第37話 新しい地図、最初の一歩。
合意から三日、紫瑠璃通りに朝の橙が戻るより早く、私(歩)は黒板の上段に太く書いた。〈本日:方法の引っ越し〉。下段には小さく〈「可搬拠点」初稼働/歩行特区=午前・午後 各十五分/笑顔は強制しない〉。角はもちろん丸い。結月は保冷バッグを叩き、「塩、先」と短く言ってから、薄いレモン水のボトルに紙の帯を巻いた。帯には〈止まる三拍/通す二拍〉。帯の角も、丸い。
今日は、初めて「場所ではなく方法」を動かす日。〈写真スポット〉の斜向かいにあった拠点一式を、再開発の仮囲いができる前に〈川沿いの小広場〉へ移す。移すのは提灯でも看板でもない。運ぶのは、やり方だ。
「段ボール、角丸チェック」
結月が厳しく言い、宜幸が「角って切ると増えるんだな」と見も蓋もないことを言う。
「増やしていい角と、減らすべき角がある」
亜柊がガムテを持つ手を止めずに返す。幸博は「派手封印」の見出しを胸に抱え、「見出し灯りの代わりに白い反射板、三枚」と控えを読み上げる。看板犬見習いのるりは台車の影をくぐり、とん、と尻尾。耳はよく立っている。
「――出発」
拍子木の三拍。通りの流れがふっと沈み、二拍で抜けの道が開く。〈夜の誓い〉の複製、〈留保掲示板〉、〈怒っていない顔〉の付箋欄、〈五歩テスト〉の丸矢印、〈「破られたときの三行」〉のカード束――それぞれが薄い紐で束ねられ、角を守るコーナーガードが白く光る。
乾物屋の主人が門出の挨拶代わりに言う。「昆布指数、今日は1。0。いい重しになる」
「昆布で押さえる文化、嫌いじゃない」
結月が素で答え、ブティック店主が笑いかけてやめた。やめた顔は温度を崩さない。
移動の先頭は有里杏。短距離走者は歩幅を抑え、押さないで走る。ルートは〈避難島〉を点々と結び、「白い縁」がつくる見えない帯をなぞる。途中、腕組みが得意だった男が店の前から一歩出て、無言で角を押さえた。
「七時十五分派、通す」
男の低い声に、るりが「とん」。二回。二回は賛成の合図。
小広場に着くと、川風が紙の端を少しだけ煽った。反射板の脚がかすかに鳴り、付箋欄の白が波打つ。
「風、強い。――「声のベル」、優先」
結月が真鍮の鈴を左端に置き、透は蛇腹の空気だけを通して「出ない音」を一拍ぶん用意する。幸博は反射板の位置を五センチずつ詰め、亜柊が白いテープで足元の「濡れ段差」を二段に縁取る。
「昆布、重し」
乾物屋の主人が差し出した細い板昆布を、有里杏が角に二片ずつ結わえる。
「文化財に昆布」
渉外担当の女性が現れて、目だけで笑う。「今日は文化財担当と合流します。「可搬展示=方法の保存」の現地確認」
「――歩いてから座る、でお願いします」
私は黒板代わりのパネルを立て、上段に〈座る前に五歩〉と書いた。
午前の「歩行特区」が始まる。拍子木が三拍。川沿いに並ぶベンチの前で、人の流れが沈む。二拍。自転車が押しに変わり、ベビーカーが斜めの道筋に乗る。車椅子の男性が「白い縁が川の光で見やすい」と短く言い、若い母親が付箋欄に小さく丸をつける。〈怒っていない顔〉。笑顔は要らない。怒っていない、だけでいい。
文化財担当の職員は、靴音をひそめるように歩きながら手帳を開いた。
「「常設」ではなく「可搬」。――展示が「動線を塞がない」か、五歩で測るのですね」
「測ります。止まる三拍、通す二拍。…………「耳」は伏せない」
私が言うと、るりが耳を少し動かす。職員は笑いかけて、やめた。「脚注に入れます。――「耳=現場判断の補助」」
そこへ、再開発側の若手が息を切らして駆け込んだ。ポケットから角丸の名札を出し、「社内の「笑顔を強制しない写真」、一枚目を持ってきました」と見せる。横顔。手。拍子木の影。
