛の重さが、魔力的な重さとなって俺の身体へと一気にのしかかる。
俺は両足を踏ん張り、全身の筋肉を鋼のごとく硬直させて、その莫大な重力をすべて真下の結界へと伝達させた。
『絶対不可侵』を謳う魔法結界も、物理的な法則を無視して発生するこの異常な魔力的な重さに、耐えかねたように軋み始める。
ミシッ……ピキ、ピキキキキキキキッ!!!
不可視だった結界の表面に、まるで分厚い氷にヒビが入るような、白く発光する亀裂が無数に走り始めた。
「な、なんだと……!? ば、馬鹿な! 私の『絶対不可侵の魔法結界』に、ヒビだと……!? ありえない! 物理攻撃も魔法も一切効かないはずだぞ!? どうやって……!」
結界の下で、自分の絶対の自信作が崩壊していく様を目の当たりにしたカヴェンが、目玉が飛び出そうなほど驚愕して叫ぶ。
俺は全身の血管が浮き出るほどに力を込め、ニヤリと笑い返した。
「あの日、お前の自慢の結界を破ったのは、セレスの爆発魔法だけじゃない。この俺が結界をこじ開けたのさ。さあ、思い知れカヴェン!」
「や、やめろぉぉぉっ!!」
俺は、この己の肉体そのものを楔として、重さを結界に叩きつける。
パリィィィィィィィィィンッッッ!!!!!
鼓膜を突き破るかのような、ガラスが粉々に砕け散る大音響と共に、絶対無敵のはずのカヴェンの結界が、ただの重さに耐えかねて完全に圧壊した。
「ぎゃあああぁぁぁっ!?」
結界の強制破壊。それは術者への魔力の激しい逆流を意味する。
結界の破片が光の粒子となって散る中、すさまじい魔力のバックラッシュを全身に浴びたカヴェンは派手に白目を剥き、一瞬で意識を刈り取られて、そのまま無様に石の床へと崩れ落ちた。
帝国貴族たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、近衛兵たちが慌てて駆け寄り、取り囲むが――。
俺は足元で砕け散り、宙を舞う結界の光の破片と共に、静かに、そして軽やかに床へと着地した。
カヴェンの執着の視線が消えたことで、俺の身体を支配していた重さも、すっと嘘のように消え去っていた。
俺は、カヴェンが倒れたことなど気にも留めず、両手を胸に当ててへたり込みそうになっていたセレスティアのもとへと歩み寄った。
そして、そのまま彼女の細い身体を、優しく、愛おしさを込めてお姫様抱っこで抱き上げた。
「バリオン……っ」
俺の胸の中に収まったセレスティアのサファイアの瞳から、安堵と喜びの大粒の涙がポロポロと溢れ出す。
「よく頑張ったな、セレス。最高の重さだったよ」
「ええ……。愛してるわ、バリオン。この世界で一番」
周囲の敵兵の騒ぎなどまるで聞こえないかのように、俺たちは二人だけの世界で、固く、深く微笑み合った。
⋆⋅⋅⋅⊱∘ ━━━━ ※ ━━━━ ∘⊰⋅⋅⋅⋆
ふたりはこたえあわせをしました。
「さあ、バリオン。冷めないうちに召し上がれ。はい、あーん」
「…………あーん」
(バリオンの口の中に、セレスティアによって、小さく切り分けられた絶品のパンケーキが放り込まれる)
「(咀嚼し終えて)なあ、セレス。少し、気になっていたんだが」
「美味しい? 口元にクリームがついてるわよ」
「あ、いや、自分で……」
「ダメよ。じっとしてて」
「……なぁ。もうカヴェンに見せつける必要は、ないんだよな?」
「ええ、もちろんよ。彼の監視に怯えることは二度とないでしょうね」
「そうだよな。彼はもう、表舞台に現れることはない。有事の際まで兵器庫に保管される盾のような存在になった」
「ええ。――あのあと、本当に驚いたわね。病弱で床に伏せていると噂されていた皇帝陛下が、自ら謁見の間に姿を現すなんて」
「ああ。しかも、車椅子とはいえ、その威厳はさすがだった。やはり、陛下や皇帝の意識というのは、見られるだけでも重いんだ」
「そうね。あなたのように重さを感じなくとも、威厳を肌で感じることは理解できるわ」
「だからこそ、俺たちの前にきて、深々と頭を下げて謝罪してきた時は、さすがに肝が冷えたよ」
「カヴェンのことも、その場ですぐに更迭して、辺境の塔へ幽閉するよう命じていたわね」
「ああ。"絶対に破られない結界"という軍事防衛の有用性一点のみで、その横暴が許されていたが、俺たちによって、絶対性が失われたからな」
「皇帝陛下は、おっしゃったね。お前が、あのヴィクトールが自慢の『断陣の矛』か、と」
「その言葉、実は、陛下の口からもきいたんだ。何のことかわからなかったが、不壊の盾とは、つまりカヴェンのことで、断陣の矛は俺のことだったんだな。陛下は、俺が考える以上に、俺のことを評価してくださっていたようだ。しかし、だからこそわからないことがある」
「なあに、バリオン? もしかして、お茶のおかわりかしら? すぐに淹れるわね!」
「いや、そうじゃなくて。……陛下の思惑についてだ」
「陛下の思惑?」
「どんな強固な陣をも貫く"矛"と、全てを破壊する"姫"と結ばれれば、とんでもない軍事力になってしまう。王家は脅威とは思わないのか?」
「まあ。バリオンはちゃんと国家のパワーバランスまで考えているのね。ますます惚れ直してしまいそう」
「からかうなよ。俺は一兵卒上がりだからな、政治の腹の探り合いはどうも苦手なんだ」
「そう。大丈夫よ、あなたがわからないことは、わたくしが全てやってあげるから。――そうね、大きく分けて三つよ」
