第5話 ケンカの後の甘い時間。
閉店の札を裏返したあとも、店の中には一日ぶんの声が残っていた。黒板には白い粉がうっすら。カウンターの隅では、観葉植物の札〈ごじゅうお〉がゆっくり揺れている。
「今日の三件目、返金、早過ぎ」
湯の止めどきを見計らっていた結月が、やかんの取っ手を持ったまま言った。
「「聴けなかった責任」を認めるなら、十分話した後で決めるべき」
歩はレジ下の箱から紙を取り出し、丁寧に角をそろえる。
「泣きそうになってたから。いったん返して、呼吸を整えてからでないと」
「同情は砂糖。入れすぎると、次が崩れる」
短く刺さって、しばらく抜けない言葉だった。
歩は、黒板の「返金可」の文字を見上げる。白が夜の湿度で少しだけ膨らんで、やわらかいのに、胸の奥には固い小石がひとつ増えた感じがした。
「…………明日は、最初に説明を厚くする。返金の話は最後にするよ」
「順番を直しても、甘さの配分は残る」
「配分?」
「「聴く」と「決める」。あなた、聴き過ぎ。わたし、決め過ぎ」
結月の視線が、歩の手元の紙へ落ちる。角が合っていない。歩はそれに気づいて、もう一度、角をそろえ直した。
「今日は、決めたくなかった。泣きそうな人の前で」
「泣きそうなのは、あなた」
結月はやかんを置いた。湯気が細くほどける。
「甘いの、いる?」
「いや、いい」
返しかけて、喉の奥で言葉がつっかえた。結月の顔が、ふいに離れていく気がしたからだ。
「…………じゃあ、片付ける」
歩が動いた瞬間、真鍮のベルが揺れた。時間外の訪問にしては遠慮がない。扉の向こうから、青年の声。
「さっきは、返金、ありがとう。でも、やっぱり話したい」
歩と結月の視線がぶつかった。沈黙が手の中で重くなる。
「――今じゃない」
結月が先に言った。
「夜の相談は、連携先がある。連れてく」
彼女は鍵を取り、傘立てから一本、絵柄のない黒い傘を抜いた。青年は驚きながらも頷く。歩は、言い争いの続きをポケットに押し込むみたいに、店を出た。
紫瑠璃通りの裾は雨の匂いで湿っていた。踏むたびに、舗装の粒子が靴底を通して伝わってくる。路地の奥、古い扉の上に、小さな橙の灯り。〈ミッドナイトアゲート〉の文字に雨粒が跳ねる。
扉を開けると、木の匂いと、焼いた砂糖の深い香りが重なって迎えた。カウンターの中で、マスターが短く頷く。
「雨の客は、温かいものを頼む権利がある。今日は――カヌレが焼けたよ」
皿に立つ茶色い塔の側面は、蜜のように艶を持ち、切り分けると空気が甘い音を立てた。
青年は端の席で、両手を膝に置いた。目の下に疲れの影。歩は隣に座り、言葉を探しながら、結月が受け取った皿の熱に目をやる。
「話せますか」
「はい。…………さっきは、泣くのが恥ずかしくて」
青年は途切れ途切れに、職場のこと、家のこと、眠れない夜のことを並べた。歩は途中で手を挟まない。ただ、息を合わせて短く相槌を打ち、言葉の温度が下がり始めたところで、紙を一枚差し出した。
「「いま困っていること」と「明日やる一歩」。二つだけ、書きましょう」
青年は頷き、震える手でペンを握った。結月はカウンターに合図し、小皿を受け取って青年の前に置く。
「端っこ、かじると、落ち着く」
青年は戸惑い、そっと歯を立てた。焦げの香ばしさと蜜の甘さが、喉の奥で一度、深呼吸する。彼の目の焦点が、わずかに戻った。
「砂糖はね、角を丸くする」
マスターが、歩と結月の前にもカヌレを置きながら言った。
「喧嘩の角も、心の角も。削るんじゃない。丸くする。形は残したまま当たりがやわらぐ」