「テロップは?」
「「十呼吸」。――秒じゃなく、呼吸で伝えるやつ」
渉外の女性が頷き、文化財担当はメモに〈十呼吸〉と書き込む。
「「保管場所」ではなく「やり方」を映す写真。――今日の記録に残します」
――正午前。
ちいさな躓きがひとつ起きた。川風で付箋欄が捲れた瞬間、ひとりの小学生が「丸が飛んだ」と声を上げ、欄外に丸がぱらぱら。
「三拍」
私は止め、十呼吸ぶんの余白をつくる。
「事実:丸が欄外」
「気持ち:悲しい」
「提案:欄を増やす」
小学生は「返言フロー」の順で言い切った。結月が付箋束を取り出し、「怒っていない顔(増設)」と書いて欄を広げる。
「「いっぱい丸」でも、怒らない」
「怒らない」
広場の空気が柔らかくなり、透の「出ない音」が波を吸う。昆布指数は風に勝ち、付箋欄は落ち着いた。
午後の回の前、〈夜の誓い〉の複製を掲げ直す。有里杏が読み上げ、川の反射が文字をなぞる。
一 笑顔を強制しない/二 黙るより止まる。三拍で止め、二拍で通す/三 耳を基準に。犬の耳が伏せる音は下げる/四 喧嘩のあとは甘いものを。塩、先に/五 約束は紙に。角を丸くすること。
文化財担当は「――「誓い」の現代運用が「方法の保存」そのもの」と小さく結び、メモの角を指で丸くなぞった。
午後、「歩行特区」二回目。空が少し曇り、川風は落ちて、かわりに人の声が増える。〈可搬拠点〉のテーブルには「学校版ただし書き」が並び、若い教師が二人、写しをもらいに来た。
「「笑顔の強要なし」を校内標準にしたい」
「角、丸いままで」
結月が手短に返し、私は〈五歩テスト〉の矢印を校門の写真に重ねるイメージを説明する。教師は笑いかけて、やめた。「やります。――「歩いてから座る」会議」
夕方、仮囲いの向こうで重機が静かに動き出した。騒音計の数字が一瞬だけ跳ね、すぐに落ち着く。反射板が位置を微調整し、足元の「白い縁」が一段濃くなる。
「dB、規定内。救急ルート、確保」
亜柊の声に、有里杏が短く頷く。
「「方法」は歩けた。――次は「戻る階段」の点検」
私は〈留保掲示板〉の角を指でなぞり、三行の紙を新しく貼り替える。
① 二か月悪化→再調整/② 三か月悪化→段階的縮小の協議/③ 三か月良好→恒久化「議題化」
渉外の女性が「市の広報にも同文を掲載します」と淡く告げ、再開発の若手は「社内の「置き去りゼロ」も、来週から」と目を落とす。
片付け前、パン屋の夫が紙袋を持って寄ってきた。
「「ケンカの後の甘い時間」、川風版。角、丸く折ってある」
「ありがとう。――貼らないで、持ってます」
私は紙袋を受け取り、黒板の裏に隠す。ありがとうは、口の中で噛むと甘い。貼るより、持って歩くほうが温度が保てる。
夜、〈ミッドナイトアゲート〉。瑪瑙の層は、川風の塩気を少しだけまとっている。マスターは温いレモン水と塩を置き、鍵のキートップを親指でなぞった。
「動いたな。「場所」じゃなく「方法」が」
「動きました。――歩けました」
私はノートを開き、今日の三行を置く。
① 「座る前に五歩」――可搬でも効く/② 「怒っていない顔」の欄は増やせる――丸が欄外に出たら、欄を広げる/③ 「昆布は重し、文化は方法」
結月が小さく付け足す。〈※耳=伏せない〉。るりが足もとでとん、と鳴らし、透は蛇腹に空気だけを通す。音は出ない。出ない音が、引っ越しの余白になる。
店を出ると、仮囲いの白が夜の橙を少し返していた。紺帯+白縁は場所を移し、でも、やり方は同じ光を帯びる。
合図は運べる。約束も運べる。
「勝ち」ではなく、「続ける」。
塩は先。甘さは、続ける力になる。




