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第4話 交渉は、順番通りに。

 夕方の紫瑠璃しるり通り入口は、学校帰りの自転車と買い物帰りの歩行者が重なる。八百屋の前では軍手の匂い、パン屋の角には焼けたバターの甘さ。そこへ、甲高い怒鳴り声が割り込んだ。

  「危ないだろ! ここは歩道だ、降りろ!」

  「急いでるんです! ベル鳴らしましたけど!」

  ブレーキの鳴きと、買い物袋のカランという瓶の音。足をすくわれた老婦人が、店の壁に手をついた。通りの空気が、きゅっと細くなる。

  店の中で帳面を閉じかけていたあゆむは、反射的に外へ出た。視線の先では、学ランのポケットに手を突っ込んだ男子が、自転車を斜めに立てかけ、唇を尖らせている。

  「ご無事ですか」

  歩は老婦人の肩に手を添えた。彼女は深く息を吸って、ゆっくり吐き、うなずいた。

  「…………なんとかね。最近、ここでよくぶつかりそうになって」

  男子は視線を逸らす。ベルに指を触れかけて、やめた。その手の震えが、怒りだけではないことを歩は見逃さなかった。

  「現場押さえました!」

  背中から声が落ちてきた。亜柊あしゅが腕章と反射ベストを引っさげ、全速力で駆け付ける。彼女の頬は、走った分だけ熱を帯びている。

  「ここ、通学時間の「自転車突入」が恒例化してます。いつも怒鳴り合いで終わる。そのたびに「今度こそ看板を」って話だけ残って、翌日には忘れる」

  「忘れない方法を、やろう」

  歩が頷くと、亜柊は鼻で息を鳴らし、腕を組んだ。

  「まずは現場観察。五分でいい」

  彼女の「鬼の現場」が始まった。

  亜柊は通りの端から端へ、ゆっくり歩いた。自転車の流れ、歩行者の波、店の出入口の位置、電柱の影。パン屋の角は甘い匂いに引かれて立ち止まる人が多く、八百屋の箱は思いのほかはみ出している。通りに差し込む夕光の角度で、見えるものと見えないものが変わる。

