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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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39/40

第39話 プロポーズの、作戦会議。

 朝の紫瑠璃しるり通りは、まだ眠そうに橙をしまい込んでいた。私は黒板の隅に小さく〈非公開:作戦会議〉と書き、すぐに布で消した。胸ポケットの内側、角を丸くした薄い封筒が、心臓に合図を送る。封筒の中身は、指輪ひとつと、三行だけのメモだ。

 事実「あなたと暮らしたい」、気持ち「怖いときも、あなたとなら進める」と三行が並んだ。

  結月ゆづきは、まだ知らない。今日の夕方、〈ミッドナイトアゲート〉で「歩行特区」を一回だけ臨時運用し、通り全体で「勝ちではなく、続ける」の作法で、私の願いを言葉にする。条件提示ではない。「留保の階段」も、BATNAも、今日は机の下にしまう。私が持っていくのは、お願いと、約束の「方法」だ。

  作戦会議の場所は、〈アゲート〉の奥の小部屋。鍵は朝いちばんにマスターから借りた。瑪瑙アゲートの層は、まだ夜の名残りを掌の中に隠している。

  「――集合」

  扉が開き、宜幸よしゆき幸博ゆきひろ亜柊あしゅ有里杏ありすとおる、そして渉外担当の女性が入ってくる。いつもの顔、いつもの呼吸。私は卓上の角丸パネルに太字で書いた。〈本件:「交渉的プロポーズ」〉。下段は小さく〈笑顔は強制しない/座る前に五歩/十呼吸〉。

  「塩、先」

  結月不在の作戦会議でも、合図は変えない。私は薄い塩キャラメルをひとかけ舌にのせ、十呼吸。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示し、甘さが「言える」をつないだ。

  「役割、確認」

  私は指を折った。

  「宜幸――演出総合。『派手封印』は厳守。拍子木は三拍と二拍だけ。提灯は「間引き」。」

  「了解。光は足元、音は呼吸」

  「幸博――広報。ただし「社内リーク」禁止。結月に気配を悟らせない。テロップは「十呼吸」。」

  「目立たせず、伝える。…………得意分野だ」

  「亜柊――現場管制。『座る前に五歩』を周囲で回して、止める三拍・通す二拍の練習を十回。救急ルートの確保、最優先。」

 「任せて。叫ばないで通す」

  「有里杏――タイムライン。『七時十五分派』の動線、今日は十九時十五分に変える。「押さないで走る」を守って。」

  「秒じゃなく、呼吸で刻む」

  「透――「出ない音」。蛇腹に空気だけを通して、ざわめきを吸う」

  透は親指を立て、蛇腹を一度だけ引いた。

  「渉外さん――臨時「歩行特区」の申請。『十五分/塞がない/緊急時中断可』で書類を整えて」

  「市は理解あり。――「笑顔を強制しない写真」のおかげで、通りが見られ方を変えたもの」

  私は最後に、自分の役割を書いた。〈歩――願いを言う/条件は言わない〉。

  「――私から、お願いします」

  作戦室が一拍、静かになった。私は封筒から指輪を出さず、メモだけをみんなに見せる。角は丸い。字は震えていない。

  「「交渉の言葉」を持ち込まない。今日の私は、「お願いの人」でいたい。――うまく言えなかったら、三拍で止めてほしい。やり直す」

  「三拍、叩くの俺?」

  宜幸が笑いかけて、やめた。やめた顔でうなずく。「任せろ。辛口上等の舞台監督だ」

  「『ケンカの後の甘い時間』――出番は?」

  結月の名を出さずに、幸博が問う。

  「最後。『塩、先』の手順で――先に塩、十呼吸、それから「アゲート・レイヤー」。合図は「鈴を一度」。」

  段取りの確認が進む。白い反射板、角丸の付箋、〈怒っていない顔〉の欄は今日は撤去する。笑う必要はない。怒っていなくていい。

  「昆布指数、今日は?」

  「一・五」

  いつの間にか乾物屋の主人が顔を出し、低く言った。「風、ない。重し、よく利く」

  「助かる」

  私は頭を下げ、黒板の隅に「今日の三行」を先に置いた。

 ① 願いは「条件」じゃなく「方法」で置く/② 十呼吸――言い切る前に、息を整える/③ 誰も笑わせない。怒っていない顔だけでいい。

  正午、私は一度、結月の横顔を見た。彼女は〈可搬拠点〉の卓で「学校版ただし書き」を配り、相手の目線に合わせて角を丸めていた。私は近づかない。近づいたら、言いそうになる。