歩は、視線を皿から結月へ移した。結月はフォークの先で表面を軽く叩き、音を確かめるみたいにしてから、ひと口だけ割って頬張った。
「…………塩、あと半分の粒」
「今夜は雨だ。湿りに弱いから、控えめにした」
「理解」
そんな短いやり取りが、胸の小石を少し転がした。
青年が紙を書き終える。〈明日、上司に「話す時間をください」とメールする〉と、震えながらも読み上げた。
「よくできました。メール文、ここで一緒に作りましょう」
歩は、スマホの画面を小さく分け合いながら、余計な言い訳を抜き、お願いと事実だけを残して並べた。結月はその間、青年の皿に小さく切った端の欠片を二つ、無言で足した。
送信ボタンを押したあとの沈黙は、さっきまでの沈黙と種類が違った。深い水に浮かぶ感じがして、呼吸が自然に合う。
「ありがとうございました」
青年の背は、入ってきたときより少しだけまっすぐになっていた。
客が去り、扉の鈴が静かになったとき、歩はカウンターに両手を置いた。
「さっきの、返金の件」
結月は皿を重ね、布巾で静かに拭きながら、顔は上げない。
「明日から、返金は「温めてから」。最初の説明の厚みは、あなたが決める。返金の判断は、わたしと一緒に」
「二人で?」
「うん。あなたは聴きすぎる。わたしは決めすぎる。角、丸くするのに、二人ぶんいる」
歩は、胸の小石が消える代わりに、丸いビー玉がころんと入れ替わるのを感じた。転がり方が違う。
「役割、更新しよう。僕は「入口」。場の温度を整える。君は「出口」。行き先を一緒に指さす」
「入口が甘く香って、出口がすこし塩」
結月はそこでやっと顔を上げ、小さく笑った気配を見せた。
「もう一つ」
マスターが、皿を三枚、逆さに置いた。
「喧嘩は必要。角があるから離れずにいられる。だけど、殴り合いにしないための決まり事がいる」
「タイムアウト、だね」
歩が言うと、マスターは頷く。
「十を数えたら、甘いものに避難。言いたいことは紙に置いて、口は閉じる。紙は、噛まなくていい」
結月がペンを取り出し、ナプキンに走り書きをした。
口が熱くなったら、カヌレ。次に紙。最後に握手――砂糖に指をつけない。
「最後の注意、重要」
彼女の指先には粉糖がついていた。歩は笑って、指を合わせるふりだけした。
店を出る頃、雨は細くなっていた。路面の水たまりに、〈ミッドナイトアゲート〉の灯りがまあるく映る。歩は扉を閉める前に振り返り、カウンターの瑪瑙の小石がかすかに光っているのを見た。層のひと筋ひと筋が、今夜交わした言葉を吸っているみたいだ。
「…………ありがとう」
言葉に返事はないが、橙の灯りが少しだけ濃くなった。
紫瑠璃通りへ戻る道、二人の歩幅は合わない。結月は半歩、早い。歩は、追い越しはしない。
「さっきの青年、明日、返事来るといいね」
「来る。来なくても、次の一歩はある」
結月は傘を外にあずけ、空を見た。
「…………ごめん」
その一言は、人に背を向ける手つきと同じくらい不器用だった。
「僕も、ごめん」
歩の声は、風の隙間に落ちて、すぐ拾い上げられた。
翌朝。
店の鍵を回す手が、同時に落ちた。真鍮のベルが二回、重なって鳴る。
「おはよう」
結月は、視線だけで短くうなずき、コーヒーフィルタを折った。歩は黒板を外へ運ぶ。
――昨日決めた更新。入口と出口。
歩は文字の角に丸を足した。〈ワンコイン接待――最初の一歩を一緒に〉。白い粉が指につく。カウンターから、結月がそっと紙皿を差し出した。カヌレの端の、小さな欠片。
「指、甘くしないように」
歩は笑って、欠片を口に運んだ。甘さが喉を通ると、胸の中のビー玉が、もう少し滑らかに転がった。