  「ベル、多用。速度、速め。視線、前じゃなくてスマホ」

  亜柊が短く言葉を刻む。事情聴取と言われるよりも先に、男子がぼそりと口を開いた。

  「駅前の通学路、今工事で回り道なんすよ。こっちが近いし、車も来ないし」

  「息が切れてる。急いでるのは本当」

  結月ほどではないが、亜柊の観察は鋭い。歩は老婦人にも向き直る。

  「いつ、どこで、何がいちばん怖かったですか」

  「ベルが鳴って背中を押されたみたいで、足が前に出なくなるのよ」

  言葉の温度。歩は、紙を取り出し、四つの欄を描いた――〈事実〉〈気持ち〉〈譲れること〉〈譲れないこと〉。

  「いまは、怒りと不安が混ざっています。まず分けます。皆さんの「事実」と「気持ち」を、別々に置きましょう」

  男子は眉をひそめたが、老婦人がうなずくのを見て、しぶしぶ口を開いた。

  「事実、通学路が工事。時間がない。…………気持ち、早く帰りたい。腹、減った」

  「正直」亜柊が筆圧強めに書きとめる。

  「事実、ここは歩行帯。押して歩けば通れる。…………気持ち、転びたくない」

  老婦人の声には、さっきより力が戻っている。

  「利害を整理できたら、次は代替案」

  歩は、紙の下に三本の線を引いた。

  「案① 「時間帯ルール」。十七時から十八時の一時間は「自転車徐行帯」を設定。乗るなら歩く速度、ベルの代わりに「声のベル」――「通ります」と声かけ。」

  案② 「降りて押すレーン」。パン屋側に紺色のテープで細い帯を作る。自転車はそこを押して歩く。

  案③ 「安全週間(試行)」。一週間、仮運用して効果を見てから正式化。違反は怒鳴らず「指差し声かけ」。」

  「声のベル?」

  男子が眉を上げる。

  「ベルは急かす。声は届く」

  歩が言うと、老婦人が小さく笑った。

  「『すみません、通ります』って言われたら、避ける準備ができるわね」

  「いい、やっちゃお」

  亜柊はもう動き出していた。宜幸の店からコーンと養生テープを借り、紺の布を裂いてバンドを作り、通りに「降車帯」と「徐行帯」の仮レーンを描く。

  「防衛作戦・ミニ、発動」

  彼女の額に滲む汗は、怒りの熱より現場の熱だ。

  その場で「安全週間」のポップを作る。結月が選んだのは、読みやすい字形の黒。紺の帯に白のチョークで〈歩く人、優先の時間。自転車は「声のベル」〉と描き、角を丸める。

  「角丸は、人の視線の速度を落とす」

  結月の短い言葉に合わせて、歩は紙コップを配った。温かい麦茶で、喉の尖りを先に丸くする。

  「案内役、必要」

  亜柊が反射ベストを二枚掲げた。

  「今日は私と歩。明日からは交代制。怒鳴り役はゼロ、声かけ役だけ」

  「「役」って言い切るの、いいね」

  歩は笑って、ベストを受け取った。

  試行初日。

  亜柊は通りの角に立ち、男子の自転車に合わせて一歩、前に出た。

  「すみません、通りますって言ってみて」

  男子は一瞬戸惑い、そして、照れ隠しに声を張った。

  「…………通ります!」

  「ナイス「声ベル」。速度、落とす。そう、それくらい」

  すれ違いざまに、老婦人が会釈をした。男子の耳たぶがうっすら赤い。

  「怒鳴られないだけで、息がしやすい」

  老婦人のひと言に、亜柊の目尻が少しゆるんだ。

  二日目。

  ポップの前に、小学生が立っていた。ランドセルの黄色いカバーが揺れる。

  「「声のベル」って、ほんとのベルよりやさしいね」

  「そうだね。やさしいと続く」

  歩がしゃがんで目線を合わせると、子どもは真似をして「通ります」と小さく練習した。

  夕方、八百屋の店主が箱を五センチ奥へ下げ、パン屋は角の試食台を少し内側に寄せた。通りの幅が、気持ちばかり広がる。

  「現場、動いた」

  亜柊のメモに「店の自助努力」が増えていく。

  三日目。

  怒鳴り声が消えたわけではない。別の男子が勢いよく突っ込みかけ、ポップに気づいて急停止、舌打ちした。

  「またルールかよ。面倒くせ」

  亜柊は一歩、近づいた。

 「面倒は、面倒。だけど、あなたが誰かをはねたら、明日の「面倒」はもっと大きい」

  「…………」

  「三つ数える間、ベルを鳴らさずに「通ります」って言ってみて。①息を吸う。②声を出す。③相手の目を見る。順番どおり」

  男子は渋々、声を出した。

  「通ります」

  「できた」

  亜柊は褒めるとき、声が驚くほど柔らかい。男子はそっぽを向きながら、速度を落として進んだ。

  四日目。

  自治会の有里杏が腕を組み、ポップの位置を数センチ動かした。

  「読み始めの「距離」が遠い。入り口から三歩手前」

  「了解」

  歩はコーンの位置を直し、紙を新しいテープで留め替える。

  「「返金フロー」の次は、「返す視線フロー」ね」

  「うまい」

  ふたりが笑う横で、結月は新しい小さな差し札を作った。〈ベルの前に、声のベル〉。字の「お尻」が少し丸い。

  五日目。

  夕立が通り過ぎ、路面がきらりと光る。反射ベストがいつもより映えた。

  「通ります」「どうぞ」

  短い呼吸が幾つも交差する。騒がしいが、尖っていない。パン屋の前では、昨日より少し長く立ち話ができる。

  「苛立ちの場所を、理解の場所に変えるには、順番がいる」

  歩が呟くと、亜柊がうなずいた。

  「怒号→観察→分離→代替→試行。飛ばすと、戻る」

  「順番どおり、だね」

  「うん。私、すぐ飛ばす癖ある。だから、次も紙、持ってて」

  珍しく弱音に似た言葉を口にして、亜柊は照れたように笑った。

  七日目。「安全週間」の最後。

  自治会の掲示板に、簡単なアンケートを貼った。〈今週の通りやすさは?〉。

  「「とても通りやすい」が半分、「まあまあ」が三割。怒鳴り声「減った」が多数」

  有里杏が結果を読み上げる。老婦人は、紙に小さく書き足した。〈「声のベル」で心臓が驚かなくなった〉。

  学ランの男子が、照れ隠しに頭をかいた。

  「最初、だせえと思ったけど、まあ、悪くないっす」

  「悪くない、採用」

  亜柊が親指を立て、歩は黒板に白で太く書いた。〈紫瑠璃通り・通学時間帯「徐行帯」/「降車帯」正式運用〉。紺の帯が、夕暮れの色とぴたりと重なる。

  ポップの角を撫でながら、歩は胸の奥に広がる安堵を味わった。怒号のあとに、言葉が生まれ、行動が生まれ、習慣になる。

  「交渉は、順番どおりにやれば、ちゃんと進む」

  「甘さも、順番ある」

  いつのまにか来ていた結月が、紙袋を差し出した。中には、塩キャラメルの小さなクッキー。

  「最初に塩、次に甘。最後に香ばしさ。だから、また一枚食べたくなる」

  老婦人が一枚つまみ、男子にも一枚差し出した。

  「※「声のベル」の練習のあとにどうぞ」

  男子は笑って受け取り、もぐもぐと噛んだ。

  「…………うま」

  通り抜ける風が、ほんの少しだけ、甘くなった気がした。


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