  「塩、先」

  彼女の口の形だけが見えた。合図の単語が、胸の内側をやさしく叩く。

  夕暮れ。臨時「歩行特区」の許可は下りた。〈ミッドナイトアゲート〉の前――提灯を一つおきに間引き、白い反射板を膝の高さに揃える。路面の「濡れ段差」は二段の縁取り。台車は裏へ。ベビーカーは避難島で休める。犬の耳は、伏せない。

  「座る前に五歩」

  亜柊の声で、通りの両端に小さな波が立つ。三拍で止まり、二拍で通す。十回。誰も笑わない。怒っていない。

  「――開始五分前」

  有里杏が腕時計を返し、渉外の女性が名札の紐を整える。透は蛇腹に空気だけを通して、ざわめきの角を落とす。宜幸は拍子木を持ち、幸博は「派手封印」の見出しを胸で押さえる。

  私は封筒を指でなぞり、十呼吸。結月は、まだ知らない。知らないまま、予定どおり店の中に消えた。マスターが一度だけ私を見る。頷かない。頷かないのに、背中が軽くなる。

  「三拍――止まります」

  宜幸の声。通りの時間が、一度だけ深呼吸した。

  「二拍――通します」

  道が斜めに開き、私はその線の上に立った。指輪はまだ出さない。最初の一行を、私は私に向ける。

  「私は、あなたと暮らしたい」

  声が震えなかった。震えなかったのに、膝が少し笑った。私は笑わない。怒ってもいない。十呼吸。

  「怖いときは、止まる三拍。進めるときは、通す二拍。――あなたとなら、続けられる」

  結月が、店の扉のところに現れた。足が止まる。耳は、伏せない。

  「お願いです。笑顔は強制しないまま、人生を歩いてください。…………私と」

  鈴が一度、鳴った。真鍮の薄い音。誰の手でもない、音だけの合図。私は封筒から角丸の小箱を取り出し、蓋を開けずに差し出す。

  「条件は、ありません。――「方法の保存」、だけ約束します」

  「破られたときの三行」が、頭の隅で灯る。失敗したら、三拍で止める。十呼吸。言い直す。「戻る階段」は、もう敷いてある。

  結月は歩み寄らない。歩み寄らないまま、ひと呼吸ぶんだけ首を傾ける。保冷バッグの口を軽く叩く音が、通りでいちばん小さな音になった。

  「塩、先」

  彼女は小箱を見ず、私の声の高さを測るように言った。私は頷き、薄い塩キャラメルをひとかけ、掌に。彼女にも、ひとかけ。十呼吸。

  「――「ケンカの後の甘い時間」、今夜の分は?」

  「準備してあります。『アゲート・レイヤー』。角は、丸い」

  「なら、続きは中で」

  結月はそれだけ言って、私の掌から小箱を受け取った。蓋は開けない。開けないのに、通りの温度が半度、上がる。拍手は起きない。誰も笑わない。怒っていない。鈴の余韻だけが、夜の端に引っかかったままだ。

  終わりの合図は、宜幸の二拍でも、幸博の見出しでもなかった。るりが尻尾で「とん」。二回。二回は賛成だ。

  「十五分、終了」

  有里杏が静かに告げ、渉外の女性が名札を外した。透は蛇腹を畳み、亜柊が反射板を五センチずつ下げる。誰も私に駆け寄らない。駆け寄らないで、遠巻きに「怒っていない顔」を向ける。それで充分だ。私は黒板の隅に、今日の三行をもう一度置いた。

 ① お願いは「方法」で支える/② 十呼吸で言い切る/③ 笑顔は強制しない。賛成は「尻尾二回」でいい。

  〈ミッドナイトアゲート〉の扉が、いつもよりゆっくり開いた。マスターが温いレモン水と塩を置き、カウンターの下から白い皿を出す。

  「「ケンカの後の甘い時間」――今日は、名札を外して食べな」

  「はい」

  私と結月は、皿の端を一緒に持った。甘さの前に塩を置き、十呼吸。

  「続きは、明日も」

  「うん。明日も」

  私たちは笑わない。怒ってもいない。――それがいい。

  提灯の橙が、低い場所でやさしく揺れている。紺帯+白縁の下を、五歩で測れる。街は静かに呼吸し、夜は静かに灯る。勝ちではなく、続ける。塩は先。甘さは、続ける力になる。


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