「三つも!?」
「第一。安全弁をつけることに成功した。いつ爆発するかわからない爆弾を抱える、公爵家に対する恩売りね」
「恩?」
「そうよ。カヴェンからのストーカー被害で、わたくしの精神は限界だったわ。もし王都でわたくしの魔力が暴走すれば、街が一つ消し飛んでいたかもしれない。陛下は、そんなわたくしの扱いに困っていたわ。そのとき、公爵家からの提案"バリオンを婚約者にしたい"と。公爵家からの提案を受け入れたということで、恩を売り、そして同時にわたくしの爆発に対する対処にもなった」
「なるほど、な。俺に対しては、セレスはいつも淑女でいるから、忘れそうになるけど。その二つ名は"怒爆の姫"だったね」
「ええ。――第二。公爵家の『政治的孤立化』と『楔』よ」
「孤立化って……俺が婚約者になったからか?」
「その通り。もしわたくしが、他の大貴族の令息や、それこそ他国の王子であるカヴェンと結婚したら?」
「ああ、それこそ王家を脅かす巨大な力になってしまうのか」
「ええ。しかし、公爵家の独立性が保たれれば、どれほど力を持っていようと、一つの家系でしかない」
「俺は貧乏男爵家の四男坊で、すでに家を出てる。後ろ盾なんて何もない。公爵家の派閥拡大を防ぐにはうってつけの人材ってわけだ」
「ええ。それにバリオン、あなたは一代限りの騎士爵で、陛下から直接叙任された『王の直属』の身でしょう? つまり、王家から公爵家に打ち込まれた、最高に強固で信用できる『楔』なのよ」
「驚いたよ。そこまで計算されていたのか」
「第三。これが一番の理由かもしれないわね」
「まだあるのか。しかも、一番の理由……?」
「帝国に対する、最大の『軍事的抑止力』の完成よ」
「ガルデニア帝国への牽制か」
「ええ。帝国の最大の強みは、カヴェンの『絶対不可侵の結界』だった。でも、あなたがその結界を打ち砕いた」
「俺だけでは無理だがな」
「そう。だからこそ、世界中に向けて宣言したのよ。『無敵の盾を貫く矛と、全て焼き尽くす砲台は、我が手中に』って」
「俺が他国の王なら思うだろうな。万が一にも、その矛や砲台がこちらを向いたら、恐ろしいって」
「ええ。公爵家が強くなるリスクを背負ってでも、あの帝国を黙らせること。これが、陛下の最大の思惑よ」
「恩義で公爵家を縛り、俺を楔として打ち込んで内憂を断ち、帝国への抑止力として外患も防ぐ……。これが政治というものか」
「政治的なことは抜きにしても、わたくしは陛下に心から感謝しているわ。だって、こんなにも完璧な理由をつけて、わたくしを愛しのバリオンの隣に送り届けてくださったのだもの!」
「いや、それよりも、だ」
「なに?」
「これで、もう安心だ。怯える理由はなくなった、そうだね?」
「ええ。すべて、バリオンのおかげよ。本当にありがとう」
「カヴェンの監視がなくなったってことは、もう、その……無理して『溺愛の演技』をしなくてもいいんじゃないか?」
「え?」
「 いつまでも赤子扱いじゃ、俺も一応、こんな背の低さだが、成人した男だし……」
「演技? なんのこと?」
「え?」
「私があなたを甲斐甲斐しくお世話するのは、あなたへの愛の表現よ?」
「し、しかし、あまりにも無礼で馬鹿にしたような行動は慎むと言っていたじゃないか?」
「ええ。だから、朝は着替えさせたりしてないでしょう?」
「う、うん」
「わたくし、ずっと前から心に決めていたもの。命の恩人であるあなたと再会できたら、絶対に頭のてっぺんから爪先まで、すべてわたくしが甘やかしてあげるって。足りない? もっとお世話したほうがいいかしら?」
「……いえ、十分だ」
「遠慮しなくて、いいのに」
「(……そう言えば。公爵様と奥様も、この長テーブルの端っこに、肩が触れ合うほど身を寄せ合ってた。もしかして、ラグランジュ家の血脈に刻まれた"愛し方"の作法なのかな)」
「でも……」
「なんだ?」
「わたくしがこうして想いを向けるたびに、バリオンは重さを感じてしまうのよね……? 私の愛が、あなたの肉体を縛り付けて、苦しめているんじゃないかって……本当は、少し離れたほうが……」
(寂しそうに伏せられたサファイアの瞳。そこには小さく、本当に小さく、涙がキラリと光ったような)
その瞬間――。ざわつく従者たち。
防衛本能として、思わず耐爆体勢を取ってしまう者。
思わず身をかがめようとして、ギリギリで思いとどまった者。
そして全く動じずに見つめる者も。
(信じておりますぞ、バリオン様)
「離れなくていい」
「バリオン……?」
「心配するな。俺の筋肉を舐めないでくれ。というか……。もう完全に、この重さに慣れちまったんだ。むしろ、セレスの重さがないと、身体がフワフワして落ち着かないまである」
「……え?」
「セレスが俺のことを想ってくれている、それを強く実感出来るのも、この重さのおかげさ。この呪いに感謝する日が来るとは、思わなかったよ」
「まぁ……っ! バリオンってば……!」
「さあ! おいで! セレス!」
「あぁ、なんて頼もしくて、愛おしい私の婚約者様!」
ドッゴォォォォォンッッ!!!
「ぐ、ふっ……! いいぞ、かかってこい!」
絶大な爆発力で最強戦力と謳われる姫を納める唯一の"鞘"にして、全てを貫く重き"矛"の騎士は、姫と共に、末永い幸福を歩んでいく。




