第36話 合意のあとに。
合意の朝、紫瑠璃通りはいつもより静かだった。提灯の橙は控えめで、紺帯+白縁の下に薄い影。〈ミッドナイトアゲート〉の前に、角を丸く切った小さな札を出す。〈合意のあと――「置き去りゼロ週間」〉。私(歩)は黒板に太い字で〈話せば温度は下がる〉と書き、下段に小さく〈笑顔は強制しない/座る前に五歩〉。結月は保冷バッグを軽く叩いて「塩、先」と短く言った。ワンコイン接待の小皿には、薄い塩キャラメルと温いレモン水。看板犬見習いのるりは足もとでとん、と尻尾を鳴らし、耳を立てた。
午前の最初の来訪者は、魚屋の奥さんだった。ここ数日、視線を合わせると合意の話を避けるように笑って去っていった人だ。今日は笑わない。怒ってもいない。手提げの中の紙が少し折れている。
「…………「十五分」、うちの前だけ多くないかい」
私は「返言フロー」のカードを角丸のまま差し出した。〈事実→気持ち→提案〉。奥さんは丁寧な字で書く。
黒板には、事実「うちの前で止まりがち」、気持ち「悪くないけど不安」、提案「「避難島」の位置、十センチ左」と三行が並んだ。
「十センチ、見る」
結月が言い、白い縁取りテープを持って出る。三拍で止まり、二拍で通す。台車の車輪が縁台に擦らず回り、ベビーカーの向きが自然に変わり、るりの耳が伏せない。
「…………これなら、いい」
奥さんは「怒っていない顔」で頷き、ふいに手提げから紙を出した。角丸の礼状。「ありがとうの紙だよ。貼らないでいい。わたしの気持ちだから」
「貼らないで、持ってます」
私は受け取り、黒板の裏にしまう。ありがとうは、掲示より口の中で噛むと甘い。
午前の二人目は、喫茶のマスターだった。いつもは冗談で温度をほどく人が、今日は冗談を置かない。
「「方法の保存」――いい言葉だ。しかしさ、うちの「静かな帯」、常連が『息をひそめてるみたいで落ち着かない』ってね」
私は席を立ち、店の前の帯を五歩で測る。椅子の脚についたフェルトがすり減って、微妙に引き音が高い。
「フェルト、交換。――「静かな帯」は「静かすぎない帯」に」
「名前が長い」
「効く」
結月の言い方は塩みたいに短い。私は角丸の「ただし書き」を一枚、帯の端に添える。〈※ささやき推奨、沈黙強制ではありません〉。マスターは笑いかけて、やめた。やめた顔は、温度を崩さない。
昼前、有里杏が「短距離走者」の肩で現れる。合意の一週間、彼女の言葉はどうしても尖りがちだった。
「――アフターケア、わたしが行く。言葉、柔らかく」
「「押さないで走る」」
結月が小さく釘を刺し、薄い塩キャラメルを一欠片、彼女に渡す。十呼吸。
有里杏はまず、腕組みが得意だった男の店へ向かった。七時十五分派の連絡表を出した本人だ。
「「週二回の十五分」――店前、来週は片方を反対側へ振る。…………わたし、きつい言い方をした。ごめん」
男は鼻で笑い、そして真顔で「二重丸」とだけ言った。謝罪に言葉を足さないのは、ここで覚えたやり方だ。店の壁に小さな紙が一枚増える。〈ありがとう(小)〉。角は丸い。貼った本人は何も言わない。
午後、相談所に三人連れが来た。高校生二人と、その母親。
「「怒ってない顔」の丸に、丸をつける場所がない。――三人ぶん、つけたい」
私は付箋の束を差し出し、〈怒っていない〉の欄を三列に増やす。高校生は拍子木の脇で二拍を叩き、母親が「学校でも「笑顔を強制しない」をやりたい」と言う。
「持っていって。角、丸いままで」
結月が「学校版ただし書き」をその場で書く。〈※笑顔の強要なし/合図は誰でも/「破られたときの三行」常設〉。母親は目だけで深く礼をした。
同じ時間、再開発側の若手がひとりで立っていた。胸ポケットに、角丸のメモ。
「社内で「笑顔を強制しない写真」、通りました。――広報のテンプレ、差し替えます。…………ただ」
「ただ?」
「「うちはやわい」って、言う人もいたから。――社内にも「置き去りゼロ」やります」
「ワンコイン接待、社内版で」
「社内で?」
「うん。うちのは五百円の代わりに「三分の沈黙」を置いてみて。――「ありがとう」を言ってから噛む」
彼は笑いかけて、やめた。やめた顔で頷く。「三分の沈黙、やってみます」
夕方、ざらついた声が一つ、風に混じった。
「…………「写真スポット」なんて、じきに取り払われるんだろ」
声の主は、再開発の資料をいつも遠巻きに見ていた年配の女性。私は彼女の斜め前に立ち、黒板の下段を指で示す。〈方法で残す〉。
「場所は動く。――けど、方法は運べる。『撮る前に二拍』『無理に笑わせない』『横顔を許す』。この三つがあれば、スポットは「どこでも」になります」
「「どこでも」?」
「はい。今日、ここでも、明日、あちらでも。――「方法」が合図」
女性は視線を落とし、ふいにエコバッグから小さな折り鶴を出した。角は丸い。
「「ありがとう」って言われるの苦手でね。…………これで代わり」
「受け取ります。貼らないで、持ってます」
私はそれも黒板の裏にしまう。ありがとうが、少し重くなる。重いのは悪くない。落ちないからだ。
日が落ちるころ、〈ミッドナイトアゲート〉のカウンターに小さな列ができた。列は短い。十五分で解ける列だ。今日の相談の最後は、パン屋の夫妻。
「「ケンカの後の甘い時間」、名前が長い。それでも、注文が増えた」
「長さ、効く」
結月が短く言ってから、続けた。「「ケンカの前の塩」も出して。――甘さの前に、塩」
夫妻は顔を見合わせて笑いかけ、やめた。やめた顔で頷く。
私はノートを開き、今日の三行を置く。
① 「置き去りゼロ」は、聞く→小さく直す→ありがとうを噛む/② ワンコイン接待=五百円ぶんの「余白」/③ 「方法」は運べる――写真も、沈黙も、合図も。
結月が小さく付け足す。〈※耳=伏せない〉。るりが足もとでとん、と鳴らし、透は蛇腹に空気だけを通す。音は出ない。出ない音が、今日の余白になる。
夜の入り口、細い雨が落ち始めた。提灯の橙がしっとり濡れ、紺帯+白縁が水の粒で柔らかく光る。通りの端から端へ、ありがとうの雨が斜めに渡る。
「「ありがとう」、貼らないで持ってる?」
結月が尋ねる。
「持ってる。――重い。けど、落ちない」
「重みは、継ぐ力」
彼女は保冷バッグを叩き、「塩、先」とだけ言った。私たちは小皿の欠片をひとかけずつ舌にのせ、十呼吸。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を示し、甘さが「明日もやる」をつなぐ。
雨の十五分、通りは自分で自分を歩かせた。置き去りのないように、角を丸く、合図を低く。笑顔は強制しない。怒っていない顔が、少し増えた。




