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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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第38話 夜の宝石は灯りつづける。

 夜の紫瑠璃しるり通りに、提灯の橙が低く灯る。裏路地の奥、〈ミッドナイトアゲート〉の扉は、きょうから少しだけ早く開く。黒板には太い字で〈記憶展示・常設〉、下段に小さく〈笑顔は強制しない/十呼吸〉と書いた。角は丸い。私(歩)はチョークの粉を払ってから、胸ポケットの「物語カード」を確かめた。表に〈私は――〉、裏に〈事実→気持ち→一言〉。結月ゆづきは保冷バッグを「こん」と叩き、短く言う。

  「塩、先」

  薄い塩キャラメルをひとかけ、舌にのせる。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示し、甘さが「おかえり」をやわらげる。扉が静かに開き、瑪瑙アゲートの層が、息を吸うみたいにあかりを受け取った。

  初日の列は、静かに長い。常連、商店街の人、再開発側の若手、遠くからの人。「ここに寄贈したいものがある」と紙袋を抱える人もいる。入口で「座る前に五歩」。拍子木は鳴らさない。三拍は心の中、二拍で通る。店内に入ると、右手の棚に〈夜の誓い〉の複製、左手の壁に〈顔で読む〉の写真群。奥の低い光の下に、〈物語カード〉のボックスが置かれている。白い縁の付箋欄には、〈怒っていない顔〉の丸が並ぶ。笑顔は要らない。怒っていない、だけでいい。

  最初にボックスを開けたのは、パン屋の夫婦だった。夫は粉のついた手でカードを一枚取り、妻が声に出して読む。

  「私は、喧嘩をします。袋の角を丸く折ると、少しだけ仲直りが早くなります」

  短い。けれど、温い。カウンター越しのマスターは頷き、グラスを温いレモン水で湿らせて、棚の端に置いた。

  「灯りは、電球じゃなくてね、人が運ぶんだ」

  マスターの声は、相変わらず低い。店に入ったばかりの人の肩の力が、ひとつ落ちる。

  列の真ん中に、封筒を握りしめた年配の女性がいた。順番が来ても、座らない。ボックスの横に立って、封筒から紙を出す。便箋は角が丸い。

  「読んでもいい?」

  「あなたが、あなたの声で」

  私は合図だけして、一歩下がる。女性は十呼吸を置いて、読み始めた。

  「――私は、ここで夫と「最後の散歩」をしました。二拍で通った夜、肩がぶつからなくて、泣かずに済みました。…………ありがとう。私は、怒っていません」

  彼女の声は震えなかった。震えなかったのに、店内のどこかで、涙が静かに落ちた音がした。拍手は起きない。誰も笑わない。怒ってもいない。沈黙が十呼吸ぶん、灯のように置かれた。

  再開発側の若手が、胸ポケットから角丸のカード束を取り出した。

  「社内で「笑顔を強制しない写真」、一枚目ができました。――ここにも一本、置かせてください」

  彼が掲げたのは、手を写した写真だった。拍子木の影。横顔がフレームから外れている。

  「テロップは?」

  「「十呼吸」。秒じゃなく、呼吸で覚える」

  マスターは写真の位置を棚の中央から半歩だけずらし、結月は白いキャップの画鋲でゆっくり留めた。

  「「方法の保存」は、写真でもできる」

  結月の言い方は塩みたいに短い。

  展示の中央には、寄贈品の輪ができる。古い駅前喫茶のクリームソーダのスプーン、亡くなった祖父が使っていた定規、古本屋の「売れ残り」帯、学生が描いた通りの俯瞰図。どれにも〈物語カード〉が付く。

  「私は、音を下げます。犬の耳が伏せないように」

  「私は、二拍で、ごめんを言えました」

  「私は、十五分で、友だちの話を遮らないで聞けました」

  カードはどれも短く、一人称で始まる。刃ではなく、手すりになる。

  その間に、結月は新作を仕上げていた。皿の上に横たわるのは、「アゲート・レイヤー」。白いレアチーズ、ほのかな柑橘のジュレ、薄いカカオの層が交互に重なり、切り口に瑪瑙の縞が現れる。

  「名前、長い」

  私は笑いかけて、やめた。やめた顔のまま続ける。

  「「ケンカの後の甘い時間」、この店版だ。――塩は先?」

  「先」

  結月は小皿に薄い塩キャラメルを一かけ添え、「十呼吸で、どうぞ」と静かに言う。ひと口で、店の温度が半度だけ上がった気がした。甘さは、続ける力になる。

  〈怒っていない顔〉の付箋欄に、丸が増える。高校生が二拍を叩き、母親がカードを書き、腕組みが得意だった男は「七時十五分派・夜間版」を小さく貼る。

  「「夜の誓い」の四行目、効くな」

  「「喧嘩のあとは甘いもの。塩、先に」」

  私はみじかく復唱し、黒板の隅に今日の三行を置く。

 ① 「私は」で始める物語は、刃ではなく手すり/② 灯りは電球ではなく、人が運ぶ/③ 「方法の保存」は、写真・味・沈黙でもできる。

  結月がさらに小さく添える。〈※るり=伏せない〉。るりが足もとでとん、と鳴らし、とおるは蛇腹に空気だけを通した。出ない音が、店の角を丸くする。

  閉店前、最後の客は、遠くから来た若い女性だった。観光の行き先に「商店街」はめったに入らないと笑いながら、笑いかけるのをやめる。やめた顔で、カードに書く。

  「私は、よその町で、ここを知りました。怒っていない顔の丸を、明日、自分の町でも増やします」

  「持っていって。角、丸いままで」

  結月が「学校版ただし書き」を渡す。〈※笑顔の強要なし/合図は誰でも/「破られたときの三行」常設〉。彼女は深く頷き、十呼吸ぶん、何も言わなかった。黙礼だけが、灯りになった。

  片付けの時間、マスターはカウンターの端で静かに口を開く。

  「――灯りは、人が運ぶ。きょう、それを何度も見たよ」

  「運べました。――場所じゃなく、方法で」

  私が言うと、マスターは瑪瑙の層を指で一度なぞった。

  「このいしはね、幾層にも時間を重ねて光る。人のやり方も、そうあればいい」

  「「可搬」で、残します」

  結月の返事は短い。短いが、強い。

  るりが耳を立て、尻尾で「とん、とん」。二回は賛成の合図。〈怒っていない顔〉の欄外に、丸がひとつ、はみ出しかけている。欄外に出た丸は、欄を広げればいい。――それも、ここで覚えたやり方だ。

  外に出ると、提灯の橙が低いところでゆらめき、仮囲いの白をやわらかく照らした。私は黒板の裏にしまっていた「ありがとうの紙」を指で確かめ、貼らないで持っている重みを確かめる。落ちない。落とさない。

  勝ちではなく、続ける。

  塩は先。甘さは、続ける力になる。

  そして、夜の宝石は、灯りつづける。人が人を連れてくるかぎり。


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